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エンジェル 四章

覚醒


―― 四 ――

 フェイナーン神殿には、入るとまず天井の高い広間が広がっており、その中央に鎮座されているのは、女神イヴァルナを象った巨大な像だ。
 神殿を訪れた巡礼者は、まず、この女神像に祈りを捧げるのが慣習となっている。
 ティリアム達は、神官や客人の寝間のある二階から階段を駆け下りると、一直線にそこへと向かった。
 広間に飛び込むと、訪れる人々を優しい瞳で見下ろす中央の女神像が最初に視界に入った。そして、まさにその足元で、すでに抜剣したリラとロウが、誰かと向かい合っている。
「大丈夫か!」
 ティリアム達が駆け寄ると、緊張に染まった面を二人は向けてくる。
「……ティリアム様!」
「おや、早いお着きで」
「――こいつが襲撃者か?」
 ティリアムは、リラ達と向かい合っていた人物を見た。
 服装から見て、巡礼にきた普通の旅人の男といった風貌だった。
 しかし、その双眸は明らかに正気ではなく、瞳孔が開き、焦点がまるで定まっていない。口の端からは涎も垂れている。
 ロウが顎をしゃくって男を示した。
「こいつが突然、歩いていた神官に襲いかかったんです。たまたま俺達がその場に居合わせたんで、取り押さえようとしたんですけど……こいつ、存外、逃げ足が早くて」
「……やはり、《デンメルング》でしょうか?」
「まあ、自分から薬でおかしくなった人間が、こんな場所に迷い込んだんじゃなければな」
 リラの問いに、ティリアムが声に嫌悪感を滲ませながら答えた。
「薬の一つや二つ、無関係な人間に使うぐらいやるって事か。反吐が出るな」
 普段は陽気なジョンも珍しく悪態を吐く。
 騒ぎを聞きつけて、フォルシアや他の騎士達も広間に駆けつけてきていた。中には――城からの援軍だろう――王国騎士団の鎧の騎士も混ざっている。
 ティリアムは背中の大剣を手にすると、ぼんやりと佇む男を鋭い視線で射抜いた。
「さて、皆が揃った所で、こいつがどう出るか……」

 そう呟いた瞬間――

「……神殿の皆様方に置きましては、ご機嫌麗しく……」
 嫌味なほど丁寧な、そしてティリアム達は、ほんの十日ほど前に聞いたばかりの声が、立ち尽くしたままの男の口から漏れた。男は未だに正気ではない表情を保っているだけに、それは酷く不気味な光景だった。
「――マッド……!」
 ティリアムが声の主の名を口にする。
「やあ、久しぶりだね、ティリアム・ウォーレンス」
「お前……どうやって!」
「それほど驚く事でもないさ。少し、この男の口と目と耳を借り受けているだけだ。私の研究の成果の一つだよ」
「――この男を使って、俺達をこの場に集めたのか。こんな回りくどい事をする理由は何だ」
「なに、実験をかねた、ちょっとした演出だよ」
 男の瞳が、ぎょろりと集まった騎士達を睥睨した。
 その不気味な様子に、騎士の誰かが息を呑む。
「さて、本題に入ろうか。君達も知っての通り私達の目的は、この神殿の聖杯だ。――だが、ただ単にそれを奪うだけではあまりに簡単だし、芸がない。なので、今回はちょっとしたゲームをしようと思うんだが――いかがかな」
「ゲーム……だと?」
「そう。ゲームだ。私達は、これからの三日間、一日に一回だけ、聖杯を奪うために、この神殿を襲撃をする。君たちはそれを十分な準備をしてから迎え撃つ。最後まで聖杯を守り切れれば君達の勝ち。もしも聖杯を奪われたら、私達の勝ちだ。――どうだ、わかりやすいだろう?」
「ふざけるな! 誰がそんな下らない事に付き合うか!」
