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オロチ様はイタズラがお好き!?

六章 月


―― 三 ――

 孤児院〈鴉の止まり木〉は、王都の郊外、小さな森に半ば埋まるような形で建っていた。その敷地は、よく手入れされた芝生と花壇で覆われ、穏やかな空間を作り出している。
 見た目は古びてはいるものの、なかなかの大きさを誇る建物は、元々は変わり者の貴族が別邸として建てたものだと聞いていた。それを、現在、院長をやっている老人が、故あって譲り受け、それをそのまま孤児院へと改装したそうだった。
「変わってないな……」
 フウガにとって、この場所を訪れるのは一年振り、そしてまだ二度目だった。なのに、その変わらぬ姿に、不思議と安堵する。
 例えるならば……そう、ずっと前から知っているような、どこか懐かしい空気があるのだ。それは、孤児院という特殊な空間だからこその感覚なのかもしれない。
「なんだか思った以上に綺麗な所なのね……」
 フウガと違い、初めて訪れたレナが感嘆の言葉を口にする。
 隣で、ミヨも似たような表情をしていた。
「こまめに手入れしてる人がいるからね。子供達の世話役の人なんだけど。まあ、中に入れば、すぐに当人に会えるよ」
 ライが頷きながら応えた。
 そんな話をしている間に、敷地を抜け、孤児院の前まで辿り着く。
「おっし、ただいまー」
 ノックもなしに、ゴウタが久々の我が家の扉を開いた。
 瞬間。
「ライ、ゴウタ、フヨウ姉、おっ帰りー!」
「皆ー、悪人面もきたぞ!」
「気をつけろー、食べられるー!」
「「「全員、突撃ー!!」」」
 と、いきなり複数の影が突進してきたのだ。
 その狙いは、全てフウガ。
 影の正体は、孤児院の子供達である。
「誰が悪人面!? ……って、どわああああ!」
 フウガは、避ける暇もなく、その餌食となった。
 この突然の展開に、ゴウタとライは「やっぱりこうなったか」と達観した表情を浮かべ、フヨウは立ったまま眠りこけ、レナとミヨはただ呆然となっていた。
「相変わらずフウちゃんは人気者やなー」
「同じ孤児院育ちの僕達より人気があるんだから、羨ましい限りだよ」
「この状況のどこが羨ましいん……痛っ! こら、上で飛び跳ねるなぁっ!」
 子供達に完全に押し潰されたフウガは絶叫する。
 しかし、元気溢れる子供達の耳に、そんな言葉が届くはずもない。
 引っ張られ、圧し掛かられ、しかし、幼い子供達相手に本気で抵抗するわけにもいかず、フウガはされるがままになる。
 と、そこに。
「あら、皆、お帰りなさい!」
 そんな、おっとりとした明るい声が聞こえたのだ。
「ああ、テナさん!」
 フウガは天の助けだと言わんばかりに、床に這い蹲ったまま顔を上げる。
 広間の奥から姿を見せたのは、細い目をした、いかにものんびりとした空気と、よく似合うエプロンドレスを纏う女性だった。フウガにテナと呼ばれた彼女は、先程の会話にも出た、〈鴉の止まり木〉での子供達の世話役を務める人物だ。
 テナは、フウガの状況を見ると、驚いた様子で掌で口を覆う。
「まあ、フウガ君、大丈夫?」
「テナさん! この悪魔達を静めて!」
「全くもう……皆、ちゃんと手加減はしてあげなさいって言ったでしょ」
「いや、違うでしょ?! 手加減云々以前に止めてくださいよっ! っていうか、こいつらがこうする事を最初から知ってたんですか?!」
「だって、皆、フウガ君の事が大好きみたいだから。子供らしい愛情表現を無理に止めるのも可愛そうでしょう?」
「こんな暴力的な愛情表現は嫌だーっ!!」
 フウガは再び絶叫するが、やはりテナにも子供達にも届かない。ひたすら、愛情表現という名の嵐に、もみくちゃにされ続ける。
「……ねえ、去年もこんなだったの?」
 ようやく我に返ったレナは、ゴウタとライに訊く。
「ああ、全く同じやな。去年の光景をそのまんま見てるみたいや」
「ここで過ごしてる間、ずっと子供達に悪人面って呼ばれて、追い掛け回されたよ。適当に追い払えば良いのに、フウガも律儀に付き合うからね」
 二人は、苦笑気味に笑う。
 レナも同意するように、息を吐いた。
「……本当、お人好しの馬鹿なんだから」
「そ、それより、いいかげん助けなくて良いんですか?」
 さすがに見かねたミヨが、おずおずと言った。
「しゃーない。そろそろいきますか」
「このままじゃフウガ、ぼろぼろになっちゃうしね」
 ライとゴウタがようやく助けに入ろうとした所で、

