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エンジェル 四章

覚醒


―― 三 ――

 その少年の信ずるものは、剣だけだった。
 他には何も信じる事なく、彼は傭兵として戦場へと赴く。
 手にした刃で、人を斬り、刺し、抉り、己の身を紅で彩りながら、少年は戦い続けた。一つ彼の前で命が消える度に、彼の心は磨り減り、ひび割れ、壊れていく。
 だが、それで良いと少年は思った。
 壊れれば良い。狂えば良い。死ねば良い。
 そうなれば、ずっと自分を縛り、苦しめ続ける、果て無き悲しみと狂おしいほどの憎しみから解放されるはずだから――。
 いつしか少年は、踏みつけた命の数だけ名を広め、《鬼人》デモンという二つ名を得た。
 そう。

 ――忌まわしき罪の名を。


 ニスタリス。
 そんな名の小さな島国にある、閑散とした町。
 さびれた食堂の端で一人、少年は剣を抱くようにして椅子に腰掛けていた。
 近づく者はいない。
 皆、知っているのだ。
 彼こそが、鬼のような戦いぶりと氷のような冷酷さで《デモン》の二つ名で呼ばれる恐ろしき戦士である事を。
 皆、知っているのだ。
 彼が、決して他者と馴れ合う事なく、孤独に身を置く者だという事を。
 だが――
「えーと、君がティリアム・ウォーレンス?」
 名を呼ばれ、少年が顔を上げる。
 目の前に立っていたのは、人懐っこい笑顔を浮かべた一人の青年。
 身体つきからして、自分と同じ戦う者だという事はすぐにわかった。
 しかし、その真っ直ぐな感情を湛えた笑い顔は、戦士としては、ひどく違和感を覚えさせるものだ。
 青年が眉を寄せる。
「あれ? 違った? 《デモン》ティリアム・ウォーレンスだろう?」
「……だったら、何だ?」
「あ、やっぱりそうだよな。僕はウェイン。君みたいに二つ名はないんだけどさ、一応は傭兵をやってる。こう見えても腕は立つつもりなんだ」
「…………」
 親しげにウェインは話し、しかし、少年――ティリアムは表情一つ動かさず、青年の挙動を探っていた。
 自分は多くの命を奪い、それと同じくらい恨みを買っている。
 このウェインという青年が自分を狙ってきた刺客ではないという保証は何一つないのだ。
 例えそうでなくても、ティリアムは誰の言葉だろうが信じる事はない。
 そんなティリアムの内心をよそに、ウェインは場所に似合わぬ温和な笑顔のまま、こちらに向けて手を差し出してきた。
「……でさ、やっぱり傭兵なんて仕事は危険もつきものだし、一人でやっていくのは限界があるさろう? だから、今、この辺では一番名が売れてる君とパートナーに組みた……」
「断る」
 ティリアムは、最後まで聞く事なく断じた。
「俺は誰とも組まない。他を当たれ」
 言うと、ふいっと顔を逸らす。
 誰かと共に戦うなど、ティリアムには考えられない事だった。
 下手に信じれば、いつ背中から刺されるかわからないのだ。
 しかし、はっきりと拒絶されても、青年は動じなかった。
「まあまあ、そう言わずにさ」
 ティリアムの肩を気軽に叩き――

