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エンジェル 五章

双の黄昏


―― 四 ――

 ハロンの刀より、雷撃が迸った。
 まるで蛇のようにのたくり、次々とティリアムへと牙を剥く。
 それらを紙一重で躱しつつ、ティリアムはハロンとの間合いを一気に詰めた。
 お互い、剣の届く距離になる。
 先に雷の刃が迎え撃った。
 脳天へと振り下ろされる斬撃を、渾沌の剣で斜めに受け流す。
 途端、重い衝撃が腕を襲った。
 この重さはハロンの腕力だけでは有り得ぬ。
 おそらくは《雷王の御手》により力が付加されているのだ。だが、渾沌を固めた《ラグナロク》のおかげで、前の戦いのように、雷が剣を通電する事によるダメージを受ける事はない。
 剣を振り切ったハロンは、一瞬、無防備となる。
 すかさず横薙ぎの一撃を放つ。
「!」
 爆音。
 ハロンは咄嗟の機転で自身の足元で雷撃を炸裂させ、その反動を利用して上空へと跳び上がったのだ。
 しかし、ティリアムは相手が着地した所を冷静に追撃した。身体能力の差の利を生かして、一気に攻め立てて行く。
 何十回もの刃と刃のぶつかり合う甲高い音が閉鎖された空間に響き渡る。
「ちぃっ!」
 さすがのハロンも徐々に攻撃を捌き切れなくなり、今度こそ完璧に回避不可能な体勢に陥った。
 ティリアムは、それを逃さない。
 これで勝負を決めるつもりで渾身の一撃を叩き込む!
 そして。

