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オロチ様はイタズラがお好き!?

六章 月


―― 八 ――

「人探し……ですか?」
 頬張っていた焼き鳥を飲み込んだフウガは、円卓の対面に腰掛ける青年に問い掛けた。
「うん。僕が王都に来たのは、ちょっと会いたい人がいてね」
 頷いたムソウは、御飯粒一つ残さず空にした丼の器の上に、箸を揃えて乗せ、
「ごちそうさま」
 と、手を合わせる。
 フウガ達が居るのは、広大な王都の中で、最も人の集う広場の一つ。
 そこに拠を構える、店の外にまで円卓と椅子を並べ、庶民向けの安価で大味な料理を売りにしている食事処だった。ちょうど昼時という事で店内は満員だったため、フウガ達も外で食事を取っていたのだ。
 ともかく、悪く言ってしまえば、そういう粗雑な店である。
 当然、ウズメのような貴族の人間など周囲には一人も居らず、居るのは平民や旅人ばかりだ。故に、その際立った美しい容姿はさる事ながら、着物で着飾った彼女は、かなりの人目を集めていた。さらに最初は、ムソウもフウガも、こんな庶民向けな店の料理が彼女の口に合うのか、そもそもこんな店で良いのか、と、店側からしてみれば失礼千万な心配をしていたのだ。
 しかし、当の本人は、そんな周囲の状況を全く気にする事なくこの場に順応し、今では、焼き魚を中心にした定食を上品に口に運んでいたりいる。
 そして、そんなウズメの様子を見て、余計な心配だったと悟った二人も、現在はもう、無駄な事に気を回すのは止める事にしていた。
「それで、お探しの人は、もう見つかったのですか?」
 音一つ立てずに茶をすすり、ウズメが訊いた。
 最初こそ目立っていた彼女だが、何だか今となっては、この場に馴染んでしまっていた。
「世話になってばかりはいられませんし、もし良ければ、俺達も協力しますよ」
 フウガの提案に、ムソウは微笑と共に首を横に振った。
「いや、大丈夫。実はもう、探し人は見つかったも当然でね。あとは、会いに行くだけなんだよ」
「あ、そうなんですか。それじゃあ、その途中でさっきの騒動に……?」
「……うん。ちょっと違うんだけど、そう間違ってもいないかな」
 応えるムソウの言葉には、僅かに言い淀みがあった。
 何か違和感を覚える。
(何、だ……?)
 ムソウは、おそらく誰から見ても、人の良い好青年に映るような人間だ。実際、フウガは、彼にはつい先程、救われたばかりでもある。
 だが、今の一瞬。
 何か、そんな印象を裏切る、暗い物が過ぎった気がしたのだ。
 どこか懐かしく、忌まわしく……フウガにとっても、決して縁遠くない感情。
「ああ、そういえば」
 しかし、それが何か――
 フウガが答えを出す前に、ムソウが尋ねてくる。
「昔、神聖騎士団にスサノ・ラシンっていう有名な騎士がいただろう? 確か、戦神とも呼ばれていた。今は怪我で引退してしまったそうだけど……彼って、フウガ君と同じ苗字だよね。何か関係があるのかい?」
「え……。ああ、まあ、その……」
 今度は、思わずフウガが言い淀んでしまう。
 別にラシンの息子である事に負い目があるわけではない。
 知られても問題があるわけでもない。
 ただ、自分がかつての英雄から、騎士としての命を奪ってしまったという事実が、咄嗟に答える事を拒ませていた。
「――フウガ」
 脇に座るウズメが、そっと声を掛けてくる。
 声音と視線だけで、彼女が何を言いたいかは、すぐに察せられた。

 ――もしも、彼に明かしたくないなら、自分が上手く誤魔化すぞ?

