四章の八に続く 一覧に戻る 四章の六に戻る

 
エンジェル 四章

覚醒


―― 七 ――

 マッドは浮かべた笑みもそのままに、介入者の青年へと目を向けた。
「やあ、ティリアム・ウォーレンス。こうやって直接、顔を合わせるのは久々だね?」
 親しげに声を掛けてくるマッドを無視して、ティリアムは柱の影から進み出ると、リラの方へと歩み寄った。
「ティリアム様……なぜ、ここに?」
 一時の怒りから我に返ったリラは、呆然と問いかけていた。
 ティリアムは、すまなそうに眉根を下げる。
「この神殿に最初に来た日――聖杯の場所を訊いた時のサレファや周りの人間の態度がおかしいのがどうも気になったんだ。それで、話が終わった後、こっそりマリアにだけ宗主の間に残ってもらっていたんだよ」
「それじゃあ、私達の会話も……」
「ああ、聖杯の本当の在り処も最初から知ってた。……悪いな、盗み聞きするような事をして」
「いえ……」
 リラは、どこか安堵すら感じさせる笑みを口元に浮かべた。
「おかげで私は助かりましたから」
「……むしろ謝るべきは、私でしょう。神殿内での秘事とはいえ、皆さんにこの事を黙っておくように指示したのは私ですから」
 椅子から腰を上げたサレファが頭を下げようとするのを、ティリアムは穏やかな目でそれを制した。
「良いんです、宗主。聖杯を守るためにした事なんでしょう。その事を責める気なんて、俺達にはありません」
 そして、一転、視線を険しくしてマッドを睨みつける。
「それに、俺がここに来たのは……」
「――私を殺すためかな?」
 マッドが楽しそうに言葉を継いだ。
 彼は、この状況に至って、全く動揺を見せてはいない。
「よくわかったじゃないか、私が直接、ここに乗り込んでくると」
「お前という人間のやりそうな行動を考えれば、大体、予想はつく。馬鹿正直に真正面から突破してくる奴じゃないし、偽の聖杯の場所につられるような奴でもない。むしろ、そう見せかけて、必死に神殿を守る皆を嘲笑うように、こっそりと本陣に入り込んでくるだろうと踏んでいた。本物の聖杯の在り処を知った上でな」
「……なるほど。それで表の敵は他の仲間に任せて、自分は私を迎え撃つために、ここに潜んでいたわけか」
 マッドは心から感心した声音で言うと、手を叩いてみせる。
「素晴らしい……それでこそ、私も楽しめると言うものだ」
 ティリアムは手にした拳銃を腰のホルスターにしまうと、背負った大剣を手に取る。
「その様子だと、俺のこの行動も、お前の読み通りか?」
「ああ、可能性の範疇に入っていたさ。故に何の問題もない。私は、君達を殺し、聖杯を奪うだけだよ」
「やってみろ」
 吐き出される言葉と同時に、ティリアムは《デモン》化を発動。
 その双眸が、紅い光に彩られ、全身から強烈な殺気が吹き出す。それはマッドだけではなく、脇のリラやサレファすらも打ち据え、息を詰まらせた。
 しかし、マッドはそんな殺気を前にしても、悠然と佇んでいる。
「……ふむ、心地良い殺気だ。さあ、始めようか、ティリアム・ウォーレンス。殺し合いをね」
「ああ、死ね。お前がな」
 台詞は、そのまま後方に流れ、《デモン》は、狂気の科学者へと殺意の風となって襲い掛かった。