 それは起きたのだ。

「な――っ」
 ティリアムは瞠目した。
 ハロンの身体が、突如光に包まれたのだ。
 ――いや、違う。
 蒼き雷光そのものへと変貌したのである。
 ティリアムの剣は光をすり抜け、何も捉えられない。
 雷光は、瞬きの間に背後へと移動し、ハロンの形を再び取った。
 全身を貫く危機感に、ティリアムは咄嗟に横に跳ぶ。
 しかし、避けきれず腕をハロンの刀が僅かに掠めた。
 途端、渾沌の守りを突き抜けた雷撃が身体中を走り抜ける。
「ぐあああああああああ!!」
 苦悶の叫びを上げながらも地面を転がり、追撃を避けるように間合いを広げる。
 ハロンは追う事はせず、余裕を感じさせる笑みを浮かべた。
「よく避けましたね。凡庸な者ならば、あそこですでに終わっていたでしょう」
「――《閃》リヒト、か……!」
 ティリアムは膝を突き、未だ全身をつんざく痛みに顔を歪めなら、ハロンの行使した魔法の名を口にする。
 そう。
 あれは間違いなくマリアが編み出し、その後、オーシャへと継承された高速移動魔法《リヒト》だった。己の身を光と化す事で短距離ながら瞬時の移動を可能にし、しかも、光に変わっている間は、あらゆる攻撃を受け付けない――戦闘において多大な効果を発揮する魔法。
「それを何故、お前が……」
「雷と光――似た系統の力を司る翼同士ですからね。魔法構成さえ理解出来れば、応用して、自身のものとする事は難しくない」
 ハロンは得意気に語ると、雷手に握られた魔刀の切っ先を向けてくる。
「前までなら、《デモン》化した貴方と私では、身体能力には大きな開きがあった。ダランのときは、貴方が魔法を操る者を相手にした経験がないという点を突いて、私が有利に戦いを運びました。ですが、ここまで辿り着いた現在の貴方には最早その弱点はないでしょう。ならば本来、こちらが不利であるはずですが……今の私には、この《雷王の御手》と《リヒト》がある。膂力と速力――この二点に限れば、少なくとも私は貴方を凌駕しているといっても過言ではない」
「やけに饒舌じゃないか。だが、力と速さで上回っていれば勝てるというほど戦いは単純なものじゃないぞ」
 ティリアムは不敵に笑い、立ち上がった。
 今の状態では、《デモン・ゴット》化のときの驚異的な再生力は望めないが、まだ動きに支障が出るほどのダメージはない。
 ハロンは、ゆっくりとした動作で刀を構える。
「確かにそうでしょうね。しかし、それでも。この事が私の有利に働く事は――決して間違いではない!」
 叫び、ハロンが雷光と化す。
(っ、速い――!)
 右手から、雷を纏った一撃!
 体勢を崩しかけながらも、ぎりぎりで斬撃と自分の身体との間に剣を入れて防ぐ。
 目では追えても、身体が反応し切れていなかった。
 なんとか防げたのは、今までの戦いの経験で培ってきた勘によるものが大きい。
 不意に視界が揺れた。
「ぐっ!」
 《雷王の御手》の恩恵を受けた強烈な一撃に踏ん張りきれず、ティリアムの身体が後方にずれたのである。
「はあっ!」
 ハロンが咆哮した。
「!」
 すると、止めた刀にさらなる力が加わった。ティリアムはその場に留まり切れずに地面と水平に吹っ飛ばされる。そのまま背後にあった建物の壁に激突し、それを破壊して、内側へと背中から倒れる。
「くそ……!」
 圧しかかってきた瓦礫を押しのけながら、ティリアムは剣を支えに立ち上がる。頭部からは、赤い鮮血が垂れてきていた。
 巻き上がる砂煙のせいでハロンの姿は視認できない。
 目を凝らして、なんとか見つけ出そうとして――そこに雷光が飛び込んで来る。
 途端、斬撃で肩口を裂かれた。
 鮮血が舞い、また全身を雷が貫く。
「っ!」
 再度、雷光が疾った。
 今度は、なんとか防ぐ。
 しかし、反撃をする暇もなく、ハロンの身体はまた雷光となって眼前から消え去った。
「っ! これは……!」
 ティリアムは絶望的な気分で、目の前の光景を見た。
 疾り続ける雷光が、ティリアムの周囲を取り囲んでいたのである。
 ハロンは、《リヒト》を連続使用をする事で、ティリアムの死角から死角へと移動し続けているのだ。これではハロンの姿を捉える事すらも困難だった。
『さあ、いつまで立っていられますかね』
 常に高速で移動し続けるハロンの声は、まるでいろんな方向から同時に聞こえてくるように錯覚させた。
