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エンジェル 五章

双の黄昏


―― 三 ――

 それは、異様な光景であった。
 聖地レレナを囲む広大な森を西に抜けた先に在る大平原。
 そこに、ほんの数日前まで存在しなかったはずの巨大な森が、明らかに不自然な様相で聳え立っていたのである。まるで真っ白いキャンバスに、緑の絵の具をそのまま乗せたかのような違和感がそこにはあった。普段と変わらぬ穏やかな昼の陽気が、それをより一層に際立たせている。
 ティリアム達は近くまで馬車で寄ると、平原の上に降り立つ。
 レルードが予め、近くの兵に命じて人払いをしてくれたおかげで、周囲に人影はなかった。
「これが《陽炎の森》……」
 間近で森を見たオーシャが驚嘆の呟きを漏らす。
 森は、まさに陽炎のように微かに揺らいでおり、手を伸ばしてもすり抜けてしまいそうな不確かさを感じさせていた。
 ――実際、本当に森が存在するわけではない。
 エアの記憶を継承しているティリアムは、それを知っていた。
 マリアがどこか郷愁を含んだ視線で森を見上げる。
「《陽炎の森》は、私が周囲の魔素マナにこの姿を投影しているのと同じように、《エンジェル》達の城と都を守る障壁に、森の姿を映しているだけに過ぎません。だから、見た目通りに森がここに在るわけではないんですよ」
 次いで、ティリアムが口を開く。
「森の姿を使っているのは、かつてイヴァルナが、アダムスタを聖地の森で討った事になぞらえているらしい。そして、この森を《陽炎の森》と呼ぶ理由は、まさに幻の如く消え失せる事を由来としているのさ」
「消え失せるって……マリアみたいに特定の人にしか見えないようにするって事……?」
 オーシャの問いを、マリアが頭を振って否定する。
「いえ、確かにそういう事も可能ですが、この場合は文字通り消えるんですよ。その場からね」
「正確に言えば、空間を越えて移動するんだよ。障壁の奥に隠された城と都ごとな」
 オーシャは、大きな黒い瞳を驚きで丸くする。
「く、空間を越えて移動って……」
「《エンジェル》の本拠地だからな。それぐらいはできるさ。そして……その大掛かりな魔法の中枢となっているのが、奴らの居城――ツェントルムそのものだ」
「そっか……。《デンメルング》が、それを利用していたんなら、私達がいくら本拠地を探っても見つからないのは当たり前だよね。常に場所を移動できるんだから」
 マリアは申し訳なさそうな表情を浮かべる。
「本当は、《裏切りの贖罪》の終結の際、《陽炎の森》は、その力が万が一にも悪用されないように空間の狭間に閉じ込めてしまったはずだったんですけどね。まさか、それを再び持ち出してしまっていたなんて――アダムスタの力は、私の想像以上のものだったようです」
「まあ、あちらからの誘いとはいえ、結局は、こうやってそれを前に出来ているんだ。気にする事はないさ。要は、最後に勝てばこっちのもんだよ」
「――そうですね」
 ティリアムの励ましの言葉に、マリアは微笑しながら頷く。
 ふう、とオーシャが緊張のはらんだ息を吐いた。
「本当に……これで全ての決着が着くんだよね。私達が負けたら――世界は滅ぶ……絶対に勝たないと」
 確かに、この戦いのはそうした意味を持っていた。
 例え、世界に暮らすほとんど人々がその事実を知らなかろうが、アダムスタの野望が成就すれば、名も無きこの世界は、滅びの結末を迎える。
 これは否定しようのない現実。
 だが。
「重いな」
「重いですね」
 ティリアムとオーシャが、ほぼ同時に口にした。
「へ?」
 それにオーシャがきょとんとする。
「重いって……」
