エンジェル 一章
翼持つ者
―― 六 ――
(これは――)
力に目覚めた事で、胸の《フリューゲル》
からオーシャの中へと、次々と知識が流れ込んでくるのがわかった。
理屈ではない。
感覚的に魔法の扱い方が手に取るように理解できた。同時に、目覚めたばかりの自分では扱えきれない強大な魔法が多くある事も知った。
(これが《フリューゲル》の力……魔法なの……)
ふと、強い恐怖心を覚え、全身が震えた。
この力は、扱い方一つで多くの命を奪う事ができる――ひどく危うい力だ。
(でも、私は自分で選んだ。
――力を得る事を。
――それを使ってティルを守る事を)
再び胸に生まれた迷いを振り払って、オーシャは目の前の敵を見据えた。
《蒼雷の翼》を背にしたハロン。
彼は、さっきまでの焦慮も見せず、やれやれと肩を竦めた。
「さすがに予想外でしたが……目覚めてしまったからには、仕方ありませんね」
すっ、と刀の切っ先をこちらへ向けて、ハロンは言った。
「聞くだけ無駄でしょうが――我々に協力するつもりはありませんね?」
「無駄と思うなら聞かないで。私は、貴方を倒すために戦うのだから」
オーシャは毅然と告げる。
「――そうですか。まあ、予想はしていましたがね」
ハロンが諦めの微笑を浮かべる。
「ならば、当初の目的通り、貴女は死になさい。そして、身体の内の《フリューゲル》の回収をさせてもらいましょうか」
ハロンの身から紛れもない殺意が噴き出す。
それに怖気づきそうになる自分を必死に堪えて、オーシャは思う。
(勝てるだろうか。魔法に目覚めたばかりで、戦い方すら知らない私が……)
だが。
それでも。
(私がやらなきゃいけない! ティルは死なせない!)
「行きますよ」
ハロンの静かな一言と共に、放たれた雷撃が一直線にオーシャへ向けて疾ってくる。
「――――!」
反射的に、今まさに知ったばかりの魔法を発動させた。
オーシャの前に白い光の障壁が生まれると、雷撃を弾く。
(…………?)
こんなものだったろうか?
先ほどのティリアムとの戦いで見せたハロンの雷撃の威力は、こんなものだったか?
ハロンは舌打ちしつつ、さらに雷撃を打ち込んでくるが、ことごとく白き障壁に阻まれていく。
(なぜ、あれを撃ってこないの?)
必死に障壁の強度を保ちつつ、オーシャは疑問に思った。
ティリアムですら避けるので精一杯だった、あの雷刃の一撃。
あれを放てば、まだまだ拙いオーシャの障壁など、ひとたまりもないだろう。
だが、ハロンは撃ってこない。
(まさか……撃てないの?)
ティリアムの戦いは、ハロンにとっても楽なものではなかったはずだ。
そして、魔法の源である魔力は人の身から生まれる以上、有限のものだ。
疑問は、確信に変わった。
ハロンは――疲労している。
(いけるかもしれない。今なら、倒す事は出来なくても、追い返す事ぐらいなら……!)
このままでは埒があかないと判断したのか、ハロンは雷撃を撃つのを止めると、ゆっくりとこちらに向けて歩を進めてくる。
刀での直接攻撃に切り替えるつもりなのだろう。
魔法を扱えるようになったとはいえ、オーシャ自身の戦闘能力は皆無に近い。接近戦に持ち込まれれば勝ち目はない。
(近づけさせちゃいけない)
オーシャは、ハロンに向けて掌をかざすと、そこに魔力を集中させる。
《白光の翼》
によって、破壊の力へと変換されたそれは、オーシャの意思に従って放たれた。
白光の一撃は、狙い通りにハロンに向けて迸る。
だが。
ハロンが雷光を纏った刀を振り抜くと、あっさりと一撃は弾かれ、あさっての方向へと飛んでいく。
「そんな――!」
「魔力の練り込みが甘いですよ、オーシャ。そんな一撃では、私の歩みは止められません」
「…………っ!」
そうなのだ。
例え消耗していようと、戦士としても、魔法を扱う者としても、彼は卓越した力の持ち主だ。そうでなければ、ティリアムを打ち倒す事などできなかっただろう。
ハロンが迫ってくる。
闇雲に攻撃した所で、彼は止められない。
(諦めちゃ駄目……! 今、私に出来る事で、彼に通用する何かがあるはず――!)
必死に、得たばかりの大量の知識を探っていく。
時間はない。
ハロンが刀の間合いに入るまでは、あと数秒たらず。
一歩、一歩、死が迫ってくる。
オーシャの死は、同時にティリアムの死でもある。
私は――死ぬわけにはいかない!