 
 神殿の外。
 放たれる銃弾と光の矢は、空を舞う《デモン・ティーア》達を次々と捉え、その身体を落としていっていた。その下では、騎士と衛兵達が、土牙を相手に決死の戦いを見せている。
 だが、それでも一向に空を覆う槍鳥の影も、足元を突き破って姿を見せる土牙の数も、減った気配は感じられない。
 ジョンは拳銃に次弾を装填しながら、舌打ちする。
「こりゃあ、キリがないな」
「でも、槍鳥の動きは牽制出来てます。なんとか踏ん張らないと」
 そう返したオーシャは、すかさず騎士の一人を頭上から襲おうとしていた槍鳥を一匹、射落とす。
「……戦況は今の所、五分ですか。ティルは上手くやっていますかね」
 どこか浮かない表情でマリアが呟く。
 自分が戦闘に参加出来ない身であり、皆と共に戦えないのが悔しいのだろう。
 オーシャは額を伝う汗を手の甲で拭うと、信頼の微笑みを見せた。
「大丈夫だよ、ティルなら」
「……そうですね」
 マリアも微笑して頷いた。
 そのとき。
 オーシャ達から、少し離れた場所で轟音と悲鳴が上がった。
「何!?」
 慌ててそちらに顔を向けると、自然のものとは思えぬ剛風が吹き荒れ、多くの騎士達がそれに巻き込まれて倒れていっていた。
「これは……」
 湧き上がる予感を証明するように、巻き起こる風の中心に一人の人物を見つける。
 鍛えあげられた巨躯を誇る男が一人、棍を片手に佇んでいたのだ。その背には、薄緑色の翼が浮かび上がっている。
 男が、大音声を上げた。
「我は《イミタツィオン》が一人、ゴードン・クラース! 我が風刃にて屍になる事を望まぬ者は、今すぐ戦場を去れ!」
 それに圧倒されるように、周囲の騎士達が後退る。
「おうおう……また豪快な《イミタツィオン》さんだな」
 ジョンがどこか感心したような言いながら、目も向けずに、また一匹の槍鳥を撃ち落としていた。
「……ジョンさん、すいません。後は頼みます」
 オーシャは、一層、緊張をはらんだ声で言った。
 ジョンはにやりと笑うと、少女の背を叩いた。
「気張って来い。死ぬなよ」
「――はい!」
 力強く返事をすると、オーシャは迷わずゴードンに向けて、一直線に駆け出す。その背の白き翼が輝くと同時に、三つの光輪が生まれ、ゴードンへ向けて飛んだ。
 しかし、ゴードンは脇から飛来したそれを棍一つで容易く叩き落した。
 強靭の意志を宿した双眸が、駆けて来た少女を捉える。
「……オーシャ・ヴァレンタインか」
「貴方の相手は私がするわ、ゴードン」
 格闘用のグローブのはまった両手を持ち上げて、オーシャが構える。
 ゴードンの面に、哀れみとも悲しみもつかない感情が浮かぶ。
「利用されるためだけに生み出されたお前が、今は己の意志を持って、我々に牙を剥くか……」
「どんな理由で私が生み出されたかなんて関係ない。私は私。そう思える確かな想いが、今の私の中にはある!」
「そうか……。眩しいな。今の我には、己など存在しないに等しい」
 そう言って目を細めたゴードンの姿に、オーシャは怪訝な顔で眉根を寄せる。今の彼の姿は、普段とは別人のように弱々しく見えたのだ。
 しかし、一転、その岩の如き体躯から、強烈な闘気が溢れ出す。
「だが、それでも我にはあの方に報いねばならぬ恩がある。例え、その道が過ちであったとしても!」