 ウズメは、そう言っているのだ。
 フウガの心情を慮った、少女の優しい気遣い。
 だけど、それに甘えるわけにはいかなかった。
 どんなに目を逸らした所で、過去に起きた現実は何一つ変わりはしない。
 ならば、向き合わねば。
 フウガが決意を持って全てを明かし、それを笑顔で受け止めてくれた仲間達の気持ちに報いるためにも。
「たぶん、ムソウさんも大体予想は出来ているとは思いますけど……俺は、そのラシンの息子なんです」
 ムソウと真正面から向き合い、フウガは、はっきりと言い切った。
「……そうか」
 やはり予想していたのか、青年は特に驚いた様子もなく、その言葉を受け入れていた。
「さっきは、咄嗟にラシンとは結びつかなくて、思い至らなかったんだけどね。しかし、凄いな。こんな言い方を君達は望まないだろうけど、ツクヨミ家の人間と、かつての英雄の息子――そんな取り合わせに、王都に来て、すぐに出会うなんてね。はは、僕も変わった縁に恵まれているのかな」
 頭を掻きながら、おかしそうにムソウは笑う。
 彼の笑顔には、フウガがラシンの息子と知った今でも、まるで変化はなかった。
 九年前の真実を知らないのならば、それも当たり前なのかもしれない。
 だけど、フウガにとっては、自分の素性を知っても何も変わらぬ青年の態度は、不思議と好ましく映っていた。彼ならば、九年前の真実を語ったとしても、同じような笑顔を向けてくれるかもしれない、と、そんな勝手な期待までしてしまう。
 しかし、ここでそれを語るつもりはない。そして、今後もきっと、そんな機会はないだろう。
 青年とフウガ達は、王都で偶然に出会った他人――少なくとも今は、ただそれだけの関係なのだ。
 その後は、ムソウも気を使ったのか、ラシンの件に、もう触れる事はなかった。
 しばらく、三人は他愛のない談笑をして、
「――さて」
 と、全員が食事を終えた所で、不意にムソウが立ち上がった。
「それじゃあ、僕はそろそろおいとまするよ。せっかく二人きりの所を邪魔しても悪いしね」
「あ、はい」
 フウガとウズメも、合わせて立ち上がる。
「助けてもらった挙句、食事まで奢らせてしまって……本当にすみません」
「いやいや。もう、そんな事は気にしなくても良いよ。僕がそうしたいからしただけって言ったろう?」
 フウガの肩を優しく叩くと、ムソウは気安く言った。
「再び巡り合わせがある事を願っています。お元気で」
 次いで、ウズメが丁寧に頭を下げて、微笑を見せた。
「ありがとう。ウズメさんも、フウガ君と良い関係なれる事を祈ってるよ」
「ええ、ぜひとも」
「先輩……」
 迷いなく肯定する少女に、フウガは複雑な顔を向ける。
「はは、それじゃあね、二人共」
 二人のやり取りに笑いながら軽く手を振って、ムソウを踵を返す。
 そのまま何の問題もなく別れるかと思われた――その直後。
「――――フウガ君」
 直前までの穏やかな空気を一変させる重い声を、ムソウが吐き出したのだ。
「え……?」
 反射的にフウガが目を向ける。
 背中越しでもそれがわかったかのように、彼は言った。
「気をつける事だ。おそらくは三日後……君が今、滞在している孤児院に襲撃がある」
「ムソウ、さん……? どうして、〈鴉の止まり木〉の事を……?」
 フウガは瞠目し、思わず背後の椅子を倒していた。
 隣のウズメも不穏な空気を察して、顔つきを険しくする。
 だが、ムソウは、フウガの質問には何も答えず、
「忠告はしたよ」
 と、ただ一言残して、足早に去って行く。
「待ってくださいっ」
 咄嗟に後を追おうとする。
 しかし、ムソウは巧みに人波に紛れ、すぐに視界から消えてしまう。
 何気ない動きだが、素人のものではない。意識的に訓練して、身に着けた技術なのは間違いなかった。あるいはそれは、闇に生きる者特有の技であったか。
「…………」
 フウガは追う事を諦め、足を止めた。それでも青年の去って行った方向を見つめ続ける。
「フウガ」
 気づけば、隣にウズメが立っていた。
「彼の言葉……どう思う?」
「――わかりません。でも、少なくとも冗談を言っているような雰囲気ではなかった。おそらく、何かの根拠があっての事なんだと思います。ただ……どうして孤児院の事、そして、俺が今、そこに居る事を知っていたのか。さっきは、そんな話一つもしていないのに……」
「そうだな。ともかく、注意だけはしておいた方が良い。孤児院の内情は、私にはわからないが、何か理由があるのかもしれない」
「…………ええ」
 狙われる理由。
 確かに、あの孤児院には、それが存在する。
 ウズメは知らないだろうが、フウガは一年前の時点で、すでにライ達よりその事を聞き知っていた。
 だが。
 ムソウは、どうやって襲撃の可能性を知り、どうしてそれをフウガに忠告するのか。
 彼もまた、あの孤児院の秘密に気づいているのか。
 一番気に掛かるその事実は、定かではない。本人が去ってしまった今、もはや聞き出す事も出来なかった。
 唐突に吹いた強風が、フウガの全身をなぶっていく。
 ウズメが顔をしかめ、乱れぬように着物と髪を押さえた。
 初夏らしくない、どこか寒々しい風。
 傍を歩く人々もそれを感じたのだろう。身を縮こませて、不思議そうに天を仰いで行く。
 らしくない神妙な声で、オロチが呟いた。
『……嫌な、風だ』