 ハロンそのものである雷光が間合いに入る。
 今度は、脇腹を斬られ、再び肉体を雷撃に襲う。
「っ!」
 攻撃は、さらに冷酷に続く。
 雷光。
 左腕を裂かれ、雷撃。
 雷光。
 右大腿部を貫かれ、雷撃。
 雷光。
 胸部を切られ、雷撃。
 もはや攻撃を止める事すら出来ず、一方的にティリアムは全身を切り刻まれていった。その度、噴き出る血が辺りを濡らし、雷は容赦なく身体を痛めつけていく。
 驚異的な動体視力と反射神経で致命傷こそ避けていたが、このままではそれすら不可能な状態になるのは時間の問題だった。そして、その先に待っている運命は死だけだ。
(考えろ……! 《リヒト》にも欠点がある! そこをつければ……)
 止め処なく襲う激痛に苦悶しながら、それでもティリアムは強固なる意志力で思考を高速回転させる。
 ――《リヒト》の欠点。
 それは三つ。
 一つは、人の姿に戻れなくなる危険を避けるために、短時間しか行使できない事。故に、長距離移動は適わない。
 二つ目は、光と化しているときは、あらゆる攻撃を無効化できる代わりに、術者自身も敵への攻撃は不可能な事。攻撃を加えたければ、人の姿に戻ってからでなければならない。
 三つ目は、第三者の接触を受けている場合は、魔法の行使――要するに光の姿に変わる事自体が出来なくなる事。相手をじかに捕らえてしまえば、《リヒト》は使えない。
(なら、取れる手段はある!)
 一つ大きく息を吐くと、ティリアムは構えを解き、剣を下ろした。
 完全なる無防備。
 そのまま持ち上げた左手を自分の左胸に乗せる。
 示すのは、心臓。
「ハロン! お前にその勇気があるなら、つまらない攻撃はやめて、ここを狙って来い!」
 挑発。
 そして、これは伏線。
 ハロンの攻撃を誘導するためのもの。
 今のハロンは自身の魔法への自信と、ティリアムに対する執着により、多少なりとも普段の冷静さを失っている。乗ってくる可能性は高いと見たのだ。
『――その死に方が望みならば、叶えて差し上げますよ……!』
 雷光と化したままハロンが答えた。
(かかった!)
 如何に速い攻撃であろうとも、狙ってくる場所がわかれば、防ぐ難易度は格段に下がる。しかも、相手は攻撃のために一度、魔法を解かねばならないのだ。そのタイムラグもティリアムの利となる。
 あとは――
 ティリアムはハロンに気づかれぬよう左手に渾沌を集める。全身の防御に回しているものまで残らず全てだ。つまり今のティリアムは、左手以外は、物理的、さらには魔法的な防御力もほぼ皆無になっているという事。
 だが、危険は承知。
 それを恐れていて勝利を望める相手ではない。
 雷光が正面から疾ってきた。
 集中力を研ぎ澄ませる。
 目を開き、ひたすらに見る。
 必要なもの以外は、外界の情報は全て無意識化で処理。
 全ての感覚が刹那の世界に突入する。
 雷光が眼前に迫る。
 刀の届く間合いに突入。
 ハロンは《リヒト》を解き、まさに迅雷の如き突きが、ティリアムの左胸へと迸る。
 胸が貫かれる寸前、ティリアムもまた弾かれるように動いた。
 雷に包まれた刀の刃を渾沌で守られた左手で掴み、止めたのだ。
「――――!」
 これにハロンが目を剥いた。
 お互いの鼻がつきそう近距離。
 その間で凝縮した雷と渾沌の力とが激しくせめぎ合う。
 防ぎきれない雷が、ティリアムの左腕を容赦なく壊していく。
 無視する。
 ティリアムの喉から咆哮が吐き出された。
 完全に突きを止め切った刀から手を離し、相手の懐に身を滑り込ませる。左手でハロンの腕を掴み、《リヒト》で逃げられる事を防ぐと、さらに右手に持った剣を振り上げた。
「ぐうっ!」
「おおおおおおお――――!!!!」
 振り下ろされた刃が肩口から、ハロンの身体を引き裂いた。
 しかし、同時に間で爆裂した雷撃により、二人はお互い逆方向に弾き飛ばされる。
 一連の攻防は、ほぼ全てが一秒にも満たぬ。
 ティリアムは受身も取れず背中から石畳の上に落ちて滑っていき、襲う衝撃と痛みに顔を歪めた。
 勢いが止まった所で、苦痛に呻きながら、顔を上げる。
 ハロンの方は、彼の後方にあった建物へと飛び込んでいったのか、視線の先では盛大な破壊音と砂煙が上がっていた。
