エンジェル 二章
血と罪と鬼人
―― 一 ――
母さんは、本当に優しい人だった。
だから、いつも自分の事よりも、他人の事ばかり気に掛けていた。
誰かが泣けば、彼女も一緒に泣き。
誰かが笑えば、彼女も一緒に笑う。
そんな人だ。
父親は、物心つく前に死んだと聞かされていた。
何故、死んだのか?
どんな人だったのか?
そういう事には、あまり興味は湧かなかった。俺は、母さんが傍にいてくれるだけで満足だったから。
母さんと俺は、山奥の小さな村に住んでいた。
決して裕福な生活ではなかったけれど、それでも幸せだった。村の人達も、外から来た俺達を快く迎い入れてくれた。
――そう。
あの日が訪れるまでは。
ある日、村は、《鬼獣》の群れの襲撃に遭った。
小さな村だ。
抵抗らしい抵抗もできず、村人達は次々と奴らに食われていく。
母さんは、村を守るために、《鬼人》(化すると、たった一人で《デモン・ティーア》に向かって行った。そして、傷つきながらも、なんとか《デモン・ティーア》は追い払った。
村は全滅を免れ、救われたのだ。
しかし、そんな母さんを待っていたのは、村人からの、
――化け物。
という一言から始まる、耳を塞ぎたくなるような罵倒の数々。
周囲の目は、村を救った救世主を見るようものなどでは決してなく、ただただ異端者を冷たく突き刺していた。
理不尽な村人達の態度に憤る俺に、母さんは悲しげに「仕方ない」と微笑み掛けるだけだった。
その日は嵐だった。
雷鳴が轟き、降りしきる雨が激しく窓を叩いていた。
そのとき。
突然、家の扉が荒々しく開け放たれた。
なだれ込んで来たのは、村の男達。
その目は狂気じみた殺意に血走り、手には凶器数々。
突然の事に、わけがわからず呆然とする俺と男達の間に母さんが立ちはだかり、背後の俺に、
「逃げて!」
と叫んだ。
途端、母さんの背中から何かが飛び出した。
まだ、母さんの腰辺りまでしかなかった俺の顔に赤い何かが降りかかる。
――血。
背中から飛び出したのは、母さんの血で赤く染まった無機質な剣の切っ先。
母さんは、ゆっくりと――本当にゆっくりと崩れ落ちた。
床には、血がじわりと広がっていく。
さらに狂気を増した男達の目が俺を捉える。
瞬間。
俺の中で初めて感じる、そして、自分でも抑えきれない激情が内で駆け巡った。
怒り。
殺意。
全ての破壊を求める衝動。
それらは、際限なく肥大し、のたうちまわり、最後に――弾けた。
目の前に転がっていた何の変哲もない果物ナイフを引っ掴むと、俺は怒号と共に、男達に襲い掛かっていた。
双眸を――血のように紅く染めて。
気づいた時には、俺は村の真ん中で雨に打たれながら立ち尽くしていた。
手には、人の脂に塗れた果物ナイフ。
周りには、物言わぬ屍となって転がる村人達。そこから流れ出る血は、雨に流され、混じり、地面を一面、赤く染めていた。
村人は全て殺されたのだ。
――俺の手で。
俺は、母さんの所へ戻った。
《鬼人族》(の回復力はかろうじて母さんの命を繋ぎ止め、しかし、それは今にも途切れようとしていた。
俺は血で染まった母さんの胸にしがみつき、泣きじゃくった。
自らの犯した罪のために。
母を失う悲しみと恐怖のために。
母さんは、自らを死へと誘う苦痛と――それ以上に俺の罪と村人の死への悲痛で顔を歪めながら、血に濡れた手を俺の頬へと優しく当てた。
そして、次の瞬間に母さんの顔に浮かんだ表情は、悲しみでも痛みでもない。
――微笑み。
どこまでも優しさに満ちた微笑だった。
それでも、人を信じて……そうすれば、いつか、きっと――。
そう言い残し、母さんは死んだ。
――そして。
俺はその日を境にして。
いつしか《デモン》と呼ばれる事になる、血と罪に塗れたその道を歩み出したのだ。 |