 マッドの馬鹿げた提案を、ティリアムは迷う事なく切り捨てる。
 男の半開きの口から、また笑いがこぼれた。
「……そうもいかないだろう? 君達は、聖杯を守らねばならない。襲撃されれば、当然のように抵抗する。それだけで、すでに私からすればゲームに参加しているのと同じ事だ。君達は、すでに無条件で参加者なのだよ」
「……勝手な男ね」
 フォルシアが、さすがに呆れた様子で言った。
 それに、マッドは楽しそうにくっくっと笑う。
「否定はしないさ。まあ、君達は、今まで通り聖杯を守れば良いだけの話。しかも、ゲームに勝てれば、今回の襲撃はそれで防げるわけだ。そう考えれば悪い話でもないだろう? ――ただし」
 そこで男の首が、がくりと下を向いた。
「ゲームというのは大概、始めた側が有利なものだがね」
「……なっ!」
 リラが驚愕の声を上げた。
 突然、痙攣しだした男の背中がぼこりと盛り上がったかと思うと、その身体が一気に数倍にまで膨れ上がったのだ。同時に黒く変色した皮膚は硬質化し、額からは白い角がずるりと生える。歯や爪は、まるで野獣のように鋭く伸びていった。
 オーシャが思わず両手で口を押さえる。
「ティル、これって……!」
 ティリアムは重々しく頷いた。
「……ああ、人間の《デモン・ティーア》化だ」
 脳裏に浮かぶのは、シーナ王国でのフィーマルの姿だ。彼もまた、《デモンズ》の血肉から作り出された種を肉体に撃ち込まれ、《デモン・ティーア》へと変貌させられた。
 そして、彼の命を絶ったのは、他でもない――ティリアム自身だ。
(……一体、どこまで……!)
 大剣の柄を持つ手に、ティリアムは込み上げる怒りのままにぎりっと力を込めた。
「ちょっ……なんか外から……!」
 不意にロウが焦った声を上げた。
 男の変貌に呆気に取られていた皆が、さらにその後方の神殿の入口へと視線を向ける。
「……ここまで――するのですか」
 マリアが震えた声をこぼす。
 広間へと姿を見せたのは、先ほどの男と同じように正気を失った人間の群れだった。数は四十から五十近く、大人の男だけではなく、女や子供、老人も多く混ざっている。服装から、おそらく全てが神殿を訪れた巡礼者達だ。
 彼らもまた、最初の男の後を追うように、次々と《デモン・ティーア》へと姿を変えていった。
「さあ、ファースト・ゲームだ。襲い来る《デモン・ティーア》の群れから、聖杯を守り切ってくれたまえ」
 最初に《デモン・ティーア》化した男の口で、マッドが高らかにゲームの開始を告げる。
「君達の奮戦に期待するよ。では、御機嫌よう」
 最後にそう言い残し、そのまま声は途切れた。
 不意に、《デモン・ティーア》ひしめく広間に、がしゃんと金属音が響いた。
 リラが手にした剣で床を叩いたのだ。
「こんな……こんな……非道な事をしておいて――これをゲームだと言い切るの……っ!」
 溢れる嚇怒に肩を震わせながらリラが絞り出すような声で叫ぶ。
「ティリアム様! 彼らの命は――人の命は、そんなに軽いというのですか……!?」
「リラ、落ち着け」
 隣のロウが、さすがに真剣な顔で彼女の肩を掴む。
「ティリアム様に当たってどうするんだ。俺達が今やるべき事はそんな事じゃないだろ。自分が神威騎士団の団長である事を忘れるな」
「……ロウ」
 それで、ようやく落ち着きを取り戻したのか、リラは大きく息を吐いた。
「……ごめんなさい。――ティリアム様も申し訳ありません……」
 ティリアムは頭を振って、リラの肩を優しく叩いた。
「……気にするなよ。俺も同じ気持ちだ」
 そして、広間の半分を埋め尽くそうかという、先ほどまでは普通の巡礼者達だったはずの《デモン・ティーア》の群れを見渡す。
