オロチ様はイタズラがお好き!?
六章 月
―― 一 ――
ずっと。
“殺人”は、隣人だった。
彼は、物心つく前から独りだった。
捨てられたのかもしれない。
行きずりのごろつきにでも殺されたのかもしれない。
もう覚えていない。
とにかく、弱い自分を保護し、独りで生きられるよう育ててくれる人間は傍にはいなかった。大きな街ならどこにでもあるような、堕ちた人間だけが集まる掃き溜めに、ただ独り取り残されていたのだ。
そんな境遇だったから、親を知らず、兄弟を知らず、他人との繋がりを知らず――つまり、愛を理解出来ない彼は、他者から何かを与えられるという事実もよくわからなかった。
そして、四歳で初めて人を殺した。
相手は、こちらを無力で無害な子供だと思っていたようで、驚くほど簡単だった。
拾ったナイフで、背後から刺しただけ。
倒れた相手は、しばらく苦痛に呻いていたが、地面に大きな血だまりを作った所で動かなくなった。
殺した理由は、空腹を満たすために一切れのパンが欲しかったから。他には何もない。罪の意識もない。
欲しかった。必要だった。生きるために。
だから、余計なモノを排除し、手に入れた。
それだけ。
ただ、それだけ。
自身の命以外の何も持たない彼が生きるためには、他の手段など有り得ず知り得ず、故に罪など感じる余地があるはずもない。獲物を狩る獣が、命を奪い、肉を食らう事に疑問を持たないのと同じだ。
そして、そんな生活を続けるうち……彼は、本当に獣となっていった。いや、生きていくためには、獣にならざるを得なかったと言うべきだろう。
まともな言葉も知らぬまま、幼い彼は、本能のまま人を殺す事だけに長けていく。人に溢れ繁栄する街の片隅の腐った場所で、血と汚物に塗れて、醜く……だが、ある意味で誰よりも純粋無垢に生き足掻き続けた。
――三年ほど過ぎて。
ある日、彼は一人の男によって返り討ちにあった。
いつものように、食べ物を奪おうと人を襲って、逆に負かされた。
人の脂と血に濡れた、刃こぼれだらけのナイフも奪われた。
地面に叩きつけられた衝撃で思考は乱れ、全身は苦痛でまともに動かない。
それでも彼は悔しがりもせず、冷静に思った。ただ、素直に己の敗北を受け入れた。
……ああ、今度は自分が食われる側になったのだと。
獣の思考で、静かにそう思ったのだ。
ただ、本物の獣と違い、人という生き物は他の仲間を食わない。極限近くまで飢えているのならともかく、自分を至極あっさりと倒したこの男は、そんな風には見えなかった。だったら、自分の持つ物で男が必要な物だけを奪われて、後は殺して屍を打ち捨てるだけだろう。
彼には、死への恐怖はない。
強い者が弱い者を殺し、奪う。
当たり前の事だ。そして、この男は自分より強かったのだから、自分を殺す正当な権利がある。
彼の中には、死を覚悟するなんて考えすら存在しなかった。
それが、二桁にも満たない彼の人生の中で構築された常識。
でも、自分が持つ物なんて、向こうに転がった強引に刺す事ぐらいしか出来ないぼろぼろのナイフ一本。他には何も持ってない。全く運のない男だと、彼は思った。
でも……男は殺す事も、奪う事もしなかったのだ。
「恐怖も後悔も怒りも悲しみもなく、ただ死を享受するのか」
「…………?」
彼には、男の言葉が理解出来ない。そもそも彼自身、まともに喋る事も出来ない。これまで彼の生き方には、言葉というものは、限りなく不必要なものだったからだ。
腹が減れば、人を襲い食べ物を奪う。そして、安全な場所を探し寝て、また空腹で目覚めれば、人を襲う。そんな生活。まさに獣そのもの。
男はさらに言う。
