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エンジェル 四章

覚醒


―― 九 ――

「……これでどう?」
「ああ、なんとか動けそうだ」
 オーシャに魔法の治療を受けたティリアムは、肩を回しながら立ち上がる。
 まだ身体の節々に違和感と重さがかなり残っていたが、先ほどまでの立つのも困難だった状態に比べれば、相当にましにはなっていた。
「ティリアムさん……」
 治療が終わったのを見計らって、傍に立つサレファが口を開く。
「兄の仇……取って下さってありがとうございました」
 幼き宗主は礼を言うと、深々と頭を下げてくる。
 ティリアムは困った顔で、自分の胸ほどまでしかない少女を見下ろす。
「頭を上げてください、宗主。俺は俺のために、ウェインの仇を取ったんです。貴女が頭を下げる必要なんて何もない」
「……それでは、私の気が済みませんよ。私の兄のために、貴方はまた一つ命を背負ってしまったのですから」
 サレファの苦悩に揺れる瞳が、首だけになって死を迎えたマッドを見据える。
「私も人の子です。正直、兄の命を奪った者を憎いとは思っていました。ですが――こうやってマッドが死に至った姿を見ても、私の心は何一つ晴れない……」
「宗主様……」
 リラが心配そうに少女の顔を見る。
 サレファは目を伏せると、悲しげに言った。
「やはり命の代償を奪った者の命で贖わせる――そんな行為は本来ならあってはならぬ事なのかもしれませんね」
「……そうかもしれません」
 ティリアムが肯定する。
「俺は、過去に同じ虚しさを知っていますから」
 脳裏に蘇ったのは、かつて母と暮らした村での一時の――だけど、確かに楽しかった日々。
 しかし、それは種族の違いによる差別によって容易く壊れた。
 母は死に、母の命を奪った村人達も暴走したティリアム自身の手で皆、殺されてしまったのだ。
 残されたのは、ティリアムの心に深く刻まれた罪の意識、後悔、哀しみ、孤独感――
 母の仇を取っても、己の心は何一つ救われなかった。
「ごめんなさい、ティリアムさん。一番、辛いのは貴方だというのに、私は……」
 俯き、サレファが申し訳なさそうにこぼす。
 ティリアムは微笑んで、頭を振った。
「良いんです。俺自身が選んだ道ですし、神殿の皆を救うためにも、マッドは倒さねばならない男だった」
 言いながら、握っていた手を開く。
 そこには、鋼色をした小さな宝石が乗っている。
 マッドの《フリューゲル》だ。
 彼が死んだ事で、再び実体化した物だった。
「あ、そうだ!」
 オーシャが何か思い出したように声を上げると、懐に手を突っ込む。そこから取り出したのは、ティリアムの持っているのとそっくりな薄緑色の宝石だ。
「これ、ゴードンの《フリューゲル》……」
「そうか」
 ティリアムは頷くと、オーシャからそれを受け取る。
 そして、大剣を手に取り、《フリューゲル》を上に放り投げた。
「あ!」
 オーシャ達が驚きの声を上げる中、ティリアムは迷わず剣を振るった。
 二つの《フリューゲル》は刃に砕かれ、完全に粉々となる。
「……良いの?」
 問うてくるオーシャに、マリアは頷き返す。
「いいんですよ。きっと残していても、あれは不幸しか呼びませんから」
 かつての《エンジェル》の王妃は、まるで《フリューゲル》に別れを告げるように静かに目を閉じていた。
「――よし、こっちは片付いたし、表の方の応援に行かないとな」
「え!?」
 ティリアムが何気なく言った台詞に、リラが目を丸くする。
「ま、待ってください。お二人共、相当に疲労していますし、あちらには私が行きますから、今はここで休んで……」
「ああ、大丈夫だ。無茶はしないし、どのみちじっとなんてしてられないからな」
「うん、そうだね」
 オーシャも笑顔で同意する。
 リラは呆然と、そんな二人の顔を交互に見ていた。
 サレファがくすりと笑う。
「いいじゃないですか、リラ。お二人なら疲れていても、決して足手まといになんてなったりはしませんよ」
「そ、それはそうかもしれませんが……」
 リラが困り果てた顔でそうこぼしたときだった。

