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エンジェル 一章

翼持つ者


―― 七 ――

 見た感じの年齢は、十五、六程だろうか。
 腰まで伸ばした亜麻色の髪に、深い茶の瞳。
 オーシャより僅かに小柄なその身を、黒を基調とした服で包んでいる。
 見た目だけなら、そこらの村娘だと言われても誰も疑わないかもしれない。
 だが、その少女は、その印象を否定する超然とした雰囲気を纏っていた。
「手酷くやられましたね」
 隣で膝を突くハロンを横目にしながら、少女が落ち着き払った口調で言った。
「お恥ずかしい……限りです。言い訳のしようもございません……イリア様」
 大量の出血で青い顔になったハロンが恭しく頭を下げる。
「しかし……何故、こちらに?」
「《白光の翼》の目覚めを感じました。同時に“彼女”の存在も。……やはり、全て仕組まれていたようですね」
 少女の視線が、倒れたオーシャへと向く。
 奥底にこそ隠されているが、そこに確かな憎悪の感情が込められてい事とに、ティリアムは気づいた。
 会話の内容に理解出来ない部分はあるが、どうやらイリアと呼ばれた少女は、組織でハロンより上の立場にある人間らしい。
 もちろん、少女の姿であろうと油断するつもりはない。
 あの程度の年齢でも、危険な人間など、ティリアムの生きてきた世界ではいくらでも居たのだ。
 そのとき、背後で呻き声がした。
 気を失っていたオーシャだ。
「オーシャっ」
 イリアと呼ばれた少女とハロンから意識を外さぬようにしながら、オーシャに駆け寄る。
「うっ……」
 そっとオーシャを抱き上げる。
 その瞼がゆっくりと持ち上げられた。
 瞳にティリアムの姿を映して、オーシャの顔に安堵の表情を浮かぶ。
 それはティリアムも同じだった。
「……大丈夫か?」
 オーシャは、苦痛を隠すように微笑む。
「うん……。良かった、無事だったんだね……」
「ああ、お前のおかげだ」
 オーシャが顔を巡らせ、イリア達の方に視線を向ける。
「……あの女の子は?」
「わからない。だが、敵なのは間違いないらしい。本人も認めたしな」
「…………!?」
 不意にオーシャが、どこか困惑した表情を浮かべる。
「どうした?」
「……う、ううん。なんだか、即視感デジャヴみたいなものが……」
「デジャヴ?」
 問い掛けにオーシャが答えるよりも早く、こちらにイリアが歩を進めてくる。その気配を察して、ティリアムは立ち上がると両手で大剣を構える。
 オーシャも、少しふらつきながらも一緒に立ち上がった。
 イリアは、ティリアム達から十分な間合いを取った位置で足を止める。
「いいかげん、姿を見せたらどうですか?」
「? 何を言っている」
 突然の言葉に、ティリアムが怪訝に眉根を寄せる。
 オーシャも、その意味を理解できず不思議そうにしていた。
 イリアが目を細める。
「……この期に及んでも表に出て来ない気なのか、それとも単に出て来れないのか。――まあ、どちらでも構いません。少々手荒になっても、無理矢理引き摺り出してあげましょう」
 その台詞がきっかけだった。
 イリアの瞳が、髪が――突如として深い黒に染まっていく。
 同時に、少女の小さな背中に生まれたのは、夜闇よりも濃い、全ての光を飲み込むような、否定するような、漆黒の翼。
 それは、オーシャとはまるで対象的な変貌だった。
「この娘も翼を――っ」
 オーシャが驚愕に呻く。
「出て来なさい。出て来ねば、貴女が導いたこの二人は、この場で死ぬ事になりますよ?」
 ――漆黒の少女の呼びかけに答える者はいない。
「それが貴女の答えならば」
 冷酷な呟きと共に漆黒の翼が黒く輝き、イリアが掲げた右の掌が同じく黒光に包まれる。
「――――っ!」
 ティリアムの全身に戦慄が走る。
 あの一撃は危険だと、あらゆる感覚が全力で警告を発していた。
 それは、あのハロンの雷刃を越えるものだ。
 だが、限界まで酷使された身体は、咄嗟にオーシャを庇って避けるだけの動きをしてくれない。
(くそっ――!)
