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エンジェル 五章

双の黄昏


―― 二 ――

「…………」
 分厚い雲が青い空を覆い、降り注ぐ雨が窓を叩く。
 そんな薄暗い朝。
 ティリアムが《鬼神》デモン・ゴットの力に目覚めると同時に得た、七百年前、エア・ノイエルンとして生きていた頃の記憶――その中に在った、世界と三種族の真実を聞かされ、オーシャは唖然となって言葉を失っていた。
 マッド、ゴードンとの戦い、そして、アダムスタとの邂逅より、すでに二日が過ぎていた。
 ファイナーン神殿を覆っていた結界は、アダムスタが去ると同時に解け、聖杯を抜き取られてしまい衰弱していたサレファの方も、リラや他の神官達の必死の看病もあり、問題なく快方へと向かっている。
 だが、戦いにより受けた損傷の復旧を進めている神殿を包む空気は、決して明るいとは言えなかった。大司教の一人が犠牲となっていた事もそうだが、何より、世界破壊の鍵の一つである《聖器》――聖杯がアダムスタに奪われてしまった事が、その大きな要因となっていた。
「……大丈夫か、オーシャ?」
 ティリアムは、呆然となっている少女を気遣って声を掛けた。
 場所は、神殿を訪れたときに用意されたティリアムの部屋である。今は、二人でベッドの端に隣り合って座っており、前方にはマリアの姿もあった。
 ようやく神殿の方がひとまずの落ち着きを取り戻したので、改めて話をするために集まったのである。
「う、うん、大丈夫……」
 返すオーシャの言葉は、少し頼りなげだ。
 無理がないとも言える。
 先日の戦いから、彼女にとっては簡単には信じ難い真実を聞かされ続けているのである。これで平然としていろというのが酷な話だ。
 ティリアムの姿の方は、すでに普段のものに戻っている。瞳はもちろん、《デモン・ゴット》化した際に、白く染まっていた髪も今では、前通りの漆黒だ。
 オーシャが、長く重い息を吐いた。
「――えっと、一度、話を整理させてもらってもいいかな? そうしないと、いつまでも混乱しっぱなしな気がするから……」
 ティリアムとマリアは頷く。
 オーシャは立てた人差し指を顎に当てて、聞かされた話を一つ一つ思い出すように、宙で視線を泳がせた。
「……私達の住む世界とは、別に《エデン》と呼ばれる世界がある。そこには《神族》と《魔族》という二つの種族が居て、その両者の争いが原因で、私達の世界は生まれた……」
「そうです。この世界は、神の手によって創造されたものではありません。女神や悪魔と呼ばれていたイヴァルナやアダムスタも、本来はそんな特別な存在などではなく、単なる《神族》や《魔族》の一人――人の範疇に入る存在に過ぎないのです。例え、その力が人間を遥かに凌駕していても」
 マリアが補足して言った。
「《エンジェル》にしても、実際は、イヴァルナに力を与えられた人間の祖先なわけですから、実質的には別種族などではなく、他の人間と同じものです。そして、《デモンズ》は――」
「アダムスタを祖とする《魔族》と人間の混血種族――それが《デモンズ》なんだろう?」
 言い淀むマリアの言葉を継いで、ティリアムはさして気にした風もなく微笑みながら言った。
 実際、その事実を重荷にするつもりはない。今更、そんな事を気にするようなら、あのとき《デモン・ゴット》の力を手にする勇気など持つ事は出来なかっただろう。
 オーシャは目を伏せ、膝の上に乗せた掌を強く握った。
「私達の信じていた事なんて、ほとんどが本当の事じゃなかったんだね。この世界に神様は居なくて、人間自体も戦いの産物だったなんて……」
「オーシャ……」