「いえ、貴方方が行く必要はありませんよ」

「え……?」
 皆の視線が、声の発生源である宗主の間の扉のあった方に集まる。
 今はマッドに破壊され、無残な姿を晒すそこに、一人の老人が立っていた。
 その人物をティリアムは知っている。
「あんたは、語り屋の……」
「ゼウラさん……?」
 言葉を継ぐように、オーシャが名を呟く。
 ゼウラは二人に向け、にっこりと微笑んだ。
「外の《デモン・ティーア》は全滅しましたよ。だから、大丈夫です」
「どういう事だ? どうした、あんたが……」
 ティリアムとオーシャが訝しがりながらも、語り屋の老人に近づこうとする。
「――駄目です!」
 それを切迫した強い口調で止めたのは、マリアだった。その面には、驚愕、疑念、畏怖、そんな感情が混ざり合ったものが浮かんでいる。
「マリア?」
「その男に近づいてはいけません」
 彼女の様子に只ならぬものを感じたティリアム達は足を止め、改めて目の前の老人の姿を注視する。
 マリアもまたゼウラを睨みつけながら悔しげな声で言った。
「最初に見た時に気づくべきでした。まさか、こうも堂々と姿を見せようとは……」
「――まあ、無理もないだろう。あのときは、お前に気づかれぬように私の気配を完全に断っていたからな」
 ゼウラが口にした声は、もはや人の良い老人のものではない。威厳溢れる若き男のものだった。
 さらに。
 その姿が蜃気楼のように揺らいだかと思えば、一瞬にして、別人へと変貌する。
 見た目の年齢は、二十代後半ほどか。
 精悍な顔。
 撫で上げた灰色の髪。
 さらに強靭な意志を宿す双眸を持つ男が、そこに立っていたのである。
 大柄の体躯から放たれる威容は、見る者を否応なく屈服させてしまいそうなほどに強烈だった。
 老人の変化に、驚きと共に皆がその身を固くする。
 そして、マリアとオーシャが同時に口を開いた。
 口にされた名に、他の三人はさらなる驚愕に襲われる。

「……《ヴェルト・ケーニヒ》」
「エ、エリック……!?」

「久しいな、マリア……そして、オーシャよ」
 エリック・カールソンという偽名を名乗っていたかつての《ヴェルト・ケーニヒ》は、その口元に微笑すら浮かべなら、そう口にした。


「こいつが――《ヴェルト・ケーニヒ》」
 予想以上の存在感と威圧感に、ティリアムは汗を頬に伝わせる。
 サレファとリラなどは、まさかあの《ヴェルト・ケーニヒ》をその目で見る事になるなど予想もしていなかったのだろう、完全に言葉を失っていた。
 マリアは強い緊張をはらんだ声で問うた。
「……何故、ここに今、貴方が居るのです……!」
 ヴェルトは、ちらりとティリアムを一瞥する。
「七百年前、あの男≠ノ負わされた魂にまで及ぶ傷――それがようやく癒え、まともに動けるようになったのでな。部下の働きの様子見がてらに、我らに逆らう男の顔を見に来たのだ」
 その視線が、転がるマッドの首へと固定された。
「まあ、返り討ちにあったようだが」
「つまり――」
 ティリアムは大剣を構え、切っ先をヴェルトへと向けると、
「俺の顔を見に来たんだろう? まさか《デンメルング》の頭が、わざわざ出張ってくるとは……驚いたな」
 不敵な笑みを浮かべながら言った。
 しかし、その声は、確認するまでもなく強大な力を秘めている事を感じさせるヴェルトを前に緊張を隠せない。
 逆にヴェルトは余裕のある仕草で顎を撫でた。
「まあ、そうだが……ついでだ。マッドとゴードンの奪い損ねた聖杯の方も渡してもらおうと思っているよ」
 この台詞が、ヴェルトの放つ空気に呑まれかけていたリラを我に返させる。
 ヴェルトの視線を遮るように、サレファの前に素早く立ちはだかる。
「宗主様には、手は出させないわ!」
 同時に、ティリアムとオーシャも身構える。
 ふむ、とヴェルトが唸った。
「勇ましいな。――だが、無意味な事だ」