 瞬間。

 少年の手にした剣が鞘を滑った。
 刹那の間に、引き寄せたウェインの首に刃がぴたりと当てられる。
「俺に触るな。消えろ」
 冷たい殺気を込めた声で言う。
 普通の人間なら、ここまでされれば諦めるはずだ。
 ティリアムはそう思っていた。
 事実、今まではそうだったのだ。
 だが。
 ウェインは怒る事も、眼前にある刃に恐怖する事もなく、呆れた顔で肩を竦めるだけだった。
「……血の気が多いなぁ。そんな事じゃ――」
「!」
 不意に、青年の身体が旋回した。
 胸倉を掴んでいた手がいとも容易く剥がされ、手にした剣の切っ先は床に向けられる。
 瞬時にティリアムの背後に回ったウェインは、呆然とするティリアムの肩を押さえ、すとんと再び椅子へと座らせた。
「肩が凝って疲れるぞ?」
 見た事もない、そして、あまりに自然な動作。
 殺気すら発する事なく、まさに一瞬でウェインはティリアムの拘束から逃れたのだ。
 あの《デモン》が軽く受け流された事に、食堂にいる数少ない他の客達が僅かにどよめいた。
 その声で我に返ったティリアムは、きっと背後の青年を睨む。
 ここまで掴み所のない男は初めてだった。
 自分を恐れる事なく、近づいて来る男も。
「――何なんだ、お前は?」
 ティリアムの苛立った声の問いに、
「今から、君の友人兼パートナー候補さ」
 ウェインはそう言い切るように答え、無邪気な笑みを浮かべた。


 深い森の中――
 葉の間から僅かに漏れる日差しの中で、ティリアムは巨木に身を預け、荒い呼吸を吐いていた。
「ティリアム! 大丈夫か!」
 そこに姿を見せたのは、数日前のあの出会い以来、半ば無理矢理にパートナーを名乗ってティリアムについて回っているウェインだった。
 ティリアムは、無関心な顔で、そちらに目を向ける。
 剣を持たない方の手で押さえた腹部の傷からは、どす黒い血が溢れ出していた。
「お前……ひどい傷じゃないか!」
 ティリアムの様子を見て、普段は飄々としているウェインが表情を険しくする。
 傍には、普通の人間の三倍はある巨体の《デモン・ティーア》が血の海を広げながら息絶えていた。
「だから、今回の相手はお前で一人じゃキツイって言ったのに! すぐに街に戻って治療しよう!」
 ウェインが手を差し伸べてくるが、ティリアムは拒絶するように顔を背けた。
「――放って置いてくれ」
「何を言ってるんだ! ほら!」
 手を掴むように促すが、ティリアムは応えない。
 何か気づいたように、ウェインの瞳に厳しい光が宿る。
「――ティリアム……お前、もしかして、死んでも良いとか思ってるのか?」
「……そうだ」
 顔を背けたままに、ティリアムは答えた。
「俺が傭兵をやっているのは生きるためなんかじゃない。誰かの役に立つためでもない。早く……出来るだけ早く……死ぬためだ」
 生気のない顔で、ティリアムは自嘲の笑みをこぼす。
「だから、俺の事を放って置け。このまま死ぬというのなら、俺は別にそれでも構わな――っ!」
 言い切る前に、突然、頭部に衝撃が走った。
 ウェインが、拳でごついてきたのだ。
 まったく予想だにしない行動に、ティリアムが驚いた顔で青年の顔を見る。
 ウェインの面には、怒りと呆れが混ぜこぜになった表情があった。
「お前……馬鹿か」
「……何?」
 目を見開くティリアムの鼻先に、ウェインは指を突きつける。
「本当に死にたい奴はな、そもそも傭兵なんてやらないんだよ! 死にたいんなら、その手に持ってる剣で心臓を貫けばいい! 喉を裂けばいい! それだけで人間なんか簡単に死ねる!」
「…………」
「なのに、何故、お前はそうしない? 簡単だよ。お前は心から死にたいなんて思ってないんだ。そう思い込む事で、生きる事の辛さから、苦しみから逃げようとしているだけなんだよ!」
「…………」
 応えられないティリアムの足元に跪くと、ウェインは無理矢理に応急処置を施していく。
「僕は絶対に、お前を死なせない。生きる事に絶望している振りをしているだけの男を死なせてなんか堪るか! 意地でも生きてもらうからな!」
「……お前は、何故そこまで……」
 ティリアムが呆然と呟く。
 処置の手を止めず、一転してウェインは微笑んだ。
「言ったじゃないか。僕はティリアムの相棒なんだ。相棒を助けるのは、当たり前の事だろ」
「――おかしな……奴だ」
「それは、お互い様だろう?」
 こちらを見上げて、ウェインが笑った
 ティリアムの口元にも、薄っすらと笑みが浮かぶ。
 それは。
 ウェインの前で――そして、母を失ってから、少年が初めて見せた笑顔だった。
「……そうだな」
 久しく忘れていた心地良い感情に身を委ねながら、ティリアムは木漏れ日の光る天を仰いだ。
 ――この日から。
 ウェインは、ティリアムにとっての本当の相棒となったのだった――