「緊張感を持つのはいいが、持ち過ぎると逆効果だろ。特にお前みたいな真面目な性格だとな」
「少し肩の力を抜かないと駄目ですね」
 二人に口々に言われ、少女は戸惑いを見せる。
「いや、だって、この戦いはそれぐらい大事なものなわけで……言うなれば世界の人々の命運がかかっていて……」
「それが重いんだよ。別に俺達は、物語に出てくる勇者様じゃないんだぞ? 世界のためなんて大層な理由で戦ってるわけじゃない。レルードやサレファもそんな事を言ってたろ」
「そうです。そうです。私達はそんなご立派じゃないですよ」
「う、うう……」
 身も蓋もない言い様だったが、急に攻め立てられたオーシャは完全に二の句を告げなくなっていた。首をすぼめて、叱られた子供のように身を小さくしてしまう。
 マリアがまるで悪戯っ子のように、にやりと笑った。
「これは力を抜く意味も込めて、あの儀式をするしかないですね」
「あ、あの儀式?」
 何か嫌な予感を感じたのか、オーシャはひどく不安気にマリアを見る。
 これは、ティリアムも何の事かわからず眉根を寄せた。
 だが、あえて止める事もしなかった。
 何にせよオーシャが肩の力を抜く必要はあるのだ。確かに不安もあったが、ここは知識と経験の豊富なマリアに任せてみようと思ったのである。
「じゃあ、とりあえずティリアムとオーシャは向き合って立ってください」
 なぜか活き活きとした様子で、マリアは二人を誘導する。
 二人も、とりあえず素直に言う通りに動く。
「ちゃんと目を合わせてくださいね。そうそう、そんな感じで」
 向き合った二人の間から一歩二歩退いた位置に立ったマリアは、腕を組んで納得したように頷く。
「うん。こんな感じで良いですね」
「ねえ、マリア、一体、何を……」
 どうしても不安だったのか、問い掛けようとしたオーシャの言葉を、マリアは笑顔で制した。
「まあまあ。悪いようにはしませんから。――きっと、ね」
 意味深な言い方をして、こほんと咳払いをする。
「では、いきましょうか」
 マリアは右手を胸の前まで持ち上げると、まるで何かの本を広げているかのようなポーズを取った。
 ティリアムは、それを見て、ある姿を思い浮かべた。
 そう、それはまるで――
「森が愛し、陽光を抱く清き場に、今、夫婦の契りを交わさんとする二人が揃いました」
 マリアは、凛とした声で高らかと告げる。
 ティリアムとオーシャは知らなかったが、それは二人に内緒でマリアがリラから教えてもらった、イヴァルナ神教の形式に倣う“ある儀式”のやり方だった。
「女神イヴァルナの祝福の元、我らは讃えましょう、喜びましょう。二人の新たなる旅路を」
 ここにきて、ようやくマリアが何をしようとしているかに気づいたオーシャは顔を真っ赤にすると、慌てて止めようとする。
「ちょ、ちょっとマリア! そ、それまさか……!!」
 しかし、マリアは構わず、さらに続けた。
「しかし、その前に我は問いましょう。貴方方に長き旅路を共に歩む真なる決意があるかどうかを」
 真摯な瞳をティリアムに向けて問う。
「ティリアム・ウォーンレンスよ。汝は、オーシャ・ヴァレンタインを生涯の伴侶として、その健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り添い遂げる事を誓いますか?」
 オーシャは戸惑いと不安に満ちた視線をティリアムに向ける。
(――なるほど、マリア。そういう事か)
 苦笑していたティリアムは得心して、それを穏やかな微笑に変えた。
 ならば答えは一つ。
 迷わず言った。
「誓います」
「………!?」
 これに、オーシャの黒い瞳が動揺に激しく揺れる。
 喜びと驚愕と疑念と、そんな様々な感情が入り交じっていた。