 マリアの双眸に意を決した光が宿る。そして、二人を見据えると、次の瞬間、深々と頭を下げていた。
「マ、マリア?」
 突然の行動に、オーシャが目を丸くする。
「すいません、ティル、オーシャ。私はまた――あなたたちを騙していた。こんな真実は知らぬままで済めば良いと……。でも、《黄昏》デンメルングと戦い続ける限り、そんな事は有り得ないとわかっていたはずなのに……!」
「いいんだ、マリア」
 ティリアムは優しく微笑み、謝罪の言葉を制した。
「こんな事知らなかったとしても、ただそれだけの事じゃないか。この世に神が居ようと居まいと、俺達の存在がなんであろうと――俺達が俺達として生きていく事に何の関係もない事だろ」
 次いで、オーシャが口を開く。
「私は……ティルみたいにすぐには受け止め切れないけど……でも、マリアを責めるつもりなんかないよ。マリアが、私達の事を考えて言わずにいてくれた事はわかるし、きっとマリアも黙っているのは辛かったはずだもの。だから、うん――全然、気にする必要なんてない」
「……違うんです。私は……」
 マリアは俯き、唇を噛みしめる。
「あんまり自分を責めるなよ。お前は、これまで十分過ぎるほど頑張ってきたんだ。俺達はそれをよく知ってるから――だから、こんな事でお前の事を悪く思ったり出来るはずがないじゃないか」
「そうだよ。もう――楽になっていいんだよ」
「……ありがとう……二人共……」
 マリアは、どこか救われたように礼を口にする。その目元には溢れた涙の雫が光っていた。
「じゃ、この話はこれで終わりだ。いつまでも引きずったって現実は変わりはしないし、後はそれぞれが自分なりの形で眼の前の事実を受け入れていくしかないんだからな」
「うん……そうだね」
 事さら明るく言ったティリアムの台詞に、オーシャも笑顔を見せて首を縦に振る。
 その後、一転、ティリアムは、また深刻さを取り戻した口調で言った。
「それでな、オーシャ。お前に一つ頼んでおかないといけない事があるんだ」
「頼み?」
 オーシャは、首を傾げる。
「さっきの話だけど――他の皆には黙っていて欲しいんだ」
「え……? どうして?」
「《エンジェル》とか《デモンズ》の事は良い。だが、この世界に神が存在しないなんて事を知ったら、女神イヴァルナと一緒に、彼女を遣わしたとされている神を信捧しているこの神殿の皆はどう思う?」
「あ……」
「サレファ達はともかく、神の存在を信じる事を拠り所に生きている人間は大勢いるだろう。それはきっと神殿の中だけじゃない。世界中にもだ」
 ずっと真実を己の内に秘め耐えてきたマリアは、自身の胸を両手で押さえる。
「知らずに済むのなら、その方が良い真実はたくさんあります。この世界の人達が、この事知れば、ひどく酷な重荷を背負う事になってしまう……だから……」
「……うん、確かに、こんな事は知らない方が良いよね。さっきティルも言っていたけど、私達が生きていくだけなら、こんな真実は必要じゃないんだもの」
 納得したようにオーシャは頷く。
「わかった。誰に言わないようにするよ」
 少女の答えに、二人は安堵した笑みをこぼした。
 そこで話が一段落し、場の緊張がやわらぎそうになって。
「あのね、ティル……」
 しかし、オーシャが言いづらそうに口を開いたのだ。
「? どうした?」
「……うん、その……マリアと二人だけで話したい事があるの。ちょっとだけ席を外してもらえないかな……?」
 その一言で、また部屋に緊張が漂い始める。
「――そうか。わかった」
 少女の様子から全てを察して、ティリアムは何も聞かずに腰を上げる。部屋を出る前に、マリアとちらりと視線を交わした後、
「俺は、神殿の復旧作業を手伝ってくるよ」
 そう言い残して、静かに自分の部屋を後にした。