刀の間合いに入った。
オーシャの前に張られた障壁は、いとも容易く刀で切り裂かれる。
「なかなか頑張りましたが――最後です」
ハロンが言った。
「終わり?」
オーシャが呟いた。
「それは……違うよ、ハロン!」
ぎりぎりで掴んだ、己の内に秘めた希望をオーシャは紡いだ。
背中の《翼》が、一際、大きく光を放つ!
「――――!?」
異変に気づいたハロンが、咄嗟に後方に跳んだ。
胸板が薄く裂かれ、鮮血が散る。
「やってくれますね……!」
膝を突き、胸の傷を抑えながら、ハロンは呻くように言った。
オーシャの周囲には、五つの美しい光の輪が生まれ、彼女を守るようにゆっくりと旋回していた。
――これの一つがハロンへと襲い掛かり、一撃を加えたのだ。
五つの光輪が、旋回を止める。
次の瞬間、空を裂いて、再度ハロンへと襲い掛かる。
「ちぃ!」
ハロンは光輪を刀で弾き返しつつ、大きく間合いを取った。すると光輪は攻撃を止め、再びオーシャの元へと舞い戻る。
「近づくものを自動的に追尾攻撃するわけですか。しかも、魔力強度が、先ほどまでの一撃とは比べ物にならない」
ハロンは、額に浮かんだ汗を拭いつつ、戦慄を込めた声音で言う。
「追い詰められた事で、境地の一つを掴みましたか。本当に厄介ですよ、貴女という人は……」
苦笑しつつ、ハロンは刀を構える。
こんな事で諦めるつもりはないらしい。
「まだ戦うの、ハロン?」
オーシャが、悲痛な声を絞り出した。
「当然ですよ。何を今更言うのですか」
「私は……」
唇を噛み、オーシャが俯く。
本当は、彼と戦いたくはなかった。
あのとき――まだ、エリックの屋敷に居たときに、彼が自分に向けてくれた優しさの全てが偽りだとは思えなかったから。思いたくはなかったから。
「貴女が戦う事を迷うなら、待っている結末は貴女の死だけです」
ハロンが、冷酷な声で告げた。
はっとオーシャが顔を上げる。
「なぜなら私は迷わない。戦う事を。命を奪う事を」
さらに、ハロンは言う。
「一度、敵に向けた刃――それを振り切る事を迷うなどという無様な真似はやめなさい。貴女には、失いたくない守るべき人間が居たはずです。そのために力を手にしたのでしょう?」
「…………」
ハロンの言葉は、突き放すように自分は敵であるという事をはっきりと告げていた。
そう。
彼の気持ちの真実がなんであれ、今のハロンは、己の目的のためにオーシャとティリアムの命を奪おうとしている。
ここで戦う事を迷えば、彼の言った通り、待っている結末はこちらの死でしかない。
多くの道を選べるほど、今のオーシャに力はないのだ。
だから。
光輪が消え、オーシャの《翼》が一際強く光った。
左手に、光弓が。
右手に、光矢が。
それぞれ生まれる。
矢をつがえ、真っ直ぐとハロンへと狙いを定めた。
その目は、迷いなく“敵”を見ていた。
「そう。それでいいんですよ、オーシャ」
ハロンは、どこか嬉しげに笑い、刀を真っ直ぐ天空に向けた。彼の背中の《翼》も強く輝き、刃に激しい雷が集っていく。
「まさか、あれは――!」
あの雷刃の一撃だ!
「全てを込めて撃つ事です、オーシャ。死という結末を拒絶するのならばね」
「……ええ!」
オーシャの想いに合わせて、光矢が強い光を放つ。
お互いの強い決意の込められた一撃が。
――放たれた。
二つの力がぶつかり合い、凄まじい閃光がその場を包み込んだ。吹き荒れる突風が、周囲を蹂躙していく。
ようやく、力の余波と光が収まったとき。
その場に立っていたのは――ハロンだった。
刀を杖代わりにして、《翼》も消え、息も切れ切れだった。
その反対側の離れた場所に、オーシャは仰向けに倒れていた。《翼》もすでに消え失せ、髪も瞳も元通りになり、苦しそうに呻き声を漏らしている。
かろうじて生きているらしい。
(つくづく、しぶとい娘だ……)
ハロンは、心底感心する。
「だが、今度こそ終わり……」
ハロンは重い足取りで、止めを刺すために倒れた少女に向けて歩き出し――そこで異変に気づいた。
オーシャの倒れた位置のさらに後方。
そこに、ティリアム・ウォーレンスが倒れていたはずだ。
だが――居ない。
周囲を見回すが、どこにも姿が見えない。
(馬鹿な――っ!)