 ゴードンは棍を構え、吼える。
「来るが良い、オーシャ・ヴァレンタイン!」
「――――っ!」
 その勢いに押され、咄嗟にオーシャは攻撃を繰り出していた。
 踏み込みの勢いの乗せた鋭い拳の一撃。
 ゴードンは、それを巨躯に似合わぬ素早さで身を捌いて避ける。
 だが、それは想定済みだ。
 すかさず跳ね上がった右足が、ゴードンのこめかみを狙う。
「――甘い」
 囁くような声と共に、棍が地面を突いた。
 同時に、足元から吹き上げる強烈な風。
「なっ!?」
 オーシャの小柄な身体は、それに乗せられて一瞬にして軽々と宙を舞っていた。
 あっという間に、眼下で戦う仲間達の姿が小さくなっていく。
 下で、ゴードンが大声で告げる。
「我が《緑風の翼》が司るは風。凝縮されたそれは、鋼すらも断つ鋭き刃となる!」
 その言葉を証明するかのように、宙を舞うオーシャの周囲で、無数の真空の刃が生まれる。それらは、小さき少女の身体を切り裂かんと、唸りを上げて襲い掛かって来た。
「くっ!」
 オーシャは、咄嗟に魔法障壁を自らを覆うように展開。
 風刃は、その障壁にぶつかり消滅する。
 だが、危機は終わらない。
 この高さから地面に激突すれば、まず間違いなく即死だ。
「オーシャ、落ち着いて」
 声は、いつの間にか隣に姿を見せたマリアだ。
 彼女は落下するオーシャを追うように下に向けて飛びながら、こちらを静かな双眸で見ていた。
 オーシャは、それに頷き返す。
 光の弓矢を生み出すと、つがえた矢の先を真下に向けた。
 その間も、辿り着けば死と同義の地面がぐんぐんと近づいて来る。
 そして、激突する直前。
 オーシャは、近づく死を否定するかのように、渾身の魔力を込めた矢を放った。
 合わせて、再び自身の周囲に障壁を構築。
 放たれた白い閃光の一撃は石畳を打ち砕く。反動で生まれた衝撃波は障壁に守られた少女を打ち据え、落下の勢いを相殺した。
 陥没した地面の中央に着地したオーシャは、荒い息を吐きながらも立ち上がる。
「見事」
 舞い上がる粉塵を魔風で押しのけながらゴードンが姿を見せた。
「戦いを志してより、さほどの時も経っていないだろうに……先ほどの体術、咄嗟の機転――たいしたものだ」
 そして、さらに言う。
「しかし、惜しむらくは、鍛錬と経験が絶対的に足りぬ。それでは我には届かん」
「そんな事……やってみなきゃわからない!」
 オーシャは、魔力の光の灯った指で何もない空間に一つの名を刻んだ。
 ハクト、と読む。
 光輝くその魔法文字は、地面へと吸い込まれ、魔法陣を浮かび上がらせる。その上に顕現したのは、白き体躯を持つ虎だ。
「……《魔獣》ガイストか」
 ゴードンは、驚く事もなく冷静に呟く。
「行くよ、ハクト!」
「御意!」
 オーシャとハクトは同時に跳ねた。
 左右の死角からの同時攻撃。
 オーシャの拳が、ハクトの爪が、ゴードンへと襲い掛かる。
「児戯だな」
 ゴードンは手にした棍を足下から振り上げる。
 突き出された拳を下から跳ね上げ、振り下ろされる爪は反対側の先で突くように止める。
 さらに棍を旋回。
 攻撃を止められ、無防備となったオーシャとハクトを弾き飛ばす。
「……くっ!」
「なんという……!」