 次にマリアは、混乱したままの少女に問う。
「オーシャ・ヴァレンタインよ」
 名を呼ばれ、オーシャはびくりと身を固くする。
「汝は、ティリアム・ウォーレンスを生涯の伴侶として、その健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り添い遂げる事を誓いますか?」
「……わ、私は……」
 まるでティリアムと目を合わせる事を恐れるように俯く。
 そして、途切れ途切れに青年に問い掛けた。
「……ティ、ティルは、それでいいの……? だって、これは正式なものじゃなくても……夫婦の契りを結ぶ儀式なんだよ……? 私なんかとそんなの……しかも、こんな場所、こんな状況で……」
 愛しい少女を微笑のままに見つめ、ティリアムは言った。
「今だからこそだろ。それに俺は、相手がオーシャだから誓ったんだ」
「…………!」
 そこに逡巡はない。
 なぜなら、胸から湧き出る素直な想いに従っただけなのだから。
「俺から言える事はそれだけだよ。後は、オーシャがどうするかを決めるんだ。どんな答えでも、俺は受け入れるさ」
「………………わ、私は」
 呟く。
「…………私は」
 呟く。
「……私は!」
 声を上げ、勢い良く顔を上げる。
 少女の黒瞳とティリアムの黒瞳が真っ直ぐとぶつかった。
 両者の想いは、そこで繋がる。
 オーシャは、はっきりと言った。
「誓う――誓います!」
 マリアが頷き、次にこう告げた。
「良いでしょう。では、誓いの証として口づけを」
「口づ……!?」
 冷静になれば、当然、気づきそうな展開なのだが、動揺していたオーシャには、それは全く頭になかったらしい。
 呆然と固まるオーシャの肩を掴み、その面にティリアムは自然な動作で顔を寄せた。
「えっ……待っ……っ!」
 すぐに二人の唇が重なり、少女の制止は虚しく途切れる。
 ほんの数秒ほど。
 だが、おそらくオーシャにとっては信じられないぐらい長い時間だった事だろう。
 そっと唇が離れる。
 かちこちになったオーシャの表情は、恥ずかしがっているのか、喜んでいるのか、もはや判別のつかない不可思議なものになっていた。
 二人のやり取りを見届けたマリアは、心から嬉しそうに笑んだ。
「ここに契りを結びし、新たなる二人の旅人が生まれました。讃えましょう、喜びましょう。女神の祝福もまた――いえ! そんなものはなくても、あなた達はきっと幸せになります! ならなきゃ許しません!」
 そう言って、実体化すると二人の首に腕を回して抱き寄せる。
「――マ、マリア、ひどいよ。不意打ちで、こんなの……」
 オーシャは未だ赤い顔のまま、傍にある美貌の元王妃に向けて非難の声を投げる。
 マリアは、くすりと笑った。
「だって、こうでもしないと、あなたはいつまで経っても奥手のままでしょう? ちょっとした荒療治ですよ」
「ティルは……最初から知ってたの?」
 問われて、ティリアムは苦笑しつつ首を横に振る。
「いや、知らなかったよ。アドリブをきかせただけさ。……でも、これで死ねない理由が出来ただろ。せっかく誓い合ったんだ。ちゃんと生き残って二人で幸せにならなきゃな?」
「あ……」
「戦う理由なんて、そんなものでいいんだよ。それが結果的に世界の救う事になる――そう考えた方がずっと楽だろう? 無理に多くのものを背負う必要はないんだ」
 マリアも頷く。
「まあ、急だったから指輪も用意できなかったですし、あくまでさっきのは簡易のものです。戦いが終わった後、またちゃんとした場所で、正式なのをやればいいんですよ。もちろん、二人がそうしたいと思えたときにね」
「……うん。ありがとう。ティル、マリア」
 ようやく自然な笑顔を少女は見せる。