「そこまでにしておきなさい。フウガ君が困っているだろう」

 と、そんな重厚な声が広間に響いたのだ。
 途端に、ぴたりと子供達は動きを止める。「はーい」と渋々ながら、素直に言う事に従って、フウガを解放した。
 フウガは息も絶え絶えといった感じで、なんとか立ち上がる。
「た、助かりました、ナヅチさん……」
「いや、子供達が迷惑を掛けたね、フウガ君」
 そう言って、声の主が、しとやかな笑みを浮かべる。
 姿を見せたのは、一人の老人だった。
 優しげな笑みを浮かべているのに、その静謐な雰囲気のせいか、まるで隙を感じさせない。ゲン爺とは違った意味で衰えを感じさせないその存在感に満ちた立ち姿は、長き時を生きる大樹を連想させた。
 このナヅチという老人が、この孤児院の院長であり、ゴウタやライ、そして、フヨウの育ての親であった。
「じーじ、俺達、迷惑なんて掛けてないぞー」
「そうそう。すきんしっぷをしてただけー」
「私達、悪くないもんー」
 子供達は口々に抗弁する。
 これにナヅチは笑みを崩さぬまま、子供達を叱った。
「お前達に悪気がないのは知っている。だが、加減と相手の気持ちを慮る事を忘れるなといつも言っているだろう」
「うー……お、おもんばかる? じーじの言う事難しくて良くわかんない」
「いーもん、向こうで遊ぶ」
「いこいこー」
 不満そうにそう漏らして、子供達は外へと飛び出していった。
 これに老人は困った顔で、肩をすくめる。
「……どうにも、未だに子供達にわかりやすい言葉を選ぶのが苦手でね。我ながら、良く院長などやっているものだ」
「大丈夫ですよ、院長。あの子達はああ見えて、ちゃんと反省してます。……まあ、明日には忘れてるでしょうけどね」
 ふふ、とテナが笑う。
「……ああ、忘れちゃうんですね」
 フウガは顔を強張らせて、呟く。
 出来れば忘れないで欲しいとは思うのだが、言った所で無駄だというのもわかっているので口には出さなかった。
 ナヅチは、その静かな光を宿す双眸をライ達へと向ける。
「ライ、ゴウタ、フヨウ……よく帰ってきたね。息災のようで何よりだ」
「おう、ただいまや、じーじ」
「それなりに元気にやってたよ」
「…………ぐう」
 未だに眠っているフヨウは置いといて、ゴウタとライが笑顔で応える。その表情は、心なしか学園で見せるものとは違う感じがした。
(……まあ、自分達の育った場所だもんな)
 フウガは思う。
 故郷に帰るという事は、それだけで特別な行為だ。
 他のどんな場所にも真似出来ない、唯一つの心許せる世界。
 例え、どんな辛い境遇を辿ってきたとしても、そういう場所があるという事は、きっととても大切な事だ。
 ナヅチの視線がさらに巡って、二人の少女を捉える。
「そちらのお嬢さん達は、新しい友人かな?」
「え? あ、はじめましてっ、タマヨリ・レナです。お世話になります」
「わ、私はナスノ・ミヨです。しばらくの間、よろしくお願いします」
 話を振られて、レナとミヨが慌てて頭を下げる。
 王都に居る間は、全員、孤児院の空き部屋を借りて、そこに泊まる事になっているので、余計に恐縮しているようだった。
「私はナヅチという。先程も言ったが、この孤児院の院長をやっている者だ。……それと、そんなに畏まらないでくれて良い。孤児院というのは、開放的な空間であるべきだからね。ここを新たな家として生活する子供達も、堅苦しい態度で接される事は望まないだろう」
「「は、はい……」」
 ナヅチの言葉には、一つ一つに妙な重みがある。
 だからか、二人の少女は、返事とは裏腹に、かくかくと変に固い表情で頷いていた。
「……さて、もう昼が近いが、皆はもう食べたかな?」
 ナヅチが、皆の顔を見回しながら訊いた。
 途端、テナがぱっと笑顔を見せて、手を叩く。
「ああ、そうそう。皆がそろそろ帰ってくると思って、お昼御飯を張り切って作ったのよ。いっぱい食べてねー」
「…………うん、食べる」
 すかさず寝ていたはずのフヨウが覚醒して、返事をする。
 これに、ナヅチとテナが顔を見合わせて苦笑をこぼした。
「ミカヅチ教官、なんでこういうときだけ寝起き良いんですか……」
 フウガは、これまでの疲れにどっと襲われながら、そうぼやいていた。

