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オロチ様はイタズラがお好き!?

三章 純白の憎悪とひび割れる平穏


―― 一 ――

 湧き出した地下水の生んだ水溜りが、ぱしゃりと跳ねる。
 一人の少年が歩いていた。
 洞窟である。
 深い森の奥にある崖肌に自然に生まれた横穴で、かつては妖魔の巣でもあった場所だった。
 中は相当に深く、少しでも奥に入れば、外界の光が一切届かなくなる。だが、少年の歩みには、まるで迷いがなかった。むしろ闇に導かれるかのように、奥へと進んでいく。
「…………」
 ふと少年が足を止めた。
 何か考え込むように、こめかみを何度か叩き――ぱちんと指を鳴らす。
 途端、洞窟内の一部が明るく照らされる。
 未だ何の光源も在りはしない。
 なのに、限られた空間だけ闇は侵略され、光が支配していた。
 そこは洞窟の最奥のようだった。今まで歩いて来た場所に比べ、大きく開けており、天井も高い。
 どことなく異質な空気も流れていた。
 それは、ここが外界と隔たれた洞窟であるからという事ではない。
 ほんの微か。
 洞窟特有の湿気に混じって、古き血臭と妖気の名残があったのである。
 少年がその場で膝を突いた。
 そっと地面を指で撫でる。
「ふうん……どうやら当たりらしいな」
 黒と紫紺の瞳を満足そうに細め、少年は懐から何かを取り出した。
 一輪の百合の花。
 それを先ほど撫でた場所に放ると、立ち上がり、数歩後ろに下がる。
 次いで、置かれた百合に向け、掌をかざし――
「我、汝に花を捧げよう」
 ――詠う。
「それは決して手向けの花に非ず。夜見の国より、復讐の道へと誘う血濡れの道標なり。汝、狂おしき怒りと憎しみを纏うならば、それを掴み、我が前へと這い出せ――」
 瞬間。
 百合が散った。
 そして、落ちた白き花弁が舞い上がったかと思えば、次々と増殖し、洞窟内を埋め尽くしていく。
 花弁の乱舞。
 集う無数のそれらは、次第にある形を象りだし、固まっていく。
 形は、人だった。
 細身で小柄な少女である。
 髪も肌も清廉過ぎるほどの純白で、まるで色という存在から見放されたかのようだった。
「問うぞ」
 少年が言った。
 そして、花弁の肉で生まれた裸体を晒したまま浮かぶ少女へと訊く。
「お前の望みは何だ」
 少女が、ゆっくりと目を開いた。
 瞳すらも、純白だった。
 だが、そこは怒りと憎しみに血塗れてもいた。
「私の望みは……」
 少女が言った。
 まるで恋焦がれるように、その名を。
 甘美な愛の囁きのように、その行為を。
 熱を宿した恍惚な声音で言った。