 ――そう。 人はいつだって、己の為に生き、己の為に戦っている。
 死にたくない、欲を満たしたい、野望を成就させたい、大切な人を失う悲しみを味わいたくない――。
 理由は様々だけど、結局は、それは己に繋がっている。
 真に無償で何かを為せる生き物なんていないだろう。
 でも、それは決して愚かな事ではない。
 何故なら、人は皆、絆で繋がっている。
 己の為に、人の為に生きる。
 己の為に、人の為に戦う。
 そんな生き方だって出来るから。
 だから、ティリアムは――自分自身の為に、この愛しい少女を守りたいとそう思う。
 彼女に笑顔で居て欲しいから。
 彼女に生きて欲しいから。

 そのとき、ふと。
 フェイナーン神殿を旅立つ前、マリアとした会話が思い出された。

「良いですか? 《デモン》の――渾沌の力というのは、《魔族》と人間の混血という、本来なら決して有り得ぬ血の交わりが生み出した、神の意思からすらも逸脱する、魔力とも全く違う異質な力です。それは、貴方に比類なき力をもたらすでしょう」

「だが、それだけじゃない。そうだろう?」

「…………。ええ。その力は、あくまで半分は人間である貴方の身には、あまりに強大過ぎる。故に、行使の度に大きな代償を伴う事になります」

「ああ、わかってるよ。それは――……」

 ティリアムは、自分自身の為に、この愛しい少女を守りたいとそう思う。
 彼女に笑顔で居て欲しいから。
 彼女に生きて欲しいから。
 そう、例え――

 そのために命を失う事になろうとも。


 三人は、最後の戦いの場に赴くために《陽炎の森》の前に立つ。
「よし。それじゃ、行くぞ」
 ティリアムが覚悟を決めた声で言う。
 だが、いざ足を踏み出す前に、オーシャが不安気な声を上げた。
「……あの、今更だけど、本当に、このまま入って大丈夫かな? 一応、この障壁は、侵入者を防ぐためにあるんでしょう?」
「平気ですよ。来いと言ったのは、アダムスタ本人――あの男は、そういう筋は通す男ですから」
 マリアが確信に満ちた顔で断言した。
 ティリアムは、安心させるように優しく少女の頭をくしゃりと撫でてやる。
「そういう事だ。ただ、中に入ってから、何が待っているかはわからないからな。そこだけは覚悟しとけよ」
「――うん」
 表情を引き締め、オーシャは顎を引いた。
 そして、三人は同時に偽りの森を映す障壁へと足を踏み出した。壁に触れた場所から波紋のようなものが広がっていき、ずぶりと身体が奥へと飲み込まれていく。まるで水に入ったときの抵抗を何倍にも増やしたような妙な感覚。
 ただマリアの言葉通り、こちらを排除するような力は一切、感じられなかった。
 そのままゆっくりと身体が障壁の向こうへと沈んでいき、全身が入った瞬間、眩しい白光が視界を覆った。
 それが晴れた時――

 ティリアムは、《陽炎の森》の内部へと到達していた。

 外で見た印象以上に中は広大で、肌を撫でる空気は七百年間という時の流れの重さを感じさせた。
 障壁の内側の表面は、夜闇のような暗黒になっており、そこに無数の星のような光が瞬いている。光の正体は全て、この空間を保つために何かしらの意味を持つ魔法文字だ。障壁の中が、まるで真昼のような光に包まれているのも、その力の一端だろう。
 さらに空間の中央には、フェイナーン神殿をも凌駕するほどに巨大で輝く城ツェントルムが聳え立っている。目を凝らせば、城の表面には、見る者が息を呑むほどの複雑精緻な彫刻がその隅々にまで施されていた。
 魔法的な意味を持つ紋様だ。
 城が、この空間を構成し――さらには空間転移すらも可能にする中枢となっている所以は、それらにあった。
 首を巡らす。
 ティリアムが居るのは、城を中心に広がるかつての《エンジェル》の都――ヴォール・シュタントという――の広場の一つのようだった。魔法の加護により、七百年の時を越えてもなお、以前の姿を保ち続けている城とは違い、かつて繁栄を極めていた都は風化し、朽ち果て、無残な姿を晒していた。
 光纏い美しさを守り続ける城と、残酷な時の流れに蹂躙された都市。
 二つの対比は、異様さと皮肉さを共に感じさせた。
「……独り、か」
 周囲を見ても、どこにもオーシャとマリアの姿はない。それどころか敵の姿すらもだ。偶然か、意図的か――どちらかはわからないが、どうやら中に入る際にはぐれてしまったらしい。
 だが、焦りや不安はなかった。
 今のオーシャは、肉体的にも精神的にも十分に一人で戦い抜ける強さがある。ならば、自分がするべき事は、彼女を信頼する事だけだ。
「アダムスタが居るのは、おそらく城の玉座の間……。オーシャ達も、まず城に向かおうとするだろうし、そこで合流すればいいな」
 冷静に行動の指針を定めると、ティリアムは駆け出す。
 しかし、その足はすぐに止まった。
 ある意味、予想通りの遭遇があったからだ。
「……久しぶりだな」
 前方に声を投げる。
 城へと続く、荒れた石畳の道の真ん中。
 そこに、その男は立っていた。
 枯草色の髪。
 冷徹な氷を思わせる薄青の瞳。
 女と見紛うばかりに整った面。
 右腕は肘から先が存在せず袖だけが揺れ、腰には鋭き刃を秘めた刀を佩いている。
 ざわりとその場の空気が張り詰めた。
 ティリアムが、男の名を口にする。
「――ハロン・イヴシェナー」
「ええ。シーナの王城以来ですね」
 氷の青年は微笑んだ。
 まるで友との再会を喜ぶかのように。
 そして、こう告げたのだ。
「貴方を――殺しに来ましたよ、ティリアム・ウォーレンス」


