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 鈴音屋さん


 雲一つない空。
 輝く太陽がかんかんと照り、前方の景色が揺れるほどに地面を焦がしていた。
 蝉達は、短い生涯を有意義なものにしようと躍起になっているのか、甲高い鳴き声を耳障りなほどに合唱させている。
 都会の喧騒を離れた――つまり田舎と呼ばれる場所の典型的な夏の風景であった。
 そんな風景を背に、斉藤百合(さいとうゆり)は舗装もされていない田んぼに挟まれた道を歩いていた。
 年は、二十三。
 胸まで伸ばした黒髪に、美人という単語でくくっても十分に通るだろう整った顔立ちをしている。健康的な色に焼けた肌と、頭に乗せた麦藁帽子が周囲の風景と見事にマッチしていた。
 ただ一つの違和感があるとすれば、現代では辺境と言っても過言ではないだろうこんな村には、まずいない若さの持ち主であることだ。
 実際、百合の住む村には、彼女以外に若者と呼べるような人間は一人もいない。
 なのに百合はあえて、ここでの生活を選んだ。
 理由は簡単だった。
 自然と共に生きる田舎の生活が好きだったのだ。
 他人が聞けば、「それだけ?」と言われてしまいそうな理由だが、百合からすれば十分な動機だった。自分を押し殺してまで、自然という言葉からかけ離れた都会で生活する気にはなれない。
 そう、あの人だって――
「コンクリートに囲まれた都会じゃあ、夏の暑さに清々しさなんて感じられないんだから」
 胸の奥にしまい込んだものが溢れそうになり、百合はそれを誤魔化すように大きな声で一人ごちる。
 どうせ人通りもほとんどないので、誰かに聞かれる心配もない。
 百合は麦藁帽子の唾を持ちながら太陽を見上げて、眼を細めた。
「まあ、男性との出会いがまったくないのは、ちょっと問題かもだけど……」
 でも、縁さえあれば、何処に居たって素敵な出会いはあるはず!
 自分への言い訳のように、百合は胸中で叫んでおく。
 その後、何だか無性に虚しい気分になった。
「……はあ、天から素敵な人でも降ってこないかなぁ」
 そんな有り得ない期待を言葉にした瞬間だった。
「ひはあ!」
 がさがさ! 
 めきめき!
 小さな悲鳴と不穏な物音が頭上から。
「ひゃああああああああああ!」
 遅れて、眼の前にどしーん、と漫画みたいな効果音を立てながら何かが落ちた。
 百合は、眼を丸くする。
 本当に素敵な出会いが? 
 一瞬、そんなことを思ったが、もちろんそんなわけがない。
 落ちてきたのは、確かに人間だ。
 しかし決して男ではなく、小柄な高校生ほどの少女だった。
 百合と同じ黒髪を肩の辺りまで伸ばしており、小さな顔に大きく真ん丸い眼がちょこんと二つ並んでいる。格好は、使い古された感のあるジーンズに白いTシャツとシンプルで、妙に薄汚れていた。そして、胸元にはビー玉ほどの大きさの鈴がネックレスのようにぶら下がっている。
「あててて……」
 少女は、思い切り打ちつけたらしいお尻を押さえながら、涙目になっていた。
「あの……大丈夫?」
 見知らぬ相手ではあったが、百合はとりあえず気遣った声をかけてみる。
 そこでようやく眼の前に人が居ることに気づいた少女は、「ああ!」と声を上げた。
「大丈夫です大丈夫です! すいません、驚かせてしまって! 登ってみたら木の上が思った以上に涼しくて、ついついウトウトとしちゃったみたいです」
「き、木に登ったの? 危ないじゃない」
「あはは、馬鹿となんとかは高い所が好きってやつです。私、馬鹿だから」
「……えっと」
 当然のように、返答に困ることを言う少女だった。
 屈託のない笑顔からして、別に自分をからかっているわけでもないらしい。
 百合は気を取り直すように、一つ咳払いした。
「で、あなたは? 村の人じゃないわよね? 私より年下の子が、ここに居るなんて聞いたことないし」