 手にした葡萄酒の入ったグラスをぼんやりと眺めながら、ティリアムは小さくを息を吐いた。
 フェイナーン神殿に辿り着いて、最初の夜。
 闇に包まれた世界は、危機が迫っている事など全く感じさせない静けさに満ちている。
 割り当てられた部屋で、久々に酒など嗜みながら、ティリアムは、かつての友との出会いを思い返していた。
 夜、一人になると、よくあのときの事を思い出す。
 今は亡き友。
 彼の命を奪った仇は、未だ見つかってはいない。
 それを見つけ出し、友の仇を取る事は、ティリアムにとって胸に秘めた人生の目的の一つでもある。
 だが、オーシャと出会い、世界の危機を知り、今はそちらの解決に気持ちを向けていた。
 当然だ。
 世界がなくなってしまえば、敵討ちなどとは言ってはいられない。
 しかし、全てが終わった後は、再び仇を探すつもりだった。
 顔も、名も、友を殺した目的もわからない。
 探し出す事は困難を極めるだろう。
(それでも……必ず見つけ出す……!)
 決意と共に、グラスを持つ手に力を込める。
 この事は、オーシャには告げていない。
 あの純粋な少女には、仇討ちなどという血生臭い話は出来るだけしたくなかった。
 それが、甘い事だという事がわかっていても。
「ウェイン……こんな俺を見たら、お前はなんて言うんだろうな……」
 呟き、苦笑を口元に刻んだ。
 すでにいない友への寂しさがこもった問いは、ゆっくりと静寂に溶けていった。
 と。
 不意に、控えめに扉がノックされた。
 時計を見れば、もう夜の二時を回っている。
「――入っていいぞ、オーシャ」
 訪ねて来た人物に当たりをつけ、ティリアムは言った。
 扉がゆっくり開くと、少し申し訳無さそうにした黒髪の少女が姿を見せる。
「……どうして、わかっちゃうかなぁ」
「ま、昨日今日に始まった事じゃないからな」
 視線で促すと、オーシャはおずおずと部屋へと入ってくる。そのまま傍に置かれたベッドに腰掛けた。
 オーシャはすまなさそうに肩を落とす。
「ごめんね。どうしても一人で眠れなくて……」
「気にするなよ。無理ないんだから」
 ウィンリアでの事件の際、オーシャは、自分が世界破壊という目的のために《デンメルング》によって造られた魔導人間である事を知った。
 表面的には、その事実を乗り越えた風に振るまってはいるが、実は未だに不安で夜も眠れない事が多く、その度に彼女はティリアムの部屋を訪れていた。
 マリアの方は責任を感じ、気を遣っているのか――そんなときは決まって、何も言わずに《フリューゲル》の中へと戻っていた。