「意外だったな。てっきり大挙して襲ってくると思ったんだが、お前一人か」
 ティリアムは、全身にまとわりつく張り詰めた空気とは対照的に、軽い口調で言った。
 ハロンもまた自然な動作で肩を竦める。
「この戦いはエリック様が――いえ、アダムスタ様が自ら貴方達を招く事で始まった、本当の意味で最後の決着をつけるためのもの。それに対して、数を揃えて待ち受けるなどと言う姑息で下らない真似を、あの方はなさいませんよ。今、この空間に居る《デンメルング》側の者は、私、イリア様、そして、アダムスタ様の三人だけです」
「他の連中は何処に行った?」
「同志達は、全てアダムスタ様の勝利と世界破壊の実行を信じて、各々、自らが最期を迎えるにふさわしい場所に向かいました」
「なるほど。また盲信してる事だな」
「それだけのものをあの方は持っているのですよ。直接、刃を交えた貴方ならわかるでしょう?」
「さあな」
 肯定も否定もせず、ティリアムはその手に渾沌を集める。構築され、握られるのは、新たなるティリアムの剣である《黄昏》ラグナロクだ。
「それでお前は、その頼れるアダムスタ様を信じて、最期を迎えるのにふさわしい場所とやらには行かなくていいのか?」
 ハロンの口が、自嘲の笑みに歪んだ。
「生憎、私にはそんな場所はありません。それにアダムスタ様を信じてなお、私は自身の手で為さねば気が済まぬ事があっただけの事。そう、それは――」
 穏やかだった氷の瞳が険しくなる。
 同時に緊迫した空気に、ある成分が交じり出す。
 ――殺気だ。
「あなたとの決着をつける事ですよ、ウォーレンス」
「……わからないな」
 ティリアムは、声に疑念を含ませた。
「お前は、初めて会ったときから、どこか俺に対して必要以上の執着を持っているように感じられる。一体、それは何だ?」
「そうですね……では、一つ昔話をしましょうか」
 殺気を少し薄くして、ハロンは語り始めた。
「ウォーレンス、貴方は不思議に思った事はありませんか? 《デモンズ》には、七百年という長き時を経ても、貴方という生き残りが居た。なのに、《デモンズ》よりも遥かに数の多かった純粋な《エンジェル》には、一人も生き残りがいない……」
「何が言いたい?」
「単純な事です。要するに、実際は居たんですよ。《エンジェル》の生き残りは」
 ハロンは、自分の胸に左手を当てる。
「今、ここに、ね」
 ティリアムは目を見張った。
「まさか……」
「そう。私は《フリューゲル》を埋め込まれ後天的に力を手にした《イミタツィオン》などではない。純然たる《エンジェル》の末裔なのです」


 ハロン・イヴシェナーが物心ついたとき、すでに父親は死んでいた。
 故に、彼にとって親と呼べる相手は唯一、母親だけで、さらに自分達は《エンジェル》の末裔という、周りの人間とは異質な存在である事が、彼が母親に大きく依存する何よりの要因となっていた。
 幼い為に、まだ力をまともに操れぬハロンはもちろんとして、母親もできる限り《エンジェル》の力を表には見せようとはしなかった。
 当然だ。
 《エンジェル》の存在自体が伝説に近くなっていた今となっては、それは間違いなく迫害の理由となるのだから。
 その秘める力のせいで、一つの場所に留まる事が出来ず、各地を放浪する二人は、あるとき、大陸の端のとある村へと辿り着いた。
 いつものように普通の人間を装い、一時の平穏と安住の地を得る二人。
 しかし。
 数十人ほどしか住んでない小さな村を、大規模な《鬼獣》デモン・ティーアの群れが襲った事で、二人の仮初めの平穏は、容易く壊れた。蹂躙される村人を救うために、ハロンの母は、《エンジェル》としての力を振るったのだ。
 魔法の力は強大だ。
 《デモン・ティーア》の群れは瞬く間に追い払われ、村は救われた。
 だが、村人達の顔には安堵や喜びはなく、《デモン・ティーア》に向けられていたはずの武器は、「化け物」という罵倒と共に母親へと突きつけられたのだ。
 少年だったハロンは、その日、知った。
 人が、自分達とは異なる存在に対して見せる醜悪なまでの残酷さを。
 命懸けで守った村人に刃を向けられても、どうしても魔法を行使する事が出来なかった優しい母――その命というあまりに大き過ぎるものを代償にして。
 激情は、正のものであれ、負のものであれ、人を強く突き動かす。
 秘めた力の覚醒を促す。
 誰よりも愛した母の死に怒り狂ったハロンは、蒼き雷を操る翼に目覚めると、その力で村人達を薙ぎ払った。
 容赦も慈悲もない。
 ただ、憎しみと怒りのままに。
 そして、母を守れなかった自分の無力さを認めたくないという思いのままに。
 小さな村は、消滅した。
 そこで暮らす人々の命と共に。