「あ、私、旅をしてるんです。歩きで」
「は?」
 この子は、今、なんて言った?
 今のご時勢に、こんな女の子が旅?
 しかも、歩きで?
 よく見れば、少女が登っていたらしい木の根元には、大きなリュックサックが置いてある。とてもじゃないが、軽い旅行に来た人間が持ち歩く荷物の量ではない。
「冗談、じゃないのよね?」
 冷や汗をたらりと流しながら百合が訊くと、少女はこっくりと頷いた。
「もちろんです。私、冗談も嘘も下手ですし」
「……私、こんな出会いを期待したんじゃないんだけどなぁ」
「はい?」
 少女が小首を傾げる。
「ああ、なんでもないの」
 百合は慌てて手を振って誤魔化した。
 あんなお願いをしていたこと他人に聞かれたりしたら、恥ずかしいったらない。
「あ、申し遅れました! 私は大賀美鈴(おおがみすず)って言います」
 天から――もとい木の上から降ってきた少女が丁寧にぺこりと頭を下げるので、
「あ、どうも。私は斉藤百合よ」
 百合もつられて頭を下げながら、ついつい名乗っていた。
 お互いの自己紹介が終わると、美鈴は、ちょっと気まずそうに眼を逸らした。
「いきなり、こんなことを訊くのもなんなんですが、その……」
「? どうしたの?」
「この辺で、野宿できるような場所ってないですかね?」
「は?」
 今日二度目の怪訝な声を上げてしまう。
 美鈴は後頭部に手を当てて、たはは、と苦笑いした。
「いえ、もう昼も半ば過ぎちゃってるので、今から宿泊施設のあるような場所まで歩いても間に合いそうもないんです」
 確かに、このちっぽけな村に、まとも宿泊施設などあろうはずもない。唯一の交通手段であるバスも、今日の分はもう終わってしまっているだろう。
「だけど、野宿ってあなた……仮にも年頃の女の子なのよ?」
「あ、大丈夫です。もう慣れてますし、この辺りだったら、道を外れれば人と出会うことの方が少ないですよ」
 もっともな意見だが、「はい、そうですか」と百合も納得するわけにもいかない。人気の少ない田舎だからこそ、多くの野生の獣だっているのだ。
 百合は両手を腰に当てると、ふう、と息を吐いた。
「仕方ない。ここで出会ったのも何かの縁だし、今日は私の家に泊まっていきなさい。空き部屋はあるし、うちはおばあちゃんと二人暮らしで、特に問題ないから」
「いいんですか!」
 ぱあ、と美鈴は表情を明るくする。
(ころころと表情の変わる子だなぁ……)
 百合は苦笑をこぼした。
 出会ったばかりだが、こんな表情で笑う女の子が悪い人間ということはないだろう。
 それに本音を言えば、最近、年の近い女の子と話したことなどないので、自分の話相手になってくれればな、という気持ちもあった。
「じゃ、さっそく行きましょうか。私の家はこの先よ」
「はい! ありがとうございます!」
 美鈴は、地面に額がぶつかるんじゃないかと心配になるような勢いでお辞儀をすると、置いてあったリュックサックに歩み寄った。
「それ、一人で持てるの?」
 思わず訊いてしまう。
 どう見ても、あんな小柄な少女が背負える大きさと重量には見えない。
「平気ですよ。長旅で鍛えてますから」
 現代に生きる少女の台詞とは思えないことを美鈴は口にしながら、よいしょ、と掛け声ひとつで、軽々とリュックサックを背負った。
「すごい……」
 自然と感嘆の言葉が漏れる。
 ただ見た感じは、どっちがどっちに背負われているのかわからないような状態である。
 しかしそれでも、美鈴はしっかりとした足取りで歩いていた。
「こっちは準備オーケーです。さあ、行きましょー」
「え? ええっ」
 ぽかんとしていた百合は、慌てて返事をする。
 なんだかさっきから、信じられない光景や言葉ばかり、見たり聞いたりしている気がする。
(不思議な一日になりそうだわ……)
 今日は半分以上が終わっているはずなのに、百合はそんな感想を抱かずにはいられなかった。