 瞬間。

 すでにヴェルトは、サレファの背後に立っていたのだ。
 凄まじい移動速度に、誰一人、反応する事すらできない。
「悪いが聖杯は頂く」
「――――っ!」
 右手が、サレファの小さな背中へと容赦なく突き出される。それは、水の中にでも入ったかのように波紋を広げながら、ずぶりと潜り込んだ。
「そ、宗主様っ!!」
 リラが悲鳴のごときを声を上げた。
 しかし、ヴェルトはその動きを停滞させる事なく、右手を一気に引き抜いた。その手には、清廉な白色に精緻な紋様を施された杯――聖杯が握られている。
 サレファは声もなく膝を折ると、前のめりに倒れそうになった所をリラに抱き止められた。
「宗主様! サレファ! 目を開けて!!」
「…………リ、ラ……」
「生きてるのか?!」
 オーシャと共に駆け寄ったティリアムが切羽詰った声で訊く。
 問いに答えたのは、リラではなくヴェルトだった。
「埋め込まれると共に肉体に溶け込み、術者と深い繋がりを持つ《フリューゲル》と違い、聖杯は、ただ歴代の宗主の肉体に隠されていただけ。取り出した所で死にはせん」
 彼の言葉を証明するように、サレファは衰弱した様子を見せながらも、確かに一命を取りとめていた。そもそもヴェルトの右手は、彼女の身体自体は傷つけていなかったのだ。
 サレファは、皆を安心させようとしているのか、その小さな唇で弱々しく微笑を象る。
「――サレファ、良かった……!」
 リラが涙をこぼし、少女の身体をそっと抱きしめる。
 ヴェルトはその様子を目の端で捉えながら、手にした聖杯をいずこかへと転移魔法で飛ばした。
「さて、聖杯をこれでい良いな。次は――《白光の翼》か」
「…………!」
 目を見張るオーシャを腕でかばいながら、ティリアムは片腕で大剣を振るった。
 ヴェルトは、それを後方に跳躍し軽々と避ける。
「お前……! 仮にも娘のように扱っていたオーシャの命を奪う事に抵抗がないのか!」
「ないな」
 かつて世界を統べし王は、あっさりと断じた。
「例え、オーシャが私の実の娘であり、私の中に子へ情があったとしても――世界破壊に必要な事であるならば、私は迷わずその命を奪うだろう」
「――そうかよ」
 怒りに身を震わせながら、ティリアムは《デモン》化を発動する。
 万全でない身体の内から力を引き出し、剣の柄を両手で強く握った。
「なら、遠慮なく斬り捨てさせてもらう!」
「! ティル、駄目!」
 マリアの警告の叫びを無視し、全力でヴェルトへ向けて駆ける。
 マッドの戦いの時よりも、さらに速く、さらに重く。
 まさに全身全霊を込めた一撃をヴェルトへと送り込む!

「――哀れだな」

 ヴェルトは、囁くように言った。
 ティリアムが大きく目を見張る。
 まともに喰らえば人の身など容易く両断する斬撃は、冗談のように人差し指一本で受け止められ。
 そのくせ、あの強烈な一撃を受けた反動などその身に一切起きなくて。
 ヴェルトは、さらにこう言った。

「無力というのは」

 そして――砕けた。
 ティリアムの手にした大剣が、脆い砂糖細工のようにあっさりと砕け散ったのだ。
 過去の罪を忘れぬための枷であり、同時に数々の厳しい戦いを共にくぐり抜けた相棒でもあった愛剣。それの思いもよらぬ最期を、ティリアムはただ呆然と立ち尽くしながら見つめる。
 ただ一瞬の攻防で。
 あまりに大き過ぎる力の差を思い知らされた。
 ただ一瞬の攻防で。
 その戦う意思を完膚なきまで薙ぎ倒された。
 だから、次の攻撃も避ける事など出来はしなかったのだ。
「眠れ」
 ヴェルトが何気ない動きで手を振るう。

「――――っ」

 轟っと。
 かつて受けた事のないほど衝撃に全身が襲われた。
 なのに、その身体は一歩もその場から動く事もなく。
 苦痛や絶望を感じる暇さえ与えられず、ティリアムの意識は刈り取られた。
 ゆっくりと倒れ行く中。
 オーシャの絶叫のような悲鳴だけが、やけにはっきりと耳朶に届いていた。