 ティリアムがいなくなった後、部屋には途端に沈黙が落ちる。
 窓を叩く不規則な雨の音だけが、やけにはっきりと耳に届いてきていた。
「それで……話と言うのはなんですか?」
 マリアは、琥珀色の瞳でオーシャを真っ直ぐと見つめながら訊いた。
 おそらく彼女も、オーシャが何を言わんとしているのかを察しているのだろう。
 オーシャは、どうしてもマリアの顔を直視できなくて、思わず顔を俯かせてしまう。自分で話があると言ったのに、いざとなると、なかなかふんぎりがつかなかった。
 またしばらくの沈黙の後――
「ティルは……エアっていう人が転生した存在なんだよね」
 ようやく出た声は、ひどく小さくて囁くようだった。さらに続いて口にしようとする事実がひどく重くて、上手く唇が動かせない。
「……そして、マリアは……そのエアさんを……愛していた」
「そうです」
 マリアは、きっぱりと肯定した。
 そこに迷いなど何一つない。
 だけど、逆にオーシャは、次の言葉を口にするのが、酷く辛かった。大事なものが、思わぬ方向から失われていくような不安が胸を締めつけた。
「だったらマリアは、ティルの事……」
「オーシャ」
 問い掛けは、穏やかな声によって遮られた。
 はっとオーシャは顔を上げ、さっきまで直視できなかったマリアの面を見た。
 そこあったのは――本当に優しい微笑だったのだ。
「確かに一度もティルに、あの人の姿を重ねた事がないと言ったら嘘になります。――でもね、あくまでティルは、ティル……彼は、決してエアではないんです」
 そこで、マリアは、ちょっと自嘲気味に笑んだ。
「そして、私も本来ならこの時代に存在すべき者じゃありません。悪い言い方をすれば、《白光の翼》に宿る亡霊みたいなものです」
 マリアは実体化させた――生者の熱を持たぬ手で、少女の頬をそっと撫でた。
「だから、ティルと新しい絆を育むのは、一緒に今を生きる貴女であるべきなんです。それは、絶対に私ではない。……貴女は、私に遠慮なんてする必要は何もないんですよ」
「マリア……」
「オーシャは、私とエアの分も、ティルと幸せになってください。それが、私達にとっての喜びでもあるんですから」
 少女の黒い瞳から涙がこぼれ、頬に触れるマリアの細い指にまで伝わる。オーシャは、その上に自分の手をそっと重ねた。
 自分の不安が、どこまでも愚かでちっぽけだった事を思い知らされた。マリアは、あんな辛い別れをしたというのに、それを受け入れてなお、オーシャの幸せを望んでくれているのだ。