 見ているだけで不思議と懐かしい気持ちを思い起こさせてくれる、日本の田舎で定番の木造建築――百合の家は、まさにそんな風情を漂わせていた。
 庭にはたくさんの向日葵が咲き並び、時折、風鈴の音が響く。
「はい、冷たい麦茶」
 縁側に腰かけた美鈴に、台所から戻った百合は水滴の張りついたコップを差し出した。
「わあ、ありがとうございます!」
 美鈴はそれを両手で受け取ると、一気に飲み干してしまう。
「はー、生き返りますねー」
 百合はくすりと笑う。
「そんなに一気に飲んで、お腹を壊しても知らないわよ?」
「大丈夫です。こう見えても丈夫な身体してますから」
「……それは納得できる気がするわ」
 あの怪力に、木から落ちても怪我一つない辺りが。
「へ?」
「な、なんでもない」
 引きつった笑みをしながら、百合は美鈴の隣に腰を下ろした。
 ちらりと少女を横目で見る。
「で、どう? サイズは合ってる?」
「あ、はい! バッチリですよ!」
 満面の笑みを浮かべながら、美鈴は自分の身体を見下ろした。
 今、彼女は出会ったときの薄汚れた服ではなく、さっき百合がタンスから引っ張り出してきた空色のワンピースを身につけていた。
 百合が高校生の頃に着ていた物である。
「すいません。泊めてもらうだけじゃなく、服の洗濯までしてもらって」
「いいのよ。ついでだし。それにこういう田舎では、お互いが助け合うのが普通なのよ。人が少ないから、村の人達がみんな顔見知りだしね」
「ふぅむ、なるほぉど」
 口の中で氷を噛み砕きながら、美鈴は得心顔で頷く。
「ほぉれって、なんだか素敵でふよね」
「ふふ、ありがと」
 気持ち良い風が吹く。
 屋根にぶら下がっている風鈴が綺麗な音色を奏で、庭に立ち並ぶ向日葵が揺れる。
 眼と耳で夏らしさを存分に感じ取りながら、百合は口を開いた。
「で、聞きたいんだけど――いい?」
「はい? なんでしょう?」
「どうして一人旅をしてるの? しかも、歩きでなんて」
「あ、別に全部が全部、歩きってわけでもないんです。ただ私は歩くのが好きで、だから出来る限りは移動は徒歩にしようってだけで」
「……質問の答えになってないわねー」
「あ、そ、そうですね。すいません! ……ええと、つまりは要するに、修行なんですよ」
「しゅ、修行?」
 ――また変な単語が出てきた。
 百合は眉根を寄せ、
「一体、何の修行なの?」
 美鈴は手で玉串を振るうみたいな仕草をしてみせる。
「実は私、御祓いみたいなことをやってるんですよ」
 百合は眼を丸くした。
「御祓い? 幽霊とかを祓うってこと?」
「そんなものですかね。その修行のために、諸国を漫遊ってわけです」
「漫遊ってなんか違うような……」
「え?」
 どうやらわかってないらしい。
「ま、まあ、それは置いといて。具体的にはどんな風に?」
「これです」
 美鈴は胸元にぶら下げている金色の鈴を指で摘み上げて言った。
「鈴?」
「そうです。鈴です」
「いや、わからないんだけど……」
 美鈴は難しい顔で、こめかみに指を当てた。
「うーんと、つまりは綺麗な鈴の音で霊を鎮めて成仏させちゃおーってことですね」
「へえ」
 そんな御祓いなんて聞いたことがない。
「その鈴で祓うの?」
 美鈴は頭を振って、
「いえ。この鈴は〈護リノ鈴〉って言って、持ち主をいろんな厄や悪霊から護ってくれるんです」
 鈴を鳴らした。