「ともかく、こいつらを解放してやらないとな」
「やはり……斬るしかないのですか」
 できる事なら、そんな事はしたくはない。
 リラの声は、そんな辛い思いのこもったものだった。
 《デモン・ティーア》化したのは、神殿を訪れた信心深い巡礼者達――本来ならば、リラ達、神威騎士団の守るべき人々だ。
 しかし――
「……もう、ああなってしまったら……駄目なんです……」
 オーシャが答え、込み上げるものを抑えるように唇を噛んだ。
「そう――ですか」
「……辛いのなら、いいんだぞ」
「いえ、退きません」
 ティリアムの言葉を遮って、リラは強い決意を口にする。
「我々が守るべき人々であったからこそ、我々自身の手で決着をつけねばいけないのです。だから決して退きません――いえ、退けないのです」
「……ああ、そうだよな」
 ロウも頷き、その内心を表すように剣の柄を強く握る。
「……そうか、わかったよ」
 ティリアムは首肯し、改めて《デモン・ティーア》の群れへと向き直る。
 そして、剣を構え直すと、《デモン》化を発動した。
 瞳が血を流し込んだかのように紅く染まり、破壊衝動と共に全身に力が漲っていく。
 リラは大きく息を吸うと、声を張った。
「剣を抜け! その誇りと魂を、信ずべき我らの女神と愛すべき我らの宗主に捧げし、騎士達よ!」
 その言葉に従って、背後で騎士達が一斉に剣を抜き放った。
 さらに、リラは剣を天高く掲げ、声高に叫ぶ。
「我らの手で、忌まわしき呪縛から信徒達を解放する!」
 神威騎士だけでなく、城から援軍に来た王国騎士も剣を掲げて咆哮した。
「――かかれ!」
 リラが掲げた剣を振り下ろし、騎士達は《デモン・ティーア》の群れへと飛び込んでいく。
 《デモン・ティーア》達の方も、それを待っていたかのように行動を開始した。
 本来、女神への深き静かな祈り捧げる空間は、その瞬間から戦場へと変わる。
 こうして。
 清らかな神殿を血に染める最初の戦いが幕を開けたのだった。


 広間に怒号と悲鳴の飛び交う中、一つの銃声が轟いた。
 同時に放たれた銃弾が騎士達の頭上の空を貫く。
 銃弾は一匹の《デモン・ティーア》の額に突き刺さって爆裂、頭部を粉々に破砕する。頭を失った《デモン・ティーア》は背中から崩れ落ちた。
 ジョンの得物である、銃身に紅い線の入った銀の拳銃――《爆龍の咆哮》だ。
 さらにジョンは、もう一丁の蒼い線の入った《瞬龍の咆哮》という名の銀銃を構える。
 今度の銃声は三つ。
 高速で飛翔した弾丸は、寸分違わず、別の《デモン・ティーア》の顔面に全て突き刺さった。
 しかし、《デモン・ティーア》はそれでも倒れず、足元に居た騎士に、その太い腕を振り下ろさんとする。
 刹那。
 腕を振り上げた《デモン・ティーア》の首に一筋の光が疾った。
 身体と切り離された頭は宙を舞い、鮮血と共に床に落ちる。
 表情一つ変えず、《デモン・ティーア》の首を刎ねたフォルシアは、その煌く長剣を手に、無数の敵の間を駆け抜ける。美しい金の髪を翻し、その手元から光の一撃が疾る度に、鮮血の糸を引きながら《デモン・ティーア》の頭がいくつも舞った。
 戦いの後方に立つオーシャは《白光の翼》を発現させると、光の弓矢を具現化する。そのまま一度に三つの矢をつがえ、引き絞る。迷いなく放たれた光矢は、少女の意思に従って、《デモン・ティーア》だけを次々と撃ち抜いていった。
 それを確認する暇も惜しむように、オーシャは素早く次の矢をつがえる。
 そのとき。
 騎士達の包囲を抜けた《デモン・ティーア》達が左右から少女へと襲いかかった。
