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オロチ様はイタズラがお好き!?

幕間 騒がしき日々は、かけがえなき日常


―― 二・後編 ――

 ランタンの光の下に――“それ”は姿を露にした。
「ひ――――っ」
「なっ……!?」
 ウズメが引きつった悲鳴を喉からこぼし、フウガは焦慮の声を上げる。
 姿を見せたのは、廊下の天井、壁、床――全てを覆い尽くす、巨大かつ大量の……蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛蜘蛛――
 しかも、ただの蜘蛛ではない。
『――禍蜘蛛だな』
 オロチが冷静に、幽霊の正体の名を口にする。
 禍蜘蛛。
 力も知能も低い、下級妖魔の中でも底辺に位置する存在。だから、基本的な習性として、常に群れを成して動くというものがある。
 しかし、この数は異常だ。こんなものは妖魔学での、教官の話でも聞いた事がない。
 そして、さらに問題なのは、今、この場には蜘蛛を苦手とするウズメが――
「―――――――――あ」
「先輩!」
 戦意も闘志も一瞬で奪われ尽くして、ウズメはその場にへたり込む。
 無理もない。もともと苦手だというのに、こんな、蜘蛛を特に嫌悪しない人間でも吐き気を覚えるような光景を目の前にすれば、放心してしまうのは当然だろう。
「くっ――」
 咄嗟にランタンを放り出すと、フウガは放心した少女を両手で抱え上げる。
 この状況で敵を迎え撃つのは、無謀以外の何物でもない。
 故に、
「ここは逃げだ! ――疾く、駆けよ!」
 速力上昇の〈言力〉を発動。
 少女を抱えたまま、一目散に逃走へと移る。
 数は多くても、禍蜘蛛自体の移動速度は、たいしたものではない。あっという間に群れを後方に置き去りにすると、しばらく走った後に、フウガは適当な教室へ選んで、そこへと飛び込んだ。
 ウズメを優しく降ろした後、そこらに落ちていた木片を素早く拾い上げると、つっかえ棒にして扉を開かないようにしておく。
 ひとまずの安全を確保して、フウガは窓の方を振り返った。
「……やっぱり〈異界〉か」
 嬉しくない想像が的中して、暗い声で呟く。
 旧校舎の周囲は、淀んだ桃色で覆われていた。この事態は、ここに逃げてくるまでの間に巡らせた推測で、すでに予想済みであった。
 あの禍蜘蛛の増え方は、どう考えても異常だ。ならば、中級、もしくは上級の妖魔の手によるものと考えるのが自然である。妖魔が、自身より力の劣る者を駒に使うのはよく聞く話だ。
 そして、何よりも、下級妖魔では扱えない〈異界〉が展開されてるという事実が、中級か上級の妖魔の仕業である事を明確に告げていた。
「……さて、どうする」
 ウズメといえど、内側からの〈異界〉の脱出は、さすがに無理だろう。オロチはいつものように不干渉を決め込むつもりのようだし、残るこの危機を切り抜ける手段は――
「元凶の妖魔を倒すしかないか……」
 結局、一番妥当な答えは、それしかなさそうだった。
 夜で、しかも人気ない旧校舎で助けを期待するのは、さすがに楽観的過ぎる。時間が経てば、離れた場所で待つゴウタ達が異常に気づく可能性もあるが、あの数を相手にそれまで逃げ切れるとも思えない。やはり、ここは、こちらから打って出るしかない。
 ただ一つ疑問なのは、何故、妖魔は、こんな旧校舎に巣食っていたのかだが……今は、その理由を考える時間があるとは思えなかった。このまま隠れていても、禍蜘蛛達に捕捉されるまで、そう時間は掛からないだろう。
「……先輩、大丈夫ですか?」
「ああ……なんとか……」
 壁際に座り込むウズメは気丈に答えるが、顔は真っ青だった。
 群れを前にしただけで、これなのだ。とてもではないが、彼女を戦わせるわけにはいかない。
 ほとんど反射的に覚悟を決め、フウガは言った。
「先輩、俺は囮になりつつ、あの禍蜘蛛を操っているだろう親玉の妖魔を探しに行きます。先輩は、ここから動かないで下さい」
「いや……フウガ、私も行く」
 精一杯の虚勢を張って、ウズメは自分も戦うと訴える。
 フウガは首を横に振って、はっきりとそれを拒否した。
「駄目です。また禍蜘蛛を前にしたら、先輩は戦えないでしょう?」
「……それは」
 自らの不甲斐なさへの憤りを表すように、ウズメは俯いて唇を噛む。
 フウガは、少女を安心させようと、おどけて笑って見せた。
「心配いりませんって。正面から立ち向かわなきゃ、いくら数が多くても禍蜘蛛程度に負けはしませんし、あいつらを操ってる妖魔を倒せば、すぐに片はつきます」

