オロチ様はイタズラがお好き!?
六章 月
―― 四 ――
――時は少し遡る。
フウガ達が孤児院に到着した夜。
ナヅチの自室に、数人の人物が集まっていた。
部屋の主であるナヅチはもちろん、子供達の世話役であるテナ、そして、ライ、ゴウタ、フヨウの五人である。
外はすでに、深更の静寂に包まれている。
子供達やフウガ達は、すでに眠りにつき、ランプの灯りが部屋を照らす中、皆は向き合っていた。
最初に口を開いたのは、ゴウタだった。
「じーじ達が無事で本当に良かったわ。俺らのおらん間に何の問題もなかったか?」
「ああ、大丈夫だ。そう、心配する事もないさ」
ナヅチは鷹揚に首肯して、微笑む。
「そうは言ってもね。これまでだって、何度か危険な事はあったんだ。幸い、他の子達に危害は及ばなかったけど」
と、ライが落ち着いた声音で反論した。
「二人共、心配性ね。私が居るんだから、もしものときだって院長もあの子達も守ってみせるわ」
テナが穏やかに、少年二人を宥める。
ライとゴウタは、それでも納得いかないように視線を交わした。
テナの事を信頼はしていても、どうしても万が一の事態が頭から離れないらしかった。
「ライ、ゴウタ」
それを見かねたのか、ナヅチが神妙な声で言った。
「お前達が私達を心配してくれる事は嬉しく思う。だが、そういう事を理解した上で、お前達は学園に行き、神聖騎士を目指す事を決めたのではなかったか?」
「「…………」」
「もとより、我らを狙う者が表れる事は、孤児院を開院する前より、私もテナも覚悟していた。そもそも、そういう者達と向き合うべきは私達なのだ。お前達が、その志を揺るがしてまで、気を割いてはいかんよ」
「じーじ……」
「なに、私達を信じろ。黙って殺されるほど、私もテナも大人しくはないさ。いざというときは、あの子達だけでも必ず守り抜いてみせる」
「そういう事よ」
テナも頷いて、笑って見せる。
しばし無言が続いた後、観念したように二人も首肯した。
「わかったわ、二人共」
「確かに、心配し過ぎても仕方ないしね」
その後、ライが隣の姉へと視線を送る。
「――で、姉さん、また寝てない?」
「…………平気。ぎりぎりだけど」
「ぎりぎりではあるんやな」
周りがあんな会話を交わしていたというのに、いつも通りのフヨウの様子に、皆が一様に苦笑する。
だが、フヨウが、ライやゴウタのようにナヅチ達を心配する言葉を口にしないのは、ナヅチとテナの事を信じているが故にだ。そこには、一片の迷いも存在しない。そういう意味では彼女は、単に年齢が上というだけでなく、紛れもなく少年達よりも一歩も二歩も大人であると言えた。
「…………それよりも」
珍しく口調を鋭くして、フヨウは言った。
「…………スサノ君はもう知っているから良いとして、タマヨリさんやナスノさんに、例の事を教えておかなくて良いの?」
「む……そうやなぁ。何かあったときのためにも、教えておいた方がええんやろうけど……」
フヨウの指摘に、ゴウタは迷いを見せる。
それは、ライも同じようで、無言で顔つきを厳しくしていた。
「――教えておきなさい」
その迷いを断ち切るように、ナヅチは強い口調で言い切ったのだ。
「私達に気を使っているのなら、その必要はない。何より、お前達が信頼する仲間であるのなら、隠しておくべきではないだろう。もしも全てを明かした事で、彼女達に私やテナが弾劾されたとしても、それは仕方がない。そうされても当然の過ちが私達の過去にはある」
老人の覚悟は強固だった。
己の過去の全てと目を逸らす事なく向き合い、そこから伴う痛みからも何一つ逃げる事なく受け入れるという――そんな静謐なる決意。
それはナヅチだけでなく、テナもまた同じであった。
二人のその想いを前に、もはや少年達が逡巡など出来ようはずもなかった。
「……そうやな。いつかは言おうと思っとった事やし」
「まあ、レナ達なら、わかってくれるかな」
二人の言葉に、フヨウは微笑んだ。
「…………私も、そのときには付き合う。教官だし、同じ孤児院の人間として、無関係な顔出来るはずないもの」
「そっか。そりゃ助かるわ、フヨウ姉」
「意外。姉さんも教官らしい事するんだね」
「…………うん。たまにはするわ」
「たまに、って自分で言い切ったらいけないでしょ、フヨウ?」
三人のやり取りを見ていたテナが、呆れた顔で突っ込みを入れる。