『――来たね』
 ふと懐かしい声が聞こえた。
 気づけば、ティリアムは光源など一切見当たらない、深淵の闇に包まれた空間の中、一人で佇んでいた。
 いや、違う。
 一人ではない。
 背後。
 そこに、誰が居る気配が感じ取れた。
 だが、どうしても振り返る事が出来ない。
 むしろ、振り返ろうと思う事さえ許さないと言う方が正しいかもしれない。
「……お前か」
 ティリアムは思い出す。
 さっきの声の主と会ったのは、初めてでない。
 ウィンリアでのゲイリーとの戦い。
 その際に、二度ほど彼とは会っている。
 正確には、声を聞いただけで、その姿を目の当たりにしたわけではない。そもそも彼という言い方さえも正しいのかはわからないのだ。
『やあ、久しぶりだね』
「お前は、いつも唐突だな」
 ティリアムが呆れて言うと、声の主は楽しそうに笑った。
『そうかな? 必要なときに、君に声をかけているだけのつもりなんだけどな』
「つまり、今も必要なときと言うわけか?」
『――そうさ』
 声が、不意に深刻さを増す。
『わかっているはずだ。今のままの君では、どう足掻いてもヴェルトを倒す事は出来ない。あれは、そもそもが次元の違う存在なのだから』
「だが、お前がまた力を貸せば勝てると?」
『違うよ。僕が力を貸すんじゃない。今度は、君自身の意思で君自身の内に眠る力を引き出すんだ。もともと以前に僕が貸した力だって、元はそこから来ていたんだからね。それに勝てるかどうかも、君次第だ』
「……俺自身の……力……」
『君は、もう気づいていたんだろう。自分の中に眠るその力の存在に』
「…………それは」
『でも、君はずっと目を背けてきた。強過ぎる力を手にする事で、君に近しい人々が自分を恐れ、否定するのではないか。それが怖くて。そう――かつて、君の暮らしていた村の人々のように』
「…………」
 否定する事は出来なかった。
 確かにウィンリアで暴走したときから、漠然とその力の存在には気づいていたのだ。
 だが、あえてそれに手を伸ばす事はしなかった。
 いや。
 伸ばす事が出来なかった。
 今、思えば、マッドとの戦いで引き出された驚異的な戦闘力も、その力の片鱗でしかなかったのだろう。
『だが、すでに恐れている時間はない』
 声は、説くように言う。
『信じるんだ、ティリアム。君の仲間達は、君が《デモンズ》だと知っても、恐れる事などしなかった。それは、今の君が、憎しみや怒りのままに壊すためではなく、大切な何かを守るために力を振るっている事を知っているからだ。君がそうやって築き上げてきた絆は、そんな簡単に壊れてしまうほど弱くはない。君の母も、君のかつての友であり相棒であった男も、最期のときまでずっとその事を伝えようとしていたじゃないか』
 それは、まるで自身の事を語るかのような言い方だった。
『それに、今、ヴェルトを止めなければ、その大切な人々だって全て世界ごと滅ぼされてしまう。新たな力を手にするときは今しかないんだよ』
 声の主の言葉を聞きながら、ティリアムは気づけば小さく笑いをこぼしていた。
 なぜか、無性に可笑しかった。
「俺は……馬鹿だな」
 こうやって、言葉にしてもらえなければ、仲間の事を信じる事が出来ない自分がひどく滑稽で情けなくて仕方なかった。
 でも、だからこそ。
 もう、迷っているわけにはいかなかった。
「お前は……本当に、いつも唐突だ。しかも、俺の心の内を見透かすような事を言う」
 自然と持ち上がった掌を、胸の前で固く握る。
「だが、お前の言う通りだよ。そんなちっぽけな事を恐れている時間は、もういらないんだ。ここでヴェルトの自由にさせて、世界を滅ぼさせるわけにはいかない。もう――自分の無力のせいで大切な人間を失うのはごめんなんだ。だから、俺は、新しい力を掴む。皆の事を信じ、俺の守るべきものを守り抜くために――!」
 決意の台詞と共に、目の前の闇を見据える。
 すると。
 最初からそこにあったかのように、巨大な両開きの扉が出現する。
 あらゆる色を持ち、それら全てを否定する扉。
 声の主が、微笑む気配が背中越しに伝わってくる。
『さあ、壊すんだ。君は君の限界を今、越える』
 ティリアムは、握った拳を無言で後ろに大きく引く。
 そして。
「砕けろっ!!」
 咆哮と共に渾身の力を込めて、扉へと叩きつけた。
 みしりとヒビが走ると、あっという間にそれは全体に広がり。
 次の瞬間、扉は粉々になって霧散した。
 そして、その奥から。
 果てしない何かが光の濁流の如く飛び出して、ティリアムの身体を飲み込んでいった。
 抗う事なく、それをただ受け入れながら。
 初めから知っていた事を思い出すような感覚で、ティリアムは、多くの真実を知る。
 この世界と、そこに住まう三種族の秘められし成り立ち。
 《ヴェルト・ケーニヒ》の正体。
 そして。
「ああ……そうか。ようやくお前が誰かわかったよ……」
『――そう。僕は誰よりも君の事を識っている者』
 二人は同時に、こう紡いだのだ。