 ティリアムはふらつきながらも何とか立ち上がり、自分の左腕へと視線を落とす。ぶすぶすとくすぶるそれは、もうほとんど感覚がない。
「……この戦いでは、もう使えないか」
 冷静に分析すると、ハロンの飛び込んでいった建物へと顔を向ける。
 さっきの一撃は、致命傷には至っていない。そこに届く前に、ハロンは自身がダメージを受ける事さえ厭わず、《雷王の御手》を破裂させたのだ。
 その咄嗟の判断が、この戦いの決着を阻んだ。
(……俺への執着故、か)
 砂煙が晴れていく。
 血に濡れたハロンが、ゆっくりと歩んでくる。
 歩くたびに、肩の傷から鮮血が溢れ、地面に赤い跡を作っていた。
 息も荒く、顔面も蒼白に転じている。
 当然だ。
 致命傷でないにしろ、傷は決して浅くはない。あの雷によるダメージも軽くはないだろう。
 そして、それはティリアムも同じ事だ。
 力を惜しむ事なく振るう二人の戦いは、早くも大詰めに来ていた。
「ウォーレンス」
 ハロンが言った
「私は負けませんよ……!」
 双眸に激情を宿らせながら、言った。
「あなたを……あなたの生き方を認めるわけにはいかない――!!」
「それでも――」
 ティリアムは動く右腕だけで《ラグナロク》を構える。
「勝つのは、俺だ。ハロン!」
 同時に地を蹴った。
 広場の中央で剣と刀が重なる。
 ハロンは左手で刀を握っていた。
 《雷王の御手》も《リヒト》も使用しない。
 いや、おそらく使えないのだ。
 あれだけの魔法を短時間に乱発した事と、大量の血を失った事を考えれば、おそらくは体力、魔力共にすでに限界なのだろう。
 しかし、ティリアムの方もやはり消耗は少なくなく、しかも左腕の感覚がないせいで上手く身体のバランスが取れないため、思い通りに動けない。
 総じて、二人は互角に斬り合っていた。
「ハロン! お前は気づいているはずだ!」
「……何の事ですか!」
 振り下ろしの一撃を、ハロンは頭の上に持ってきた刀で止める。
「何故、ダランの街で、オーシャが魔導人間である事をあいつに告げなかった! なぜ、シーナの城でフィーマルを《デモン・ティーア》化させた!」
「…………!」
 ハロンは動揺を見せつつも刀を翻し、突き込んでくる。
 それを受け流し、ティリアムはさらに言う。
「お前は、本当はオーシャを傷つけたくなかったじゃないのか! だから、真実を告げる事を躊躇った! そして、フィーマルを《デモン・ティーア》化させたのは、オーシャに自身の無力さに気づかせ、戦う覚悟を決めさせるためにやった!」
「違う――!」
「いいや、違わない!」
 ティリアムの重い横殴りの一撃を受けて、ハロンは大きく後方に跳んだ。
 それを追わず、ティリアムは強い意志の宿った眼差しを向けて語り続ける。
「ハロン。俺は確かに一時は、この世界を憎んだ事もある。人間なんて、こんな世界なんて滅びてしまえばいいとさえ思った。でも、気づいた――いや、母さんに、ウェインに、気づかされたんだ。傷つき、どれだけ苦しく辛い思いをした世界でも、そこに何よりもかけがえのない、心から守りたいと思える存在が居るんだと。そんな存在を見つけられるんだと。だから、今でも大嫌いなこの世界だけど――守ろうと思えた」
 ハロンが激昂し、その場で刀を振るう。
「そんなものは……そんなものは戯言だ――!!」
「お前だってそうだろう!」
「…………!」
「オーシャを大切だと思っているから! 思ってしまったから! 無意識にあいつを導くように行動したんだ! でも、それを認めてしまったら、お前が今まで世界破壊のために行ってきた事が全て無意味になってしまう! ただの罪に成り下がってしまう!」
「……っ、黙れ! 黙りなさい!」
「だから、自分に言い聞かせた! 目を逸らした! こんな世界に守る価値などないとそう思い込もうとした! この世界に、自分にとって失いたくない大切なものがある、それを認められなかった事が――」
 動揺するハロンに、ティリアムは最後の言葉を突きつける。
「――俺とお前の決定的な違いなんだ!!」
「ウォーレンス――――!!!!」
 耐え切れなくなったように、ハロンが吼えた。
 防御など一切無視して、ティリアムに向けて一直線に駆ける。刀に振り絞られた魔力より生まれた雷が宿っていく。
 ティリアムもまた静かに腰を落とし、《ラグナロク》に渾沌を纏わせて、それを迎え撃つ。