 ティリアムの焦慮を嘲笑うように、黒光は少女の手から、残酷な威力を秘めたまま放たれる。
「させないっ!」
 その叫びと共に、ティリアムの前に立ちはだかったのは、再び白翼を背にしたオーシャだった。
 突き出した両手を中心に白い障壁が生まれ、そこにぶつかった黒光とせめぎあう。
「……ぐうううっ!!」
 だが、明らかに黒光の力が勝っていた。
 めきめきと音を立てながら障壁にひびが走っていく。
「オーシャっ!」
 限界を悟ったティリアムが、オーシャを抱きしめながら、その場を跳び退く。
 同時に障壁が崩壊し、黒光がそれを貫いた。そのまま地面に着弾し、破壊の衝撃波に二人はもみくちゃにされながら転がる。
「……うくっ……はっ!」
 肺から大きく息を吐き出しながら、ティリアムはなんとか立ち上がる。全身が痛むが、大きな傷を負わずに済んだようだった。
「無事か、オーシャ?」
「……う、うん」
 腕の中のオーシャは力なく頷く。さっきの障壁で残りの力を使い切ったのか、再び翼は消滅していた。地面に両手を突き、身体を持ち上げたものの、立ち上がる事は出来ない。
 そんな満身創痍の二人に、再度イリアが迫る。
 ティリアムはオーシャを背にして、少女の前に立ちはだかると大剣を構えた。
「《デモン》化もできない身体で、まだ戦う気ですか?」
「当たり前だ。お前の言ってる事は皆目わからないが、黙って殺される気はない」
 イリアは、哀れむような表情で首を横に振る。
「本来の力に覚醒出来ていない貴方では、どのみち勝ち目はありません。無駄な抵抗はやめなさい」
「本来の力……だと?」
「今度は外しません」
 ティリアムの疑問には答えず、イリアの双眸に殺意が宿る。
 先ほどと同じように掲げた右の掌に黒光が生まれた、そのとき――
 ティリアムの背後から、彼の両耳を掠めるように、二つの銃弾が飛来した。
 狙いは、イリアだ。
 イリアは慌てる事なく、黒光に包まれた右手を振るうと銃弾をあっさりと消し去ってしまう。
 刹那。
 イリアの身体が沈んだ。
 そのすぐ頭上を、高速で振るわれた刃が空気を裂いていった。
 背後から奇襲を仕掛けたのは、フォルシアだ。
 身を伏せたイリアの脳天に、美しい金髪をなびかせるフォルシアの斬撃が襲い掛かる。
 だが、イリアの姿は黒光そのものと化すと同時に消失し、フォルシアの長剣は地面に突き立つだけに終わった。
 気づけば、イリアはハロンの隣にまで退いている。
 フォルシアの剣をなんなく避けたその動きは、ティリアムにすら、まったく捉えられなかった。
「おう、生きてたか」
 手にした銀銃で肩を叩きながら姿を見せたジョンがティリアムの隣に立つ。さっきの銃弾も彼の仕業だろう。
「なんか状況はまったく掴めんが、面倒な事になってるみたいだな」
「ああ、最高にな」
 ティリアムが口元を皮肉めいた笑みで歪ませながら言う。
「まあ、今まで貴方が関わった事で面倒にならなかった事があったのか疑問だけれど」
 こんな状況でも、フォルシアは相変わらずの冷ややかな言葉を投げてくる。
 思わずティリアムの頬が引きつった。
「ま、とりあえず加勢するぞ。《デモン・ティーア》の方は、もう片付いたからな」
 ジョンが弾を銃に装填しながら頼もしくも言った。
「大丈夫、オーシャ?」
 フォルシアは一転、優しい声を出すと、オーシャに手を貸して立ち上がらせる。
「はい、なんとか……」
 オーシャは、皆を安心させようとしているのか弱々しくも微笑んで見せた。
「で、あの背中の妙な翼みたいなのは、何なの?」
 フォルシアは優しげな表情から、すぐさま厳しい顔つき戻ると、イリアを見据えながら訊く。
「すぐに説明したい所だが、少し長くなるな。とりあえず、この場を切り抜けてからだ」
 ティリアムも、イリアの様子を注意深く伺いつつ応えた。