 ――自分という存在が根本的に周囲の者達とは違い、しかも、生み出された理由は、世界を壊すためという最悪なもの。

 この事が少女の心にどれほどの負担をかけているのかを慮れば、ティリアムも辛く、同時にどうしようもない怒りを覚える。
 だが、ティリアムには――いや、他の誰であろうと彼女の不安を全て取り除ける魔法のような言葉はないだろう。どんなにオーシャにとって辛く重い真実でも、これは彼女自身の中で決着をつけ、乗り越えなければならない。自分という存在がどんなものであろうと、自分は自分だ――そんな確固たる思いを己の内に形作るしかないのだ。
「ねぇ、ティル」
 沈黙が訪れるのを避けるように、オーシャが口を開いた。
「ん?」
「今日も……その……ここで一緒に寝てもいいよね……?」
 オーシャは恥ずかしくて堪らないのか、顔は面白いほどに真っ赤だった。
「ああ。……って、さっきも言ったけど、昨日今日始まった事じゃないんだから、そこまで照れるなよ」
「あ、あのね……!」
 オーシャは半眼になって、睨みつけてくる。
「女の子が、男の人の部屋で寝たいなんて言うの、どれだけ勇気がいる事なのかわかってる?」
「いや、わからん事もないんだけどさ。別に一緒のベッドで寝るわけでもなし……」
「あ、当たり前だよ!!」
 だん、と立ち上がったオーシャが慌てた声を上げる。
 ティリアムは、立てた指を口に当てた。
「静かにしろよ。みんな、寝てるんだから」
「……ティ、ティルが変な事言うから悪いのに……」
 ぶつぶつ言いながらも、オーシャは再び腰を下ろした。
 その後、なんとなく会話がなくなる。
 ティリアムは、別段何とも思わず葡萄酒を味わっていた。
 しかし、オーシャの方は落ち着かない様子で俯き、こちらをチラチラと覗ってくる。
「……どうした?」
 あまりに何度も見てくるので、逆にティリアムの方が耐えかねて訊いていた。
「え? いや……うん……」
 床を見て、天井を見て、自分の手元を見て――と散々に視線を泳がせた後、オーシャは改めて言った。
「あの、ね……」
「ああ」
「隣に……来てくれる?」
 このお願いに、ティリアムは目をしばたたかせた。
 そして、呆れ顔で溜め息を吐く。
「……あのな。それぐらいの事で、そこまで間を取るなよ」
「は、恥ずかしかったの!」
 憤るオーシャに苦笑いしつつ、ティリアムは立ち上がった。
 どこか緊張気味な少女の隣へと移動すると、問い掛ける。
「これで良いのか?」
「――うん」
 控えめな動きで、オーシャはティリアムの肩にそっと頭をもたれかけさせた。
 ティリアムは優しく微笑んだ後――はっと目を見開いた。
 いつの間にか、少女の目元に涙が光っていたのだ。
「……まだ、辛いんだな」
 オーシャは黒瞳を悲しみで揺らし、目を伏せた。
「我ながら情けないよ。ジョンさん達の前では強がって見せたけど、本当は何にも消化出来てなんかいないの。夜に一人で居ると、自分という存在が足元から崩れていくような気がして――言いようのない不安に襲われる」
「お前と同じ立場なれば、誰だってそうさ」
「例えそうでも……私はもっと強くなりたい。強くならないと誰も護る事ができないから。みんなを、マリアを――ティルを守る事ができないから……」
「…………」
 ティリアムは、少女の小さな手を包み込むように握る。
 オーシャは少しだけ身を固くしたが、何も言う事なく受け入れた。
「……強さなんて、焦っても、無理しても、手に入るもんじゃないさ。辛いときは、いつでも俺達に寄りかかっていいんだ。お前が、俺達を守りたいって思うのと同じくらい、俺達だってお前を守りたいと思ってるんだからな」
「……うん。そうだね」
 そこで、また少し沈黙が訪れて――。
 引き寄せられるように、二人は、そっと唇を交わした。


