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エンジェル 四章

覚醒


―― 八 ――

 マリアは呆然と、その白き光を纏う少女を見つめていた。
 知っていた。
 彼女は、オーシャが、ゴードンの一撃を避けた際に使った魔法を知っていたのだ。
 あれは――
「ぬんっ!」
 早くも驚愕から抜け出したゴードンが動いた。
 振り返りざまに振るわれた手刀――その先より放たれたのは横薙ぎの風刃。
 それは、途中で無数に分裂すると、光の少女を覆うように襲い掛かる。
 逃げ道はない。
 白き翼が美しく輝いた。
 瞬間。
 オーシャの身体は光そのものとなり、風の刃は何も捉えられずに空を裂く。
 光が疾った。
 ゴードンの眼前。
 再び、構築される少女の身体。
 同時に、光を宿した掌を突き出す。
「ぐっ!?」
 魔法の力も付加された一撃は、ゴードンが咄嗟に張った風の防御をも突き破り、岩の如き体躯を打ち抜く!
 初めて届いた少女の攻撃は、ゴードンを後方に大きく吹き飛ばしていた。
 マリアは自身の記憶を蘇らせる。
 今、オーシャの用いた魔法――あれは《閃》リヒトと呼ばれるものだ。
 七百年前、まだマリアが肉体を持ち、《白光の翼》の持ち主であった頃――彼女が独自に編み出した高速移動魔法。
 自身の肉体そのものを光とする事で、眼にも留まらぬ速度での移動を可能とし、同時に移動中の敵からの攻撃は一切無効化される。長距離移動こそ敵わないが、戦闘において、凄まじい効果を発揮する魔法だった。
 そして、だからこそ、その習得は困難かつ危険を伴った。
 下手すれば光と化した肉体は、元に戻れぬまま霧散する可能性すらあるのだ。
 故に、身体能力の不足を補うのに最も適した魔法でありながらも、オーシャは、今まで使用する事が出来なかった。
 しかし、今。
 彼女は、それを用い、ゴードンに攻撃を加えた。
 さらに、ひしひしと感じ取れる、全身から満ち溢れた自信。
 マリアは、理解する。
「オーシャ……私の戦いの記憶と知識、ついに我が物にしたんですね」
 それは、つまり――
 