 * * *

 ムソウと別れた後、フウガ達は、孤児院へと向かった。
 これ以上、ウズメを自分の事情に付き合わせては申し訳ない、とフウガ本人が進言したのだ。
 何より、今、レナがどうしているのかが気に掛かってもいた。
「あ、フウガ君!」
 孤児院が見えて来ると、フウガが戻って来るのを待っていたのか、こちらの姿を見つけたミヨが、すぐさま駆け寄って来た。
 ミヨは――さすがに女同士故か――隣に居る着物姿の少女がウズメだとすぐ気づいたらしく、
「あ、先輩も来たんですね」
 と、嬉しそうに微笑む。
「ああ。こちらに向かっていたら、たまたま王都の方でフウガと会ったんだ。昨日は、すまなかったな」
「いえ、先輩が悪いわけじゃないですし。――あの、フウガ君……」
 ミヨが何か言い辛そうに、こちらを見る。
 フウガには、彼女の言おうとしている事が、すぐに理解出来た。
「大丈夫だ。ちゃんとレナには謝る。……そんなに落ち込んでるのか?」
「うん……。ここ最近ないくらい……。一応、ナヅチさん達が励ましてくれたから幾分はましになったみたいなんだけど、それでも、やっぱり……」
「…………そうか」
 改めて、レナの様子を聞かされて、罪悪感が胸を苛んだ。
 だが、今は、すでにやってしまった事を後悔していてもどうしようもない。
「レナは、部屋にいるのか?」
「うん。フウガ君、行ってあげて」
 本当に親友の事が心配で仕方ないのだろう。ミヨが懇願するような声音で言う。
 それでも、その原因を作ったフウガを責めないのは、この少女の優しさが表れているとも言えた。
「わかってる」
 ミヨへ頷いた後、フウガは、ウズメの方へと振り向いた。
「それじゃ、俺は行って来ます。申し訳ないんですけど、孤児院は、ミヨに案内してもらって下さい」
「……ああ。しっかりな」
「はい」
 穏やかな笑顔でウズメに送り出され、フウガは一足先に孤児院へと入る。
 レナの事で頭が一杯だったせいで、実はウズメの表情が少しぎごちなかった事など、まるで気がつかなかった。
「あれ……」
 孤児院に入るとすぐに、フヨウと遭遇した。
 少し後ろには、苦笑いを浮かべたゴウタとライも居る。
 何故かフヨウは、責めるような目で、こちらをじーっと見つめてきた。
「あ、あのミカヅチ教官……?」
 美人に無言で睨まれるというのも、存外に居心地が悪い。
 フウガは足を止めて、口の端を引きつらせる。
「…………タマヨリさんをこれ以上傷つけたら、お仕置きね」
「お、お仕置きですか」
 フヨウが黙って頷く。
 恐る恐る、フウガは訊いた。
「ちなみに、そのお仕置きの内容は……?」
「…………聞きたい?」
「え、遠慮しますっ」
 普段は見せない花のような笑顔で問われて、フウガは一歩後退る。
 どうやらミヨと違って、彼女は、フウガの事を優しく許すつもりはないらしかった。
 そこで、フヨウの後ろに居たゴウタが背後を指差しながら、言った。
「フウちゃん。急がんとうちの小さいんが、今か今かと襲撃の準備してるで」
「レナがこのまま落ち込んでいるようだったら、皆で成敗するんだってさ。あれは本気だね」
 ライが他人事のように、首を竦める。いざとなっても助けません、という意思がびしびしと伝わってくる仕草である。
 もちろん、隣のゴウタも同じ意見のようだった。
 フウガは、少し肩を落として、息を吐いた。
「――今更、否定する気はないけど、完全に悪者だな、俺」
「フウちゃん。男って生き物はな、平和に生きたかったら、絶対に女の子は泣かせたらいかんのやで?」
「僕達もテナさんにそう教わったよ。……主に拳で」
 二人の言葉は、心の底から実感に溢れていた。
 テナも一見温厚そうに見えて、裏側はなかなかに恐ろしいのかもしれない。伊達に毎日、あんな元気溢れる子供達の世話はしていないという事なのだろう。
「まあ、じーじとテナさんが子供達を宥めている間に早く行った方が良いよ。姉さんも珍しく角が出てるし」
「…………お仕置き。お仕置き」
 ライの脇で、フヨウがぽつりと呟く。
 酷く怖いので、止めて欲しい。
「……ああ。確かにまずそうだ」
 身の危険を感じて、フウガは足早にその場を離れる。
 そして、今度こそ、レナの部屋の前まで辿り着く。
 本来は、ミヨとの相部屋だが、今はレナしかいないはずだ。