 一人と一匹の連携は決して悪くはなかった。
 むしろ、素晴らしかったと言える。
 しかし、それ以上の動きで、ゴードンは捌いて見せたのだ。
「まだ……まだよ!」
 《フリューゲル》を通して、マリアにより与えられた戦いの知識と記憶。
 腕に嵌った、《デモン》化の力の宿った腕輪。
 そして、短くもティリアムと共に積んだ鍛錬。
 それら全てを最大限に生かして、オーシャはゴードンへと攻撃を仕掛けた。
 だが。
 繰り出す拳も、蹴りも、魔法の一撃も。
 全てが空を切り、完璧に防がれてしまう。
(錬度が――違い過ぎる……!)
 それは、オーシャが戦う者として成長したからこそわかる力量の差だ。
 足りぬ身体能力と戦いの経験。
 これらを無視して、力づくで捻じ伏せる事が出来るほど、このゴードンという男は甘くはなかった。
 体勢が崩れた所を狙って強烈な棍の突きが、オーシャの腹部を打ち抜く。
「―――ぐっ!」
「主!」
 耐えられず膝を突き、胃の内容物を吐しゃした。
「オーシャ!」
 マリアが叫ぶ。
「もうわかっているはずだ、マリア・ケーニヒ――いや、マリア・アールクレイン」
 未だ傷一つ負わぬ武人が現実を口にする。
「今のヴァレンタインでは、我には勝てぬ。その強き意志に反して、あまりに未熟――想いだけは勝利も生も掴み取れん。かつて、戦士だったお前がそれをわからぬはずもあるまい」
「…………」
 マリアが歯噛みする。
 相手は魔法を操る《イミタツィオン》だ。普通の騎士や衛兵が戦えば被害は大きくなり、勝ち目も薄い。腕利きの傭兵であるジョンやフォルシアでも、荷が重い事は否定出来ないだろう。
 何より、《デモン・ティーア》も居る以上、多くの味方を割く事出来なかった。
 故に、《デモンズ》であるティリアムがマッドを止めに行くならば、この男は《白光の翼》を持つオーシャが一人で相手をするしかなかった。
 危険だと知りつつも、ティリアムもマリアも、オーシャを信じて任せたのだ。
 だが、現実はあまりにも無情だった。
 周りの仲間達は、皆、《デモン・ティーア》の相手で手一杯だ。
 オーシャの危機に気づいている者もいたが、助けに動く事すら出来ない。
 今、戦況は拮抗している。
 下手に動けば、そこから神殿の守りが一気に崩れかねなかった。
 そして、そうなった瞬間、聖杯を守るためのこの戦いは、こちらの敗北がほぼ決まってしまうだろう。
 皆、それを理解している。
 だから、動けない。
 オーシャは、地面に突いた掌を強く握り込んだ。
(……私じゃ、勝て……ない……の?)
 城での戦い。
 フィーマルの死。
 思い知った己の無力。
 守られるだけなのは嫌で、自分も大切な誰かを守るために戦おうと決意した。
 ティリアムもマリアも協力してくれた。
 マリアから与えてもらった記憶と知識を頼りに体術を覚え、魔法の扱いを修得し、血反吐を吐きながらティリアムに鍛えてもらったのだ。
 ほんの少しずつだけど、強くなれたはずだった。
 ほんの少しずつだけど、自信が持てたはずだった。
 だけど。
 そんなちっぽけなものは、現実の前には脆くも崩れ去るのか。
 想いだけは、何も為す事は出来ないと言うのか。
 絶望的な敗北感。
 それは。
 オーシャの心と身体をゆっくりと塗り潰していった。