 オーシャ・ヴァレンタインは《白光の翼》の全てを理解し、一人の戦士としての完成に至ったという事であった。

 ゴードンが立ち上がった。
 口の端を伝った血を、棍を持たぬ方の手で拭う。
 ほぼ無防備で強烈な一撃を受けたのだ。
 ダメージは決して少なくないだろうが、戦士としての矜持か、表情からはそれは見て取れない。
 だが、その代わりにオーシャに対する戦慄に近いものが浮かんでいる。
「……ここに来て、さらなる力を引き出したか。おそらくは魔導人間故のものだろうが――正直、見くびっていた」
 ゴードンの推測は正しかった。
 短期間でのオーシャの戦士としての成長の早さは、彼女が魔導人間であるという事実から切っては話せない。
 生まれて二年ほどしか経たないオーシャは、肉体的にも、精神的にも、未だまっさらに近いのだ。
 そう。
 まだ生まれて間もない赤子のように。
 故に、新しいものに対する吸収度は――魔導人間であるため、特に魔法的な技術は――普通の人間に比べて恐ろしく早い。そして、その吸収速度があったからこそ、他人のものであるマリアの記憶と知識さえも、今、完全に自らのモノにする事が出来た。
 今回、オーシャをゴードンと戦わせたのも、その部分に賭けた所も多分にあったのである。
 結果、オーシャは死を目前にした事で、さらなる成長を見せた。
 ゴードンが構える。
 淀みないその動きには、ダメージの影響は見られない。
「だが、それだけで勝てるほど我は甘くないぞ、ヴァレンタイン!」
「それでも――私は勝つ!」
 力強く口にしたオーシャは、《リヒト》を発動。
 再度、光と化して、ゴードンへと迫る。
 移動場所は、背後。
 人間の反射速度では、目で見てから反応しても、まず対処は間に合わない。
 しかし。
 光から構築されたオーシャの頬を棍の突きが薄く裂いた。
 おそらくは、熟練の戦士としての経験と勘――それだけでゴードンは、オーシャの動きを予測してみせたのだ。
 だが、オーシャも以前とは違う。
 移動した瞬間に放った蹴りが、ゴードンの脇を掠めている。
 両者が飛び離れた。
 そして、同時に風刃と閃光を放つ。
 激突、爆裂。
 それに紛れて、オーシャが《リヒト》で再接近を試み、ゴードンもまたそれを予測して、迎え撃つ。
 両者の戦いは互角――いや、僅かにオーシャが押されていた。
 やはり長い時間をかけ鍛え上げられた戦士とそうでない者の差は、容易くは埋めきれない。
 接戦の中、避け切れなかった棍の一撃を受け、オーシャが後方に吹っ飛ばされる。
「今度こそ、これで最後だ!」
 ゴードンが吼えた。
 棍の先を真っ直ぐと倒れたオーシャへ向け、そのまま突進する。
 合わせて、背中の《緑風の翼》が発光。
 棍だけではなく、その全身を風が取り巻いていく。
 ゴードンは、その巨躯を竜巻そのものへと変えていた。
「――ハクト!」
 オーシャは素早く立ち上がると、傷ついた《ガイスト》を呼ばう。
 ハクトは主の考えを察し小さく頷くと、その身を光の粒子へと変える。光は、前へと突き出したオーシャの右手へと宿る。
 曲げられた指の形は、どこか虎の顎に似ていた。
 オーシャは恐れなかった。
 足元を砕き、周囲のものを吹き飛ばしながら突き進んで来る竜巻へ向け、迷う事なく駆け出し、
「あああああああっ!!!!」
 渾身の力を込めて、その白虎の牙を豪風の渦に向けて突き出した。
 聖地に響き渡る轟音。
 二つの強力な力のぶつかり合いに、凄まじい衝撃波が発生する。
 これに、《デモン・ティーア》も周囲で戦っていた者達も思わず戦いの手を止める。
 そんな中、マリアは身じろぎ一つせず、この激突を見守っていた。
 オーシャの勝利だけを信じて。
 巻き上がっていた粉塵が少しずつ晴れていき、両者の姿が明らかになる。
 二人は、抉れた地面の中心で向き合うように佇んでいた。
 一人の身体が傾ぐ。
 そして、そのまま背中から崩れ落ちた。

 倒れたのは――ゴードンであった。

 
 横たわるゴードンは、どこか達観した笑みを浮かべていた。
「……完敗、だな……やはり前だけ見ているものとそうでない者……最後の最後に……その差が明暗を分けたようだ……」
「ゴードン……」
 荒い息を吐きながら、オーシャは強敵だった男を見下ろす。
「最後に……一つだけ訊かせて。貴方はマッドや他の《イミタツィオン》とは違った。間違いなく誇り高い戦士だった。そんな貴方が、なぜ、《デンメルング》の世界破壊なんかに手を貸したの――?」
「誇り、高い戦士、か……」
 ゴードンが自嘲の笑みを見せた。
 すでに背中の翼は消え去り、四肢からも力が抜けている。
 死が近い。
「真に我がそんな男であったなら、この場所に、こんな形で立つ事もなかったであろうにな……」
「…………」
 終わりを間近にした男は、過去を思い返して目を閉じる。
「知りたいと言うのならば語ろう。愚かで哀れな男の過去を……な」


 ゴードン・クーラスは、かつて一人の友と共に、ロロニア帝国の騎士を目指していた。
 しかし、貧しい平民の出自であったゴードン達にとって、貴族至上主義である帝国でそこに至るまでの道のりは決して平坦ではなかった。
 向けられる偏見の白い目。
 いわれなき差別。
 陰湿な嫌がらせによる耐え難い屈辱。
 味わった辛苦の数々は筆舌にし難かった。
 それらを固き意志と決意、友との絆で乗り越え、ゴートン達はついに騎士となり、皇帝に目をかけられるまでになった。
 そして、時は過ぎ、ある日、ゴードンは皇帝直属である近衛騎士の団長に任命されたのだ。
 ゴードンはこれに驚喜した。
 ついに平民の出自という枷から抜け出し、自分は――いや、自分達は大きな成功を収めたのだと思った。
 きっとここまで共に歩んできた友も、心から喜び祝福してくれるだろうと信じて疑わなかった。