横で椅子に腰掛けるナヅチは、ただ困った顔で肩を竦めていた。
◇ ◇ ◇
「…………はあ」
翌日の朝。
孤児院の庭の端で、植木の一本に背を預けて座り込んでいたレナは、重い息を吐いた。
庭の真ん中では、フウガ達が子供達の相手をして遊んでいた。遊んでいるといっても、実際は、ライとゴウタが子供達を扇動して、フウガにまとわりつかせ、大騒ぎしているだけなのだが。
この場に居ないミヨやフヨウは、朝食を作るテナの手伝いをしている。
レナは独り、少し気分が優れないからと断って、この場で休んでいるのだった。
初夏近くの暖かい風は、心地良く肌を撫でる。
緑や花に溢れる孤児院の敷地は、視覚からも人を癒してくれる。
だが、レナの胸中は重い感情で占められていた。これまで押し隠してきてはいたが、頭の片隅に存在し続けていたそれは、ずっとレナの心を苛んでいるのだ。
視線は、子供達と戯れる一人の少年――フウガへと自然と向かう。
フウガは、子供達に翻弄されながらも、どことなく楽しそうに見えた。
不意に見せる笑顔は、十六歳という年相応の幼さの名残もあり、以前に見た、妖魔と向き合う彼の姿とは、酷く相違している。
きっと。
ああやって笑う姿が、フウガという少年の本来の在り方。
(…………でも)
彼は、今、別の在り方を遵守している。
レナは、二日前の、ヒナコとの会話を思い出していた。
* * *
「さて、ここなら良いか」
校舎裏の人気ない場所まで移動して、ヒナコは振り返った。
後ろを付いて来たレナと向き合う。
「で、話っていうのは何だ?」
「…………フウガの事です」
「ほう」
ヒナコは興味深そうに顎を撫でた。
その唇が意地悪い笑みを象る。
「どうした? 恋の相談でもしたいのか? だが生憎、それはアタシの専門外だぞ」
「なっ!? ち、違いますよっ!」
途端、レナは、強く否定の言葉を発した。
少女の反応を見て、ヒナコは腹を押さえて大笑する。
「冗談だ。冗談。そんなに動揺するな」
「してません!」
顔を真っ赤にして、レナは言い返す。
どうやら、レナのフウガへの恋慕は、ミヨだけでなく、このヒナコにも見抜かれてしまっているらしかった。本音を隠すのが苦手な性分なのは自覚してはいるが、それでも恥ずかしいのには変わりない。
うー、と威嚇する犬のように唸りながら、レナはヒナコを睨む。
ヒナコは苦笑いを浮かべて、手を振った。
「ほら、そんな目でアタシを見るな。話があるんだろう」
「……わかりました」
咳払いして、気を取り直す。
確かに自分は、からかわれるために彼女を訪ねたのではない。
声を落として、レナは本題に入った。
「以前のキジムの事件とき――フウガが妙な痣を浮かび上がらせて、その途端に、今までにない力を見せた事は報告しましたよね」
「ああ、聞いた。確か、まるで亀裂のような痣だったらしいな」
「はい」
レナは頷く。
「ずっと気になっていたんです。あのときのフウガは、本当に別人みたいだった。そもそも痣があんな風に浮かび上がる事や急に強くなるのだって普通じゃないですよね」
「まあ、そうだな」
「……だったら、何か問題があるんじゃないかって思うんです」
「問題?」
「はい。さっきも言いましたけど、あんなのは、どう考えても普通じゃない。だから……あの痣が浮かび上がる事は、フウガにとって何か良くない事があるじゃないかって……」
「……なるほどな」
ヒナコは腕を組むと、小さく頷いた。
数秒ほど考えるような仕草を見せて、再び口を開く。
「――病は気から」
「え……?」
「火事場の馬鹿力。心頭滅却すれば火もまた涼し。……さて、これら先人の残したありがたーいお言葉に共通するものは一体何だ?」
「あの……スクナ先生、急に何を……」
「良いから。答えてみな」
「……そんな事言われても、わからないです」
「そうか? ……まあ、簡単に言うとな。これらは全て、心の在り様が肉体に影響を及ぼしているのを表しているんだ」
「心の在り様が、肉体に影響……?」
「ああ。『こんな病気なんて問題じゃない』と強く思えば、病気が早く治る。危機的状況に陥った人間が、思いもよらない力を発揮する。または、無念無想の境地にあればどんな苦痛も苦痛と感じない、とかな。こういうのは稀にだが、実際にある事なんだよ」
ヒナコの言っている事は、レナにも理解出来る。