「スサノ・フウガを――殺す事」

 かくして過去と現在は、血の鎖で結ばれる。
 無垢なる白き憎悪と殺意が生誕する。

 ◇ ◇ ◇

「…………ふう」
 シズネは、一つ息を吐いた。
 一通り目を通した雑務の書類をまとめ、執務机の端に置くと、椅子の背もたれを軋ませる。
「さて……スサノ君は、大丈夫でしょうか」
 つい先ほど、朝からソウゴが彼についての報告に来たばかりである。
 内容は、昨日の〈錬技場〉でのフウガとウズメの一件だ。聞いた所によると、どうやら少々面倒な騒ぎになっているようだった。
 だが、ウズメが関わっているのなら、特にこちらから手を出さなくても、彼女が何かしら対処をしてくれるだろうとシズネは判断している。
 ウズメは、学園長のシズネから見ても、それだけの信頼に値する少女だったし、やはり候補生間の問題は、候補生達だけで解決するのが一番望ましい。
 大人の不用意な介入は、子供の過剰な反発を呼ぶ。候補生達の微妙な年頃を考えれば、それはなおさらだろう。
 十数年、学園長を務めてきた経験から、彼女はそれをよく理解していた。
(……私も年寄りになったという事ですね)
 そんな事実を再確認して、少し寂しげに目を細める。
 と。
『――学園長という立場は、なかなか大変そうだな、シズネ』
 それは、まったくこの学園長室にふさわしくない者の声だった。
 シズネは驚いて、声のした方に顔を向ける。
「……オロチ。どうしたのですか、こんな場所にわざわざ幻体で」
『なに、ずっと少年の中に居ても、気が滅入るだろう? 少しばかり気分転換だ』
「気分転換に、五十年前、貴方の封印に関わった私の所に来るとは、なかなか皮肉が利いていますね」
『それは邪推だ。私は、そんな低俗な事はせんよ。そう、なにせ紳士なのだからな、ぬっははは!』
「よく言うわ、本当に……」
 シズネは失笑を浮かべる。
 こんな疲れる相手を身体の中に住まわせているフウガには、同情を覚えずにはいられない。
 ……まあ、最終的にそんな状況に追い込んだのは自分だったが。
「――で、本当の目的は何ですか? 貴方が気分転換という理由だけで、私の前に顔を見せるとは思えないのですが?」
『ふむ。まあ、たいした事ではないのだが、一つ確認をな』
 オロチは顎を撫でながら、切り出した。
『お前達は、あのフウガという少年を随分と気にかけているようだな』
「どういう事です?」
『〈三の風〉クラスだったか? あれの顔ぶれは、皆、特別な意味を持って選ばれているように思えたのだよ』
「…………」
 シズネは顔を強張らせ、沈黙する。
 安易に答えるのは、憚られる問いだったのだ。
『そう……例えば本来の実力を隠し、わざと落ちこぼれを演じるフウガが心ない差別を受けぬよう、そういう事に無頓着な人間を選んでいる、とかな』
 シズネを静かに目を閉じた。
「……確かに今となっては、そういう部分もあります。ですが、それだけではありません」
『では、やはりフウガの父――スサノ・ラシンの事か?』
「! なぜ、彼の事を……!」
 思わぬオロチの台詞に、シズネは瞠目する。
『以前に、少年の記憶を探った際に、真っ先に流れ込んできたのが、その男の事だったのだよ。フウガにとって、それだけ重い意味を持つ相手なのだろうさ。単に父親であるという理由だけでなくな』
 シズネは表情を曇らせ、目を伏せる。
「そう……でしょうね」
 シズネは遠くを見る目になって、思い出す。
 ――スサノ・ラシンは、かつて歴代の神聖騎士の中でも最高最強と謳われた男だった。その実力は鬼神の如きもので、実力者揃いで有名な第一師団の中に在りながら、他者の追随を一切許さなかったという。
 学園内でいえば、それこそウズメのような存在だったのだ。
 だから、シズネが〈三の風〉の編成に意識的に手を加えたのは、フウガが父親のラシンと比較され、肩身の狭い思いをしないため――というのが最初の理由であった。
 ただ。
 現在、ラシンは騎士団には所属してない。
 九年前、妖魔との戦いの際に右目と左足を失った事で、騎士を続ける事が不可能になり、多くの者達に惜しまれつつ引退したのである。今では、どこかの山奥で、ひっそりと鍛冶師を営んでいるとシズネは聞いていた。