 ◇ ◇ ◇
 
 フウガ達一行が王都に到着した、その翌日――

 初夏も近いというのに、その場所にはどこか寒々しい風が吹き込んでいた。
 王都に満ちた活気は、遠く離れている。
 貴族墓地。
 一定の地位を持つ者以外、埋葬を許されない場所。
 死者の眠りを妨げぬよう、訪れる者は誰しもが声を落とし、足音を潜め――静寂だけが広がっている。それは亡き者達への生在る者の礼儀であり、大切な誰かを失った事に対する悲しみの表れでもあるのだろう。
 整然と並ぶ墓標の一つ。
 その前に、ツクヨミ・ウズメは無言で佇んでいた。
 今、彼女の身を包むのは、学園の制服ではない。腰に巻いた朱色の帯で、淡い桃色に可憐な意匠を施した長着を固定させた衣服――着物である。さらに、長い漆黒の髪も巧みに纏められ、梅の花を象った美しいかんざしが刺さっている。
 そもそも王国では、着物は、一般的なドレスと共に、儀礼用によく用いられる衣装である。だが、一部の貴婦人は、出歩くときなどにも普段着代わりに身に纏う事も多かった。
 ちなみに、ウズメがこの格好をする事になったのは、スズを中心とした侍女陣に、半ば強引に着せられたからであった。着物姿で出掛ける事自体は彼女も慣れていて抵抗はないのだが、まず本人の意思の確認を先にして欲しいとは思う。
 少々いき過ぎではあるものの、そんな皆の優しい気配りに、ウズメは淡い微笑を浮かべた。
 彼女の見下ろす墓標には、今は亡き彼女の母の名が刻まれている。その下で、ウズメが供えたばかりの花束が置かれていた。
 亡くなった日付は、六年前の今日。
 名は、ツクヨミ・カンナ。
「……母様、この着物、似合っていますか? スズ達が、昔、母様が着ていた物を私に合うように仕立て直してくれたんですよ」
 笑みもそのままに、囁くように墓標へと問い掛ける。
 スズ達が、強引なまでに着物を着せようとしたのは、一年振りの墓参りに、母の墓前でウズメが着物姿を見せられれば……という、そういう思いからだったのだ。