 翌日。
 ティリアムは、サレファに突然の呼び出しを受けて、宗主の執務室の前に立っていた。
 《聖器》に関しての事か思ったが、呼びに来たリラの様子や、自分だけを名指しにした事から考えると、どうやら違うらしい。
 しかし、いくら考えても、昨日顔を合わせたばかりの宗主の少女が自分と何の話をしたいのか心当たりはなかった。
 僅かな疑念を覚えながら、上品な意匠を施してある木造りの扉を叩いた。
「――はい」
 よく通る少女の返事を聞いてから、ティリアムは扉を開けて部屋に入る。
「失礼します」
 サレファは容姿にそぐわぬ大人びた微笑でティリアムを出迎えた。
「ああ、ティリアムさん。よく来てくれました。どうぞ、そこに座ってください」
 薦められるままに、置かれていた椅子に腰を下ろす。
 使う人間の小柄な身体から考えて、不釣合いに思える大きく立派な執務机ごしに、ティリアムとサレファは向かい合った。
 ティリアムは、改めて問う。
「……それで、話というのは?」
「ええ。確認したい事があったんです」
「確認?」
 訊き返すと、サレファは静かに眼を伏せ、机の上で手を組み合わせた。
「……ティリアムさんは――ウェインという名の人物を知っていますね」
「…………!」
 思わぬ人物から、亡き友の名が出てきた事に、ティリアムは驚きを隠せなかった。しかも、彼女はティリアムがウェインの事を知っている事に確信を持っている様子だった。
 一拍、間を置いて、ティリアムは返事をした。
「――ええ、知っています」
 サレファは、ティリアムの返答を吟味でもするかのように目を閉じて、しばらく無言を保つ。
 小鳥のさえずり。
 木々の葉擦れの音。
 それらが、静寂の中で響く。
 いつまでも続くかと思われた沈黙を破って、おもむろにサレファが口を開いた。
「……私には兄がいました」
 言葉の意味をティリアムが問うよりも早く、サレファは先を続ける。
「先代の宗主――つまり私の母が引取った孤児でしたから、血の繋がりはありませんでした。でも、私は本当の兄のように慕っていたんです。一時は神威騎士団の所属したいた事もありましたが、七年ほど前に突然騎士をやめると、神殿を出て行ってしまいました」
 サレファは、懐かしそうに目を細めた。
「もともと一つの場所に留まり続けるのは苦手な人でしたから、それは自然の流れだったのかもしれませんね」
「その人は、今……どうしているんですか?」
 ティリアムは訊く。
 もはや答えが予想できている問いだったが、それでも訊かずにはいられなかった。
「四年前に、亡くなったと聞きました」
 サレファは静謐な眼差しでティリアムを見る。
「神殿を出てから、兄が最初で最後、私宛てにくれた手紙には、こう書かれていました。――『今は《デモン》の二つ名を持つ男と組んで、傭兵業をやっている』――と」
「…………」
「ティリアムさん。あなたが昔、パートナーを組んでいた傭兵の名はウェインですね」
「……そうです」
「私の兄の名もまた――ウェインといいました」
「…………」
「兄は……やはり亡くなったのですか?」
「――間違い……ありません」
 ティリアムの絞り出した答えを聞くと、サレファは重い息を吐いた。
「もうずっと前に受け入れた事ですが――やはり、兄は貴方と共に歩み、そして、もう逝ってしまったのですね」
 過去の悔恨、怒り、悲しみ、それぞれがごちゃまぜになった感情に押されるがままに、ティリアムは拳を強く握った。
「俺の……せいなんです。俺はウェインを守れなかった。ただ、腕の中で死に行くあいつを見送る事しか出来なかった……っ!」
「ティリアムさん」
 激情に飲まれそうになるティリアムを諫めるように、至極、落ち着いた声でサレファは言った。
「一つだけ聞かせてください。ウェインは、兄は――どんな死に顔していましたか?」
 鈍い心の痛みと共に、過去の残影を呼び起こし、ティリアムは答えた。
「……笑っていました。満足そうに」
「そうですか」
 サレファは微笑を浮かべた。
「……私は、貴方を責めるつもりは毛頭ありません。きっと兄にとって、貴方と過ごした日々は、それだけ充足したものだったのでしょう。それがわかれば、私は十分です」
「だけど……!」
 もう、こみ上げるものが抑え切れなかった。
 俯き、溜め込んでいた後悔の思いを、ティリアムは吐き出していく。
「俺はあいつに救われたんだ! 人の心を、命を、捨てようとしていた俺を引き止め、この破壊しか出来ないと思っていた《鬼人族》デモンズの力を、護る力に出来るんだと教えてくれた。命を奪うんじゃない、何かを壊すんじゃない、大切な人達を守る事ができるんだと。なのに俺は――俺は本当に守りたかったあいつが死んで行くのを看取る事しか出来なかったっ!」
 サレファは、ティリアムの元に歩み寄ると、震える肩に優しく手を添えた。
「ティリアムさん。世界は広く、命は星の数ほど存在します。故に、どんな強い力を持っていようと、その手から零れ落ちてしまう命はある。人は決して完璧には成り得ないのですから。
 理不尽な事ですが、これはどうしようもない現実――でも、貴方は兄の死を悼み、心から悲しんでくれている。それだけで、私にはもう貴方を責める理由がないんですよ」
「…………」
「お礼を言わせて下さい。そこまで兄の事を想い、そして最期を看取ってくれて、ありがとうございました」
「……礼なんて言わないで下さい……俺にそんな資格はないんだ」
「そんな事はありません。笑顔で逝けたのなら、兄は何も後悔などしていなかったはずです。当然、貴方を恨む事もしてなんかいませんよ」
 ティリアムはようやく顔を上げて、とても年下とは思えない言動をする少女の顔を見る。
「……まるで、自分の事のように言うんですね」
 サレファは、ティリアムが初めて見る悪戯っぽい笑い方をした。
「当然です。ウェインは、私の兄ですから」
 ティリアムは、それに苦笑で応える。そして椅子から腰を上げると、かつての相棒の妹と真っ直ぐと向き合った。
「宗主――いや、サレファ」
「はい」
「たぶん、今の俺に言える言葉は、もうこれしかないと思う。だから、言わせて欲しい」
「――はい」
「……本当にすまない。それと――ありがとう」
 ティリアムは心からの謝罪と感謝の言葉を述べ、深々と頭を下げたのだった。