 だが――

 ゴードンを待っていたのは、皇帝暗殺を企てたという身に覚えのない疑い。
 皇帝にそれを進言したのは、心より信頼し合っていたはずの友。
 ろくな裁判も行われずに、全く記憶にない証拠によって、ゴードンは暗殺未遂犯として断定された。

 ……友の裏切り。

 何故だ? 
 どうして、そんな事を? 
 友であるはずのお前が?
 胸中で渦巻き続ける疑問。
 その答えが、自分を置いて、上に行こうとしたゴードンへの嫉妬だったなど、彼には思いもよらなかった。
 友は、ゴードンが思っているよりも少し平凡で、弱くて、当たり前な人間だった。胸に生まれた嫉妬の思いに負けて友を裏切ってしまうような、そんな愚かで滑稽な人間だったのだ。
 ゴードンが、少しだけ特別で。
 その友が、少しだけ弱かった。
 ただ、それだけの話。
 この世界で、どこにでもあるような悲劇。
 皇帝の暗殺未遂犯とされた以上、ゴードンを待っているのは死刑という結末のみだった。
 信じていた友に裏切られ、騎士という立場から墜ち、生きる意味を見失った男に、それに抗う意思などありはしなかった。
 抜け殻のように、ただその日が訪れるのを待つだけ。
 しかし、彼を救い出された。
 一人の男によって。
 男は、自分はかつての《ヴェルト・ケーニヒ》であり、今はエリック・カールソンという仮の名を名乗っていると語った。
 そして、さらにゴードンに向けて手を差し出し、こう言ったのだ。

 虚偽と憎悪に満ちた、この世界を壊してみないか?

 と。
 ゴードンは、差し出された手を迷わず取った。
 友が憎かったからじゃない。
 世界が憎かったからじゃない。
 ただ。
 これまで鍛え抜き、積み上げてきた自身の力。
 今、唯一、彼に残されたモノであるそれが、ただ無意味なもので終わる事が耐えられなかった。
 どんなに間違っていても、どんなに滑稽でも、どんなに愚かでも――何か意味があったのだと……そう信じたかったのだ。
 だから。

 ゴードン・クラースは世界を壊すために、《イミタツィオン》となった。


 ゴードンの過去を聞かされても、オーシャは肯定も肯定も口にする事は出来なかった。
 オーシャとて、もし、あのスラムの街で手を差し出してくれたのがティリアムでなかったなら、今、どんな立場であったかなどわかりはしない。
 あるいは、再び《デンメルング》の下へと戻り、世界破壊に手を貸していたかもしれないのだ。
「……我は結局、抜け殻のままだったのだ。心から望まぬ事にその力を使った所で、本当の意味で満たされる事など有り得ない。だが、それでも――我はかつて騎士だった者として、誰かのために生き、そして、その戦いの中で死にたかった……」
「……ゴードン」
 オーシャは、かつては本当の父のように慕い、そして、今は倒すべき敵となった男の顔を思い浮かべる。本人の望まぬものだったとしても、エリックは間違いなく、ゴードンに再び生きる目的を与えたのだ。
 それが世界破壊のために戦うという、許されざるものだとしても。
 ゴードンは穏やかな瞳で、オーシャを見据え言った。
「こんな事を言える立場でないだろうが――礼を言う、ヴァレンタイン。お前との戦い、生涯最後のものとして申し分なかった……」
 オーシャは、ゴードンの眼差しを見返す。
「……ゴードン、貴方は間違いなく誇り高い、尊敬すべき騎士だった。だから、私、忘れない。貴方の事を。貴方との戦いを――決して忘れない」
「そうか……。ありがとう」
 少女の真っ直ぐな台詞に、ゴードンはどこか眩しそうに目を細めた。
 そして、大きく息を吐く。
 急速に、その身体から生気が失われていく。
 そのまま、ゆっくりと瞼を閉じ、ゴードンは最期にこう口にした。