「うおおおおおおおお――――!!!!!!」
「はああああああああ――――!!!!!!」

 認めろと叫ぶ者と。
 認めないと叫ぶ者と。
 両者の想いがそれぞれの刃に込められ、交錯する。

 片方が砕け散った。

 宙を舞った刃の半分が、石畳の地面に刺さり、後を追うように破片がばらばらと落ちていく。
 同時に敗者の膝が折れ、地面を突いた。
 そして、自身の完全なる敗北を認めるように目を閉じる。

 ――瞼の裏に、過去の残影が映った。


「え? ハロンも両親がいないの……?」
 小国ニスタリス。
 アダムスタが、エリック・カールソンという貴族を名乗って構えた屋敷。
 緑と花に溢れる庭先で、その黒髪の少女は驚きの声を上げた。
「ええ。いわゆる死別というやつです。まあ、父の方は物心つく前でしたから、記憶にはないですが」
 少女の反応とは対照的に、ハロンは平然とそう答えた。
 所用で屋敷を訪れ、帰ろうとしたところを、彼女に引きずられるように、ここまで連れてこられたのだ。
 少女とは、屋敷を訪れる度に会話を交わしていた。
 好んでいるからではない。
 組織の計画のため、不要な疑いを持たせないよう、適当な信頼を作るための作業に過ぎなかった。
 少女は、それを知らない。
「そう……なんだ……」
 だから、ハロンの答えを聞いて、まるで自らの事のように悲しそうに丸く大きな目を伏せる。
「私も両親、事故で死んじゃったから……同じだね」
「…………」
 ハロンは知っている。
 それは偽りの記憶。
 少女には、生みの親など居はしない。
 彼女は、神をも恐れぬ魔科学により生まれた、人の手で生み出されし偽りの人間なのだから。
 だが、少女はそれに気づかない。
 気づけない。
 生まれたばかりの純粋過ぎる心は、疑う事を知らない。
「辛いよね。寂しいよね。親が居なくなっちゃうのは……」
「そうですね。辛くなかったならば、私はここには居ないでしょう」
「……そっか。ハロンも、エリックに助けてもらったんだね」
 少女は深い信頼に満ちた声音で言う。
 口にした父として慕う貴族の男こそ、彼女を世界破壊のために生み出した張本人だとも知らずに。
(愚かで――哀れな娘だ)
 何も知らぬばかりに。
 知ろうとしないばかりに。
 ただただ利用され、真実に気づいたときには、世界ごと滅びる運命。
 本当に愚かで、哀れ――。
 少女はその場でくるりと回ると、背後にあった花壇の前でしゃがみ込む。そして、可憐に咲き誇る小さな花達の一つを愛おしそうに撫でながら言った。
「私ね、エリックの事、本当のお父さんのように思っているの。居場所のない私を拾ってくれて、私を救ってくれた人だもの」
「そうですか」
 ハロンは作った微笑で相槌を打つ。
 それが真実の話ならば、素敵な感動話であろうに。
 だが、現実の前では、滑稽でしかない。
「それで、私ね――」
 続けて、少し照れ臭そうに少女は言ったのだ。
「ハロンの事も本当のお兄さんのように思ってるよ」
「え……」
 ハロンは言葉を失った。
 少女が満面の笑顔で振り返る。同時に吹いた、少し強い春の風が花弁を舞い上がらせ、そんな少女の姿を一枚の絵画のように彩った。
「だから、私達は血の繋がりはないけど、みんな家族! だから、悲しまないで。寂しがらないで。ずっと一緒だから。もう一人ぼっちになんてならないから!」
「…………」
 なんて馬鹿げた話。
 家族?
 一人ぼっちじゃない?
 エリックの正体は、悪魔アダムスタで。
 彼は世界の破壊を望んでいて。
 自分は、その野望に賛同し、彼の元で手を汚し続けていて。
 少女は、ただ計画に必要な歯車に過ぎない。
 甘い感情など入り込む余地のない残酷な関係。
 だから。
 信頼などない。
 絆などない。
 家族など――馬鹿げている。

 ――だけど。
 何故か。
 ハロンは、自然と笑顔を浮かべて、こう口にしていたのだ。

 「ええ。そんな生き方も――悪くないかもしれませんね」

 ああ……。
 きっと、あのときからなのだろう。
 自分が世界を。
 人を。
 憎み切れなくなったのは。
 正しいと思っていたはずの生き方に狂いが生じたのは。

 愚かで、哀れ?

 ――それは…………

 私だ。


 ティリアムは、剣の切っ先を膝を突くハロンの喉に突きつけた。
 敗者の青年が笑んだ。
 何かを悟ったような、諦めたような、そんな笑み。
 すでに背中の翼も消滅している。
 彼の戦う力も。
 意思も。
 完全に砕けていた。
「無様ですね……」
 ハロンは脱力したようにだらりと腕を下げ、空の見えぬ、闇に覆われた天を仰ぐ。
「今なら分かる。貴方の言った通りだ。ただ、私は認めたくなかったんです。あの少女が、私の内で死なせたくない大きな存在になっている事を。それを認めれば、私の生き方の全てが否定される。己のやってきた事の全てが単なる罪へと変わる。ただ、怖くて苦しくて……逃げたかった。だから、私は――世界を憎む冷酷な男を演じ続けてきた」
 自嘲の笑みが広がる。
「――結局、私はひどく中途半端だったのですね。世界を憎む者としても、誰かを想う者としても……初めから私に勝利など有り得なかった……この敗北がそれを知らしめた……」
「…………」
 ティリアムは無言で独白するハロンを見つめた。
「殺しなさい」
 ハロンが強い声で言った。
「どのみち弱い私は、貴方のようには生きられない。それに、私は貴方にとって敵であると同時に友の仇でしょう。だから殺しなさい。これ以上、こんな無様な姿を晒すのは……」
「断る」
 ティリアムは、あっさりと剣を引く。
 ハロンは視線を下ろし、驚愕の表情を浮かべる。
「何故です!?」
「もう戦う意志を失ったお前の命を奪う必要性は感じないからな。
 ――それにサレファが言っていた。
 『命の代償を奪った者の命で贖わせる――そんな行為は本来ならあってはならないのかもしれない』、と。俺もそう思うから――断る。それだけだ」
 言い切り、踵を返した。
 歩む先は、光輝く城ツェントルムだ。
 その背にハロンが叫ぶ。
「それで……それで、貴方は本当に納得出来るのですか!」
「出来るさ。――あいつにも頼まれたからな」
「頼まれ、た?」
 訝しがるハロンへと顔だけで振り返り、苦笑気味にティリアムはこう言ったのだ。
「オーシャだよ。あいつは俺にこう言ったんだ。『甘い事だって事はわかってる。だけど、それでも……』」