「サあ……果たシて、ソんナに簡単ニイくかナ」

 唐突に、どこかおかしな発音の声が教室内に響いた。
「「!?」」
 弾かれるように二人が振り返る。
 あるのは、長い年月の後に汚れて朽ちた反対側の壁だけ。
 だが、その表面がぐにゃぐにゃと大きく歪み始める。歪みが収まったときには、そこには異形の巨躯が在った。
「…………っ」
 ウズメの顔から、さらに血の気が引いていく。
 異形の正体は、人頭ほどの禍蜘蛛よりもさらに大きい、優に人間の大人三人分はあるだろう巨大な蜘蛛だったのだ。虎のような胴体から伸びる長い八本の足で壁に張り付き、鬼の如き顔の双眸が二人を捉える。
 ――八握脛やつかはぎ
 この中級に属する妖魔こそが、あの禍蜘蛛達の主か。
 フウガは忌々しい思いで舌打ちする。
「……まさか、こうも早く見つかるとはな」
「当然ダ。オ前達が、ここニ侵入しテから、ずっト見張ってイたノだ。逃がスはズもなイ」
 かかか、と八握脛が醜い鬼面で笑う。
 同時に、二つの方向から破砕音が響いた。扉と窓が禍蜘蛛達によって破壊されたのだ。
 フウガ達は、教室に侵入してきた妖魔の群れにあっという間に囲まれる。
「くっ……」
 フウガは、蜘蛛達を前にして、再び硬直してしまったウズメを庇うように動く。
「マさニ蜘蛛の巣にかカった哀れナ羽虫ヨな。所詮、騎士候補生なドといっテも、コの程度カ」
 この危機的状況にも怯む事なく、フウガは八握脛を睨みつける。
「お前は、騎士候補生を狙って、ここに巣食ったのか」
「当然ダ。そうデなけレば、わザワざこンな危険の多イ場所を選ブものカ。我々妖魔は、価値ノ高い魂を持つ人間ノ血肉を喰らウ事で、よリ力を高めル。デは、価値の高い魂を持ツ人間とハ如何ニ?」
 八握脛の問いの答えに、フウガはすぐに思い当たる。
「……〈言力師〉」
「そウだ。〈龍脈〉の力ヲ借り、こザかシい術を操ル人間共だ。だが、下手ニそイつらニ手を出セば、返り討チに合いカねン。――だガ、ソれも精神ヤ肉体がまだ未熟ナ者なラば、どうダ?」
 妖魔の狙いが何か、フウガはすぐに察した。
「そういう事かっ。騎士候補生を誘い込むために、わざと幽霊の存在を匂わせるような真似を……」
「御明察ダ。頭の悪い人間ノ餓鬼が、こウいう噂ニ愚かナ好奇心で寄ってくルのはわカってイた。適当に何かガ潜んでイるようニ見せかけテ、貴様達のヨうな馬鹿者がわざワざ罠に飛び込ンでクるノを待ち構エていタのヨ」
「獲物を喰らった後は、自らの存在を悟られる前に逃げ出せば良い……か。そうすれば騎士候補生を少ない危険で喰らって、自らの食欲を満たし、力を高める事が出来る。妖魔にしては、考えたもんだ。だが――」
 腰の後ろの鞘から、刃が抜き放たれる。
 イザナギとイザナミ。
 スサノ・フウガの誓いを宿す二振りの〈真名武具〉。
「掛かった獲物が俺だったのが、お前の不運だ。その企みは失敗に終わる」
「かかかか。好きニ吼エろ。どウせ我ニ喰ラわれルときにハ、無様ナ悲鳴しカ上げらレんのダ」
 八握脛が足の一本を振って、禍蜘蛛達に包囲網を狭めさせる。
 フウガは禍蜘蛛達の動きを警戒しつつ、天井を見上げる。