 そして、ラシンが騎士を引退をするきっかけとなった事件。
 これに、息子のフウガは深く関わっている。
 彼が自ら落ちこぼれを演じ、神聖騎士となるのを拒もうとしている理由も、おそらくそこにあるはずだった。
 シズネは椅子から立つと、一面硝子張りの壁へと歩み寄った。
 外は穏やかな春の陽気に包まれ、平和な喧騒が微かに聞こえてくる。
 それは今のシズネの胸中とは、酷く相違する光景だ。
「幸い……という言い方は正しくはないのでしょうが、スサノ君が、入学してからずっと落ちこぼれとして振舞い、父親の事を一切口にしなかったので、今では、彼とラシンはたまたま同姓だっただけだと思われているようです。候補生内で彼が本当にラシンの息子だと知っている人間は、ごく僅か。おかげで彼が変に注目され、白い目で見られるのを防げたというのも皮肉な話ですが……」
 もちろんそれでも、落ちこぼれを演じるフウガが、周囲から差別的な目に晒される事は多かった。しかし、ラシンと比較されぬようにと、肩書きにこだわらない人間を集めたクラス編成が、結果的にはそれを緩和する事に繋がったのだ。
『だが、今回の事で少なからず状況は変わるかもしれんな』
 フウガは、ウズメとの手合わせで、隠していた本来の実力を明るみにしてしまった。それは間違っても、彼が落ちこぼれなどという評価をされるものではない。
 さらに、他にもいろいろな要素が重なって、彼を取り巻く状況は大きく変わろうとしている。
 シズネは暗いを表情を、ふと優しい微笑に変えた。
「もし、そうなったとしても大丈夫でしょう。今の彼の周りには心許せる友人が居るようですから。少なくとも独りになるような事はないはずです。何より――私達が、彼をそんな風にさせるつもりはありません」
『ぬはは、思いのほか教育者が板についているようだな、シズネ』
 オロチは楽しげに笑いをこぼす。
 シズネは、外の景色から視線を外して振り返ると、最強の妖魔を見つめた。
 そして、一つの疑問を覚える。
 なぜ、彼は、わざわざ自分とこんな話をしたのだろうか。
 単に悪戯する事しか考えていないのなら、シズネ達があの少年を特別に気にかける理由などには興味を持たないはずだ。何よりも個を重視し、己の事しか考えない傾向のある妖魔であるのならばなおさらである。
 もともと五十年前から、妙に人間臭い変り種の妖魔ではあったが、やはり行動が不可解ではあるのは否定できない。
「オロチ、一つ訊いても良いですか?」
『構わんよ』
「口振りからすると、貴方はスサノ君の記憶を探った際に、“例の事件”についても知ったのですね?」
『ああ、おおよそは父親の事と一緒に見えた。なにせ、お前の言う例の事件と関係深い人物であるようだしな』
「…………そうですか」
 そこまで訊いて、シズネは――簡単には信じ難いものではあったが――ある推測を立てる。
 フウガがオロチに取り憑かれた、あの日。
 シズネが例の呪いの件を容易く受け入れたのは、もちろんオロチを確実に〈妖界〉に帰らせるためだった。
 だが、そこには、もう一つ秘した理由があったのである。
 この件をきっかけに、ある重い過去を背負うフウガが変われるのではないか――シズネはそう考えたのだ。
 呪いを解くためにはフウガはウズメに勝つしかない。そして、その条件を達成しようと思うのならば、彼は落ちこぼれを演じ続ける事は出来ないのだ。女になってしまうというリスクこそあったが、少年が過去を乗り越えるきっかけとしては、これほど都合の良いお膳立てはなかったのである。
 だが。
 逆に考えれば、あまりに都合の良すぎた展開ではなかったか?
 それこそ、まるで仕組まれたかのような……。
「オロチ……まさか貴方がスサノ君にあんな呪いを掛けたのは……」
『考えすぎだな、シズネ』
 オロチは、シズネの思考を読み取ったかのように問いを遮り、
『私は妖魔だ。常に己を第一に考え、人心や人命など気にもかけない忌まわしき人間達の天敵。……そのはずだろう?』
 にやりと、それこそ悪人のように笑って見せる。
『それに、私がどんな理由で呪いを掛けたにせよ……最後に未来を選択するのは、フウガ自身なのだよ』
 最後に、そう言い残して。
 何の前触れもなくオロチは、学園長室より姿を消した。