「……エリック様……申し訳、ありま、せん……先に逝、きま……す……」

 そうして。
 真の騎士だった男は事切れた。
 主だった男への謝罪と別れの言葉を残して。
 そして、屍となったその身体が僅かに発光したかと思えば、胸の上に半透明の小さな宝石が構築される。
 《フリューゲル》だ。
 宿主の命が絶えた事で、再び、物質化したのだろう。
 オーシャは身を屈めて薄緑色に輝くそれを拾い上げると、顔を歪め、拳を固く握る。
 初めて一人で戦い抜き――そして、初めてその手で人を殺めたのだ。
 その事が、オーシャの心に重くのしかかる。
「オーシャ……」
 背後からマリアが気遣った声をかける。
 だけど、オーシャは頭を振った。
「大丈夫だよ、マリア」
 毅然と口にする。
「戦いで誰かの命を奪うという事は、その人の命を背負うという事――それを後悔してしまったら、失われていった命を穢してしまう。だから、私は後悔だけは絶対にしない。そう、決めたから――大丈夫だよ」
 少女の言葉に、マリアは驚きに目を見張り、その後、優しく微笑んだ。
「……そうですね。もうあなたは守られるだけの女の子じゃないですものね……」
 オーシャは頷き、自らの手で倒した男に背を向ける。
「――行こう、マリア!」
「ええ!」
 二人は歩き出す。
 決して振り返る事なく。
 まだ――戦いは続いている。