 フォルシアとジョンが加勢に来てくれたとは言え、あの少女相手では、必ずしも優勢になったとは言えないだろう。それだけの底知れない何かが彼女にはあるとティリアムは確信していた。
「――ハロン、退きます」
 こちらの動向を警戒しているティリアム達の方を眺めながらイリアが囁くように言った。
「良いのですか? まだ、《白光の翼》の奪還は……」
 破った服で腕を縛り、止血を終えたハロンが訊く。
「他にも多数、人がこの場に近づく気配がします。これ以上、私達の力が目立つのは得策ではないでしょう。それに――」
 一旦、イリアは、そこで言葉を切った。
「“彼女”は、まだ姿を見せるつもりはないようですから」
「……承知しました」
 イリアが腕を振るうと、複雑な紋様で象られた魔法陣が、彼女とハロンの足元に広がっていく。
 ハロンが、ティリアム達に向けて、どこか無念そうな笑みを向ける。
「どうやら、今回はここまでのようです。……またお会いしましょう、ウォーレンス、オーシャ」
「……なっ、待てっ!」
 その言葉の意味を悟って、ティリアムが駆け出そうとする。
 だが、そんな制止を聞くはずもない。
 魔法陣が淡く輝きを放ったと思えば、イリアとハロンの姿は忽然と消失する。その後、魔法陣も後を追うように消え去っていった。
「お、おいおい、消えちまったよ」
 さすがに驚きを隠せず、ジョンが声を上げる。
 僅かに目を見張っていたものの、相変わらず冷静なフォルシアが、敵が居なくなったのを確認して剣を鞘に収めた。
「あれだけ派手にやっておきながら、引き際はあっさりしたものね」
「そういう奴に限って、手強いもんだけどな」
 苦笑気味な笑みを浮かべつつ、ジョンが言う。
「さて、そろそろ衛兵がここに押し寄せてくるぞ。なにせ、さっきまで派手に光って、爆発とかしてたからな。ほら、とっとと逃げよう。捕まると、いろいろと訊かれて面倒だ」
「…………」
 それに反応せず、ティリアムはイリア達の居た場所をじっと見つめた。
 胸中には、考えた所で決して答えの出ないだろう疑問が渦巻いている。
 ――《デンメルング》という名の組織。
 ――彼らの目的。
 ――イリアという少女の正体に、彼女が呼びかけていた誰かの事。
「ティル……今は行こう?」
 フォルシアに支えられながら、オーシャが気遣った声を掛ける。
「……ああ、そうだな」
 少し間を置いてから、ティリアムは静かに頷いた。


「《エンジェル》、ね……」
 壁に背を預けたフォルシアが、腕を組んだまま呟く。
 宿屋の一室。
 ティリアムの部屋だった。
 イリア達が退いた後、衛兵達の目をかいくぐって逃げ帰って来たのである。
 戻ってすぐに、疲労の大きかったオーシャは簡単な怪我の手当ての後、自分の部屋で休息を取っている。そういう意味では、ティリアムも休息の必要があったのだが、先にフォルシア達に事情を話す事を優先したのだ。
 街の方は、ティリアム達の活躍で《デモン・ティーア》の脅威から解放され、普段の落ち着きを取り戻し始めていた。
 《デモン・ティーア》の襲撃と門の破壊による死者は極少数で済んだ様だった。もちろん重傷者は多く居たが、あのときの状況を鑑みれば、その程度の結果で済んだのは僥倖と言えるだろう。
 《デモン・ティーア》の侵入を防ぐための門の一つが破壊されたため、しばらくは前のように安全な生活は望めないだろうが、そもそもあの襲撃はハロンに仕組まれたものだ。それを考えれば、今後は街の人間達だけでも、十分に対処していける事だろう。
「魔法とか《フリューゲル》とか普通だったら信じられんが……実際に見てるしなぁ、俺達」
 備えつきの椅子に腰かけたジョンが困った顔で、頭を掻いた。
「今更、信じられないと言っても無意味な事は確かなようね」