確かに人間にとって、“思い”というものは決して軽視出来る事柄ではない。一つの何かに心を傾倒させれば、あるいは奇跡のような結果を為し得る事もあるだろう。
だが、今の話の流れで、ヒナコがその事を口にする理由がわからなかった。
「えっと……結局、どういう事なんでしょうか?」
「要するにだ。フウガの痣もそういう原理なんじゃないかって話さ」
「フウガの……痣が?」
「スサノは九年前に、母と共にそのお腹の中の子を目の前で失い、同時に父親の騎士としての未来までも奪ってしまった。それはあいつの心とって、未だに深い傷となっている。そして、それ以来、あいつは自分の周囲の人間を守る事を異常なまでに強く、己へと課しているように思う。半ば強迫観念にも近い形でな。
――深い心の傷。
――強迫観念に似た守護の誓い。
あくまで推測だが……これだけでも十分に揃っていると思わないか? 肉体に影響が表れる条件はな」
「…………」
否定は出来なかった。
フウガにとって、九年前の事件がどれほどに重いものかは、レナだってわかっているつもりだ。
――いや。
きっとそれは、本人にしか本当の意味で理解出来ないほどの痛みなのだろう。
「だったら、それはフウガにとって、悪い影響はないんですか?」
レナは、もっとも気になっている点を問う。
ヒナコは静かに目を閉じると、
「ないはずがないだろう」
と、言い切った。
「…………っ!」
胸中にあった嫌な予感をはっきりと肯定され、レナは息を呑む。
「良いか、タマヨリ。力というものは常に代償を求める。それは、力が強ければ強いほど大きく、重要なものになる。……自身の限界を越えた力を引き出す――なんてものになれば、なおさらだ。そんなモノは、振るえば振るうほど、看過出来ない代償を支払わされる事になるだろう」
「じゃあ、フウガは……一体、どうなって……」
「アタシにもスサノが何を犠牲にして、そんな力を引き出しているかはわからない。でもな、そんな事を続けていれば、あいつは確実に……」
その先は、あえてヒナコは口にしなかった。
だが、問うまでもないだろう。
それは、人が迎える中でも、もっとも最悪な運命の一つ。
死。
それ以外に、一体何がある。
「どうすれば……それを防ぐには、一体どうすれば良いんですか!?」
思わずレナは身を乗り出して、叫んでいた。
あの少年が死んでしまうなんて。
そんな未来なんて。
どうあっても受け入れたくなどなかった。
助けられる術があるのなら、そこに自分に出来る何かがあるのなら、何であろうとしてやるつもりだった。
しかし。
「何も手段はない。少なくともアタシ達にはな」
ヒナコは、無慈悲な言葉を容赦なく告げたのだ。
「で、でも、フウガを戦いから遠ざければ、あの痣だって……!」
「なるほど、それは全く無駄という事はないだろうな。……だがな、スサノ自身がそんな状況を受け入れるはずはないだろうし、そもそもシラユリなんて正体の知れない者に狙われている限り、限界がある。もしものときは、あいつは躊躇わず戦いに臨み、そして、その力の代償を支払うだろう。結局は、時間稼ぎにしかならない」
「……そん、な……」
レナは言葉を失う。
もう運命は定められているというのか。
少年は大切な誰かを守るため、己が身を欠けさせ続け、最後には死ぬ。
それを止める事は出来ないと……そういうのか。
ヒナコはさらに続ける。
「問題は、スサノの内面の事だ。周囲の人間がどうしようと根本的な解決を決して出来ない。もしもそれが出来る人間がいるとすれば、守るために自らを犠牲にし続けている――」
ヒナコは、衝撃で固まるレナを見据えて断言した。
「スサノ自身、だけだろうな」
「フウガ、自身……」
「そうだ。あえて言うならば、アタシ達に出来る事は、スサノが自身の在り方を変えられるように導いてやる事ぐらいさ。だが、例えそれが叶ったとしても……あいつが助かる保障は、必ずしもないという事だけは覚悟しておけよ」
つまりは。
スサノ・フウガは今も、そして、これからも。
いつ来るとも知れない終焉の危機に晒され続けるという事。
そこから彼を救う確かな術を、自分達は持たないという事。
だが、そんな現実を踏まえた上で、ヒナコは言った。
「タマヨリ。お前が……お前達がスサノを支えてやれ。それが出来るのは、いつも傍に居て、あいつが心を許しているお前達だけだ。もしも、あいつの在り方を変えられるものがあるとしたら、そんな誰かとの絆や繋がりだけなんだよ」