「殺す前に一つ訊いておく」
 ゆっくりと歩みながら、《デモン》となったティリアムが問う。
 動く度に全身を激痛が走り抜けていた。
 だが、まったく意に介さない。
 今のティリアムは、完全に精神が肉体を凌駕しているのだ。
「なぜ、ウェインを殺した?」
 この問いに、サレファが息を飲む。
 《デモン・ティーア》化し、黒く染まった面をマッドが笑みで歪めた。
「簡単な理由だよ。当時、まだ《デンメルング》にこそ属していなかった私だが、究極の生命体に関する研究自体は、すでに始めていた。そして、あの日、研究のための素材が不足したため、あの街で適当な人間を見繕っては攫っていたのさ。その際、邪魔に入ってきたのが、ウェイン・ロダンだった」
「…………」
「なかなか手強い男だったが――攫った人間を盾にしたら、あっさり動けなくなってね。始末するのに、さほど手間はかからなかったよ」
「――外道め」
 リラが怒りに肩を震わせながら、吐き捨てる。
 その両腕は、兄の死の真相を知って顔を青ざめさせる少女を抱きしめていた。
 マッドは罪の意識など微塵も見せず、肩をすくめる。
「彼が《デモン》という男の相棒だったという事実は知ったのはその後だったが……私が《デンメルング》に入ってから、君が我々に牙を剥いたと聞いたときは、妙な因縁を感じたものだよ。これも巡り合わせかな、ウォーレンス?」
「――もう良い」
 ティリアムは、マッドの軽口を遮断した。
 その双眸は、燃えたぎる殺意によって爛々と輝いている。
「さっさと死ね」
 一言。
 ひゅっと息を吐くと、地を蹴った。
 跳躍し、落下の勢いを乗せた振り下ろしの一撃をマッドへと送り込む。
「無駄だよ」
 マッドは頭の上で両腕を交差させ、余裕を持ってそれを受け止めた。
 衝撃でその足元が陥没する。
「強化された私の皮膚の前では、どんな攻撃も無意味だ」
「だったら、死ぬまで斬り続けてやる」
 着地したティリアムは一足でマッドの懐に飛び込むと、無防備な腹部に横薙ぎの一撃を叩き込んだ。
 常人なら間違いなく身体を横に両断されていただろう。
 しかし、刃は通らない。
「だから、無……」
 マッドの嘲笑を含んだ台詞はそこで途絶え、両目が大きく見開かれる。
 突然。
 ティリアムの速力が格段に増したのだ。
 斬撃の嵐が怒涛の勢いで打ち込まれ、その度にマッドの身体が震え、後方にずれていく。
 しかも、一撃ごとに斬撃の重さが増していっていた。
 マッドは、もはや回避も反撃もする暇がない。
 最初こそ強固な皮膚を前に傷一つつけられなかったが、ある一撃を境に状況は一変する。
 初めは小さな亀裂――だが、それは斬撃の回数が増えるたびに確かな傷となって、マッドの肉体に刻まれていく。
 黙々と。
 激烈に。
 殺意以外の一切の感情を排除して。
 ティリアムは、ただ一つの事に集中していた。
 すなわち。
 目の前の男を殺戮する事に。
 まさに《デモン》と呼ばれるにふさわしい姿だった。
 いつしかマッドは壁際にまで追い込まれ、刃が叩き込まれる度に、鮮血と共に背後の壁にめり込まされていく。
 不意に。
 ティリアムの身体が後方に弾き飛ばされた。
 身体を空中で捻り、何事もなかったように着地する。
 マッドがほんの一瞬の隙を逃さず、反撃したのだ。
 ゆっくりと半分ほど壁に埋まった身体を抜き出すと、マッドは戦慄するでもなく、驚愕するでもなく――楽しそうに嗤った。
「素晴らしいね。どうやら《デモン》化というのは、術者の精神状態によって、効果が大きく左右されるようだ。全く興味深い」
 言いながら、こきこきと肩を鳴らす。
 全身に刻まれた傷は、少しずつだが確実に塞がり始めていた。どうやらゲイリーほどのものではないが、再生能力も備えているらしい。
「だがね。致命的な一撃を決めないと、今の私は殺せないよ」
 今度は、マッドが跳躍する。
 そして、さっきのお返しと言わんばかりに、上空からティリアムに向けて拳を振り下ろした。
 同時に、背中の翼が発光――強力な重力が付加される。
 途端、拳の勢いは急激に上昇した。
 爆砕。
 サレファとリラが悲鳴を上げながら、身を伏せる。
 拳が打ち込まれた部分を中心に床に無数の亀裂が走り、広がる余波は宗主の間全体を揺らした。
「どうだい? この強靭な肉体があるからこその攻撃方法なんだがね」
 ばらばらと天井の破片が降り落ちる中、マッドが背後を振り返り、問い掛ける。
 視線の先には攻撃を回避したものの、全身に裂傷を負ったティリアムが立っていた。直撃は避けられたが、その余波だけダメージを受けたのだ。
 ティリアムはマッドの問いと傷の痛みを無視して、再度、攻撃を仕掛ける。
 さらに重みを増した斬撃を、マッドは右腕を差し出して受け止めた。
 刃は、腕の半ばまで食い込み、そこで勢いは殺される。
「残念」
 逆の黒腕が動きの止まったティリアムを襲う。
 ティリアムはそれを跳躍して回避。
 さらに腕に刺さった大剣を支点に回転、マッドの頭上を飛び越え、剣を引き抜きつつ、後方に着地する。
 そこを襲う重力場。
 横っ跳びして、紙一重で避ける。
 だが、それを読んでいたマッドが眼前に出現。
 腹部を拳で穿たれ、後方に飛びながら肺の空気と鮮血を口から吐き出し、背中から壁に激突する。
 ほう、とマッドは感心した声を漏らした。
「さらに速く、そして、攻撃が重くなったね。だが、それだけだ」
 切断されかけた腕を再生しながら、余裕を含んだ口調で言う。
 ティリアムは壁から背を離すと、口元の血を手の甲で拭った。
 そして、流れ落ち足元に溜まる血など気にも留めず、腰を落として大剣を構える。
「……お前は言ったな。致命的な一撃を決めないと自分は殺せないと」
 言葉と共に、刃が紅き光で彩られていく。
 必滅の光――《紅》くれないだ。
「なら、これで消えろ」
 大剣が迷いなく振るわれ、紅き閃光が疾った。
「なるほど、《紅》か……だがね」
 マッドは自分を目指してくる《紅》に掌を向けた。
 翼が輝く。
「どんな魔法であれ、弱点はあるものだよ」
 《紅》の突き進む軌道上に重力場が発生。
 滅する力と押し潰す力が激突し、《紅》は音もなく相殺され、消滅する。
 ティリアムが眉をひそめた。
 初めて《紅》が正面から完璧に防がれたのだ。
 マッドが満足気に微笑む。
「確かに《紅》はあらゆるものを完璧に滅する強力な魔法だ。しかし、それは生みだされたモノと同質量までしか消し去る事は出来ない。さらに言えば、《紅》の発動には極度の集中力が必要なため、長い溜めが必要だ――故に、その特性さえ理解していれば、防ぐ事は比較的、容易いのさ」
 持ち上げられた人差し指が、己のこめかみをとんとんと叩く。
「これで君の力では、私に致命傷を負わせる事が不可能なのが理解出来たかな。つまり君に勝ち目はないという事が」
「いいや」
 ティリアムは否定する。
 身体の奥から湧き上がってくるさらなる力を感じながら、言った。
「《紅》が駄目なら、普通に殺せばいいだけだ」
 刹那。
 《デモン》の姿が消失する。
「なっ――」
 次の瞬間には、マッドの右腕が鮮血の糸を引きながら宙を舞っていた。
 ティリアムの姿は、すでにマッドの脇に在る。
 サレファ達は、何が起きたのか全く理解できないのか、ただ呆然としていた。
「なんだ、この――」
 初めて動揺を見せたマッドがその場を跳び退こうとするが、ティリアムは逃さない。
 高速で跳ね上がった刃が、今度は脇下から黒い左腕を斬り落とす。
 マッドは両腕という多大な犠牲を払って、ようやく間合いを広げる。
「くっ! これほどとは――!」
 腕の切断面から滝のように血を流しながら、マッドが呻く。
 苦痛こそ薄いようだが、顔には焦りが浮かび上がっている。
「たいした究極の生命体だな、マッド」
 ティリアムが血に濡れた大剣を手に、無表情のまま皮肉を口にする。
 ここにきて、ティリアムの戦闘力は、完全に《デモン・ティーア》化したマッドのそれを凌駕していた。極限にまで研ぎ澄まされた斬撃は、もはや彼の強固な皮膚などものともしない。
 ゲイリーとの戦闘以来、《デモン》化の力は限界など忘れたように、ティリアムに強大な力を与え続けている。
 だが、その原因など今はどうでもいい。
 今はすべき事は、許す事など決して出来ぬこの男を殺す事だけ。
 不意に。
 マッドが焦りを消して、哄笑した。
「エリックと出会ったとき以来だよ。私が、誰かに対し恐怖を覚えるなどという事は。君は、私の想像を超えた恐ろしい男のようだ」
「だったらどうした」
「ああ、なに……難しい話じゃない。つまりは――」
 マッドが足の裏で、床を叩いた。
「それでも私の勝ちは揺るがないという事だ」
 突然だった。
 何の前触れもなく、神殿全体が鳴動し始める。
「じ、地震!?」
「い、いえ、これは――足元に何かが!」
 リラが叫んだ。
 皆の視線が床に向く。
 そこには――