 執務室を出ると、外ではオーシャが何か考え込んでいる様子で一人で立っていた。
 これを予想していなかったティリアムは、驚いて目を見開いた。
 そして、まだ僅かばかり残っている動揺を悟られないように、出来るだけいつもの態度を装いつつ声を掛けた。
「何だ、オーシャ。こんな所で、どうしたんだ?」
 オーシャは、はっと我に変えると、取り繕うように微笑を浮かべて見せた。
「……あ、うん、宗主様との話って何かな、って思って……」
「まあ、ちょっと、な」
「ティル――何だか少し辛そうだよ? 何かあったの?」
 オーシャはこちらに歩み寄ってくると、ひどく心配そうに顔を覗き込んでくる。
(……本当、こういう所は鋭いな、こいつは……)
 ティリアムは胸中で苦笑し、無用な心配させないように気丈に笑って見せた。
「平気さ。たいした事じゃないんだ」
「……そう。なら、良いんだけど」
 オーシャも何か察したのか、それ以上は何も訊こうとはしなかった。
 そのまま二人は他愛もない話をしながら、部屋へ戻ろうと廊下を歩き始め――
「――あの、ちょっと、すいません!!」
 突然、背後から上がった声に二人が振り向くと、神威騎士団の鎧を身につけた人物が、こちらに駆けて来ていた。
 深い茶髪に鈍色の瞳、妙に軽い雰囲気を漂わせてはいたが、かなりの整った顔立ちをした青年だった。
 青年は廊下の端に置かれた空の木箱を見つけると、そこに飛び込む。
「あの……リラの奴が来たら、俺は向こうに逃げたって言って下さい!」
「え? ……あ、ああ、わかった」
 ティリアムが呆然としたまま答えると、「ありがとうございます!」と礼を言って、青年は木箱の中に完全に身を隠してしまう。
 状況を掴めないティリアム達の下に、程なくして激しく機嫌の悪そうなリラが姿を見せた。
「あ、ティリアム様にオーシャ様! ここに顔だけは整った軟派な空気を纏った騎士が来ませんでしたか?」
 殺気すら感じさせる双眸で周囲を見回しながら、リラは訊いてくる。
「な、軟派……」
 ものすごい皮肉のこもった表現にオーシャが頬を引きつらせた。
 彼女が探しているのが、さっきの青年騎士である事を咄嗟に察したティリアムは、リラと青年が来たのとは逆方向を指差して見せた。
「そいつなら、なんか、妙に焦った様子であっちに走って行ったぞ」
「そうですか! ありがとうございます!」
 普段とは別人のような凄みを感じさせるリラは礼を言うと、駆け足で立ち去って行った。
 オーシャは目をしばたたかせた。
「……何だったんだろう?」
「さあな。……おい、もう行ったぞ」
「――いや〜、ありがとうございます。本当、助かりました」
 器用に木箱の中から身体を抜き出した青年騎士は、頭を掻きながら、こっちに歩み寄ってくる。
「俺、ロウ・メルゼンって言います。見ての通り、神威騎士団の人間でして――お二人は、ティリアム・ウォーレンスさんに、オーシャ・ヴァレンタインちゃんですね」
「ちゃ、ちゃん……?」
 オーシャが目を丸くする。
 しかし、ロウは気にした様子もなく、さらに明るく続けた。
「お話は聞いてますよー。《デモンズ》やら、《フリューゲル》やら、とにかくものすごくお強いそうで」
「……わかってるっていうのか、それは?」
「まあまあ、細かい事は気にしないで下さいよー」
 ロウは誤魔化すように笑うと、顔の前でひらひらと手を振る。