 なんて……馬鹿なんだろう、私は……。

 だから、言った。
 心からの想いを込めて言葉を紡いだのだ。
「――なるよ、マリア。きっとティルと一緒に、私は、この世界で幸せになる」
 マリアは、ゆっくりと頷く。
「そのためにも守りましょう。この世界を。貴女達の未来を……」
「うん……」
 いつしか、雨は上がっていて。
 想いを一つにした二人を、雨雲の隙間から差し込んだ射光が優しく包んだのだった。


 それから二週間ほどが過ぎた。
 この日、ティリアム、オーシャ、そしてマリアは、サレファの執務室を訪れていた。
 執務机には、ようやく全快したサレファが腰を下ろし、その後ろには、リラとロウが控えている。
 三人の顔には、一様に緊張と一抹の寂しさが浮かんでいた。
 サレファは机の上で両手を組み、目を伏せる。
「そうですか……ついに行くのですね」
「はい」
 ティリアムはきっぱりと答えた。
 両脇にそれぞれ並ぶオーシャ、マリア共に、覚悟を決めた表情が浮かんでいる。
 サレファは、僅かに顔を俯かせ、声を絞り出すように言った。
「私達にも、ぜひ手伝わせて欲しい――そんな台詞さえ口に出来ない我々の無力さが本当に口惜しくあります。あの日に見たアダムスタの力……あれを前にしては、我々に出来る事など本当に何もありはしないですから……」
 背後のリラとロウも悔しげな表情を覗かせる。
 だが、現実は間違いなく宗主の少女の言う通りなのだ。アダムスタの力は、神殿の人間が束になっても、到底敵うものではないのだから。
 ティリアムは、穏やかな微笑を浮かべる。
「そんな事はありません。宗主や他の皆は、聖杯を守る戦いの際、俺達を信じて背中を任せてくれました。さらに、今、俺の力の事を知っていても、恐れる事なく受け入れてくれている。俺は、それだけで十分すぎるほど助けられたんです。だから、また――俺達の事を信じて任せてください」
「……ええ、もちろんです。貴方方に全てを背負わせようというのに――信じられないなど、どうして言えましょうか」
 深い信頼に満ちた眼差しでティリアム達を見つめ、サレファは頷く。
 そして、執務机の引き出しの一つから丸められた一枚の紙を取り出す。どうやら、誰かからの書状らしく、蝋で封をされたものを開いた後があった。割れていてわかりづらかったが、押されている印には見覚えがある。
「皆さんが出発する前に、伝えねばならない事があります。――決して、良い話とは言えませんが……心して聞いてください」
 ティリアムは目元を険しくしつつ頷く。
「先日の戦いが終わった後、私はすぐにレルード陛下に向け、今回の戦いの経緯を記した書状を早馬で送りました。そして、ほんの数日前に戻って来た使者が手にしていたのが、このレルード陛下の返事の書かれた書状です」
 サレファはそう説明すると、机の上に置かれた書状の紙を示す。
「そこには、このような事が書かれてありました。シーナ王国の隣国であるロロニア帝国――その皇帝であるガルダン・シャトナーが、ちょうどティリアムさん達が神殿に着いた前日に、何者かに暗殺された、と」
「……何ですって?」
 思いもよらぬ話に、ティリアムは目を見開く。
 隣に立つオーシャは、ただ困惑した様子で目をしばたたかせていた。
「一体、誰がそんな事……」
「仮にも友好的とは言い難い国での事ですし、そもそもこの情報自体、国境付近の人間を除けば、シーナ国内では、まだ一部の者しか知らぬものです。故に、まだ確かと言えるかはわからないのですが……」
「何か問題が?」
「……はい。どうやら、皇帝を暗殺した者達は、背中に翼を持つ二人組みであったらしいと――書状にはそう書かれていました」
「え……それって……」
「《デンメルング》の《模倣者》イミタツィオンか……」
 オーシャが呻き、ティリアムが険しい声音で、その答えを口にする。
 サレファは頷き、さらに言う。
「しかも、その二人組みは、皇帝が所持する国宝である宝珠を奪っていったようなのです」
「――それは、まず間違いなく《聖器》の一つですね。おそらくは、皇帝の暗殺はそれを奪取するために、ついでに為されただけでしょう。《聖器》の確保という目的でもなければ、そんな目立つような動きを《デンメルング》がするとも思えませんから」
 そう口にしたマリアの声音は、確信に満ちていた。
 サレファが無念の表情で固く目を閉じる。
「やはり、そうですか……」
「つまり、《デンメルング》は、もう世界破壊に必要な三つの《聖器》を手にしてしまったんだな」
 ティリアムは歯噛みする。
 ある程度、予想は出来た事ではある。しかし、現実としてその事を聞かされると、やはり平然とはしていられなかった。
「後は……私の《白光の翼》だけ……」
 オーシャは、《翼石》フリューゲルの埋まっている胸をそっと掌で抑える。そこに眠るのは、女神と呼ばれた《神族》の女――イヴァルナの魔力と魂だ。
「本当に、次の戦いの結果が、この世界の行く末を決める事になりそうですね……」
 マリアが重々しく呟く。
 暗い沈黙が落ちそうになり――それを遮って、サレファが言った。
「――それと、書状には、皆さんへのレルード陛下からの言伝も書かれていました」
「レルードから?」
「はい。今、それを読み上げます」


 ――やあ、ティリアム。それに、オーシャ、マリア。
 元気にしているかい?
 フェイナーン神殿での聖杯を守るための戦い、本当にご苦労だった。
 残念ながら、聖杯は奪われてしまったようだけれど、君達が無事であっただけでも、僥倖だろう。
 そして、どうやら、僕達の方も、あまり楽しい状況ではなくなってしまったようだ。

 ……現在、ロロニア帝国は穏健派の筆頭で、皇帝でもあったガルダンが暗殺された事を機に、ガルダンの叔父であると同時に、強硬派を率いるザーセム・シャトナーが蜂起し、内乱状態にある。もしも強硬派がこの内乱に勝利するような事があれば、彼らは我が国への侵略のために再び軍備を整え、そのまま攻めてくる公算が高い。故に僕達も、その最悪の状況になった場合の備えを始めようとしている所だ。
 仮にも、世界の危機が迫っている状況だというのに、人間達の間で、こんな愚かな争いをしている事は、本当に申し訳なく思う。だけど、僕は国王という立場にいる人間であり、シーナ王国と、そこに暮らす民を守る義務と責任がある。世界を救っても、その後、国の安全を脅かされては何にもならないんだ。
 だから、身勝手だという事はわかっているけれど――《デンメルング》の事は君達の手に委ねたいと思う。……とは言っても、宗主の話によれば、どのみち僕達にはできる事は何もないようだけれどね。全く情けない話だ。だけど、現実がそうだというのなら、僕はそれを受け入れるだけだ。