「…………!」
 ティリアムは絶句する。
 これは、あまりに――
「似ているでしょう?」
 その反応を予期していたかのように、ハロンは言った。
「本当に貴方の生い立ちとよく似ている。それこそ私と貴方は精神的双子と言っても良いかもしれませんね?」
「…………っ」
《鬼人》デモンと呼ばれた男が我々の敵に回ったと聞いたとき、私は《黒き者》シュヴァルツァーを使って、貴方の事を徹底的に調べさせました。種族こそ違えど、私と同じ滅びたはずの存在の末裔という共通点に興味を惹かれましたからね。そして、この単なる偶然と呼ぶには、あまり似すぎている生い立ちの事を知り――驚きと共に、一つの疑問が私の心の奥底より湧き上がった」
「疑問、だと……?」
「そうです。私と限りなく近い人生を歩み、限りなく近い憎しみ、怒り、辛苦を味わってきたを貴方が、何故、オーシャという縁も所縁もない少女を命懸けで守り、世界破壊を目的に戦う我々に敵対するのか……どうしてもわからなかった。それこそ、私達側に立っていてもおかしくないはずなのに」
「…………」
「本当の事を言えば、ダランの街で初めて貴方に会ったとき、私は貴方をこちら側に誘うつもりだったのですよ。ですが、実際に貴方と出会い、その目を見たとき――貴方は仲間になる事は決して有り得ないと……何故か、直感的に悟りました。実際、今、貴方はこうやって私達の最大の敵となって立ちはだかっている……」
 ハロンの左腕が動いた。
 器用に、腰に佩いた刀を鞘から抜き放つ。
 ダランの街で、ティリアムに折られてから、新調したのであろう刀の刃は、どこは普通ではない色を持っていた。
「まあ、ここに至っては、それはもはやどうでもいい事でしょう。戦いを始める前に、私が問いたいのはただ一つ。なぜ、あなたは、こんな下らぬ世界を守るために戦おうとするのか。神の慈悲――いや、神すらも存在しないという事実を知った上でなお、何故……?」
 ティリアムは笑った。
 どこか穏やかで、達観した笑みだった。
「……愚問だろ、それは」
 ハロンはぴくりと眉を持ち上げる。
「何ですって?」
「どれだけ似た道を歩んできたとしても、ハロン――お前と俺は違う」
「…………」
「それに本当は、お前も、もう気づいているんじゃないのか? その違いが何かという事もな」
「……どうでしょうね」
 ハロンは具体的な答えは避けて、《蒼雷の翼》を発現させた。
 これ以上の会話を避けるかのように、自ら殺気と緊張の高まりを急激を上げていく。
「どうやらこれ以上の問答は無意味のようです。そろそろ始めましょうか。この先に必要なのは言葉ではなく、交える刃のみ」

 瞬間、蒼が弾けた。

「…………!」
 凄まじい雷光に思わずティリアムは腕で顔を庇う。
 翼より生みだされた雷は、失われたハロンの右腕のあった位置へと集中していく。そして、徐々にある形を成していった。
 ティリアムは雷光の眩しさに目を細めながら、それを見た。
「あれは……!」
 右腕だ。
 失われた箇所を補うように、雷が腕と手の形を取ったのである。
 ハロンは左手の刀をその雷の手に握らせた。途端に、柄から伝わった激しい雷が刃を取り巻いていく。
「この右腕こそ、私の新たなる力――《雷王の御手》。さらにこの刀も、七百年前、私と同じ《蒼雷の翼》を持っていた戦士が操った雷の力を秘めし魔刀――この二つの力を合わせたときの破壊力は、いくら渾沌に守られた今の貴方とて防ぎきれるものではありませんよ」
「……お前も本気という事か。だが、俺もここで止まるわけにはいかない――!」
 ティリアムの双眸が紅く輝いた。
 《デモン》化が発動し、全身に渾沌の力が漲っていく。
 ――この戦いに《デモン・ゴット》化は使えなかった。
 あの力は、使用者の命を削り取る。アダムスタと対峙するまでは、少しでもそれを消耗をするわけにはいかないのだ。
 偽りの森に閉ざされし都に、蒼き雷と渾沌の光が天高く迸る。
 二人の超常の戦士が、それぞれの得物を構えた。
 そして、ハロンが吼える。
「行きますよ! ウォーレンス!」
 ティリアムもまた、それに応えた。
「――来い!」


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