 だがオーシャは防御も回避もしようとはしない。
 肉の裂ける音と共に鮮血が散った。
 オーシャのものではない。
 鋭い爪が少女の柔らかな肌を傷つけるよりも早く、《デモン・ティーア》が縦に両断されたのだ。
 さらに続けざまに、もう一匹も身体を横に分かたれる。
 二匹の敵を一瞬で屠り、少女の隣に大剣を手にしたティリアムが立つ。手にした刃には、先ほど敵を斬ったばかりだというのに、血糊は全くと言ってい良いほどついていない。その凄まじい剛剣に、ついた傍から血が全て吹き飛んでいるのだ。
 ティリアムは、オーシャに気遣った声をかける。
「無事か?」
「うん。ありがとう、ティル」
 オーシャは信頼の微笑を浮かべ、頷いた。
 《デモン》化は、ウィンリアの一件以来、さらに凄味を増していた。速力も膂力も以前とは比較にならない。
 微笑む女神に見守られながら、ティリアムは血塗れていく戦場の広間を見渡す。
 ジョン達はもちろん、騎士達も善戦していた。
 一対一では荷が重いと見て、一匹の《デモン・ティーア》に複数で挑む事で、確実に敵を葬っていっている。
 
 しかし――

「おい、あれを見ろ!」
 騎士の一人が声を上げた。
 神殿の入り口から、新たな巡礼者達が姿を見せたかと思えば、次々と《デモン・ティーア》化していったのだ。
「……増援か!」
 一体、何人を犠牲にしたのか。
 それに対する怒りもあったが、さらなる状況の悪化にティリアムは焦り覚える。
 数の差から考えて、こちらが負ける事はないだろう。
 だが、このままでは確実に、こちらも大きな被害を負う事になる。
 そうなれば、この先も、あと二回の襲撃を控えるこの戦いは、不利になる一方である。
 何より、多くの仲間が死に行く姿を、ティリアムは見たくはなかった。
(どうすればいい……)
 戦場が神殿内では、オーシャの魔法で薙ぎ払うわけにもいかない。そして、これだけの数の敵を外に誘き出すのは、まず不可能だ。
 何か――何か突破口は。
 ティリアムが必死に思考を巡らせていると――
「……気になるわね」
「フォルシア?」
 いつの間にか、隣にまでフォルシアが退いてきていた。
 ティリアムは、そちらに怪訝な顔を向ける。
「気になるって何がだ?」
 フォルシアは、険しく目を細める。
「おかしいと思わないの? 元々が人間だったとはいえ、今は理性を失った《デモン・ティーア》なんでしょう? それにしては動きが統制がされ過ぎているわ」
 フォルシアの言葉を受けて、ティリアムも《デモン・ティーア》の動きを注視する。
 すると、確かに《デモン・ティーア》達は、誰かの指示でも受けたかのような連携の取れた動きをしていた。不利な仲間がいれば援護に向かい、騎士の包囲の隙を見つけると、すかさずそこを抜けようと戦力を集わせているのだ。
 それは本能でのみ動く《デモン・ティーア》には、有り得ない動きだった。
 オーシャが目をしばたたかせる。
「まさか、この群れの統制を執っている《デモン・ティーア》がいるんですか?」
「もしも、いるとすれば、おそらく一番、安全な所にふんぞり返っている奴でしょうね」
「――マリア、上から確認できるか?」
 オーシャの脇に控えていたマリアに訊く。
 この場でそれを一番的確に判断できるのは、空を飛べる彼女だけのはずだ。
「わかりました。やってみましょう」
 マリアは迷わず請け負い、そのまま天井すれすれまで上昇した。戦場を上からじっくりと眺め――そして、程なくして声を上げた。
「! あいつです!」
 マリアの指を差した方向――そこには、最初にマッドの言葉を代弁した《デモン・ティーア》がいた。群れの後方で、他の《デモン・ティーア》に守られるように控えていたのだ。