 ――しゃらん。

 鈴の音というよりは、修験者の持っている錫杖のような音だった。
 だけど。
「綺麗な音……」
「でしょう?」
 少女は嬉しそうに唇を綻ばせた。
「で、霊を鎮めるときに使うのが――」
 美鈴は奥の畳の上に置いてあったリュックサックに手を伸ばし、もう一つの鈴を取り出す。
「この〈黄泉ノ鈴〉です」
 掌の上で転がされた鈴は、見る限り、さっきの〈護リノ鈴〉と比べても、さして形の違いは見受けられなかった。
「これって〈護リノ鈴〉と何か違うの?」
「ええ。この鈴は普通に鳴らしても……」
 美鈴が鈴を振ってみせる。
 しかし。
「音が……鳴らないわね」
「はい。この鈴は必要なときに、特殊な方法でしか鳴らせないんですよ。無闇に鳴らすと霊なるモノが際限なく集まってしまうので」
「ふーん。でも、御祓いができるってことは、美鈴ちゃんは見える人なの?」
「そうなりますね」
 ちょっと恥ずかしそうに、美鈴は頬を掻いた。
 百合は、二つの鈴をまじまじと見つめた。
「だけど、鈴で霊を鎮められるなんて凄いわね」
「そんなことないですよ。どんなものでも綺麗な音には不思議な力があります。身近な例を言えば――そう、この風鈴」
 美鈴は頭上で揺れる、同じく鈴の名を持つ夏の風物詩を指差す。
「この音色を聞くと、実際の暑さは変わらないのに涼しい気持ちになれますよね。これも音の力なんですよ」
「なるほどね」
 それは確かに納得できる例だと思った。
「もしかして、この家にも幽霊とかいたりする? 古い家とかって、特にそういうのが多いじゃない」
 百合は冗談めかして言ってみる。
 まさか本当にいるわけがないだろう。
 そう考えて。
 だけど。
「――いますよ」
 急に大人びた口調で美鈴が言った。
「え?」
「正確には家にではないです。さっき出会ったときからずっと、百合さんを見守る人が一人――います」
 なんでだろう。
 一人旅とか、鈴の音で御祓いとか、自分を見守る幽霊とか。
 普通ならとても信じられないようなことばかりなのに。
 この少女が言うと、全てが本当のことなんだって、そう思えてしまうのは。
「誰……なの? 一体、誰が……?」
 思い当たる人物は居た。
 いや、きっと、この人だと確信できる人間が。
 美鈴は眼を伏せると、静かな口調で告げた。
「百合さんによく似た、大人の女性の人です。たぶん、百合さんのお母さん」


 風が吹き、風鈴が鳴った。
 だけど、今は涼しいとは思えなかった。
 それ以上に、百合の心も身体も思いがけない出来事に冷え切っていたのだ。
「母さんが……居る?」
「はい」
 思わず周囲に首を巡らすが、やはり誰も居ない。
 当然だ。
 自分には霊感など、これっぽっちもない。
「……私の声は届かないの?」
「残念ですけど……生在る人の声は、死者には聞こえません。逆も同じです」
「そう、なの……」
「――とても」
 不意に美鈴が呟いた。
「とても寂しそうで、だけど、ちょっと嬉しそうな……そんな不思議な表情をしています」
「…………」
「差しつかえなければ教えてもらえませんか? 百合さんのお母さんがどうして亡くなったのか」
 問われた瞬間、胸が締めつけられた。
 百合は膝の上で手を組み合わせると、遠い眼をする。
 瞳に映るのは、前方の景色ではなく過去の残影だ。
「……もう、五年も前になるのね――母さんが死んだのは」
 自嘲で口元が歪んだ。
「昔の私はね、実は田舎が大嫌いだったの。まともな交通手段もない、お店もなくて不便で、良いところなんて一つもない――そんな風に思ってた。もう根っからの都会っ子だったのね」
 百合の双眸に悲哀の光が宿る。
「だけど、母さんは違った。逆に田舎が大好きで、仕事が休みになれば私を『おばあちゃんのところに一緒に遊びに行こう』ってお決まりのように誘うの。私は何度も田舎は嫌いって言ってるのに……」
「…………」
「本当に何度も何度も……」
 百合は溢れる感情を抑えるように、自身の腕を強く掴んだ。
「そして母さんが死んだ日、私は前日に友達と喧嘩したばかりで機嫌が悪かったの。だから、いつものように母さんにおばあちゃん家に行こうって誘われたときに、ついかっとなって……」