「弱者は、ただ強者に食われる存在だという世界の真理の一つを、本能で理解しているのだな。それに至るような生活を、ここで送ってきたか。……なるほど、人の身であれほどの獣の殺意を纏えるわけだ。おそらくお前は、普通の人間の言う“人を殺す”という意味すら理解出来ていまい」
男が興味深そうに、こちらを見下ろす。
今まで見た事もないような知性と強靭な意志な光が、その双眸の奥にはあった。身体が、痛みとは違う何かで芯から震えた。
「だが、所詮は獣。ただの本能は、理性と知恵を手にする人間の前では、無様に敗れ去るのみ。それはこの世界の歩んだ歴史が証明していよう。……しかし。在るがままに“殺人”を隣人とするその在り方は惜しくはある」
男が、彼へ向けて手を伸ばす。
どこか試すように言った。
「もしもお前が求めるなら、私は与えよう。人の持つべき知恵を。
私は変えよう。獲物を食らう牙から、研ぎ澄まされた人殺しの業へと。
お前の腕が、足が、呼吸が、鼓動が、視線が、命が、魂が、存在が――人の死そのものとなろう。
お前はなれる。お前だけがなれる。
そう、運命に定められるまま、“殺人”を生の営みの一つとしてきたお前だけが――なれるのだ」
男が何を言っているかなんて、わからない。
どうして、弱い自分が殺されないのかも、わからない。
でも、彼は男の手を取り、共に歩む事を決めた。
――今思えば。
彼が知る限り、初めて彼を獣ではなく“人間”として扱ったのは、その男だったのだろう。
それが理由と言えば理由。
どんなに獣のように生きても、自身が人だと理解出来ていなくても。
でも、やっぱり彼は人だったから。
だから、無意識に男の強さへ憧憬を覚え、未だ知らぬ人の温もりを求めた。それは、七歳ばかりの少年の心の動きとしては、何の間違いはなかったはずだ。
そう。
結果、男が彼に温もりなど与えず、ただ彼を“殺人”の存在へと変えたのだとしても――その事実だけは確かだった。
* * *
「あ〜あ……駄目ね」
聞こえた溜息交じりの声に、カラスは閉じていた目をゆっくりと開いた。
途端、視界は過去から現在へと切り替わる。
隣で座り込む声の主は、髪から瞳、纏う服まで全身が純白の少女だった。
シラユリ――
この見た目幼く、麗しい異質な少女こそが、今の彼の主だ。
彼らが居るのは、学園で最も高さを誇る建物、図書塔の屋上である。吹き曝しのその場所は、まず人がこない上に、学園を見渡すには一番の場所だ。
逆に言えば、かなり人の目につく所でもあるのだが、彼らの存在に気づく者はいない。シラユリの妖術によって、気配と姿を完璧に断っているのだ。これを見破るのは、余程の実力者でも、この場まで直接訪れ、強く意識しない限りは不可能であろう。
シラユリに倣って、学園の敷地を見下ろしながら、カラスは口を開いた。
「姐さん、また殺られたのかい?」
「ええ。またよ。シンラン・ソウゴに、ミカヅチ・フヨウ――さすがは、学園の教官達の中でも、並ぶ者の居ない手錬れと言うわけかしら。これでもう三回目。一応全部、上級の妖魔だったのに、フウガに近づく前に見つかって、殺されちゃったわ」
自分の膝の上で頬杖をついて、シラユリは唇を尖らせる。
「シンラン・ソウゴは、神聖騎士時代から有名だったから良いとして、ミカヅチ・フヨウの方は盲点だったわね。他の教官連中程度なら、出し抜くのは簡単なんだけど」
「ま、基本、引退した神聖騎士がなる事が多いらしいからな、学園の教官は。現役のキレは衰えてるって訳だ」
「そういう事。……仕方ない。今度は、あの二人を封じる事も想定して動くしかなさそうね。だけど、それじゃあ傀儡の妖魔程度じゃ荷が重いか……」
カラスは、主である少女の言葉に、驚きを隠さず片眉を上げる。
「もしかして姐さんも出るのかい?」
「ええ、そのつもり。ただ、出るのは私だけじゃないわ」