「お前は、俺なのか」『僕は、君だ』

 と。


「ティルッ!!」
 オーシャは、ヴェルトの攻撃を受け、崩れ落ちたティリアムへと駆け寄る。そして、膝を突くと必死に両手でその身体を揺すった。
 だが、ティリアムは何の反応を示さない。
 まるで命なき人形のように。
 まるで深き眠りについたかのように。
 まるで――屍のように。
 ただただ静寂を保ち続けていた。
 ティリアムがたった一撃で倒されたという事実に、サレファを抱えるリラは愕然となり、マリアは耐えるように固く目を閉じる。
「……嘘……嘘だよね……」
 少女の瞳から涙が零れる。
 声が酷く掠れる。
「……嫌、だよ……私を、置いて逝かないで、ティル……!」
「オーシャ」
 そこに、冷酷までに平静な声が滑り込む。
 ヴェルトだ。
「《白光の翼》を渡してもらう」
 自らが作り上げ、演技だったとしてもかつて娘のように扱った少女の命を奪おうというのに、その冷静な表情は何一つ揺るがない。
「お前が私に従い、その身を世界破壊に捧げると言うのなら別だが――どのみちそんな気はありはしまい」
「…………許さない」
 オーシャの唇から囁くような声がもれる。
 ゆっくりと立ち上がり、俯いた顔が上げられたとき、その双眸には烈火の如き怒りが燃え上がっている。
「絶対に許さない――!!」
 地を蹴ると、手にした《シュペーア》をヴェルトの胸板を目がけて突き込む。
 ただの突きではない。
 光を纏う魔法的な威力を伴った一撃だ。
 しかし、ヴェルトは、それをいとも簡単に手で掴んで止め、槍に宿っていた魔法の光も霧散させてしまう。
「くっ……!」
「お前もウォーレンスの後を追うがいい」
 ヴェルトが逆の掌をオーシャに向けた――そのとき。

 何かが溢れ出た。

 発生源は、倒れたティリアムの身体。
 光のようなそれは、あらゆる色を内包し、だが、それら全てを否定していた。例えるならば、見る角度によって様々に色を変える虹の如きものが、ティリアムの身から溢れ出していたのだ。
 振り返ったオーシャが、この光景を目にして呆然となる。
「ティ、ティル……?」
「これは――」
 声を上げたのは、マリアだ。
 その顔には驚愕と共に、ある種の確信が浮かんでいた。
 虹の如き光に包まれたティリアムは、それに支えられるように浮き上がり、地に足をつける。黒き髪は、まるで色素が抜けていくかのごとく、白く染め上がっていた。
 閉じられた瞼が静かに持ち上がる。
 露になった、瞳は紅い。
「七百年ぶりだね、ヴェルト」
 紡がれた声はティリアムであって、ティリアムではなかった。
 全く同じなのに、聞く者に別人であるという確信をさせる声だった。
 掴んでいた槍を離し、ヴェルトの唇が歪んだ。
 歓喜に満ちた笑みで。
「ようやく目覚めたか、渾沌の者よ」
 ティリアムの姿をした男は首を巡らせ、一人の人物を見据える。
 そして、嬉しそうに微笑んだのだ。
「――マリアも久しぶり」
「あ、ああ……」
 マリアは抑えきれぬ喜びに呻き、実体化すると、生前を思い出したかのように地に降り立った。
 そのまま歩み寄る足取りはどこか頼りなげで。
 伸ばす手は、今にも消えてしまいそうなものを掴むかのように不安気で。
 でも、確かに彼女は男の胸に飛び込んだのだ。
「……会いたかった、エア! ずっと、ずっと……!」
「マリア……」
 胸にしがみつくマリアを、エアと呼ばれた男は優しく抱きしめる。
 マリアは子供のように泣きじゃくった。
「こうやって、貴方の腕に再び抱かれる日を、どんなに夢見たか……どんなに焦がれたか……!」
 微笑から一転、エアがひどく辛そうに目元を歪める。
「君にばかり、辛い思いをさせてしまって本当にすまないと思っている。できるなら僕も、こうやってずっと君の傍にいたい。でも――」
 胸の中でマリアが顔を上げ、エアの面を涙に濡れた瞳で見つめた。
「……一つになるのですね。ティルと」
「ああ……。本当なら僕という存在は輪廻の時点で、魂の中に溶け消えなければならないもの。ティリアムを導くために無理矢理に留まってはいたけれど、世界の摂理にはこれ以上は逆らえない……」
「…………」
「ごめん、マリア。僕は君を……幸せには出来なかった」
 マリアは迷わず頭を振る。
「そんな事ない。私は貴方に会えて本当に幸せだった。貴方に出会えた事が私のかけがえのない喜びよ」
「……マリア、ありがとう」
 二人は名残惜しむように、そっと身を離す。
 マリアはその琥珀色の瞳を別れの哀しみで揺らした。
「さようなら、エア。マリア・アールクレインは、今も昔も決して変わる事なく、貴方を愛してる。それだけは忘れないで……」
 エアは肯定するように微笑み、目を閉じる。
「さようなら、マリア……僕も君を――愛してる」
 再び、その瞼が持ち上げられたとき。
 エアは、ティリアム・ウォーレンスへと戻っていた。
「オーシャ」
 マリアとのやり取りを不安と困惑の表情で見つめていた少女を呼ばう。
「もう大丈夫だ」
 その一言は、確かにティリアムのもので、揺るぎない自信に満ちていた。
 だから、オーシャも何も心配はいらないのだと理解したのだろう。
「……うん、わかった」
 安堵の笑みと共に頷いて見せたのだ。
 ティリアムは微笑し、ヴェルトへと向き直る。
「よくぞ目覚めた、エア・ノイエルン。お前と再び相見える事、心より待ち望んでいたぞ」
「違うな」
 渾沌の光を纏う男ははっきりと否定する。
「今の俺は、ティリアム・ウォーレンスだ」
 ヴェルトが楽しげに笑んだ。
「――そうだったな。私と違い、お前は正しき輪廻の流れに従い転生した者。すでにエア・ノイエルンは、お前の中で一つになったか」
「《ヴェルト・ケーニヒ》……いや、こう呼ぶべきだろうな」
 不意に。
 ティリアムの纏う渾沌の光が無数の粒子となる。
 渾沌の粒子は、砕けた大剣の破片の一つ一つへと舞い飛ぶと、それらを包んだ。そして、破片を宙に浮かせ、その全てをティリアムの右手へと集わせていく。
 渾沌と大剣の破片を凝縮し、新たに構築されるのは、太陽の光のような山吹色の刃を持った一振りの長剣だった。
「悪魔アダムスタ」
 手にした太陽の刃を真っ直ぐと《ヴェルト・ケーニヒ》へと向け、ティリアムは宣言した。
「この《黄昏》ラグナロクで――お前を斬る」