(……くそ、ご丁寧に旧校舎のボロさ加減まで、しっかり模倣してやがる)
 この場で、強力な〈言力〉で敵を薙ぎ払ったりすれば、校舎が崩れて、そのまま生き埋めになりかねない。八握脛は、そこまで考えて、ここに罠を張ったものか。
「烈風、研ぎ澄ませ!」
 両の刃に風を纏わせる。
 所詮、この禍蜘蛛達は、八握脛による傀儡だ。頭さえ仕留めれば、残った統率性を失った手足など、なんら脅威ではなくなる。故に、狙うべきは八握脛のみ。さらに、動けないウズメの存在と数の不利がある以上、長期戦は選択肢に存在しない。速攻で、片をつけなければならない。
 フウガは迷わず躊躇わず、前へと出る。異形の蜘蛛達の群れへと駆け込んでいく。
 遠距離からの攻撃は、禍蜘蛛を盾にされれば、容易く防がれるだろう。ならば、臆す事なく敵への接近を挑む事しか、フウガには許されない。
「勇敢ト無謀を履キ違エたカ、小僧」
 八握脛が嗤い、命じる。
 蠢く群れが少年の進路を阻み、牙を剥いた。
「邪魔――だっ!!!」
 風の宿りし二刃による斬撃が唸る。
 前に出る足を一切止める事なく、進行の障害となる妖魔だけを瞬時に見極め、悉く斬り捨てていく。
 あくまで八握脛を斬れる間合いまで近づく事が最優先。だから、少しばかり肉を切られようが、抉られようが構わない。脳髄を苛む苦痛など、戦う者として強固な意志によって黙らせる。
 そして、朽ちた床で幾度と跳ねる鮮血を代償に、フウガは、八握脛への接近という報酬をかろうじて得た。
「ほウ……まさカ、そノ身を削っテ、こコまデ迫ろウとハ。驚いテ、少シばカり傍観シてしマったゾ」
「お前の戯言を聞く気はない!」
 すでに剣の間合いには足を踏み入れている。あとは、フウガが刃を振り下ろせば戦いは幕を下ろす。
 しかし、八握脛の言葉は、ハッタリでも負け惜しみでもなかった。
 あくまで、この場での主導権を持つのは、あちらであり、蜘蛛の巣に掛かった哀れな羽虫は、フウガとウズメの方。
 故に――少年の剣は敵を斬るには至らない。
「なっ――これは!?」
 四肢に絡み、フウガの自由を奪ったのは、禍蜘蛛が口腔より吐いた蜘蛛の糸。粘り、伸縮性と強度に富むそれは、束縛からの脱出を容易としない。
 動きを止めたフウガは、殺到した蜘蛛達に圧し掛かられ、床に伏した。
「く……そっ!」
「小僧、貴様は、しバらくソこで寝テいロ。先ニ喰らウは女ヨ。柔ラかく、美味ナ獲物を前ニ、溢レる涎が止マらんノでな。我ハ好きなモノから喰うノが好みダ」
 未だ教室の端でへたり込むウズメを、ざわざわと禍蜘蛛達が囲む。
「恐怖デ竦んデ、動く事モ出来ヌか? こレは愉快ヨ」
 状況は、絶望的。眼前に広がる危機を前に、ウズメは剣を抜く事すら出来ていない。
 このままだと、間違いなくウズメは死ぬ。
 妖魔の欲望と腹を満たすだけの、人としての誇りも尊厳も与えられぬような最期で。
「――――っ」
 少女の危機を前に、内に眠る欠落の騎士が身を起こさんとする。亀裂の痣が、ゆっくりと浮かび上がり始める。
 だが、次の刹那。少年の視界に広がった光景は、彼の脳裏に在った想像とはあまりにもかけ離れていた。