 光り輝く巨大な魔法陣があったのだ。


「……何をした?」
 ティリアムが鋭く問うた。
 足元に浮かび上がった複雑な紋様で構成された魔法陣は、この場で確認できるのは、ほんの一部分だけだ。おそらくは、神殿全体の床に広がっているのだろう。
 マッドは、勝利を確信した笑みを浮かべる。
「最初の襲撃に使った《デモン・ティーア》だがね。あれには、全ての血液内に特殊な魔法液が混ぜてあったのさ。君達との戦いの際に神殿の床に染み込んだそれは、二日ほどかけて、決まった範囲内で指定された魔法陣の形を自動的に構成した」
 リラが驚愕に呻く。
「じゃあ、最初の襲撃はそのために――!」
「そういう事だ。君達は自ら、この魔法陣を生み出す手伝いをしてくれたというわけだよ」
「……この魔法陣は、一体、何を引き起こすのです」
 兄の死の真相を知ったショックを押し隠し、サレファが気丈に問う。
 マッドは肩を竦めた。
「なに、そんな大層な事は出来ないさ。この神殿を支える三つの巨大な柱――それを破壊するだけだ」
「馬鹿な――! そんな事をすれば!」
 サレファが顔を強張らせ、掌で口を押さえる。
 マッドが嗤う。
「ああ、このフェイナーン神殿は完全に崩壊するだろうね」
 要するに、この男は、初めからまともにティリアム達の相手などする気はなかったのだ。
 問題なく自分の手で邪魔者を始末でき、聖杯が手に入れば良し。
 それが無理ならば、全てを神殿ごと押し潰してしまおうと――そういう魂胆だったのだろう。
「崩壊まで、あと三十秒という所かな。外の連中も、すぐ傍の神殿が崩れ落ちれば、ほとんどが巻き込まれて助かるまいよ。私の方は、君達が死んでから、ゆっくりと聖杯の発掘作業にでも乗り出す事にしよう」
 マッドは自分の足元に、転移魔法陣を広げる。
「では、皆さん、御機嫌よう。仲良くあの世への旅路に出かけてくれ」
「させるか――」
 ティリアムがそれを止めようと一歩踏み出し――
 途端、視界が歪んだ。
 その場で身体を九の字に曲げ、何度も吐血する。
「っ……く……そっ……」
 限界だった。
 もとより、歩けるだけでも奇跡のような怪我なのだ。
 さらに凄まじい戦闘能力を引き出した反動が、ティリアムの肉体を襲っていた。
「さようなら、ウォーレンス」
 マッドが嘲笑と共に消えようとした、その瞬間。