 宗主の間は、ティリアムとマッドの激突により、見るも無残な姿を晒していた。
 整然と立ち並んでいた柱のいくつかは倒れ、磨き抜かれた大理石の床もあちこちが陥没している。
 主に、この破壊を為したのはマッドの魔法だ。
 重力を操るそれは、攻撃範囲こそ狭く、使用方法も限定的だったが、そんな欠点を補ってあまりある攻撃力を備えていた。
 目に見えぬ攻撃をかわすのに精一杯なティリアムは、未だにマッドに接近する事すら出来ていない。
 逆に、マッドもティリアムに傷を与える事は出来ていなかった。
「ふむ、不毛だね」
 マッドは、顎に手を当てると嘆息する。
「これではキリがなさそうだ。戦法を変えさせてもらおうかな」
 ティリアムは、砕けた大理石の破片を踏みしめ、鼻を鳴らす。
「姑息な策略を張り巡らせるか、魔法に頼るしか能のない科学者野郎に他に何が出来るっていうんだ」
「言ってくれるね。だが、今まで無駄に遊んでいたわけではないのだよ? 私は研究者だからね」
「……なんだと?」
 声の響きに不吉なものを感じたティリアムは眉をひそめる。
 マッドは眼鏡を押し上げて嗤った。
「最初の襲撃に使った――《デモンズ》の血肉より生み出した種子を人間に埋め込み《デモン・ティーア》化させ、他の仲間を統制させるだけの知能を持たせた実験体。あれ自体は、かなり以前より生み出す事には成功していた。しかし、あんなものは、私の目指していたものとは程遠いものだ」
「何を……言っているの……?」
 リラが疑問をこぼす。
 マッドはそれに答えず、さらに続けた。
「そこで私は、すでに七百年前の《裏切りの贖罪》時に発案されていた、強い意志を持つ人間を選出し、それに予め《デモン・ティーア》化せた実験体を組み合わせる《融合体》を試した。驚異的な再生力は素晴らしかったが、これも精神の不安定を招き、失敗――しかし、それでも《デモン・ティーア》の特性を持ちながらも、人としての意識を損なわなかったという意味では、貴重な成果を得られた」
「ゲイリーか……!」
 水の都で出会った、悲しき逃避者の青年。
 彼もまた、この狂気の科学者の犠牲者だった。
 そして、マッドは恍惚な表情で両手を掲げて、
「私は、それらの実験を経て、《デンメルング》に属してより、ずっと目指し続けた一つの完成形を生み出す事に成功した。そう、それは――」
 さらに、こう告げた。