 ――最後に。
 僕達は、君達の帰るべき場所を守ろう。
 君達は、僕達の生きるべき世界を守って欲しい――いや……そんな大層な目的はいらないな。君達は、君達の戦うべき理由に従って戦い、そして、必ず生きて帰ってきてくれれば良い。
 僕は、君達を――信じる。
 勝ってくれ。

  シーナ王国 国王 レルード・ヴェルアン


「……以上です」
 レルードからの言伝を聞いたティリアムは、苦笑を浮かべる。
「信じる……か。あいつらしくない殊勝な台詞じゃないか」
 どこか嬉しそうなオーシャは、くすりと笑う。
「でも、陛下は、きっと私達の事心から信じて、任せてくれているんだよ。期待に応えないと」
「そうですね。責任重大です」
 マリアが笑顔で言った。
 ティリアムは肩を竦めると、改めてサレファ達へと向き直る。
「それでは宗主、いろいろとありがとうございました。……俺達は、もうここを離れます」
「はい」
 サレファは、真っ直ぐとティリアムを見つめ返した。
「最後に、私からも言わせてください。――皆さんの戦いは、確かにこの世界の存亡を懸けたもの。ですが……人は、世界の為などという大きな理由のために命を懸ける事など出来ないと私は思っています。だから、レルード陛下も仰ったように、皆さんは皆さんの守りたいと望むもののために戦い――必ず無事に戻って来てください。そして、危機より救われた世界で、また共に生きましょう」
 次に、今まで黙っていたリラとロウが口を開く。
「本当ならば共に生きたいぐらいの気持ちなのですが……皆さんの足手まといにはなりたくはありませんから――だから、私はここで皆さんを信じて、宗主様や皆と共に待っています。絶対に……死なないでくださいね」
「なんか結局、先日の戦いでも、俺達はあんまりたいした事は出来ませんでしたけど――でも、だからこそ、せめて皆さんの勝利を信じてます。世界が救われたら、ここが聖地で神殿だからなんて堅い事は抜きにして、皆で飲んで食って騒ぎましょう!」
「ああ、ありがとう……本当に」
 ティリアムは微笑と共に、力強く頷いた。
 そして、オーシャ、マリアと共に、サレファ達の信頼に満ちた眼差しを背に執務室を後にした。
 

 神殿を出る途中の廊下でも、事情に通じた高位の神官や騎士が、ティリアム達の姿を見かける度に頭を下げてくれた。それぞれが皆、信頼して送り出してくれたサレファ達と同じ顔つきをしていた。
 そのまま神殿の外に出ると、眩しい夏の陽射しと蒸し暑い熱気が三人を出迎える。
 ふと人の気配を感じて横に目を向けると、入り口の脇の陰にファルシアとジョンが立っていた。
 二人は、ティリアム達の姿に気づくと、ゆっくりと歩み寄ってくる。
「……行くのね」
「ついに最後の戦いってやつか」
「ああ」
 ティリアムは頷く。
 ジョンが悔しそうな顔で腕を組む。
「本当なら、ついて行きたいんだけどな。だが、どうやらアダムスタは、もう俺達が手を貸してどうにかなる次元の相手じゃないみたいだし、ここはおとなしく待ってるしかなさそうだ」
 フォルシアは、どこか以前よりも柔らかさを感じさせる眼差しでティリアムを見据えた。
「オーシャやマリアもいるんだし、負けたら世界が滅ぶんだから、きっちり勝ってきなさい。勝手に死なれたら、夢見が悪いしね」
「……相変わらずきついな、お前は」
 発言だけは今まで通りである事に、ティリアムは思わず苦笑いをする。そして、一転、表情を引き締めた。
「月並みだけど――お前達の分まで戦って、必ず勝って帰って来てやるさ」
「信じて待っていてください」
 オーシャの言葉に、ジョンとフォルシアは揃って頷く。
「ティル」
「? なんだ?」
 不意に、ジョンに名を呼ばれ、ティリアムは怪訝な表情を向ける。
 すると、ジョンは何かを指で弾いてよこした。
 ティリアムは、それを空中で掴むと、掌に乗ったそれを確かめる。
「これは……弾丸か?」
 そこあったのは、一個の古びた銃の弾丸だった。どうやら火薬も抜かれているようで、少し軽い。
「お守りみたいなもんだ。持っとけ」
 ジョンはそう言うとにやりと笑い、片目を閉じる。
 ティリアムは微笑むと、弾丸を握った拳を掲げた。
「ああ、預かっとく。帰ってきたら返すよ」
「いや」
 ジョンは否定して、頭を振る。
「それは、お前が持っておくべきモンだよ。返す必要はないぞ」
「? ……よくわからないけど――まあ、そういう事なら、ありがたくもらっとくさ」
 どこか普段とは違う真剣味に満ちた口調のジョンに、ティリアムは首を傾げつつも、弾丸を懐にしまい込む。
 それを確認してから、ジョンは、いつものように遠慮なくティリアムの背中を叩いた。その後に、フォルシアの冷静な声が続く。
「んじゃ、行ってこい! なあに、お前らならやれるさ」
「――決着をつけてきなさい」
 三人は決意と覚悟に満ちた顔で頷く。
「ああ――!」
「必ず勝って帰ってきます!」
「行ってきますね!」
 そして、ジョンとフォルシアの二人に背を向け、再び歩き出す。
 視線の先には――
 あの日から、変わる事なく、その偉容を見せつける巨大な《陽炎の森》があったのだった。