 そして、オーシャの方へと向き直り、
「それにしてもオーシャちゃんが、こんな可愛らしい女の子だったなんてビックリしました」
「ひぇっ!?」
 オーシャが素っ頓狂な声を上げた。
 いきなりロウがオーシャの手を両手で掴んで、ぐっと身を寄せたのだ。
「どうですか? 俺と今からデートでもしません。きっと楽しいですよー」
「いえ、あの、こ、困りますから!」
 オーシャが慌てて断ると、ロウは拍子抜けするほど、あっさりと手を離した。
「――うーん、それは残念。嫌がる女の子を無理に連れ歩くのは俺のポリシーに反しますからね。ここは諦めときましょう」
 本当に残念がっているのか疑わしい呑気な顔で、「あははー」と笑う。
 ティリアムは呆れながら、ロウを見つめた。
「また、軽い騎士もいたもんだな……。一応は神殿に仕える身だろうに」
「いやいや、見ての通り、そういうお堅いのは苦手でして。騎士になったのも、「もう少し真面目になれ!」て言って、幼馴染のリラが半ば無理矢理に引き込んだからなんですよ。おかげで綺麗な神官さん達とお近づきになれたのはいいんですけど、神威騎士団は規律が厳しくて、肩が凝る、肩が凝る……」
「……まあ、肩が凝るっていうのは、少しだけわかる気がするな」
「でしょでしょ。一目見て、ティリアムさんはわかってくれると思ってたんですよ、俺ー」
 調子の良い事を言って、ロウは「うんうん」と何度も頷いた。
 もう、これにはティリアムも失笑するしかない。
「……あの、それで、どうしてリラさんから逃げてたんですか?」
 ようやく落ち着きを取り戻したオーシャが訊いた。
「ん? いや、実は見回りをサボって、フォルシアさんとお近づきになろうと思ったら、あいつに見つかっちゃったんです。それで必死に逃げてきたワケでして」
「フォ、フォルシアってお前……! 命知らずな。下手したら腕の一本くらい持っていかれるぞ?」
 ティリアムは彼女の冷たい眼差しを思い出し、寒気すら覚えながら呟いていた。
 ロウも、さすがに乾いた笑いを漏らす。
「あー、です。あの人は、すぐに下手に近づいちゃいけない人だってわかりましたから、やめときました」
「――それが的確な判断だよ。間違いなく」
 ティリアムは、相当に実感のこもった声で言った。
 ロウは苦笑して、周囲をきょろきょろと見回し始める。
「よし。それじゃ、リラに見つからないうちに俺はもう行きますね。実は、もうデートの約束が……」
「へえ……? 何の約束があるって……?」
 極寒の中から響いて来たような冷たい声は、ロウの背後からだった。
 ロウの肩ごしに声の主の見たティリアムとオーシャは、顔を強張らせながら後退りする。
 それ以上に盛大に顔を引きつらせながら、ロウはゆっくりと背後を振り向いた。
「リ、リ、リラ……!」
 立っていたのは、殺気に満ちた怒りのオーラを背中から立ち昇らせるリラだ。
「不届き者に聖杯が狙われているという今の状況で、見回りをサボって、女とデートだなんて良い身分ね、ロウ……」
「い、いや、あのさ。確かにその通りだけど、やっぱり気を張りすぎるのは、いろいろ精神的に良くないとか、そんな思いなワケで……」
「そう。だったら、私が、もっと楽にしてあげましょう……!」
 もはや見た者が恐怖しか覚えない笑顔で、リラが腰の剣を抜く。
 それを見て、ロウは一瞬で土下座に転じた。