「ふう……」
 一つ大きく深呼吸。
 覚悟は、ここに来るまでに十分過ぎる程に決めている。
 今更、こんな所で躊躇っているわけにはいかない。
 扉をゆっくりと叩く。
 しばし沈黙。その後。
「…………はい」
 明らかに消沈した少女の声が、かろうじて内部から聞き取れた。
(本当に……落ち込んでるんだな……)
 わかっていた事だが、改めて本人の声を聞くと、申し訳ない気持ちが込み上げてくる。
 こんな元気のない声は、レナには似合わない。
 本当の彼女は、むしろ、こちらがくよくよしている時に容赦なく背中を張って、前へと進ませてくれるような人間だ。事実、フウガは、レナにそうやって叱咤された事もある。少なくとも、自分の知る彼女は、そういう女の子のはずだ。
 だから、迷わず扉を開いた。
 レナを、本当のレナへと戻すために。
「――――あ」
 レナは、部屋の奥でベッドの端に腰掛けていた。入って来た人物がフウガだと気づいて、目を見開いて固まる。
 その反応を予期していたフウガは、動揺する事なく部屋の中へと足を踏み入れた。
 レナの方も、最初の驚愕から何とか抜け出して、慌てた様子で立ち上がった。
「…………」
「…………」
 無言で、互いに向き合う。
 息が詰まりそうな、気まずい空気。
 ほんの昨日までは、気兼ねなく話していたはずなのに、今は、最初の一言を口に出すだけで酷く困難だった。
 舌が動かず、呼吸するだけで苦しく、まるで言葉が出て来ない。
(……でも……言わないと……)
 フウガは思う。
 自分は、感情に任せた不用意な発言で、目の前の少女を傷つけてしまった。
 その事を謝るために、この場所へと戻って来た。
 そして、この謝罪は、自分の中で本当に重い意味を持っている。
 スサノ・フウガという少年にとって――すでに、彼女はそれぐらい大切な存在になっているのだ。
 その感情がもはや、単なる仲間へ向ける物ではない事に、少年は気づかない。
 いや。
 気づかない振りをする。
「レナ……」
「あ、の、フウガ……」
 同時に口を開く。
 だけど、どちらも余裕がないので、互いの言葉が被っている事なんて気づけなかった。
「すまない。俺が悪かったっ」
「ご、ごめん。私が……っ」
 故に、再び同時で下げた頭は、必然、思い切り衝突をしたのである。
 激痛と共に、視界が点滅。
 反射的に二人は、両手で頭を押さえて、その場にしゃがみ込んだ。
「「〜〜〜〜っ」」
 しばらく、二人で必死に痛みを堪える。
 先程とは違った意味で、言葉が出なかった。
 その後、ようやく喋る余裕を取り戻し、二人は叫んだ。
「あ、あんたね! 痛いじゃないの!!」
「それは、そっちもだろ! 何で同時に頭を下げてるんだよ!!」
「こっちが聞きたいわよ、もう! さんざんどうやって謝るか悩んで、結果がこれだなんて……!」
「俺だって、そうだっての!」
「そもそも、あんたが謝る必要なんてないじゃない!」
「あるんだよ! あるから、謝ったんだろっ!」
 今までの鬱憤を晴らすが如く、互いに文句を言い合う。
 そして、いいかげん文句も尽きた所で、うう〜っと数秒程、フウガとレナは睨み合い――
 不意に、本当に長く大きい溜息を吐いた。
「…………さまにならないなぁ、本当」
「…………全くだよ」
 その後、不思議と怒りは、一瞬で冷めていた。
 先程までの重い空気も、気づけば霧散している。
 レナは、諦念めいた笑みを浮かべた。
「でも、らしいんじゃない。私達にはこういうのが」
「かも、しれないな」
「……朝は、ごめんね」
「良いんだ。俺の方こそ、すまない」
 改めて謝り合って、今度は、自然と笑みがこぼれていた。
 それだけでもう、二人の間のわだかまりなんて、何もなくなっていたのだ。
 結局な話、両者がこの結果を望んでいたからなのか。
 悩んで、悩んで、悩んで、ようやく勇気を出して、行動して。
 だけど、終わってみれば、妙にあっさりしたものだった。
 でも、たぶん、世の中の仲直りの経緯なんて、ほとんどがこんなものなのかもしれない。
「ほら」
 先に立ちあがったフウガが、手を差し伸べる。
「ありがと。フウガ」
 レナも、それを素直に掴んだ。
「――って、え……」
 その時、フウガは自分の目を疑った。
 手を引かれて、立ち上がったレナ。