 ――あんな場所、一人で行って来ればいいでしょ! 馬鹿!

「ひどい奴でしょ。母さんはただ、私に自分の故郷の良さを知ってもらいたくて誘っていただけなのに。そんなことずっと前から気づいてたのに。素直になれなくて、意地になって……ひどいことを言ってしまった」
 足元に視線を落とし、下唇を噛み締める。
 そうしないと、今にも泣き出してしまいそうだった。
「そのまま母さんは、この村に向かう途中で交通事故で死んでしまった。謝ることもできないまま。ずっとずっと後悔したわ。
 だから、私は母さんの葬式が終わって、高校を卒業した後、一人でこの村に来たの。そして、ようやく気づいた。小さい頃に一度来て以来、ずっと来ることを拒んでいたせいでわからなかった、母さんが伝えたかった田舎の素晴らしさに――やっと気づけた」
 あのときの感動と、気づくのに遅すぎたことへの後悔の念は今でも忘れられない。
 綺麗で澄んだ空気。
 見渡す限りに広がる緑。
 夜になれば、頭上には星の海が広がる。
 母親の大好きだった村は、都会にはないもので満ち溢れていた。母を失って傷つき、疲れて果てていた百合の心も優しく包み込んでくれた。
 こんなことにならなければ、それを見ようともしなかった自分の矮小さが、ひどく恨めしくてたまらなかった。
「だからだったんですね」
「え?」
 美鈴の何か納得したような物言いに、百合は眉根を寄せる。
「初めて会ったときから、百合さん、どこか無理しているような気がしたんです。必死に何かに耐えているような……」
「……そうね。そうかもしれない」
 百合は立ち上がり、悔いに満ちた言葉をこぼした。
「でも、どんなに後悔しても、母さんにはもう私の言葉は届かない。謝りたいけど、もう私なんか見守らなくていいからって伝えたいけど――それさえもできないのね」
 あれから何の問題もなく日常が流れていれば、あの日のことは、ほんの些細な出来事として過ぎていたのだろう。
 しかし、突然の母の死は、とても重い後悔の過去へとそれを一変させ、彼女に圧し掛かることになった。
 そう。
 些細のことであったからこそ、より重くなる。
 後悔とはそういうものだ。
「まだ諦めちゃいけません」
 不意に美鈴が言った。
「え?」
「こういうときのために私は――鈴音屋はいるんですから」
「鈴音屋……?」
 百合は怪訝な顔になる。
 美鈴は腰を上げると、〈黄泉ノ鈴〉の上に繋がってる紫色の紐の輪に右手の中指に通し、鈴をぶら下げた。
「鈴音屋は、未練を残しこの世に留まり続ける霊を鎮め、生者と死者との橋渡しをすることを生業とする者。ここからが私の仕事です」
 不意に、ついさっきまでけたまましく鳴いていた蝉達が静かになる。風も収まり、まるで時が止まったような静寂が落ちた。
 すう、と美鈴は息を吸い、胸の前に鈴をぶら下げた手を掲げて、
「さあ、鳴って……」
 鈴を揺らした。
 すると、さっきは全く音を鳴らさなかった鈴が、