 ――柳のような人だった。

 母の事を思い出す度に、ウズメはそう思う。
 向かってくる困難の全てを自然体で受け流し、受け入れて、見ているだけで心穏やかにしてくれる柔らかい笑みを湛える女性だった。
 もともと身体が強い方ではなく、ウズメを生んでからは、床に伏せる事も多かった。およそ戦いの世界とも無縁――でも、幼い頃に神聖騎士になる事を志し、剣を握る事を決意したウズメの気持ちを、誰よりも最初に理解してくれた。誰よりも心配しながらも、ただ見守ってくれていた。
 ……好きだった。
 そんな母が、ウズメは大好きだった。
 だから、母の最期を看取ったとき、ウズメは、自身の周囲の世界そのものが終わってしまったように感じた程だ。
 毎日毎日、涸れる事を忘れてしまったのかと思う程に泣いた。
 そして、そんな自分という人間の弱さに絶望すらした。
 でも……
 それでも……
 母は死んだのだ。
 その事実を受け入れ、悲しみを乗り越えたとき、ウズメは一つ強くなれた。
 きっとそれは、亡き母のくれた最後の贈り物だ。
 母はただ死んだのではなく、娘が一つ人として成長するきっかけを与えてくれたのだ。もしかするとそれこそが、親との死別という、多くの者が通る試練の本当の意味なのかもしれない。
 そんな風に思えるようになったのは、ごく最近の事だ。
「……ウズメは、今年で十九になります。無事に学園を卒業出来れば、来年には騎士見習いとして、王城へ出向する事になるでしょう」
 僅かに震える声で、母へ向けて報告する。
 自然と溢れそうになる涙を抑えて、目を細める。
「……私が神聖騎士の制服を身に着けた姿……母様に見て欲しかった……」
 無意識に拳が固く握られていた。
 乗り越えたつもりでも、やはり母の死は悲しい。
 そんなものは当たり前だ。
 その悲しみで、もう立ち止まる事はないけれど、忘れる事なんて出来るわけがない。
 だって……自分はあの人の娘なのだから。
「――出来過ぎた女だったな」
 背後から声が掛かった。
 誰かが歩んでくる足音がする。
 ウズメは何も答えない。無言で、母の墓標だけを見据える。
 隣に並んだ偉丈夫は、ツクヨミ・ヒヤギ。
 もう一つの花束を抱えた彼女の父。
 二人は、昨日の再会の際に、簡単な挨拶を交わした以外、未だにまともな会話をしてはいなかった。
「そうでなければ、もっと別の幸せを掴めたのではと――今でも、そう思う事がある」
「……母様は」
 ウズメは、そこで口を開いた。
「全てを知った上で、父様の傍に居る事を選びました。それは、己が想いに従った選択です。ならば、後悔などあるはずがありません。そんな事……誰であろうと言わせはしません」
「……そうだな。ウズメ、お前の言う通りだ。私もそれが嬉しく……少し辛い」
 ヒヤギは、その場に屈んだ。
 手にした花束が、ウズメの置いた物の横に置かれる。
 しばし、互いに無言で目を閉じ、墓標の下に眠る者の安らかな眠りを祈った。
 それを終えてから、不意にヒヤギは口を開いた。
「……“彼”と一悶着あったそうだな」
 問いには、これまでと異なる重さと緊張が含まれていた。
 それだけでウズメは、ヒヤギが何の事を訊いているかを察する。
「はい。訓練中、〈練守結界〉外で刃を向けられました。自身の身を守るため、やむなく反撃し、彼を沈黙させましたが……」
 それは、およそ四ヶ月程前。
 まだフウガがオロチに取り憑かれるより前に、学園で起きた事件だ。
「報告は聞いている。表面上は、お前に憧れるあまり、自身の実力がどこまで通じるか試したくなった――という理由で、その件は処理された。そして、彼は、無期限の謹慎となったそうだな」
「表面上は、です。実際は……間違いなく彼は私を殺す気だった。それだけの憎悪が――彼の剣には在った」
「…………」
 眉間に皺を寄せ、ヒヤギは、ゆっくりと立ち上がった。
 そして、頭を振る。
「……妻の墓前でする話ではなかったな。許せ」
「いえ。母様も……彼の事は気に掛けていました。自分が、彼を――彼ら親子を不幸にしたのではないか、と」
「……あいつらしいな。そんな女を一時とはいえ、伴侶に出来た私は間違いなく果報者だ」
 ヒヤギは苦笑と共にこぼすと、踵を返した。
「この続きは、また屋敷でする事にしよう。……お前は、学友の居る孤児院へゆくのだろう? 別に私に気を使う事はない。このままいってくるといい」
 そこで一旦、ヒヤギは言葉を切る。
 数瞬ほどの逡巡を見せて、彼は続けた。
「学園での事は……すまない。全てを向けられるべきは私だというのに――お前にはいつも面倒を掛ける」
「っ…………そんなのっ」
「それと、着物、良く似合っている。若い頃のあいつを思い出したよ」
 ウズメの反応を遮るように、ヒヤギは娘の着物姿を褒める言葉を口にする。
「…………」
 だから、ウズメは続く言葉を飲み込むしかなかった。
「ではな」
 俯く娘に一言告げて、ヒヤギは墓地を去っていく。
 広い背中は、あの日から変わらず、目に見えぬ暗い何かを背負い続けていた。そこには、妻や娘へ対する言葉に出来ない罪悪感も含まれているように思えた。
「……何故、謝るのです……」
 そんな実の父の後ろ姿を、ウズメは見つめ続ける。
 呟きは、苦いものを含んで、押し出されるように漏れていた。
「……例え、父様が二人の女性を愛していたとしても……私は……私達は……」


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