 一条の光矢が疾った。

 転移魔法陣が貫かれ、マッドの転移魔法の発動が停止する。
「何!?」
「マッド! 貴方の好きにはさせない!」
 跳び込んで来たのは、光の弓を構えたオーシャだった。
 背後には、マリアも居る。
 神殿の異変に気づいて、駆けつけて来たのだろう。
「ちぃ! 邪魔を!」
 マッドが舌打ちし、再び転移しようする。
「……逃が、すかっ!!」
 ティリアムはいう事を利かない身体を叱咤し、立ち上がった。
 あの男を倒すチャンスは今しかない。
「動けぇっ!」
 咆哮し、全力で地面を蹴る。
 その瞬間。
 ティリアムは限界を打ち破り、マッドへ向けて、疾風となって駆けた。
「マッドォ――!!」
「――――っ!」
 斬撃は、マッドの首を真横に疾り抜けた。
 切り離された首が宙を舞い、床に落ちる。噴水のように血を噴き上げる身体は、ゆっくりと背中から倒れた。
「まだ魔法陣が!」
 リラが切迫した声音で叫ぶ。
 神殿の崩壊を招く魔法陣は、マッドが倒されても、未だ発動を停止しようとしていなかったのだ。
「……くそ!」
 《デモン》化が解け、床に両手を突いたティリアムはもう動けない。
 何より、この魔法陣を停止させる術などわからなかった。
 神殿を襲う揺れは、さらに激しくなっている。マッドとの戦闘により大きく損傷している宗主の間は、それだけで真っ先に崩れてもおかしくない。
 万事休すかと思われた、そのとき。
「我が手に!」
 オーシャがその手を上に掲げ、高らかに唱えた。
 白き翼より生まれた光が掲げた手の元に集い、一つの形を象る。
 《神槍》シュペーアだ。
 《白光の翼》の象徴たる槍の穂先を、オーシャは魔法陣へと突き立てる。
「穿て――!!」
 
 魔法陣と《シュペーア》。
 二つの激突により生まれた真っ白な光が宗主の間を一瞬で染め上げる!

 そして、それが収束した後。
 魔法陣は、槍の突き立った場所から、溶けるように消滅していった。同時に神殿の揺れも収まっていく。
 オーシャは大きく息を吐き、その場にへたり込む。
「お疲れ様、オーシャ……」
 労いの言葉をかけ、マリアは、少女の髪をそっと撫でた。
「……止まった、のか……?」
 ティリアムがどこか呆然と呟く。
 オーシャが疲労した面に微笑みを形作る。
「うん……一か八かだったけど……なんとか上手くいって良かった……」
「……そうか。助かったよ。オーシャ」
 そう口にしたティリアムには、もう《デモン》と呼ばれた男の面影はない。マッドの首を斬った瞬間に、《デモン》も、また死んだのだ。
 神殿の崩壊は免れた事を知って、サレファとリラも、ようやく安堵した表情を見せ――