 小さく溜め息を吐いたフォルシアは、ベッドに腰かけたティリアムに問うような眼差しを向ける。
「……で、貴方は、この先、どうするつもりなの?」
 ティリアムが表情を険しくする。
「……どういう意味だ?」
「貴方が相手にしようとしている《デンメルング》という組織がどれほどの規模かはわからない。けれど、少なくとも貴方一人で戦い抜けるような相手ではないわ。魔法なんて力を扱う人間が居て、少女一人のために街一つを平気で巻き込むような連中だもの」
「…………」
「それだけじゃない。貴方が、オーシャを一緒に旅するようになった経緯はわかったわ。でも、それは、昔の自分と彼女を重ね合わせただけの単なる同情と傷の舐めあいよ。そんな気持ちで、本当に彼女を守り切れると思うの?」
 フォルシアの言葉の一つ一つが鋭い針のように、ティリアムの心を深く突き刺していく。それは、彼女の言う事が決して間違いではないという証拠だった。
 だが……
「俺は――」
「傷の舐めあいは、偽りしか生み出せない。それは、私も貴方も思い知っているでしょう」
 ティリアムの口を開こうとするのを遮って、自嘲気味な口調でフォルシアが言った。
 
 ――二人の出会い。
 
 それは、オーシャと出会ったときと同じような冷たい雨の日。
 唯一信じた友を失い、そのときティリアムは失意の中にいた。
 フォルシアは、最愛の兄を奪った男を殺す復讐者として、そこに姿を見せた。
 当然のように重なる刃の向こうで、二人の視線は交差し、お互いの深い孤独をそこから知る。
 大切なものを失った者同士だけが得られる、悲しみの共感。
 戦い合う二人は――いつしか愛し合う二人になった。
 だが、二人は、すぐに気づく。
 それは、ただ、お互いの悲しみを慰め合うだけの行為。
 それは、ただ、愛を錯覚しているだけ。
 気づいた二人は、自然と離れていった。それ以上は共に居ても、お互いを惨めにするだけだとわかっていたから。
 偽りは――偽りでしかないから。
 もう二人の間に憎しみはなかった。
 だが、真実の愛も、確かにそこにはなかったのだ。
「わかっているさ」
 ティリアムは、ずっと胸に溜まっていた想いを吐き出すように言った。
「あのときオーシャの事が目に止まったのは、確かにかつての自分と重ね合わせた同情だったのかもしれない。でも――今は、それだけじゃない。放っておけないんだ。あいつに俺みたいな道を歩ませたくはない、守ってやりたいと、心から思ってる。そういう強い想いが確かに俺の中にある――だから、戦うんだ。壊すためじゃなく守るために」
 かつて、ティリアムは最愛の母と信じた友を失った。
 その二人は、ティリアムの《デモン》の力を、破壊のための力ではなく、誰か守るための力だと言ってくれた。
 ずっと信じ切れなかったそれを、気づけば今は信じたいと強く思っていた。
 それは、本当に守りたいと願うものがわかったからなのかもしれない。
「……そう。なら、もう私に言える事はないわ」
 フォルシアは扉の前に向かうと、そこで足を止めた。
「ただし、そこまで言い切ったからには、ちゃんとオーシャを守りきって見せなさい。でないと、私が貴方を許さないわ」
「ああ」
 ティリアムは力強く頷いた。
 フォルシアはもう振り返る事も、それ以上何か言う事もなく部屋を出て行った。
「まあ、あれだ」
 少しの沈黙の後、ずっと静観していたジョンが口を開く。
「傭兵なんて仕事をしている人間はワケありな連中が多い。自然とお互いの過去には触れないようにしてる。だから、昔、お前達の間にあった事は俺もよくは知らない。でもな――」
 ジョンは、髭を蓄えた口に笑みを広げた。
「嬢ちゃんと居るときのお前は、俺の知ってる中でも一番良い笑い方が出来ていたのは確かだよ」
「……ジョン」
 ティリアムは目を見開く。