「ど、どういう事なんですか?」
 次々と起こる理解できない出来事に、リラは完全に困惑していた。
 当然、オーシャも同じだ。
「《ヴェルト・ケーニヒ》がアダムスタ……? それに、ティリアムから溢れ出した、あの不思議な光は一体、何なの……?」
「もう――隠していられる状況ではないですか」
 マリアは目を伏せ、覚悟を決めたように呟いた。
「……《デモンズ》の間で、こんな伝承があります」
 愛しの人との別れの哀しみを押し隠しながら、マリアは語る。
「何色にも染まらぬ白き髪。血の如き紅き瞳。全てを受け入れ、全てを否定する渾沌を纏う者。その力、人の頂を遥か越え、神にも届かんとせん。我ら、その力を手にせし者をこう呼ぶ……」
 一拍置いて、さらにこう続けた。
「――《鬼神》デモン・ゴットと」
「……ティルは……その《デモン・ゴット》の力に目覚めた……?」
 オーシャの問いに、マリアは首を縦に振る。
「七百年前、《デモン・ゴット》の力の目覚めた一人の《デモンズ》の男がいました。彼は、《ヴェルト・ケーニヒ》に逆らう私達――反乱軍のために命懸けで戦い、ヴェルトに深い傷を負わせた。しかし、自身もまた力尽き、命を落としたのです。そして、彼は――エアは、私が心から愛した唯一の人だった。ティルは、そのエアの転生した姿なんです」
「!」
「エアは、息絶える前に、ヴェルトとの戦いの中で突き止めた一つの事実を私に言い残しました。それは《ヴェルト・ケーニヒ》の正体。数千年前、女神イヴァルナに打ち倒されたはずの悪魔アダムスタ――ヴェルトは、そのアダムスタが輪廻の摂理を捻じ曲げ、自身の力と記憶もそのままに転生した姿である、と」
「じゃ、じゃあ……」
「そうです。《ヴェルト・ケーニヒ》は紛れもなく悪魔アダムスタと同一人物。そもそもが《エンジェル》ですらない」
 恐るべき真実に、オーシャとリラは言葉もない。
 意識が虚ろなサレファでさえ、目を見開いていた。
「今、ティルは転生前のエアだった頃の記憶を呼び起こし、己の内に眠っていた渾沌――《デモン・ゴット》の力を我がものにしている。おそらく……今、この世でアダムスタに対抗出来るのは、ティルただ一人だけです」