 そこに低い笑い声が滑り込んできた。

「なっ……」
 ティリアムが弾かれたように、声の発生源に顔を向ける。
 視線の先にあるのは、床に転がったマッドの首だ。
 身体と切り離された状態でありながら、それでも彼は生きていたのだ。この異常な光景に、皆が息を呑む。
 マッドは、さすがに息も絶え絶えの様子で口を開いた。
「……どう、やら……最後の、最後に……詰めを誤ったようだ……私とした事が……とんだ……失態だよ……」
 ティリアムが嫌悪感に顔を歪める。
「――しぶとい奴だ」
「……おかげ、さまでね……だが、さすがに……もう、これで終わり、さ……どうだい……念願の、相棒の仇を、取った気分は……気分爽快、かな……それとも……虚しい、だけかな……」
「お前なんぞに教えてやるものか。そのまま無様に死んでろ」
 マッドがまた嗤う。
 だが、そこに、もはや生気も感じられない。
「……そう、かい……それじゃ、そろそろ、嫌われ者は……逝くと、しよう……」
 ああ、と息を漏らす。
「……これが……自身が死を迎える痛みと、絶望か……なかなか悪、く……な……」
 声が絶えた。
 こうして。
 自らの欲望のために、多くの死と絶望を撒き散らした狂気の男は絶命した。
 最期には、人間ですらなくなった姿で――。

 
 神殿の外では、未だ激しい戦いが続いていた。
 ジョンやフォルシア、さらに騎士達らの奮闘により、《デモン・ティーア》の群れは徐々に押し返されつつある。彼らは気づいていないが、《イミタツィオン》の二人が死んだため、操られていた《デモン・ティーア》の統制が失われつつあるのだ。
 副団長として騎士達を率いるロウは、自ら前線に立ち、必死の戦いを見せていた。
 迫ってきた土牙に渾身の力で剣を突き立て抉ると、一気に引き抜く。
 土牙が何度か痙攣した後、動かなくなったのを確認すると、ロウは大きく息をつき、背後に建つ神殿を振り返った。
 さっきまで異常な震動をしていたそれは、今は静寂を取り戻している。
(オーシャ様……上手くやったのかな……)
 《イミタツィオン》を一人倒し、神殿の異常に気づくと真っ先に飛び込んでいった少女の事を思う。
「……いや、今は皆を信じて、戦いに集中しないとな」
 そう自分に言い聞かせ、前方に向き直った。
 すると。
 《デモン・ティーア》の群れの中に見慣れぬ人影を見つけた。
 明らかに騎士や衛兵ではない。
 目を凝らしてみると、それはくたびれた長衣を纏った老人だった。
「! なんで、こんな所に!」
 街の人間には、今日は決して神殿に近づくなと御触れを出している。
 それがなくとも、常識的な感覚の持ち主なら、こんな戦場の中に近づこうなど普通は思わないだろう。
 ロウは慌てて、その老人の元に駆け寄る。
「ちょっと爺さん! ここは危ないから、早くこっちに――!」
 声を上げるが、その老人は聞こえていないのか、ロウの方――つまりは神殿に向けて、無言で歩を進めている。
 そして。
「……マッドとゴードンは死んだか。ならば、これらも、もう不要だな」
 老人は、そう言った。
 激しい戦闘音の中なのに、その声は、異常なほどはっきりとロウの耳に届いたのだ。
 瞬間――異変は起きた。
 凄まじい炎火が。
 巨大な氷柱が。
 吹き荒れる風刃が。
 突き上げる大地の槍が。
 荒れ狂う雷が。
 唐突に発現し、《デモン・ティーア》の群れを屠りだしたのだ。
 あっという間だった。
 数度、瞬きする間に、《デモン・ティーア》の群れは全滅した。
 誰もが、声もなく立ち尽くしていた。
 あまりに有り得ぬ。
 あまりに異常。
 あまりに人知を越える。
 それこそ、《デモン・ティーア》達が神の怒りでも買ったかのような光景だったのだ。
 老人が歩く。
 何事もなかったかのように。
 まるで街中をのんびりと散歩するかのような足取りで。
 ただ歩く。
 脇を通り過ぎていく彼を、ロウも誰も止められない。
 その双眸に、恐ろしく静謐で強靭な意志の光を見つけたからだ。
 まるで金縛りにあったかのように動けず、声も出せなかった。
 だから、止められない。
 老人の姿は、神殿の奥へとゆっくりと消えていった。

 ――この日。
 かつて自らが没した地に、破壊の悪魔は再来したのだった。


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