 本当に、あの《デモン・ティーア》が、この群れの統制を執っているのなら、あれを倒せばそれがなくなり、一気にこの戦いの流れはこっちに傾くはずである。そうなれば、被害も最小限に抑えられるはずだった。
「よし、俺が突っ込む! 二人とも、援護を頼むぞ!」
 オーシャとフォルシアが頷くのを確認して、ティリアムは床を蹴った。
「どけっ!」
 咆哮と共に、《デモン・ティーア》の群れへと斬り込んで行く。《デモン・ティーア》達も自分達のかしらを守るために、ティリアムを止めようと動き出す。それらを大剣で斬り捨て、薙ぎ払い、ティリアムは突き進んだ。
 倒し切れない敵は、オーシャの光矢が、フォルシアの剣が打ち倒していく。
 この連携に、さしもの《デモン・ティーア》達もティリアムを止めきれない。
 少しずつ、少しずつ、目的の敵へと接近する。
 あと数歩で、頭の《デモン・ティーア》に剣が届く間合いに入ろうかという――その瞬間。
 七匹もの《デモン・ティーア》が、一斉にティリアムへと襲い掛かった。
「ちぃっ!」
 咄嗟に前方の二匹を叩き切る。
 さらに二匹の頭をフォルシアが刎ね、もう二匹をオーシャの矢が撃ち抜いた。
 しかし、一匹が残ってしまった。
 剣を振り抜いたばかりのティリアムとフォルシアは反応出来ず、オーシャも必死に次の矢を放とうとするが、それも間に合わない。
 《デモン・ティーア》は鋭い爪の備わった手を、ティリアムへと容赦なく突き出した。
 防御も回避もできる体勢ではない。
 もう駄目かと思われた、その刹那。
 きぃんと空を裂く音が、ティリアムの耳朶を叩いた。
 《デモン・ティーア》が大きく仰け反り、額に穿たれた穴から血が噴出する。
 ティリアムは、その隙を見逃さず、すかさず首を刎ね飛ばした。
「ナイスだ、ジョン!」
 振り向かず、絶妙な援護をくれた男への礼の言葉を叫ぶと、ティリアムは頭の《デモン・ティーア》へと一足で肉薄する。
 身を守る暇も与えない。
 渾身の一撃で、頭から股まで一気に断った。
「どうだ!」
 《デモン・ティーア》が崩れ落ちたのを確認しながら、ティリアムは戦場を振り向く。
「!? これは……!」
 騎士達の指揮を執り、自身も前線で戦っていたリラが瞠目する。
 ティリアムが頭の《デモン・ティーア》を倒したその瞬間。
 他の《デモン・ティーア》が時でも止まったかのようにぴたりと動きを止めたのだ。そして、そのまま全ての《デモン・ティーア》は一斉に床へと倒れ伏していった。その後は、もうぴくりとも動かない。
 広間にいた皆が、ただ呆然とその光景を眺める事しか出来なかった。
「一体、何が……」
 ティリアムが呻くように言った。
 誰も答えられない中、マリアだけが一人納得したように頷いた。
「……どうやら、さっき倒した奴は、統制を執るための知性を与えられただけじゃなく、この場にいる《デモン・ティーア》の心臓役も担っていたみたいですね」
「……どういう事だ?」
「ここに送られた《デモン・ティーア》は全て、ティリアムが倒した頭の《デモン・ティーア》を心臓にして一つに繋がっていたんですよ。そうする事で言葉や仕草で指示する必要なく、全員の統制が執れるようになっていた。ただ、その代償として、心臓役である《デモン・ティーア》が倒れれば、他の戦闘員の《デモン・ティーア》も全て息絶えると言う仕掛けだったんでしょうね」
「――凝った仕掛けだな」
 《デモン》化を解きながら、ティリアムは忌々しげに吐き捨てる。
 不意にマッドの考えを悟り、胸に蟠る気持ち悪いものを感じ取らずにはいられなかったのだ。