「人間の知性、《デモン・ティーア》の異形の能力、さらに《エンジェル》の魔法の力の全てを備える究極の生命体だ」

「――――!」
 その場にいる、全員が思わず息を呑む。
 あまりにとんでもない。
 あまりにおぞましい。
 そんなものを人の手で生み出し、この世に存在させて良いはずがない。
 まさに神をも恐れぬ所業だ。
 ティリアムは吼える。
「そのために……そんなもののために……無関係な巡礼者達を、ゲイリーを……犠牲にしたのか!」
「完成形を得るまでに尊い犠牲になった者達の数は、そんなものではないさ。まあ、私にはどうでも良い事だが」
「お前……!」
 人を人とは思わぬ言い草に、ティリアムは纏う殺気をさらに濃厚にする。
「さて――」
 マッドは、それを気にも留めずに眼鏡を外すと、それを投げ捨てた。
「では、さっそくその完成体をお見せしようか」
 変異は、突然に起きた。
 びしり、と。
 目に見えるマッドの肌という肌の血管が盛り上がり、黒く変色したのだ。変化は血管のみに留まらず、全身を闇色に染め上げていく。
 続いて。
 ずるり、と。
 額が割れたかと思えば、黒い肌と相反するような白い角が生えた。その瞳は、《デモン》化したティリアムと同じように、紅く染まっていく。
 さらに。
 ぼごり、と。
 全身の筋肉が膨張し、マッドの肉体を一回り――いや、二回りは大きくしたのだ。
 この信じられぬ光景を前に、誰一人、声を発する事さえも出来ない。
 愕然とマッドの変貌が落ち着いていくのを眺めていた。
「ごおおおおっぉおおっ!!!」
 変化には苦痛を伴うのか、マッドは身体を大きく逸らして咆哮し、びりびりとその場を空気を振るわせた。
 そして、ふうぅ、と長い息を吐く。
「まあ、こういう事だ」
 異形の姿に反して、口にした声は、あまりにいつも通りだった。
 それが、より今の状況の異様さを見る者に感じさせていた。
「……自分自身を実験体にしたのか」
 呆然とした面持ちでティリアムが口にする。
 常人の感覚なら、まず思い浮かべる事もしないだろう選択肢。
 マッドはそれを選んだ事を、微笑みすら浮かべて認めた。
「そうだよ。そもそも、そのための研究、実験だった。強い力は、容易く絶望と死を生み出せる。それらを見る事を何よりも好む私としては、求めて当然のものだろう?」
「その姿以前に――心がすでに人ではなかったようですね」
 哀れみと畏怖を込めた呟きサレファがこぼす。
 その前には、いざとなれば、その身を挺して彼女を守らんという意志を表すようにリラが立っている。しかし、その膝は微かに震えていた。
 無理もない。
 今のマッドは、見た目の異形もそうだが、纏う空気が普通ではない。
 何も知らぬ者が見ても、尋常ならざる力をその身に秘めているのがわかるだろう。
 《デモンズ》と同じ紅き瞳で、マッドはティリアムを見据えた。
「では、さっそく戦いを再開するとしようか」
「――――がっ!?」
 脳がその言葉を理解したのと、腹部を衝撃が貫いたのは、果たしてどちらが先だったのか。
 気づけばティリアムの身体は、壁に叩きつけられ、どす黒い血を吐き出していた。
「……が……ふっ……!」
 マッドの変貌による驚愕で、どこか動きが鈍っていたのは間違いない。
 だが、決して油断はしていなかった。
 それでも、マッドの動きに全く反応出来なかったのだ。
「ほら、次だ」
 声は前から。
 もはや敵の姿を確認するよりも、その場を跳び退く事を優先する。
 その選択が正しかった事を証明するように、先ほどまで背中を預けていた壁が、マッドの強靭の拳に砕かれていた。
「うおおおおおっ!!」
 闘志というよりも恐怖に押されて、ティリアムは大剣を振るう。
 全力を込めた横薙ぎの一撃は、マッドの首に確かに吸い込まれた。
 しかし。
 漆黒の肌は、刃を立てる事すら許さず、弾いていた。
 ティリアムが瞠目し、呆然とする。
「痒いね」
 一言は、横殴りの一撃と共に届いた。
 吹っ飛ばされたティリアムは受身も取れずに、床を何度も跳ねて、ようやく止まった。
 なんとか身体を持ち上げようと、腕を立てる。
 内臓を痛めたのか、何度も喉から鮮血がばしゃりと吐き出された。
 身体が言う事を利かない。
 何とか顔だけでも持ち上げると、いつの間にか眼前にマッドが立っていた。
「どうしたのかな。まだ私は、この右拳しか使っていないんだがね?」
 苦しみもがくティリアムの姿を、愉しそうに見下ろしながら言う。
「…………っ」
 歯噛みするが、言葉を発する事が出来ない。
 そんな余裕すら持たせないほどの損傷を、あの数瞬の攻防でマッドはティリアムに与えたのだ。
「いけないな。そんな事では、大切な相棒の仇を取る事なんて到底出来ないよ。せっかく、義理の妹もこの戦いを見ているというのにね」
 マッドは、ごく自然な口調でそう言った。
 しかし。
 その中には、ティリアムが、そしてサレファが決して聞き逃せない一言があったのだ。
 サレファは目を見張り、その身を抱くようにして身体を震わせる。
「……お、前……!」
 全身を苛む苦痛など捻じ伏せ、無視して、ティリアムが言葉を吐き出す。
「……今、何て……!」
 予想通りの反応だったのか、マッドは愉悦の笑みを広げる。
「だから、こう言ったのさ。お前の相棒であり、イヴァルナ神教の宗主、サレファ・ロダンの義理の兄――ウェイン・ロダンを殺したのは私だ、とね」