 そして――次に、何か有り得ないものを見たように顔をしかめた。
「なんか……お前がそんな良い台詞を言うと――気色悪い」
「……いや、そこはそういう反応をする場面じゃないだろ?」
 ジョンは、本気で悲しそう顔になって項垂れたのだった。


 深淵の森。
 その中に沈むは、朽ちた街と時を止めた姿を誇り続ける城。
 城の入り口に置かれた顔なき女神像――以前にハロンの見ていた像だ――の前に一人の男が立っていた。
 大柄な体格に、灰色の髪を撫で上げた精悍な顔つきをしている。年の頃は三十前といったところだが――それだけではない、何か重厚な年月を感じさせる空気を身に纏っていた。
 女神像を見上げる男の後ろに、イリアが跪いている。
 ちょうどダランでの戦いの報告を終えたばかりだった。
 そう、この男こそ、行き場のないオーシャを引き取った人物であり、さらには、《デンメルング》をまとめる存在――エリック・カールソンだった。
 男が静かに口を開く。
「そうか。オーシャは《白光の翼》に目覚めたか。《フリューゲル》に触れたときに、かすかに“あいつ”の存在を感じたので、もしやとは思っていたが……やってくれる」
「《白光》の目覚めの遅れ、オーシャ・ヴァレンタインの脱走、そして、ティリアム・ウォーレンスと彼女が出会った事――全ては“彼女”の導きにより、仕組まれた事かと」
「だろうな。七百年という長き時を経ても、あいつは、まだ私の邪魔をしたいらしい」
 そう言って、エリックが笑む。
「ティリアム・ウォーレンスの方は、どうだ?」
「……マスターのご想像の通りです。実際に姿を目にし、私も確信を得ました。あの男は――転生者です」
「そうか。奴も、私を自由にさせないつもりか」
 エリックの笑みが深いものに変わっていく。
「女神の魂に渾沌の力――それらをそれぞれ受け継ぐ者達……。
 かつて私の前に立ちはだかった奴らが、長き時の果てに姿や在り方を変えてなお、我が目的を阻むか。……だが、私は止まらん。いや、止まれない、と言った方が正しいか。かつての因縁――その全てを薙ぎ払ってでも私は目的を為すだけだ」
 その目に宿る感情は、混沌であり、深淵であり、それを見る者に何も悟らせない。
「全てはマスターの望むままに」
 イリアが深く頭を垂れた。
 エリックは、女神像を背にして振り返る。
「次の指示を出す。お前を含めた《模倣者》イミタツィオンは、それぞれ残りの《聖器》の回収を急げ。合わせて《シュヴァルツァー》は、それに関する情報収集を徹底せよ」
「《白光の翼》の方は良いのですか?」
「今は泳がせておいてもかまわん。放っておいても、あちらの方から接触してこようとするだろう。それにだ――」
 エリックは、その面に楽しそうな笑みを広げた。
 嘲りではない。
 ただ、本当に楽しみだと感じている笑みだった。
「奴らが、どこまでやれるか――興味をそそられるだろう?」
 瞬間。
 背後の女神像が足元から霜に包まれ凍りついていった。
 一瞬で氷の彫像と化したそれはそのまま砕け散り、粉々になった破片がエリックとイリアの二人に雨のように降り注いだ。
「さあ、ここまで来てみせろ。ティリアム・ウォーレンス、オーシャ・ヴァレンタイン。滅びの運命、辿りたくなければな」
 その何かの期待に満ち満ちた言葉は。
 深き森の闇へと吸い込まれ――ゆっくりと消えていったのだった。


 静かにノックをすると、扉の向こうから「どうぞ」と返って来る。
 ティリアムは、そっとオーシャの部屋の扉を開いた。
 オーシャはベッドの上で上半身だけを起こし、こちらに向けて微笑んでいた。
 傍のテーブルの上では、ランプの炎がゆらゆらと揺れている。
「寝てなかったんだな」
 ティリアムは部屋に入ると、近くの椅子を引き寄せ、ベッドの脇で腰掛けた。
「うん。なんとなく――ティルが来るような気がしてたから」