 ――断ち斬られる。

 体液を撒き散らし、木床を打つのは、禍蜘蛛の残骸。妖魔が少女へと近づく先から、屍は量産される。
「何事、ダ」
 鬼面にも動揺が浮かぶ。
 少女の〈真名武具〉であるカグヅチは、すでに鞘から抜き放たれ、宝石の如き緋色の刀身は、その美しい姿を戦いの場へと晒していた。
 ゆらりと少女が立ち上がる。その佇まいに、先ほどまでの怯えも恐怖も何もありはしない。そこにあるのは、ただただ騎士候補生最強――ツクヨミ・ウズメとしての、揺るがぬ威容であった。
 対し、一切の隙などなく刃を構える彼女を前にして、怯えるように引いていく妖魔の群れとそれを呆然と見守る八握脛の姿が、フウガには哀れなほどに矮小に見えた。
「――至極、簡単な事だったな」
 静かな、落ち着いた声音で、ウズメは言った。そこには、どこか自嘲も含まれている。
「蜘蛛が苦手だというのならば、その姿を視界に入れなければ良い。私は、何よりもあの姿形を好まないだけなのだから」
 つまり、ウズメは目を閉じていた。
 今の彼女が知り得る情報は、耳朶に触れる物音と肌で感じる気配のみ。
 だが、しかし、この少女の感覚は、常軌を逸して鋭敏である。フウガとの初めての手合わせで、完璧な不意打ちにも見事に反応して見せたあの光景は、少年の目に今もはっきりと焼きついている。
 ウズメには、戦略も戦法もなく襲いくる有象無象など、目に頼って相手をする必要などなかったのだ。ただ感じ、斬れば良い。全ては、それで事足りる。
「オのレ……小賢シい!」
 八握脛は浅慮にも、再度、禍蜘蛛達に特攻させる。当然、結果は、命を絶たれた異形の肉片が無駄に増えるだけだ。近づく一切の敵の存在を許さず排除するそれは、少女の類稀なる鋭い感覚と、磨き抜かれた技術に支えられた正確無比な斬撃による結界そのもの。
 禍蜘蛛は苦し紛れに、フウガのときと同じく糸を射出するが、ウズメが僅かに身を捌いただけで、まるで予測していたかのように空を切らされる。所詮、すでに一度明らかになった手札だ。極限まで感覚を鋭敏化させている今の彼女の脅威には成り得ない。
「…………」
 ウズメの人間離れした所業に、フウガは、驚嘆以外の感情を覚えられなかった。
 目を閉じたまま、禍蜘蛛を次々と斬り捨てている事もそうだが、それ以上に、あれほど恐れていた蜘蛛という存在を、まるで意に介していない事が一番の驚きだった。
 姿形が苦手――だから、見なければ良い。
 理屈はわかる。
 だが、だとしても、すでに彼女の意識の中には、この場を埋め尽くすのは禍蜘蛛であるという認識があるはずなのだ。
 おそらく彼女は、目を閉じるという行為と同時に、襲いくるのが蜘蛛の姿をした妖魔であるという事実を、強引に意識から遮断している。
 迫ってくるのは、敵。――だから、斬る。
 それのみを、盲目に遂行しているだけ。
 戦いの場に在るが故の驚異的な集中力があるからこそ為せる業なのだろうが、常人に可能な事ではない。少なくとも、今の自分には真似出来る自信など在りはしない。
 フウガは、改めての納得と呆れさえも滲んだ苦笑混じりの呟きを漏らす。
「……やっぱり最強だ、この人は」
 気づけば、半数近くの禍蜘蛛は、すでに長刀の餌食となっていた。
 鈍く光るカグヅチの切っ先が、静かに八握脛へと向けられる。
 自ら両目を封じた少女の言葉が、死刑宣告のように重々しく吐き出される。
「もう終わりにさせてもらおうか、八握脛」
「か……くっ……」
 無様なほどの焦慮が、鬼の顔を醜悪に歪ませる。無意識なのか、その身が、いかにも逃げ腰に後方へと退く。
 抑えたフウガを人質にするという考えすら、もはや浮かばないらしい。他にも、冷静にさえなれば、それなりに戦況を覆せる手段は残されているだろう。だというのに、想定を越える展開と不意に突きつけられた危機に、それらを見極める思考をあっさりと失っている。その姿の、なんと惨めな事か。
 結局な話、ウズメとこの妖魔では、格が違い過ぎるのだ。小賢しい知恵を働かせた所で、その差を覆せるはずもない。
緋炎羽衣ひえんのはごろも――我へ纏われ」
 佇む炎姫を、激しく燃え盛る真紅の衣が彩る。薄闇を飲み込み、眩い鮮烈な色が教室を瞬く間に支配していった。
 そして、ゆっくりと歩き出す。
 一歩一歩、八握脛との間合いを縮めていく。時折、跳び掛かる禍蜘蛛は、炎衣の前に、一瞬で灰と化して消えた。
「う……――オオオオオオオオオオオおおおオオオオオオオオオオオおおおおオオオおおおオおおおおおオオオオオオオオオオオオオオおおおおおおおおオおおおおオオおおお!!!」
 巨体が跳ねた。
 八握脛が、鋭い牙を剥き、自身と比べるとあまりに細く小さな少女へと、八つの足で掴み掛かった。
 無駄だった。
 轟然と空気を焼いて突き出された炎刃が、八握脛の虎に似た胴体を腹部から刺し貫く。体液は、溢れ出る先から蒸発した。
「塵へと還れ――――!!」
 火炎の羽衣が、翼を広げる大鳥のように、一際大きく燃え上がった。