 ――しゃらん。

 鳴った。
 さっきまでの少女とは別人のような神秘的な雰囲気を漂わせる美鈴は、静かに言霊を紡いだ。
「一つ鳴らせば、命無き御霊の心を掴み――」
 
 ――しゃらん。

「二つ鳴らせば、生者の眼(まなこ)に逝きし者の姿を写す――」

 ――しゃらん。

「三つ鳴らせば、黄泉と人世の絆を結ばん」
「あ、ああ……」
 信じられないものを見て百合は呻いた。
 居た。
 居たのだ。
 庭に立ち並ぶ向日葵の前。
 そこに、あの日、最後に見た姿そのままの母親が――斉藤優奈(さいとうゆうな)が居たのだ。
 美鈴が最後に呟く。
「――故に、これは黄泉なる鈴音」
 百合はふらふらとした足取りで、母親へと歩み寄っていく。
 佇む母は、背後の向日葵を透かしながら微笑んだ。
『……久しぶりね、百合』
「――――っ!」
 思わず歯噛みする。
「なんで……なんで!」
『ん?』
「なんでそうやって、前のように笑えるの……っ!」
 百合は両拳を硬く握って俯くと、気づけば声を張っていた。
「私はひどいこと言って! 母さんの気持ちを無視して! だから……私には笑いかけてもらえる資格なんてないのに……!」
 優奈は静かに頭を振った。
 自分の娘に向けて手を伸ばすと、そっと彼女の頬を撫でる。実際には触れてはいないはずなのに、とても優しい温もりがそこから伝わってくる気がした。
『馬鹿ね。自分の娘のことなんて、母親には全部お見通しなのよ? あれが本気で言ってるんじゃないことなんて、最初からわかってたわ。それに――』
 優奈は、懐かしそうな眼で自分の生まれ育った家を見上げた。
『私の大好きだったこの村の良さに百合が気づいてくれて、好きになってくれて――私はそれだけで本当に嬉しいの』
「……母さん」
『だから、自分を責めないで。私が死んじゃったのは自分のせいなんだから、あなたが苦しむ必要なんて何一つないの』
 溢れた涙が百合の頬を伝い、顎からぽたぽたと落ちた。
 地面に丸い染みができる。
「ごめんね……本当にごめんね、母さん……私、ずっと謝りたかった……」
『うん、わかってる。百合は優しい子だから、ずっと一人で悩んで苦しんでたんでしょう? でも、私は気にしてなんていないから……大丈夫よ』
「……うん……うん……」
 百合は何度も頷いた。
 何度も。何度も。
 胸の奥で、ずっと蟠っていた重い後悔が氷解していくのがわかった。
 母の言葉が。
 母の眼差しが。
 母の想いが。
 それら全てが自分を救ってくれたのだ。
 こうやって眼の前にしただけで、まるで魔法のようにあっという間に。
 優奈は、美鈴の方を向いた。
『……こうやって百合と最後に話せたのはあなたのおかげなのね。本当にありがとう』
 美鈴は微笑し、首を横に振った。
「いえ、ほんの少し手助けしただけですから。それより、もう――」
『ええ。私は、これ以上はここに留まってはいけないわね』
 百合は、はっと顔を上げた。
「……もう行っちゃうの?」
 優奈が寂しげに眉尻を下げた。
『私はもう死んでしまった人間だから。心残りがなくなったのなら、行くべき場所に行かなきゃね』
 眼を細め、優しく百合を抱きしめる。
『でも、百合はもう立派な女性になったもの。私がいなくても何の心配もいらないわよね』
 母の胸の中で百合は力強く頷いた。
「……うん。私は、この村が大好きな母さんの娘だもの。だから、大丈夫」
『ふふ、嬉しいこと言ってくれるじゃない……』
 優奈は心から嬉しそうに笑み、そっと愛する娘から身体を離した。
『お願いできる?』
 美鈴は頷いた。
 〈黄泉の鈴〉が再び掲げられる。
「お母さんを黄泉へと導きます。さあ――鳴って」
 応えて〈黄泉ノ鈴〉が鳴る。