 あの男はあえて、こちらにも不利な状況を打破できるチャンスを与えておいたのだろう。
 一方的になってしまっては面白くない――
 おそらくは、そんな、まさにゲームを楽しむような感覚で。
 だが、それでも最終的には間違いなく自身の手に聖杯が手に入るように、あの男は計算しているはずだ。
 これは、もはや確信に近い。
 気の滅入る思考をとりあえず振り払って、ティリアムは大きく息を吐いた。
「ともかく――終わったのか」
 途端、その声は広間に流れた。
「――いや、お見事。よくぞ、《デモン・ティーア》の統率者の存在に気づいたものだ。驚いたよ。ふふ、やはり、この興奮がゲームの醍醐味だと思わないかな?」
 ティリアムが両断した《デモン・ティーア》の口から、その声は漏れ聞こえていた。
「……マッド!」
 マッドは、ティリアムの怒りを嘲笑うかのように、愉悦の笑いをこぼす。
「さて、ファースト・ゲームは君達の勝利だ。セカンド・ゲームを、ぜひお楽しみに――……」
 捨て台詞と共に、マッドの声は再び消えた。
「……人の神経を逆撫でして、楽しんでやがる。本当に胸糞悪い奴だ」
「全くね」
 ジョンの言葉に、剣の血糊を拭き取りながらフォルシアが同意する。
「彼らの遺体は、この地に丁重に埋葬します。聖地に葬られたのなら、彼らの魂も少しは救われるでしょうから……」
 リラが悲痛な表情で、罪のない巡礼者達だった――今は醜い《デモン・ティーア》へと変えられてしまった死体を見つめながら言った。
「ああ、そうしよう。もう俺らに出来る事はそれぐらいしかないしな……」
 ロウが首肯し、他の騎士達も無言でそれに頷いていた。
 彼らの間に勝利の喜びはなく、広間に漂う血臭と共に、ただただ重い空気が立ち込めていた。
「なんとも……後味の悪い勝利ですね」
「……いや、俺達は勝ってなんかいない」
 マリアが小さく漏らした言葉を、ティリアムは否定した。
「この結果も、どうせあの男の計画通り。俺達は、それに踊らされているだけ――いや、聖杯を守るために踊らされるしかなかった」
「……そうだね」
 オーシャが肯定する。
 しかし、その目は、すでに悲しみの先を見据えていた。
「でも、だからこそ、絶対に聖杯は守り抜こう。じゃないと、この犠牲も全部、無駄になっちゃうから……」
「ああ、絶対に――守るさ」
 ティリアムは固い決意を込めて、そう答えた。


 フェイナーン神殿から、半日ほど歩いた森に中にある《ヴェルト・ケーニヒ》時代のさびれた遺跡――そこに残された比較的、かつての形を残した建物の一つにマッド・グレンティーンらは潜んでいた。
 《デモン・ティーア》に繋げていた精神の糸を切り、ゆっくりと目を開くと、マッドは薄っすらと笑みを浮かべる。
「……こうも思い通りに事が動いてくれると爽快ですらあるな」
 呟くと、椅子の背もたれに深く背中を預けた。
 同時に、古びた扉が荒々しく開け放たれる。
 姿は見せたのは、マッドと同じ《イミタツィオン》の一人である巨漢の男――ゴードン・クラースだ。その顔は、激しい怒りに満ちていた。
 ゴードンは、早足でマッドに歩み寄ると、マッドの胸倉を力任せに掴み上げる。
 それでも笑みは崩さず、マッドは肩を竦めた。
「なんだい、ゴードン君。入ってくるなり。せめてノックぐらいするのが礼儀だと思うんだがね」
「黙れ!」
 ゴードンは、マッドの軽口を一言で切り捨てる。
「なぜ、我に黙って勝手に動いた! しかも、無関係な人間をあれほど犠牲にするとは……何を考えている!」
「落ち着け。どうせ、最終的には世界ごと滅ぼすのだ。ここで他人の百人や二百人死んだ所で、何の問題もないだろう?」