「……本当に変えられるんでしょうか……私達が……」
「ああ、変えられるさ」
ヒナコの応えに迷いはない。
「お前達がそれを信じなくて、誰が信じる。
お前達があいつを支えなくて、誰が支える。
仲間――なんだろう?」
「…………」
レナは俯き、思い出す。
あの学園の屋上で。
あの〈異界〉の樹海の中で。
フウガに向けて、自分達は仲間だと告げたのはレナ自身だ。
だから……
「――はい。信じてみます。支えてみます。あいつの運命だって――変えてみせます。だって、私達はフウガの仲間なんだから」
ヒナコの目を真正面から見返して、レナははっきりと応えたのだ。
だって、そうしなければ。
フウガに告げた言葉の何もかもが嘘になってしまうから。
「…………そうか」
少女の決意を聞いて、ヒナコは、ただ満足気に微笑んでいた。
* * *
「……と、あんな風に言ったものの、支えるといっても具体的にどうすれば良いんだろう……?」
回想から戻って、レナは独りぼやく。
幸い、ここ二週間程は、シラユリの襲撃もなく、平穏が続いている。だから、フウガもあの痣を浮かび上がらせる事はなかったはずだ。
でも、いずれはシラユリの刺客も、再び姿を見せるだろう。そして、フウガは迷う事なく、あの力を振るってしまう。
「せめて……私達が足手まといにならないようにしなきゃ駄目よね」
それぐらいの事が出来なければ、フウガを支えるなんて事が言えるはずもない。だったら、自分もフウガに負けないぐらいの特訓を――
「ああ、でも、痣が出ないようにするだけじゃ、結局、時間稼ぎにしかならないんだし……」
再び問題に直面して、レナは頭を抱える。
フウガの在り方を変えない限り。
シラユリをどうにかしない限り。
彼は戦いの場へ臨み、そして、自らを犠牲にしてしまうのだ。
何より“支える”と一言で言っても、一体どうすれば良いのか。
そもそも考えたり、意識したりしてやる事でもないのだろう。だが、フウガに危機が差し迫っている以上、何もせずに居れるはずもない。
(……不毛……だなぁ……)
最終的にそんな結論に辿り着いてしまう。
レナは、今日、何度目かもわからなくなった溜息を再び吐く。
と。
「……まだ、体調良くないのか?」
不意打ち気味に、そんな気遣う声が頭上から落ちたのだ。
「ふえっ!?」
間抜けな声を上げて、レナは座ったまま飛び上がりそうになる。
慌てて顔を上げる。
そこには、かなりの疲労感を漂わせるフウガが、レナを心配そうに見下ろしていた。
「フウガ……っ。べ、別にもう大丈夫よっ。今のはちょっと考え事してただけ!」
咄嗟にそんな風に取り繕う。
「? そうか」
フウガは、不可解そうに眉根を寄せる。
しかし、それ以上何か問うような事もなく、隣へと腰を下ろした。
少年との距離感を意識して、レナは少し頬を紅潮させる。以前の口付けの光景まで脳裏に浮かびそうになって、慌てて振り払った。
「……こ、子供達の相手は良いの?」
「ああ……もう昨日からずっと引き摺り回されてるし、いいかげんライとゴウタに変わってもらったよ。おかげで昨日から何の訓練も出来てないしな……。あと、何よりも……疲れた……」
フウガは、がっくりと肩を落とした。
レナはそんな少年を疑わしそうに、横目にする。
「ふーん……。その割には、楽しそうにも見えたけど」
「楽しそうに? 俺が?」
「そ、あんたが」
「……まあ、うん。酷く疲れはするけど、こういう時間は嫌いじゃないかな。なんかこう……暖かいだろう、この孤児院って。昔を思い出して、少し懐かしい気分になるんだよ」
「…………」
そんな少年の言葉に、レナは黙り込む。
昔とは、まだ彼の母が健在だった頃だろうか。
当たり前に、大好きな母と尊敬する父に囲まれ、愛され……平和だった日々。
もしも、あんな残酷な出来事がなければ、あるいはこの少年は、学園で普通に過ごし、神聖騎士を目指して邁進していたのかもしれない。
だけど、そんな“もしも”は、すでにどんな未来にも存在しないのだ。
「そ、そう。あれだけ悪人面呼ばわりされても、あんたは楽しいのね」
本当なら、気遣った言葉を掛けたいのに。
レナは、どうしても素直になれなくて、そんな憎まれ口を叩いてしまう。
だけど、少年は怒る事もなく、
「……相変わらずキツイなぁ、お前は。まあ、目付きの悪さは今更どうしようもないし、諦めてるよ」