 * * *

 夜明けが近かった。
 白み始めた空へ向けて、白煙がゆっくりと立ち昇っていく。
「あああああ……旧校舎が……」
「なくなってもうた……」
 鏡写しのように、同じ動作でがっくりと肩を落とすのは、シズネとゴウタである。視線の先にあるのは、すっきりとしてしまった空間と炭と化した旧校舎の残骸の山だ。
「見事に燃え尽きたわね……」
「うん、本当……」
「むしろ、爽やかなぐらいだね」
 隣では、レナ、ミヨ、ライの三人が唖然とした様子で、そんな感想を口にしていたりする。
 フウガが肝試しから帰ってくるのを待っていたら、いきなり旧校舎がなくなってしまったのだ。この反応は、当然と言えば当然であった。
「……申し訳ありません。手加減を忘れてしまって……」
 深々と頭を下げて、美貌をススだらけにしたウズメは謝罪を繰り返す。先ほどの妖魔を前にしたときの威容が嘘のように、その姿は小さく見える。
「いや、先輩。あの状況じゃ仕方ありませんよ。捕まった俺が迂闊だったんですし……」
 同じくススだらけなフウガは、少女を庇う言葉を口にする。実際、彼女のおかげで自分の命は助かったのだから、責められるはずもない。
 ウズメが八握脛を仕留めた後、すぐに〈異界〉は消滅した。だが、ウズメの〈言力〉の余波が、本物の旧校舎の方へまで及んでしまい、出火――急速に広がる炎を止める術はなく、フウガ達は慌てて、その場から脱出したのだ。
 旧校舎は一晩中燃え続けると、完全に焼け落ちていた。その炎に気づいたシズネとミチザネが駆けつけて、現在のような状況に至っている。
「気にする事はない。どのみち取り壊す予定だった物だ。妖魔の企みも未然に防げたわけだし、結果的には僥倖だったと言えるだろう」
 すちゃりと慣れた仕草で眼鏡を指で押し上げ、ミチザネが至極冷静に言った。
 どんよりとした表情のまま、シズネも同意する。
「ええ、そうですね。タワラ教頭の言う通り、ツクヨミさんが気にする事はありませんよ。……ああ、ですけど……旧校舎が……皆の肝試しスポットが……もったいない、ああ、もったいない……」
 再び眼鏡を押し上げ、ミチザネは嘆息する。
「――学園長、いいかげん自重してください」
「本当、申し訳ありません……」
 相変わらず、ウズメの表情は晴れない。周りがどう言ってくれた所で、旧校舎の事で、自身の責任を感じずにはいられないのだろう。それは、名門ツクヨミ家の人間として――そして、何よりも彼女自身の性格として、責任感が強い故だ。
 しかし、こんな事態になったのは、八握脛にフウガが未熟にも捕らわれてしまった事が原因である。それなのに、ウズメが責任を感じ、落ち込んでいる姿を見るのは、フウガには辛かった。
 やっぱり彼女には――いつものように笑って居て欲しい。
 フウガは、何とかならないかと、しばらく考え込んだ後、
「先輩」
 と、未だに暗い表情なままのウズメに声を掛けた。
「……フウガ。どうした?」
「えっと、それです」
「それ……?」