「……そうか」
 数瞬の沈黙の後、
「その……悪かった」
 ティリアムは謝罪を口にしていた。
「? 何が?」
 オーシャは首を傾げる。
 膝の上で両手を組むと、ティリアムは少し言いづらそうに続ける。
「いや……昔の――傭兵時代の頃、それに《デモンズ》の事を黙ってただろう」
「あ……そっか……」
 オーシャは、ティリアムが何を謝っているのかに気づくと、淡く微笑んで見せた。
「その事なら良いの。誰にだって口にしたくない過去はあるし、あのときも言ったじゃない。どんな過去があっても、ティルはティルだよ」
 オーシャは、何の迷いもなくそう返す。
 それだけで、ティリアムの中で蟠っていた気持ちが晴れていってくれた。
「……ありがとな」
 自然とそう口に出る。
 オーシャは静かに首を横に振った。
 なんとなく照れ臭い空気になり、ティリアムは話題の転換を図る。
「それで、身体の方は大丈夫か?」
「うん。もともと怪我自体はたいした事なかったし、ちょっと疲労感があるだけだから。ぐっすり寝れば大丈夫だよ。……っというか、ティルの方がよっぽど重傷なんだから」
 ティリアムは頬を掻きながら、誤魔化し笑いを浮かべる。
「さっきも言ったけど、俺は《デモンズ》だ。普通の人間よりは頑丈だから、たいした事ないさ」
 実際、《デモンズ》の類稀な回復力によって怪我のほとんどは、すでに治り掛けていた。もちろん溜まった疲労と消費した体力などを考えれば、十分な休息は必要ではあるのだが。
「でも、《デモンズ》だって言っても、疲れるのは一緒でしょ。だから、ちゃんと休まないと駄目」
 それを見透かしたように、オーシャが叱ってくる。
「……ああ、わかってるよ」
 ティリアムは、素直に頷いた。
「……だけどオーシャが、あの翼を出したときには驚いたな」
「あはは、一番、驚いているのは自分自身なんだけどね」
 笑いながら、オーシャは自分の胸に右手を添えた。
「すぐに扱いの難しい危険な力だとわかったけど……でも、一緒に誰かに守られる感じがして――不思議だったな」
「まあ、魔法なんて力自体、常識外れなわけだしな。俺が言う台詞じゃないだろうけど」
「――うん、そうだね」
 そこで、再び沈黙が訪れた。
「…………」
「…………」
 先ほどもよりも長く続いたそれを破ったのはオーシャの方だった。
「ティル、もしも――」
「俺はやめないさ」
 だが、それを遮ってティリアムは言った。
 オーシャは驚いた顔で、こっちを見つめてくる。
「さっきフォルシアにも言われたが、確かに《デンメルング》は一筋縄でいく相手じゃないだろう。でも、俺は、お前を守り切ると決めた。これは俺の覚悟と決意だ。今更、放り出したりしない」
「で、でも!」
 身を乗り出し言い募ろうとするオーシャを、ティルは優しい微笑で押しとどめる。
「これは、別にお前のためだけするわけじゃない。俺の――《デモンズ》としての力。破壊しかできないと思っていたこの力を、誰かを護るための力だと言ってくれた人達がいた。俺はその言葉を信じたい。自分自身の手でその言葉を証明したい。だから――戦うんだ」
「ティル……」
 オーシャは、涙を堪えるように目を閉じると、顔を伏せた。
「ごめんね、それに――ありがとう」
 ティリアムは苦笑する。
「……お互い、お礼を言ってばかりだな。まあ、どのみちあれだけの事をやったんだ。俺が嫌だといっても、あっちの方が放っておいてくれないさ」
 ティリアムは自嘲気味に言いながら、立ち上がりざまに軽くオーシャのおでこをはたいてやる。
「あたっ」
 叩かれた所を擦りながら、「もうっ」と怒った顔で、オーシャが見上げてくる。その目の端に、堪えきれなかった涙が光っていた。
「とにかくそういう事だよ。これで話は終わり。さて、誰かさんの言う通り、今日は俺も休むよ」