と、そう淡く笑うだけ。
(…………あ)
つい、その笑顔に見惚れてしまった。
そんな自分に気づいて、レナは慌てて視線を逸らす。
(……こんな事、今更……でも……やっぱり……)
タマヨリ・レナという少女は。
このスサノ・フウガという少年の事が好きなのだ――
そんな事実を、改めて認識した瞬間。
フウガの抱える運命を思い出して、レナは堪らなくなる。
思わず、口にしてはいけない言葉を発してしまう。
「フウガ……あんた……何か隠し事してるわよね?」
「え?」
フウガの怪訝な顔が、こちらを向く。
そこには微かだが……だけど、確かな動揺があった。
今まで穏やかだった空気が、変わった気がした。
「何、言ってるんだよ。そんなものないぞ」
「嘘」
レナは内心で、こんな事は駄目だと思いつつ、強く否定の言葉を口にしてしまっていた。
少し怒気すら感じさせる目で、フウガは少女を見返す。
「嘘なんか言っていない。一体、何で急にそんな……」
「じゃあ、あの、亀裂みたいな痣は何?」
「っ……」
一旦溢れ出すと、続く言葉は止まらない。
濁流の如く、レナは問いを重ねてしまう。
「あのときのあんたは異常と言っても良かった。普段とは別人みたいで、凄い力も見せて……何か、あるんでしょう? 隠してるんでしょう?」
「――あったら、どうするんだ?」
これまでとは違う雰囲気のフウガに、レナは勢いを逸する。
「は、話してよ。私達は仲間なんだから、何か問題があるなら……」
今度こそ明らかに。
その場の――いや、少年の空気が変わった。
「仲間でも、言えない事は、言いたくない事はあるだろう」
「…………っ」
さっきまでとは別人みたいな冷たい声だった。
レナが息を呑む中、フウガは、表情を覗わせないまま立ち上がった。
「あ……フ、フウガ……私は……!」
「――もう詮索しないでくれ。頼むから」
呼び止めようとする声を遮って、フウガは言った。
有無を言わせないその口調に、レナは何の言葉も続けられない。
「少し……街の方を散歩してくる。ライ達にそう言っておいてくれ」
最後にそう告げて、少年は孤児院から足早に離れていく。
レナは、その背中を目で追う事すらも出来なかった。
「……馬鹿、だ……私……」
ただただ、後悔に震えて俯く。
「……違う。支えるっていうのは、こんな事じゃないはずなのに……」
歯噛みして、芝生を強く握りしめる。
不用意な事を口走ってしまった自分の愚かさが、許せなかった。
去っていく少年を追って、謝る事さえも出来ない自分の弱さが恨めしかった。
頬を熱いものがゆっくりと伝う。
「……フウガ……私、どうしたら良い……? どうしたら……あんたを支えてあげられる……?」
縋るようなその問いに応えるものは、誰も居なかった。
◇ ◇ ◇
闇があった。
深い、深い、闇だ。
光など、存在する事さえ許されない空間だった。
世界を光と闇に分けるのならば、間違いなくそこは闇の世界であろう。
そんな闇の中に、一人の男が居た。
闇に紛れ、闇と同化し、そこに無言で独り佇んでいる。
その在り様が、すでに闇そのものとも言えた。
と。
暗黒の中、気配が一つ増える。
増えた気配が、最初から居た男へ跪いた。
「――二人を確認しました」
「そうか」
男は頷いた。
声は無機質で、およそ人として感情が削がれていた。
例えるならば、絶対零度の氷を研いだ刃のようであった。
「情報通り、孤児院など開いていたか。まさか償いのつもりか? ――反吐が出る愚行だな」
男の双眸が滾る憎悪で光を帯びる。
「始末しますか?」
跪いた気配が問うた。
いや、問いというより、それは確認に近い。
何より、報告を聞いた男の声は、すでに抑えきれぬ殺気に塗れていたのだ。
だから、答えは決まっていた。
「無論だ。――殺せ。全員だ。もちろん孤児も一人残らず、な」
「では、三日後に」
「ああ。神聖騎士団に悟られぬよう、速やかに確実に……粛清する」
男は嗤う。
積年の望みが、ついに叶う喜びに嗤う。
そこで、不可解な事が起きる。
すぐ一歩先すらも視覚する事が困難な暗黒の中。
男の気配が、“増えた“のだ。
だが、そんなものは錯覚だったのか、すぐに元に戻る。
今、そこにあるのは、一人の男の憎悪の嗤いのみだった。
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