「貴様――!」
 ゴードンは柳眉を逆立て、胸倉を掴む手にさらに力を込める。
 しかし、マッドは、ただただそれを嘲笑った。
「エリックは、我々に聖杯を奪って来いと命じたのだ。安心してくれ。最後には邪魔者を始末し、きっちり聖杯も手に入れてみせようじゃないか」
「命を軽々しく犠牲にする計画は、我には許容できん!」
「そうかい? だったら、別に構わないよ。ただ、こう見えても私は案外、デリケートでね。事が思い通りにいかないとなったら、憂さ晴らしに聖地の人間を何十人か惨殺してしまうかもしれない」
「…………っ!」
「さて、どうする? 私の計画は破棄するかい?」
 ぎりっとゴードンは歯軋りをする。
 おそらく胸中では、激しい葛藤が渦巻いているのだろう。
 それはマッドには理解出来ない、愚かで馬鹿馬鹿しい思考だ。
「……貴様には従う。だが、必要以上の犠牲は許さん」
 数瞬の迷いの末に、ゴードンは絞り出したような掠れた声でそう言った。
 マッドは嘘くさい仕草で頷いてみせる。
「ああ、わかったよ。善処しよう」
 ゴードンは、それを聞いてようやく手を離すと、もう何も言う事なく部屋を立ち去って行った。
 それを見送ったマッドは白衣を正し、眼鏡を指で押し上げる。
「世界を滅ぼす計画に加担する者が、目先の人間の死が許せないとは――全く理解出来ないね」
 言って、喉の奥でくっくっと笑う。
 だが、だからこそ扱いやすい。
 適当な人間の命をちらつかせれば、先ほどのように容易く言う事を聞かせる事が出来る。
 マッドからすれば、同志であるはずのゴードンですら――《デンメルング》という組織ですら、自らの欲を満たすための駒でしかない。
「ティリアム・ウォーレンスにしろ、あの男にしろ、全く甘い事だ。他人を犠牲にしたくないがために、己を殺すとはな。そんな人生に意味などないだろうに」
 生きる事とは、すなわち自身の欲を満たす事だ。
 競う者を蹴落とし、上に居る者を貶め、下の者を踏みつけ、その上で欲しい物を手中にする。
 野生の獣ですら本能で行っている事を、彼らは理性という馬鹿げたもので押さえ込んでいるのだ。そんなものは、本来在るべき人の生き方ではないとマッドは思う。
 欲は、満たす事で初めて意味を成すのだ。
 故にマッドは求めていた。
 人の絶望を。
 人の死を。
 人の終焉を。
 それを見届ける瞬間が、何より彼を満たす。
 甘美な快楽と、変えがたい生の実感を与えるのだ。
 マッドは嗤う。
「今度は、お前が私を満たしてくれ、ティリアム・ウォーレンス……」
 そのとき。
 すうっとマッドの背後に人影が姿を見せる。
 物音一つさせず、まるで突然そこに出現したかのようだった。
「――お前か」
 それに気づいていたマッドは、不意に真顔になり呟いた。
 人影は黒装束の男の形を取ると、静かに跪いて頭を垂れた。
「やるべき事は理解しているな」
「はい」
 男は、無感情な声で答えた。
「よし、行け。お前の能力で、神殿の者達に素晴らしい演出を披露してやるがいい」
「――仰せのままに」
 男は姿を見せたときと同じように、音もなく消えた。
 マッドは、再び眼鏡を押し上げる。
 全ての計画は、彼を満たすためだけに動いている。
 抜かりは何一つない。
 神殿の者達は、聖杯を守るために彼の計画通りに動くしかないのだ。
「さあ、セカンド・ゲームだ。今度は、どのように踊ってくれるかな……」
 男の唇は、悪意に満ちた笑みで引き歪んでいた。


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