 ティリアムは、そのまま部屋を出て行こうとする。
 その背中に、オーシャの声が掛かった。
「……おやすみなさい、ティル」
「ああ、おやすみ、オーシャ」
 二人は、昨日と同じ、そして、いつも通りの言葉を交わす。
 きっと、それは。
 何にも代えがたい、大切な事のような気がした。


「え? フォルシアさんとジョンさんが?」
 翌朝。
 街を出るために、西門へと向かう途中で、オーシャが驚きの声を上げた。
 すでに宿の前で別れたフォルシアとジョンが、《デンメルング》の事を独自に調べてくれるという事を、ティリアムが告げたからだった。
「でも、そんな……危険なのに……」
「ジョンは、もともと性格的にそういう奴だからな。俺達が止めても勝手に動くさ。フォルシアは――あいつも何だかんだ言って、お人好しなんだろうな。だから、まあ、気にするな」
「……だけど……」
 まだ納得しきれない様子なオーシャの頭を、ティリアムはぽんっと叩いてやる。
「昨日も言っただろ。俺と同じように、あいつらもあいつらなりに、自分自身の信じる何かのためにその選択をしたんだ。お前もお前で、後悔しないように自分が信じる事をやればいい」
「……うん、わかった」
 そこまで言われて、ようやく納得できたのか、オーシャは小さく頷いた。
「責任重大だね、私」
「あんまり肩肘張るなよ。疲れるだけだからな」
「了解」
 励ましにしては軽いティリアムの台詞に、オーシャが微笑しながら答えた。
「よし、じゃあ、とりあえず、乗合馬車の乗り場に行く……」
 そこまで言いかけ、懐をまさぐったところでティリアムの動きが停止した。
 オーシャが不思議そうに、その顔を覗き込む。
「? どうしたの?」
「……ない……」
「え?」
 きょとんとするオーシャ。
 そんな彼女に、ティリアムは絶望の一言を告げた。
「……財布が、ない……」
「え、ええええええぇぇぇっ――!?」
 オーシャが、さっきとは比べ物にならない声を上げる。
 周囲を行き交う人々が、何事かと顔を向けた。
「だ、だって、それはつまり、私達の全財産がなくなったって事じゃあ……」
「……そういう事になるな」
「ど、どどどうするの!? 私達、これで無一文だよ!?」
「わかってるよ! たぶん、ここに来る途中でどっかに落としたんだ! 宿からここまで、そんなに距離はないんだし、探すぞ!」
「う、うん!」
 こうして二人は、決死の捜索に移った。
 ゆっくり慎重に宿までの道を戻りつつ、地面を食い入るように調べまくっていく。
 そんな二人を、少し離れた場所から、呆れ顔で見つめる二人組が居た。
 フォルシアとジョンである。
「気持ちも新たに出発なのに――なーんか、いきなり挫折してるなぁ」
 そう言うジョンの顔は、明らかに面白がっていた。
「何をしてるのかしらね、まったく……」
 もう本気で呆れきった溜め息を吐くフォルシアの手には、まさに今、ティリアムとオーシャの二人が必死に探している財布が握られていた。
 二人と別れてすぐに、彼女が足元に落ちているそれを発見し、届けに来たのだ。
「あんなので、この先やっていけるのかしらね」
 フォルシアの声には、本気で不安な響きがこもっている。
「そうだなぁ……。ま、大丈夫じゃないか? なんだかんだ言って、財布を探す二人の息はぴったりみたいだしな」
 ジョンは、そう言って楽しげに笑った。
 青く澄み切った空には、輝く太陽が一つ。
 それは、ティリアムとオーシャが初めて出会ったときと同じように、新たな旅立ちを迎えた二人を温かい光で照らし続けていたのだった。
 
 ……例えそれが、落とした財布を必死に探す二人だったとしても。


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