 ティリアム達がレレナを発ったのと、ほぼ同時刻。
 シーナ王国の王城。
 国王であるレルードは、外に面した城のテラスで、将軍であるジョアンと共に風に当たっていた。眼下に広がる王都は、迫る戦乱と世界の危機など嘘のように、夏の青い空の下、普段通りの平和な姿を見せている。
「今頃、ティリアム達は、最後の戦いに向かおうとしている所かな……」
 滑らかな金の髪を風で揺らしながら、レルードが独り言のように呟く。
「そうかもしれませんな」
 久しく会っていない青年らの顔を思い出したのか、老齢の将軍の顔に、懐かしむような微笑が浮かぶ。
「……僕はね、ジョアン」
 レルードは、少し憔悴したように見える表情で口を開いた。
「君も知っているとは思うけれど……僕が国王の椅子に座ってすぐの頃からずっと、ガルダンとは密に手紙を交わしていたんだ。彼は心から大陸の平和を望み、僕もそれに共感した。表向きは敵対国で、しかも向こうには強硬派の動きもあったから、決して公には出来なかったし、実際に会う事なんて一度もなかったけれど……僕は彼の事を信じるに足る友人だと思っていたよ。ガルダンの方も、そう思ってくれていたと信じている」
「……はい」
「でも、今――あれほど平和を望んだガルダンは死に、大陸では再び大きな戦乱が起きようとしている。そして……その裏では、悪魔アダムスタに加担し、世界破壊を望む連中までいるんだ」
 レルードは、どこまでも続く蒼穹を見つめ、自嘲気味に笑んだ。
「掴めるはずだった平和を自らの手で壊し、世界そのものすら壊そうとしている。人は――僕達は、一体、どこに進もうとしているんだろうね……ときどきわからなくなるよ」
「それは誰にも――例え神であろうとも決してわからぬ事でしょう。結局、未来は人自身が選び、そして、人自身が作っていくものです。だからこそ、間違った方向に向かおうとしても、我々自身の手で正す事も出来るはず――少なくとも私は、そう信じています」
 ジョアンは生きた年月の長さを感じさせる達観した言葉に口にする。
 目を閉じると、レルードは口元に笑みを刻んだ。
「……そうだね。ガルダンのためにも……僕らの望む未来のためにも、僕は僕に出来る事をしよう。だから――」
 再び目を開き、天を仰ぐと、戦いに臨もうとしているだろう青年に向け祈るように願う。
「――頼むよ、ティリアム。人の未来を、ここで終わらせないでくれ」
 書状では伝え切れなかった想いを込めた呟きは。
 夏の風に乗って、どこまでも遠くへと流れていった。


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