  ◇ ◇ ◇

 逃げていた。
 フウガは逃げていた。
 ひたすら。全力で。一目散に。
 なぜかと言えば、彼は追われているのである。
 現在、学園の八割近くの候補生は、フウガを狙う追手と化していた。要するに、行く所、行く所、敵だらけなのだ。
 ライやゴウタ、さらにレナやミヨの協力のおかげで、なんとか今の今まで逃げおおせているが、捕捉されるのは時間の問題だろう。
 なにせ、追手の人数が半端ではない上に、全員が全員、血眼だ。
 到底、逃げ切れるものではない。
 だが、それでもフウガは逃げた。
 今、彼が居るのは、一年から三年の教室の並ぶ第一校舎。下の階や他の校舎に繋がる渡り廊下は全て固められてしまったため、フウガは上に逃げるしかなく、三段飛ばしで階段を駆け上がる。そして、上がって行けば最後に辿り着くのは、当然、屋上だ。
 少しばかり強めの風の吹きつけるそこは、二日前にフウガがオロチに取り憑かれた場所でもあった。
「……はあ……はあ……はあ……!」
 フウガは屋上の端に歩み寄ると、転落防止用の手すりに背を預ける。
 ずっと全力疾走だったので、息は酷く荒れ、汗だくだ。
 なんで朝っぱらから自分は、こんなに疲れているのだろうか。
 そんな疑問が湧き上がるが、深く考えるとますます凹みそうだったので、とっとと脳内から削除する。唯一の救いと言えば、なぜか今日はオロチが静かな事だけだ。
「……はあ……はあ……さて、どうするか……」
 この場所も、どうせすぐに突き止められるだろう。
 ともかく、今は逃げる事を最優先に考えねばならない。
 屋上への出入り口は、さっき駆け上がってきた階段に繋がる扉しかないが、〈言力〉を使えば、屋上から地上まで飛び降りる事は、さして難しくはなかった。
 学園内での〈言力〉の使用は極力自粛するよう言われている。しかし、こんな危機的な状況で、そんな指示に素直に従う気などあるはずもない。
 こちとら身に危険が、すぐそこまで迫っているのだ。
 それこそ、「んなモン知った事か! 規則は破るためにあるんだ!」ぐらいなもんである。
 ようやく呼吸が整った所で、フウガは早速、屋上を脱出しようと――
「追い詰めましたわよ、スサノ・フウガ!」
 心から、聞きたくなかった声を聞いた。
 それを合図に階下に繋がる扉から次々と追手の候補生達が姿を見せる。
 それはもう出てくるわ、出てくるわ。
 ぞろぞろぞろぞろと湧き出してきて、背後の手すりの方からも何人か這い上がって来たりしたので、さすがにフウガはぎょっとした。
 ほんの数秒の間に屋上は、人で埋め尽くされる。
 彼らが囲むのは、当然、フウガであった。
 一様に殺意と怒りと妬みと……その他諸々の負の感情に満ちた視線を、こちらに突き刺してくる。背中には、ズオオオオウ、と黒い何かが立ち込めているように見えた。たぶん錯覚だが。
 彼らは、皆、ツクヨミ・ウズメ親衛隊の隊員だ。
 フウガを追っている理由は、言うまでもなく昨日の〈錬技場〉での一件であった。
 と、不意に、少年を囲む人垣が割れた。
「うわ……出た……」
 その間を通って、姿を見せたのは、サワメ・ナキだった。後ろには、取り巻きの双子も居る。
 ナキは、フウガの前に立つと腕を組んで、ふんぞり返った。
「年貢の納め時ですわね、スラゥノ・フウガ」
「……噛んだ」
「か、噛んでなどいませんわ!」
「いや、噛んだし」
「だ、黙らっしゃい!」
 ナキは、顔を真っ赤にする。
「「そうです、お黙りなさい、変態!!」」
「へ、変態!?」
 双子のハニヤ姉妹のあんまりな物言いに、フウガは耳を疑う。
「そうよ、この鬼畜!」
「ツクヨミ先輩を穢しやがって!」
「ケツの穴から拳突っ込んで、奥歯をガタガタ言わせてやるわ!」
「死ね! 三・五回死ね!」
 さらに怒涛の如く押し寄せる隊員達の罵倒の数々。
 もはや今のフウガは悪の権化――勇者に討ち取られるべき忌まわしき魔王か何かのような扱いとなっていた(オロチの事を考えると、否定はしきれなかったが)。
 そして、勇者側は当然、ナキ率いる親衛隊の方である。
「ふん、どんな減らず口を叩いた所で、もはや貴方に逃げ場はありません。覚悟しなさい」
「何でですか! 俺が何をしたって言うんです!」
「我々は、ウズメ様には近づくなと親切にも忠告したはずです。それは無視したのは、貴方でしょう。しかも、あろう事かウズメ様の……く、く、く、くくく、唇を奪うなんて! 許せませんわ! 骨の髄まで恐怖を叩き込んで差し上げます!」
「いや、あれはツクヨミ先輩の方から……!」
「そんなわけないでしょう! どうせ卑劣な手段で脅して……ああ、なんて御可哀想な、ウズメ様! 大丈夫です! 今、この世界でも稀に見る最凶最悪の悪漢には、我々が粛清を!」
「「粛清を!」」
『粛清を!』
 ナキの台詞を、双子が、さらに周りの親衛隊の隊員達が復唱する。
 フウガは、もう唖然とするしかない。
「……どんだけ理不尽なんだ……」
 もはや何を言った所で、彼女達は耳を貸さないだろう。
 やはり手段は選んでいられない。
 ナキ達が殺気すら纏いながらにじり寄って来る中、フウガは〈言力〉を発動しようとして、

「そこまでだ!」

 凛とした声が、緊迫した屋上に響き渡った。
 その場にいる全員が引き寄せられるように、声の主の方を見る。
「嫌な予感がして来て見れば……やはりこうなっていたか」
「う、ウズメ様!?」
 真っ先にナキが驚愕の声を上げ、あっという間に他の隊員達の間にも動揺が広がっていく。
 そう。
 屋上に姿を現したのは、紛れもなく、この騒動の発端となったツクヨミ・ウズメ本人だったのである。


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