 ヴェルト――アダムスタの手にも魔力を物質化した長剣が構築され、握られる。
 特に目立つ意匠も施されていない、平凡とも言える剣だ。
 しかし、それがこの世界に存在するあらゆる刀剣を凌駕する切れ味と威力を秘めている事をティリアムは見抜く。
 そして、ティリアムの握る《ラグナロク》もそれは同じだった。
 アダムスタがどこか興奮気味な口調で言った。
「《デモン・ゴット》化したエア・ノイエルンとの戦い。あれはイヴァルナと戦ったとき以来の昂揚を私に与えてくれた。イリアの報告で、お前がエア・ノイエルンの転生であると知ったとき、私は喜びに打ち震えたよ。世界を滅ぼす前に、今一度、あの高ぶりを感じたいと。本当の意味で決着をつけたいと。私は、そう願っていたからな」
 途端、大柄な体躯から溢れ出すは、悪魔と呼ばれる者にふさわしい膨大な魔力。
「そして、その願いは叶いそうだ」
「ああ、俺も願っていた。今度こそ、お前をこの手で倒す事をな」
 ティリアムもまた渾沌の力を解放する。
 渾沌と魔威が正面から無音の激突をすると、それだけで神殿が、大気が、激しく打ち震えた。
 そして、同時に。
 甲高い歌のような音が宗主の間に満ちたのだ。
「これは――《精霊の賛歌》……」
「精霊の、賛歌?」
 マリアの呟きに、オーシャが問いを送った。
「神にも届かんとする者が放つ力。それに空気中の魔素が共鳴して、精霊が合唱するように聞こえる現象の事です。そう。まるで力ある者を讃えるかのように。――これが聞こえるという事は、つまり、あの二人がそれだけの力の持ち主であるという証明とも言える」
 オーシャとリラが息を呑んだ。
 美しき歌の響く中、アダムスタは促すように手を掲げる。
「さあ、七百年の時を越え覚醒した《デモン・ゴット》の力……見せてみろ」
「ああ、存分に見ろ」
 答え、ティリアムが疾った。
 高速――
 否。
 神速だ。
 一瞬と表現するのも陳腐に聞こえる速さで、ティリアムはヴェルトの前に到達した。
 刹那に放つは、数十に及ぶ斬撃。
 一つ一つに大地を裂かんほどの威力が込められている。
「ふむ、なかなか鋭い」
 それをアダムスタは、片手で持つ魔剣でことごとく防ぎ切る。
 同時に、反動で生まれた衝撃波が辺りを襲った。
「オーシャ! 障壁を広範囲展開!」
「!」
 ティリアムの姿がかき消えると同時に上がっていたマリアの声に、オーシャは反射的に動いていた。《シュペーア》を床に突き立てると、皆を守り囲むように魔法の障壁を構築する。
 そこに襲って来る衝撃。
 直接、攻撃されたわけでもないというのに、障壁は激しく軋み、崩壊しそうになる。オーシャは必死に力を振り絞り、障壁を保ち続けた。
 衝撃と揺れが収まる。
 気づけば、ティリアムは再び間合いを空けて着地した所だった。
 あれほどの攻防をしながら、どちらも平然としている。
 所詮、二人とっては、お互いの力の確認作業にしか過ぎないのだ。
「次はこっちから行こうか」
 アダムスタは、何気ない仕草で剣の切っ先でとんっと足元を叩いた。
 唐突に生まれるは、豪炎の龍。
 急激に、宗主の間の温度が跳ね上がる。
 オーシャが障壁を張っていなければ、戦っている二人以外の者達は、間違いなく肺を焼かれていただろう。
 アダムスタがひゅっと剣を振る。
 それを合図に、万象を焼き尽くす熱を秘めた炎龍は、《デモン・ゴット》に向け、一直線に飛んだ。
「え……」
 オーシャが唖然となる。
 眼前で開かれる炎の顎を、ティリアムは、なんと剣を持たぬ左手で受け止めて見せたのだ。
 ティリアムの身を守る渾沌は、悪魔の魔炎ですら届く事を許さない。
 右手に持つ《ラグナロク》の刃が振り下ろされる。
 炎の龍は、あっさりと頭部から両断され、同時にティリアムは、はっと天を仰いだ。
 そこに。
 何もない空間に、突如として出現した巨大な氷柱の群れが牙を剥いたのである。
 氷槍達は、断たれた炎龍と足元の床ごとティリアムを容赦なく押し潰す。
「――やるな」
 アダムスタが笑った。
 紅を彩りながら宙を舞うのは、剣を握ったままの彼の右腕。
 横に動いた灰色の双眸は、氷柱の刺さった位置より少し離れた場所に立つ、左腕を大きく抉られたティリアムを捉えていた。
 あの一瞬。
 ティリアムは、氷柱の攻撃をぎりぎりで避け、さらに放った渾沌の斬撃でアダムスタの腕を斬り飛ばしたのである。
 戦いを見守るオーシャ達には、目に止める事さえできぬ攻防だった。
「痛みわけと言った所だな」
 アダムスタは楽しげに言うと、落ちた右腕を拾い、残った腕の切断部と合わせる。
 それだけで腕は完全に接合された。
 さらに。
 氷柱に抉られ、かろうじて繋がった状態で垂れ下がるティリアムの左腕の方には、渾沌の光が集いだしていた。そして、瞬く間に失われたはずの肉を復活させ、怪我も完治する。
 この光景に、オーシャとリラは目を剥いた。
 治癒能力ではない。
 どちらも完璧と言えるほどの再生能力だった。
「さて……」
 くっつけた右腕の感触を確かめながら、アダムスタが口を開いた。
「すでに最後の《聖器》は手に入っている。今日は、ここまでだな」
「……逃げる気か」
「どう取ってもらっても構わんさ。ただ、お前が渾沌に目覚めた以上、我々が決着をつけるのに、ふさわしい舞台はここではないだろう?」
「…………」
 アダムスタは身を翻し、背中を向けた。
 足元には、すでに転移魔法陣が広がっている。
「《陽炎の森》に隠されし、我が居城……オーシャ、マリアと共に赴くがいい。お前達と私達の戦い――決着は、そこでつける」
 そして、最後に呟いたのだ。
「待っているぞ、ティリアム・ウォーレンス――」
 転移魔法が発動し、破壊の悪魔の姿が消える。
 その圧倒的な力を、見るの者の脳裏に刻みつけたまま。
 同時に収まっていく精霊の歌声の名残だけが、いつまでもティリアムの耳に残り続けていたのだった。