 彼女の瞳から、光る雫が流れていたのだ。
 最初はさっき頭をぶつけたせいかと思ったが、違う。明らかに、それはそういう涙とは別の物であった。
「な、何で泣いてるんだよ、レナっ」
「えっ、私……」
 レナ本人も気づいてなかったのか、驚いたように顔に触れる。
「あ、あれ……。どうしてだろ。でも、なんか……」
 自覚したら、もう止まらなくなったのか、今度は嗚咽まで漏らし出す。
「ご、ごめ……あ、こんなの違うのに、何で……」
「レナ……」
 居た堪れない心持ちで、フウガは泣き続ける少女を見つめた。
 気が緩んだら、自分の意思とは関係なく泣き出してしまうほどに、彼女は思いつめていたのだ。それだけ、自分は彼女を苦しめていたのだ。
 今の状況は、その事実を否が応なくフウガへと突きつけていた。
「…………え、ええとっ」
 しかし、今は、その事を反省している場合でもない。
 泣いている女の子を放っているなんて、それこそ男のする事ではないだろう。下手したら、本当にフヨウの恐ろしいお仕置きを受ける羽目になる。
 さんざん悩みに悩んだ挙句に、フウガは何とか行動を起こす。
「…………フ、フウガ?」
 未だに泣きっぱなしのレナが、戸惑ったように、自分よりの背の高いフウガを見上げる。
 フウガが最終的に泣いている少女へ対して行った事は……頭を優しく撫でる事だったのだ。
「――――ね、ねえ、もしかして、馬鹿にしてる?」
「し、失礼なっ」
 心外な反応に、フウガは憤慨する。
「仕方ないだろっ。他に泣いている女の子に対してどうすれば良いかなんて思いつかなかったんだから!」
「あのね…………男ならそんなんじゃなくて、こう……優しく抱きしめるとか、そういうのは出来ないの……?」
「…………」
 もちろん、レナのその言葉は、本気などではなく、呆れ半分のちょっとした冗談のようなものだったのだろう。
 それはフウガにもわかっていたし、そのまま受け止める事は出来た。
 だけど。
「…………」
「え!?」
 いきなり自分の言った通りに抱きしめられたレナは、泣くのも忘れた様子で、目を剥いた。
 耳まで真っ赤にして、フウガの腕の中で身をよじる。
「あ、あんたね! あんなの本気に……っ」
「だって、他に出来る事なんてないから」
「な、何が……」
「ただ謝っても駄目なら、傷つけて、泣かせてしまったお前に対して出来る事なんて、もう他にはないんだ。俺には」
「……………………あ」
 何かに気づいたように、レナが声を漏らした。
 合わせて、腕から逃れようとする動きが止まる。
「…………」
 しばし逡巡した後、レナは、フウガの胸に頭を預けた。顔は未だに真っ赤で、恥ずかしさを必死で堪えているのは明らかだった。
 でも、そんなのはフウガとて同じだ。
 だけど、今は羞恥心を押し殺してでも、やらなければいけない事があった。それだけの事だ。
「……やっぱり、馬鹿だわ。あんたは……」
「自覚してる。もう嫌ってぐらいに」
「ねえ……」
「……何だ?」
「あの痣の事……もう話したくなければ良いの……でもね」
「…………」
「私は、あんたを黙って死なせるなんてしないわ。あんたが嫌って言っても、どんなに拒んでも……絶対に。朝もね、それが言いたかったの」
「…………」
 自然と少女を抱く腕に力がこもる。
 どうして。
 どうして。
 どうして。
 そんな事を言っても、どうしようもないのだ、と。
 運命は、もう変わらないのだ、と。
 自分は、そう真実を口に出せないのか。
 決して叶わぬ期待など、持っても傷つくだけ。いずれ悲しみに崩れ落ちるだけ。
 ならば、今のうちにそんな物は奪ってしまった方が良いに決まっている。
 でも、言えなかった。
 いや――
 言いたくなかったのだろうか。
 破滅を受け入れていても。もう諦めていても。
 やはり、自分は彼女の気持ちが嬉しくて――やはり生きたいと思っていたのかもしれない。
 そんな十六歳の少年としてあまりに当たり前な、未来への希望を捨て切れずにいたのかもしれない。

 ――例え今の自分が。
 ――そして、その胸に抱く希望さえもが。

 どこまでも偽者でしかないと知っていても。


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