 ――しゃらん。

 今まで一番優しい音色で、鳴る。

 ――しゃらん。

「響け、鈴音よ」
 美鈴が詠うように言霊を紡ぐ。
「もはや人世に憂い無き彼の魂を、黄泉への旅路へと――送れ」
 黄泉の鈴音が周囲を包み、百合の母の身体がゆっくりと白い光に包まれた。
「母さん――!」
 百合が掠れた声で母を呼ぶ。
 二度目になる母との別れに、どうしようもないほどの寂しさが込み上げてくる。
 でも、決して引き止めることは適わない。
 母をもうこの世の住人ではないのだから。
 光の中で、優奈は穏やかな微笑を浮かべた。
『さようなら、百合。私よりもずっと長生きしなきゃ駄目よ? あと、たまには街にも出て、きちんと彼氏を見つけなさいね。独り身の女ほど寂しいものはないんだから』
「……余計なお世話だよ、馬鹿」
『ふふ、最後まで憎まれ口ね。でも、それでこそ百合よ……じゃあね」
「じゃあね、母さん……」
 完全に光に包まれた優奈の身体は、光の粒子にとなり、天へと昇っていった。それはまるで太陽の下の蛍の群れのような、不思議で少し寂しさを感じさせる――美しい光景だった。
 そして、最後に、

 ――しゃらん。

 また鈴が鳴った。
「……行ったのね、母さん」
 母の昇って行った空を見上げたまま、百合は独り言のように言った。
 すでに不可思議な静寂は消えていた。再び蝉達の合唱が始まり、風に揺れた風鈴が涼しげな音を奏でている。
 美鈴は〈黄泉ノ鈴〉をそっと手で握りこんだ。
「お母さん、とっても良い表情していました。自分の大好きな故郷で、娘の百合さんが立派に育っているのを見届けられて、本当に何の不安もなく成仏できたんですよ」
「……美鈴ちゃん」
「はい?」
 百合は背後の少女を振り返り、微笑んだ。
 それは。
 この村に来て初めて――何の無理もなく自然に浮かべることができた笑顔であった。
「ありがとう」