 ――脳裏に蘇る。
 相棒であり、友であった、男の最期の姿。

「……失敗、したな……こんな所で……」
「喋るな、ウェイン!」
 横たわる相棒の傷を押さえ、ティリアムは叫んだ。
 しかし、確実に内臓にまで達しているだろう胸の傷は、血を吐き出す事はやめてはくれなかった。
 どうして。
 どうして、こんな事になったのか。
 ただ、お互い、なんとはなしに別行動を取っただけだ。
 例え、治安の悪い街中であったとしても、ウェインは、そこらの悪漢に殺されるような男ではない。
 なのに、なぜ!
 いつまで経っても、待ち合わせ場所に相棒が姿を見せない事を訝しがったティリアムは、人気のない路地の奥で、血の海に倒れる彼を発見したのだ。
 すでに青ざめ生気を失いつつある顔で、ウェインが微笑む。
「……良いんだ、ティリアム……自分の事は、自分が一番、よくわかる……僕は、もう助からないさ……」
「ふざけるな!」
 ティリアムは激昂した。
「お前が……お前が言ったんだろう! 俺に死ぬなと! 生きてみろ! そう言ったんだろう! なのに――!」
「……ずっと、考えていたんだ……」
 青年が口にしたのは、全く別の事だった。
 まるで、残り少ない時間を惜しむように。
 伝えるべき事は、今のうちに伝えようとするように。
「……ティリアム、なんて呼び方……他人行儀だろう……? だから、お前の、愛称を……考えていたんだ……」
「何で、今、そんな事……!」
「今しか言えな、いからだろ……よく聞けよ……」
 掠れる声は、すでに力を失いつつある。
 ティリアムは、彼の口に耳を寄せ、必死にその言葉を聞き取ろうとする。
「……ティルだ……ティリ、アムだから、ティル……良い名、だろう……?」
「ああ、わかった! わかったから……だから、死ぬな、ウェイン!」
 ティリアムは悲痛な声で叫ぶ。
 頬には、母を失って以来、流していなかった涙が伝っていた。
 ウェインは最後の力を振り絞るように、震える腕を持ち上げる。
 ティリアムは、死に行く友を引き止めようと、その手を必死に両手で掴む。
「……ティル……お前、の《デモンズ》の力は……誰かを守るための力になる……壊すためなんかじゃない……守るための力に……なれる……忘れるなよ……」
「ウェイン……」
 ふぅ、とどこか疲れたようにウェインは息を吐いた。
「……そろ、そろだな……」
「! 待て! 行くんじゃない!!」
「……お前と、過ごした日々……今までの人生で何よりも、充実した楽しい、時間だった……ティル、お前は、僕の最高、の相棒だ……」
「ああ、俺もだ……! だから、俺を一人にしないでくれ――!!」
「……一人じゃ、ないさ……これから、だ……これから、お、前だけ、の……」
 そこで声は途切れた。
 瞼がゆっくりと閉じられ、もう持ち上がる事はない。
 その微笑みを象る唇が、言葉を発する事もない。
 ウェイン・ロダンは――死んだ。
「――――!」
 掴む手からは力が抜け、ただただ無情にその死を突きつけていた。
 真っ白だった。
 また失ってしまった。
 大切な人を。
 もう、あんな悲しみは。
 絶望は。
 知りたくなかった。
 だから、人を遠ざけ、一人で生きようと思っていたはずだった。
 なのに!
「……はは、はははは……」
 気づけば笑いがこぼれていた。
 身が裂かれるように悲しいのに。
 心が圧し潰れそうなほど辛いのに。
「………ははははは、ははははははっ!!!」
 涙も笑いも止まらない。
 たまらなく滑稽だった。
 弱い自分が。
 何も守れない自分が。
 虚しい笑いは、いつしか嗚咽になり、慟哭となっていた。
 もう決して動かない相棒の胸にしがみつき泣いた。
 雨が。
 いつしか、そんな二人を打ちつけていた。
 その冷たさで、少しでもティリアムの悲しみを和らげようとでもいうように。
 どうせ、そんなものでは何も変わりはしないのに。


 ティリアムは、ゆっくりとその場で立ち上がった。
 マッドが目を見開く。
 いかに《デモンズ》といえど、こうも早く立ち上がれるようなダメージではなかったのだ。
「――俺は、ウェインの死を最後に、《デモン》の名を捨てた」
 囁くようにティリアムが言う。
 静かで、小さいのに、その深奥に秘めた激しい何かを否応なく聞く者に感じさせる声だった。
「だが、もしも……あいつの仇を見つける事があれば、ただ一度だけ、かつての俺に戻ろうと――そう決めていた」
 さらに言う。
 それは、嵐の前の静けさ。
 臨界点を超えた怒りは、ティリアム・ウォーレンスを、過去の己へと引き戻していく。
 轟、とティリアムの身から、何かが放たれる。
 空気が震えた――否、激震した。
 周囲の壁が悲鳴を上げてひび割れ、窓硝子が圧力に耐え切れず砕け散った。
 怒りではない。
 憎しみではない。
 ただ、純然たる殺意がティリアムの身から吹き荒れていた。
 その凄まじさに、サレファとリラは身を寄せ合うようにして息を呑んだ。
 マッドですら頬を引きつらせ、黒い肌に冷や汗を噴き出せる。
 《デモン》は大剣の切っ先を相棒の仇へと向け、咆哮した。
「お前の命――それが《デモン》の名の墓標だ、マッド・グレンティーン!!!」