 ――お願い。ハロンの事を助けてあげて。

「――てな」
 ハロンは驚愕に震え、目を見開きながら呻いた。
「……何故、そんな、事を……」
「信じたいんだろ。裏切られても、もう敵なんだと理解していても……」
 再び顔を前に向け、ティリアムは少女の気持ちを慮る。
「――かつて、お前の見せた優しさをな」
「…………馬鹿な、娘ですね……」
 ティリアムはなんだか可笑しくなって笑いをこぼした。
「そうだな。だけど……俺達ほどじゃないだろう、ハロン」
「そう、ですね……」
 ハロンもまた肯定し、笑う。
 その頬を――一滴の涙が伝っていた。
 それは、きっと。
 長きに渡った憎しみの呪縛から解放されたが故に流れる涙。
「生きろよ、ハロン。無様でも、愚かでも――生きろ。そして、この戦いの結末を見届けろ。この戦いに関わった者として、お前にはその義務と責任はあるはずだろう」
 もはや振り返る事はせず、ティリアムは言葉を紡いだ。
「もしも世界が続いて、それでもお前が生きられないと思ったなら、そうすればいい。――でもな。諦めるのは、罪に向き合って、世界を憎む以外の新しい生き方を一度でも探してみてからでも遅くはないんじゃないか? 少なくとも、俺はそうやって見つけたよ。今の――居場所を」
 そう言って、ティリアムはその場を立ち去っていった。
 ただ、ひたすらに真っ直ぐ。
 アダムスタが待つであろう城を見据えながら。

 ティリアムの姿が見えなくなって。
 一人跪くハロンは、呟いた。
「生きる……ですか」
 ひどく懐かしい響きだった。
 いつの間にか、どこかに置き忘れてきてしまったけれど、本当は誰にとっても当たり前の事。
 でも、彼にとっては、すぐ隣にありながら、ずっと遠かった事。
 やっと――思い出せたのかもしれない。
 ハロンは、自分を倒した男の去った先を静かな瞳で見つめた。
「――そこまで言うならば、見せてください、ウォーレンス。私が罪と向き合うための、生きるべき道を見つけるための――未来を……ね」

 そのとき。
 ハロンは母を失って以来、初めて。

 終わりではなく、続く事を見つめる事が出来た気がした。


 ――ティリアムがハロンと遭遇したのと、ほぼ同時刻。

 ティリアムと同じく、オーシャとマリアは、無事に《陽炎の城》内部に到達していた。
 しかし、それに安堵する事も、その感慨を口にする事も出来なかった。
 侵入に成功してすぐに、目の前に一人の少女が立っていたからである。

 オーシャが白を司っているとすれば、彼女は黒であった。

 年相応の幼さを残しながらも綺麗に整った面。
 腰まである長く美しい亜麻色の髪に透き通るような茶瞳。
 それだけなら、単に容姿の優れたそこらの街娘と変わらぬだろう。
 だが。
 纏う空気は、超然。
 双眸の光は、冷徹。
 さらにその身には、黒き翼を源にする強大無比な魔法の秘儀を宿している。
 マリアが驚愕に震えた声で少女の名を呟いた。
「イリア……」
 七百年前、《世界王》ヴェルト・ケーニヒの右腕だった少女――。
 彼女は、普段の丁寧口調をかなぐり捨て、静かな、だが、その奥に底知れぬ憎しみを塗り込めた声音でこう言ったのだ。
「やっと会えたわね、マリア・アールクレイン――私の存在を否定する人」


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