 フウガの指差す先にあったのは、燃え上がる旧校舎から脱出するときにも、決して燃やしたり、焦がしたりしないよう、ウズメが大事に守っていた子犬のぬいぐるみだ。それは今も、彼女が大切そうに胸に抱いている。
「確かに旧校舎はなくなっちゃいました。でも、ちゃんとぬいぐるみは持って帰れたじゃないですか。先輩がそんな顔してたら、女の子も素直に喜んでぬいぐるみを受け取れませんよ」
「…………だが」
「先輩、この間、俺に言ってくれたばかりでしょう。誰だって間違える事ぐらいあるって。だから、笑っていきましょう。そんな暗い顔してたら、何も良い事なんてないんです」
 そこまで言って、フウガは困った顔で笑った。
「それに正直な所、先輩の元気のない姿を見てるのは、俺も苦しいんです。旧校舎が燃えたのは、俺を助けるために起きた事ですし、やっぱり先輩は凛々しく、自信に溢れていて――そして、笑ってるのが一番です。……すいません、気の利いた励まし方とか出来なくて」
「……フウガ」
 ウズメは、きゅっとぬいぐるみを抱きしめる。そして、腕の中で無垢に微笑む子犬の顔をしばらく見つめた。
 次に、顔を上げたとき――彼女は、旧校舎を脱出してから初めての笑顔を形作っていた。
「そんな事はないよ、フウガ。君の言葉、嬉しかった。……そうだな。確かに、こんな顔してたら、あの子に心配を掛けてしまうな」
 先ほどまでの様子が嘘のように弾んだ声で、ウズメは礼を口にする。
「ありがとう。今日は何だか、君に励まされてばかりだ」
「あ、いえ。……礼を言わなきゃいけないのは、こっちも同じですから」
 まさか自分の励ましが、こんなに効果があるとは思っていなかったフウガは戸惑いつつも、笑顔で応える。
 そんな二人のやり取りを遠くから見ていたミヨが、隣で背後に恐ろしく黒い何かを立ち昇らせる親友の方へと顔を向けた。
「レ、レナちゃん、もしかして機嫌悪い?」
「……そう思うなら話しかけないでくれる?」
「……………………ごめんなさい」
 一瞬で三十歩くらい距離をとって、ミヨは泣きそうな顔で自身の失言を後悔する。
「……鬼って、ああいうのを言うんやろうな、やっぱり」
「ゴウタ。長生きしたかったら、その口は、今すぐ閉じようね」
 異様なレナの姿に、ゴウタは焼け落ちた旧校舎の事を嘆くのさえ忘れて呟き、もの凄い作り笑顔でライがそれを諌めていた。
 こうして、いろいろと騒動はあったもの、綺麗に話が片付くかと思われたときだった。
「――ああ、そうだ。忘れていた」
 ミチザネの口から、冷酷な宣告がされたのである。
「立ち入り禁止の場所に無断に入ったという事で、スサノ・フウガと他五名――反省文五十枚だ。忘れるなよ」
 東の空に朝陽が昇る中。

『え――――ええええええええええええええええええええええ!!!!?』

 早朝の爽やかな空気を震わせて、フウガ達の盛大な絶叫が旧校舎跡に響いたのだった。


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