「はい、美鈴ちゃん。これ、お昼に食べてね」
「うわわ! ありがとうございます!」
 百合の祖母から笹の葉で包まれた御握りをもらった美鈴は、眼をきらきらさせながら声を上げた。
 格好はすでに、白いTシャツにジーンズという最初の飾りっ気のないものに戻っていた。もちろん背中にはでっかいリュックサックが背負われている。
「そんなに慌しく村を出なくても、もう少しゆっくりしていけばいいのに……」
 百合は、欠伸を噛み殺しながら言った。
 幽霊の母との別れを終えたのは、ほんの昨日のことである。
 だが、美鈴は翌朝にはもう出発すると言い出し、百合は今、家の前で祖母と共に見送りに出てきているのだ。
 朝早いおかげで、まだ暑さはさほどでもない。気の抜けるような鳩の鳴き声がどこからともなく響いてきていた。
 美鈴はぶんぶんと手を振った。
「いえいえ。これ以上、ご迷惑をかけるわけにもいけないです。それに一応、修行の旅の途中ですしね」
「変なところで堅苦しいのね。むしろ世話になったのは私なんだから、全然気にしなくていいのよ?」
「そう言ってもらえるのは本当に嬉しいんですけど……」
 美鈴は、たはは、と笑いながら頬を掻いた。
「実を言いますと、この村は本当に居心地が良いんです。だから、あんまり長居すると修行への気持ちが緩んじゃう気がして。すいません」
「そう……。だったら仕方ないか。でも、一人旅なんだから気をつけてね」
「私はベテランですから平気ですよ。あ、そうだ――」
 美鈴は御握りを背中のリュックサックに器用にしまい込み、逆に何かを取り出した。
「百合さん、これを」
「? 何?」
 百合は眉をひそめながら、美鈴からそれを受け取った。
「これは……」
 鈴だった。
 百合が振っても音が鳴るところからして、
「〈護リノ鈴〉……?」
 美鈴が首肯した。
「いろいろお世話になりましたからお礼です」
「そんな……さっきも言ったじゃない。本当に世話になったのは私よ。こんな大事な物もらえないわ」
「いえいえ、予備もありますから大丈夫。あと、その鈴は厄から護ってくれるだけじゃなくて、良縁を呼び寄せる力もあるんです。良い人と出会えれば、天国のお母さんもきっと喜んでくれますよ」
「いいじゃない、百合ちゃん。好意は素直に受け取っておくものよ」
 百合の祖母が肩に手を乗せて、優しく諭すように言った。
 しばらく逡巡した後、百合は、
「……うん、わかった。ありがとう、大事にするわ」
 そう言って、小さな鈴を両手で優しく握る。
 美鈴は嬉しそうに、にっこりと笑った。そして、リュックサックを背負い直した後、
「それでは改めて、本当にお世話になりました!」
 ぺこりと頭を下げた。
「百合さん、おばあちゃん、お元気で!」
「美鈴ちゃんもね」
 小柄な美鈴よりも、さらに背の低い百合の祖母が皺だらけの顔を笑顔にしながら、手を振る。
「あ……」
 美鈴も手を振って応えながら歩き出し、
「……あの!」
 百合は、思わずそれを引き止めていた。
 どうしても胸の奥で引っかかっていたことがあった。それを確かめたかったのだ。
 美鈴が不思議そうな顔で、足を止める。
「……百合さん?」
 百合は、真っ直ぐと美鈴の顔を見つめた。
「美鈴ちゃん、もしかして最初から母さんと私のことに気づいてて……」
 そこで――百合は問うのをやめた。
 意味のないことだ。
 この少女が、初めから全てに知っていて自分に近づいてきたのだとしても、それは、たいしたことではない。
 本当に重要なのは、自分は、この屈託なく笑う鈴音屋の少女に――美鈴に救われたという事実だけだ。
 だから、意味のないことだ。
「……ううん、やっぱりなんでもないわ」
 百合はその小さな疑問を胸の奥にしまって、別れの笑顔を浮かべた。
「またね、美鈴ちゃん。いつでも遊びに来て」
「……はい!」
 美鈴も満面の笑みで応えると、背を向けて駆け出した。
 途中で一度足を止めるとこちらに大きく手を振って、また走り出して、今度はもう振り返ることはなかった。
 少女の姿が見えなくなって、すぐ、
 
 ――しゃらん。

 手の中の鈴が鳴った。
 まるで今までの持ち主に別れを告げるように。
 少しだけ寂しげに。


 百合達と別れてから、しばらくして。
「ん〜」
 美鈴は一人、相変わらず人通りが皆無な田舎道の真ん中で唸っていた。
 手には、落ちていた木の棒が一本。
 それを地面に立てると、
「それっ」
 ぱっと手を離した。
 支えを失って、棒が地面にぱたりと横になる。
 棒の先が示すのは西だった。
「よし、じゃあ、今度はこっちだね」
 気合を入れるように、美鈴は胸の前で両手をぐっと握り込む。
 特に目的地が定まっていないときは、いつもこうやって行く方角を決めているのだ。
 要するに行き当たりばったり。
 美鈴は顔の上に手を掲げて、目指す方角を見つめた。
 延々と続く道の先には、まだ何も見えない。
 だが、少女の胸には不安はなく、膨らみ続ける新たな出会いへの期待だけがあった。
「はてさて、今度はどんな場所で、どんな人達に出会えるかな。楽しみだね」
 美鈴が言うと、胸にぶら下がった新しい〈護リノ鈴〉が、ひとりでに、しゃらん、と鳴った。
 まるで、美鈴の言葉に応えるかのようだった。
「よーし、行っくぞー!」
 鈴音屋の少女は天に向けて拳を突き上げながら元気よく歩き出す。
 早朝の空には今日も雲ひとつない。
 東の山から顔を出す夏の太陽は、相も変わらず輝いている。
 今日も暑くなりそうであった。

 ――完


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