 その頃、神殿の外では――
 
 フォルシアは無言で神殿の入り口の前に立つと、無造作に剣を突き出した。
 途端。
 ばちり、と光が瞬き、刃が弾かれる。
「駄目ね。たぶん、魔法で入れないようにされている」
「なんで、こんな事に……。やはり、さっきの老人の仕業でしょうか?」
 ロウの疑問に、フォルシアが肩を竦める。
「どうでしょうね。ともかく、今わかるのは、この状況では私達には手の出しようがないって事だけよ」
 ジョンが唸りながら、腕を組んだ。
「だったら、他の入り口を見に行った奴らを待つしかないな」
「…………」
 ロウは悔しげに唇を噛みしめる。
 ほんの少し前に、突然に姿を見せた老人。
 彼は恐るべき力で、《デモン・ティーア》の群れを屠り、神殿の中へと姿を消した。ならば、まず間違いなく中に居るティリアム達とも接触しているはずだ。
 もしも老人が《デンメルング》の者であるのなら、聖杯をその身に秘めるサレファの安否が心配だった。いかにティリアムが強くても、あのとき老人の見せた力を前にしては、勝ち目があるとは到底思えない。
 ロウが不安に苛まれる中、ちょうど話に出ていた騎士達が走って戻って来る。
 騎士の一人が息を切らしながら、早口に言った。
「副団長! 駄目です。近くのは全部調べたんですが、どこの窓も入り口もみんなびくともしなくて……」
「……そうか」
 ロウは肩を落とした。
 もしかしたら、どこかに神殿内に入れる場所があるかもしれないと期待していたのだが、それも空振りに終わったらしい。
「こうなったら時間がかかっても、しらみつぶしに入れる場所を探すしか……」
 言いかけたときだった。
「お、おい! あれ、なんだ!?」
 不意に、騎士の誰かが声を上げたのだ。
 彼の指差した方角に、皆の視線が集まる。
 目に入った光景に、誰もが驚愕し、そして絶句した。
「……あ、あれは……森……なの、か?」
 そう。
 聖地とフェイナーン神殿を囲む広大な森。
 さらに、その向こうに広がる大平原だったはずの場所に。
 天を衝かんとするほどに巨大な木々で構成された森が唐突に出現したのである。
 それこそ。
 《ヴェルト・ケーニヒ》の語った《陽炎の森》そのものだった。


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