あれだけのダメージを受けて、こんなにすぐに立ち上がれるはずがない。
「誰を探してるんだ?」
からかうような声は背後から聞こえた。
ハロンが、慌てて振り返る。
「ウォーレンス……!」
ハロンは、その一言に驚愕以外の感情を込められない。
愛用の大剣を手にし、ティリアムは悠然とそこに立っていた。もちろん、憔悴や疲労の色は隠しきれてはいない。
だが、そもそも立ち上がれる事自体が異常なのだ。
「《デモンズ》は回復力も常人以上とは聞いてはいましたが……よもやここまでとは思いませんでしたよ、ウォーレンス」
「自分で言うのもなんだけどな。俺はゴキブリ並みにしぶといのさ」
ティリアムは、不敵に笑った。
「本当ですよ。まったく、貴方といい、オーシャといい――本当にしぶとい」
こんな状況だというのに、ハロンはおかしくなって笑ってしまう。
「……オーシャは、もともと強かったのさ。俺なんかよりも、ずっと」
ティリアムは、どこか自嘲的に言い、倒れたオーシャを心配そうに一瞥した。そこには本当ならば、すぐに彼女に駆け寄りたいという、彼の本心が垣間見えた。
だが、その表情はすぐに消え、《デモン》としての顔が現れる。
「さて、決着といこうか。今度は――俺とお前のな」
「さて、決着といこうか。今度は――俺とお前のな」
ティリアムは大剣の切っ先をハロンへと向けながら言った。
ハロンが、応えるように戦闘の構えを取る。
「いいでしょう。お互いに満身創痍で、魔法も《デモン》化も使えない」
「条件は同じ。決着をつけるのに、こんなに適した状況はないな」
ティリアムとハロンが、同時に口元に笑みを浮かべる。
二人から溢れ出る殺気が、その場に充満していき、ぴりぴりと空気を振るわせる。
もはや、小細工はない。
純粋な力と力の勝負。
ティリアムが剣――
ハロンが刀の――
それぞれの柄を強く握り込んだ。
静寂が世界の一部分を切り取り、支配する。
ティリアムの頬を汗が伝った。
なんとか動けるほど回復したとはいえ、身体は酷く重かった。普通なら、まず戦えるような状態ではないだろう。
しかし。
(これは、オーシャの作ってくれた最後の勝機。負けるわけには――いかない)
強い意志が、限界を超えて全身に力を与える。
まだ動かない。
ティリアムも。
ハロンも。
時が止まったように動かない。
そのとき。
さっきの戦いの余波を受けて崩れた建物の破片が――地面に落ちた。
それが合図。
二人は同時に動いた。
渾身の力を込めて、お互いの得物を振り抜く。
――何かが砕ける音が、静寂を裂いた。
砕かれたのは刀の刃――敗れたのはハロンだった。
「見事……です」
ハロンが呟く。
その場に膝を突いたハロンの右腕は、肘から両断されていた。
切られた腕と、砕かれた刃が同時に地面に落ちる。
「最後の最後に、完敗ですね。まったく憎たらしいほど貴方達はしぶとい……そして素晴らしい」
ハロンは溢れる鮮血で、ぼたぼたと地面を濡らしていく。
「そうじゃなければ、今の今まで生き残ってはこれなかった。……少なくとも、俺の生きてきた世界では、な」
「ふふ……そうかも……しれませんね」
ハロンが、激痛に顔を歪めながらも、口元に微笑を刻む。
ティリアムは、大剣の刃をハロンの首へと突きつける。
「最後に訊く。お前達のアジトの場所――吐く気はあるか?」
「愚問……ですね、ウォーレンス。己の主を売るほど……私は、堕ちては……いませんよ」
「……だろうな」
ティリアムが大剣を振り上げる。
勝者が、敗者の命を奪うために。
それが強者だけが生き残る、戦いの世界の摂理。
「じゃあな」
短い別れの言葉と共に、大剣が振り下ろされ――それが止まる。
黒い。
黒い光が。
ハロンの首に刃が突き立つ直前で阻んでいた。
「! これは――ぐっ!」
異変に気づいたティリアムの腹部を強烈な衝撃が襲う。
容赦なく後方に吹っ飛ばされ、背中から地面へと叩きつけられた。同時に強烈な嘔吐感と激痛が襲ってくる。
それらを無理矢理抑え込み、ティリアムは大剣を支えに立ち上がる。そして、ハロンを助け、自らに不意の一撃を加えた人物を睨みつけた。
「……誰だ、お前は」
問われたその人物は、何かを超越した者だけが持つ、静謐の響きを込めた声で言った。
「敵です、貴方達のね」
ハロンの隣に立ち、そう告げたのは――一人の少女だった。 |