「あの、もう、すいません! 生まれて来てごめんなさい! だから許して!」
「……心配しなくても大丈夫よ。死なない程度にしてあげるから!」
「そんな抜き身の剣を持ってたら、説得力ゼロなんですけど!?」
 説得は無理と判断したのか、ロウは立ち上がって踵を返すと、もはや振り返る事なく一目散に逃げ出した。
「死にたくはないんで……さいなら!」
「こら! 待ちなさい!!」
「絶対に待ってたまるかっ!!!」
 二人の凄まじいやり取りに口を挟む暇すらなかったティリアムとオーシャは、走り去っていく彼らの背中を見送る事しかできなかった。
「……大丈夫かな、ロウさん」
「……まあ、死なない程度にするって言ってたし、大丈夫じゃないか?」
 むしろ関わり合いになりたくない故の言い訳だったが、どちらにしろ、あの状態のリラを自分達に止められるとも思えなかった。なんか遠くから「早まるな、リラ!」とか「誰か、団長を止めろー!」とか聞こえたが、皆に悪いと思いつつも気のせいだと思い込んでおく事にする。
 ティリアムは肩を竦めると、溜息を吐いた。
「しかし、見回りをサボっただけで、あそこまで怒らなくてもいいだろうにな」
 オーシャは顎に指を当てながら、首を傾げた。
「常習犯だからじゃないかな? ロウさんの口ぶりからすると、そんな感じだったし」
「いや、そうだとしても、あれは怒り過ぎだと思うぞ」
「ふむ、俺が見た所――あれは嫉妬だな!」
「うおうっ!?」
 不意に真横に表れたジョンの顔に、ティリアムは普段は絶対に出さないような声を上げて、跳び退る。
「お、お前、どっから出てきた!」
「ふっ、前も言っただろう? ダンディな男はな……」
「あー、もういい。聞きたくない」
 先を聞く事を拒否して、ティリアムは耳を押さえる。
 オーシャは興味深げな顔で、頭二つは高いジョンを見上げた。
「ジョンさん。嫉妬って――リラさんがロウさんを好きだって事ですか?」
 ジョンが親指を立てて、頷いた。
「そうそう。ありゃー間違いないな」
「なんで、わかるんだよ?」
 ティリアムが疑いの眼差しを送ると、ジョンは腕を組んで笑う。
「経験豊かな男ってなぁ、女心の機微も見逃さないもんさ」
「機微って……リラの場合は、あからさまだったぞ」
「あっはっはっ! そうだなっ!」
「……いや、どっちなんだよ」
 豪快に笑うジョンに、ティリアムはうんざりした顔で肩を落とし――

 突然、神殿内に甲高い悲鳴が響き渡った。
 
 ティリアム達は、咄嗟に顔を見合わせる。
「ティル! オーシャ!」
 すると、神殿内を一人で見回っていたはずのマリアが廊下の奥から厳しい表情で飛んで来た。
「何があった?」
 ティリアムが険しい顔で問うと、マリアは自分が飛んで来た方を指で示した。
「襲撃です! おそらくは《デンメルング》の! 急いで、出口前の広間へ!」
「さっそく来たか……っ!」
 まるでティリアム達の到着を図ったかのようなタイミング。
 いや。
 あのマッドという男なら、それも有り得るだろう。
 オーシャが緊張感に満ちた顔で、ティリアムの腕を掴んだ。
「ティル……!」
「ああ、わかってる」
 ティリアムは皆と目配せした後。
 戦いの予感を感じ取りながら、広間に向けて駆けて出したのだった。


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