「っ!」
 吹き飛ばされたオーシャは背中を強く打ちつけ、激しく咳き込む。
 なんとか身体を持ち上げ、前方を睨むと、ゴードンが悠然とこちらへと歩を進めている。
 オーシャは、絶対的な敗北の予感を感じつつも足掻いていた。
 認めたくなかったのだ。
 全てが無駄だったなど。
 もはや勝利は有り得ないなど。
 決して。
「無駄な事はやめろ。足掻いても、苦痛を増やすだけだぞ」
 ゴードンは哀れみすら含んだ声音で言う。
 それが、オーシャを怒らせる。
「無駄だなんて――言わせない!!」
 拳を突き込むが、容易くゴードンの巨大な掌で受け止められた。
「遅い」
 持ち上がった膝で腹を叩かれ、身体がくの字に曲がったところを、掌底で顎を跳ね上げられた。
 再び背中から崩れ落ちたオーシャは、もう立ち上がれない。
 脳を揺らされ、脳震盪を起こしている。
 視界が歪み、身体が言う事を利かない。
 何より、立ち上がる意志をすでに刈り取られていた。
 虎の咆哮。
 ハクトが背後から、ゴードンへと飛び掛かったのだ。
 しかし、振り向く事もなく生み出された風刃がその身を襲い、白虎は石畳を転がった。
「……ハク、ト……」
 命がけで自分を守ろうとしてくれているハクトの姿に、胸が締めつけられ、同時に己の情けなさに悔しさが込み上げる。
 だが、それでもどうしようもなかった。
 どんな攻撃を仕掛けても、まともに攻撃を当てる事すら出来ないのだ。
 全てを見切られ、防ぎ、避けられる。
 代わりに、それ以上の強烈な反撃が返ってきた。
 単純に、力が違い過ぎる。
「苦しめるのは本意ではない。この一撃で終わらせよう」
 ゴードンが棍を振り上げた。
 その周囲で風が渦巻きだし、それは次第に激しくなっていく。
 まるで棍に竜巻が宿ったかのようだった。
 あの一撃を喰らえば、オーシャの小柄な身体など跡形も残らないだろう。
「オーシャ、逃げて!」
 少女の腕を掴み、マリアが悲痛な声で叫ぶ。
 少し離れた場所では、ハクトが四肢で必死に傷ついた身体を持ち上げようとしている。
 他の皆も、なんとか助けに入ろうと必死に戦っているが、間に合いそうもない。
(……ああ……)
 こんな弱い自分を、皆、助けようとしてくれている。
 それなのに。
 本当に良いのか?
 こんなところで終わって良いのか?
 死にたくないと。
 生きたいと。
 そう思ったから、あの雨の日、寂れたスラムの一角で、自分は差し出されたティリアムの手を取ったのではないのか?
(…………そうだ)
 こんな所で死んでいいはずがない。
 戦うのだ、最後まで。
(自分が未熟だなんて、最初からわかってた事だ……)
 だから、諦めない。
 勝ち目がなかろうと、最後まで足掻く――足掻き抜いてやる!
 想いが身体を駆け巡り、闘志を再燃させる。
 それがきっかけだったのか。
 不意に。

 ――オーシャの中で、何かの歯車がかちりと噛み合った。

 ゴードンが、止めの一撃を振り下ろす。
 普通に避けたのでは間に合わない。
 ならば。

 己を光とすればいい。

 轟音。
 竜巻を宿らせた棍の一撃は、容易く石畳を破砕する。
 だが、それは何も捉える事が出来ていない。
 ゴードンが目を見張った。
 そして、信じられぬものを見る眼差しで後方を振り返った。
 そこに。
 眩い光を纏い、毅然と立つ少女――オーシャ・ヴァレンタインが居た。


四章の八に続く 一覧に戻る 四章の六に戻る

inserted by FC2 system