シラユリが、隣に立つカラスを見上げる。
「お待たせ。貴方の出番よ」
「……へえ、もうかい」
カラスの口の端が、心底嬉しそうな笑みで吊り上がった。
逆にシラユリが不本意そうに、溜息を吐いた。
「予定よりも少し早いけど、仕方ないわ。あと、“彼”の方にも動いてもらう」
「おお。オッサンもか」
意外そうにカラスは目を見開いた。
脳裏に浮かぶのは、鍛え上げられた鋼を思わせる在り方を持つ、一人の巨躯の男。一応は同士である彼とは、向こうの口数が極端に少ないため、ほとんど意志の疎通をした事はない。
「そりゃあの人にとっちゃ朗報だろうな。何が楽しいのか、ずっとじっとしてるぐらいしか、オッサンしてなさそうだったし」
「さすがに私でも、あの二人を一人で抑えるのは厳しいもの。彼が適役でしょう。実力だけはピカ一よ」
「だろうな。しかし、姐さんとオッサンが教官二人担当って事は、坊主にちょっかい掛ける役は俺って事か。やれやれ、ついに死んで来いという命令かい?」
「あら、酷い物言いね。前にも言ったでしょう?」
シラユリが意味ありげな笑みを紅い唇で象る。
彼女の言いたい事を、考えるまでもなくカラスは察していた。
「――『別に殺しちゃいけない』とは言っていない……か」
「そうよ。むしろ、殺す気でやってくれないと意味ないもの」
「こっちとしても助かるよ。殺さないように――なんて柄じゃないんでね。……で、決行は?」
「少なくとも一週間は待つわ。フウガ達、しばらく学園を離れるみたいだから。下手に王都で手を出して、神聖騎士団に目をつけられる事だけは避けないといけない」
カラスは、「ふむ」と思案して、顎を撫でる。
思い出すのは、先ほど見ていた過去の残影。
「じゃあ、俺もちょっと学園を離れて良いかい?」
「構わないけど……何か用でもあるの?」
「ああ。せっかくの二度目の生だし、坊主達の動向の監視ついでに、育ての親に顔ぐらい見せとこうかと思ってね」
「育ての親……ね」
「そうそう。親孝行ってやつさ」
と、冗談交じりに笑う。
しかし、その瞳には、言葉とは裏腹に、人の温かさとは程遠い冷たさしか存在していなかったのだった。
◇ ◇ ◇
それは、早朝に唐突に訪れた。
「……ぐぅっ……っ……」
掛かっていた毛布を蹴り飛ばす。
胸を、ベッドのシーツを強く握り締め、悶絶する。
「……がっ……うっ……」
飛び出しそうになる絶叫を、あらん限りの力で抑え込む。
叫べば、人に気づかれる。そうなれば、この発作の事も知られてしまう。それだけは避けなくては。
「……あっ! うあっ……ぐっ……!!」
痛い。
痛い。
痛イ。
イタイ。
いタイ。
肉体の痛みではない。
もっと根本的な、深い、魂の……いや、存在の痛み。
壊れる。砕ける。ひび割れる。剥離する。崩れていく。
スさノ・ふウガが、ガラクタになっていく。
でも……
――私は君が好きだ。それだけは何があっても変わらない真実だから――信じて欲しい。
――あんたがね、私達を守りたいって思ってくれるように、私達だってあんたを守りたいの。
……そんな二人の少女の声が聞こえた気がした。
「っ!」
駄目だ。やめろ。
止まれ。戻れ。もう少しだけ。
俺というソンザイよ……壊れないでくれ……っ!
「――――っはあ!」
刹那、痛みが急速に沈んでいった。
引きつっていた全身が、それに合わせて脱力していく。
しかし、あの痛みは消えたのではない。
奥に奥に奥に……魂の深奥へと潜んだだけ。
いつか、それはまた浮上してくるだろう。
そして、少年を壊していく。
「…………」
ベッドの上に転がったまま、掌で顔を抑える。
全身汗まみれで、毛布は部屋の端っこでくしゃくしゃ、シーツは所々が裂けていた。なんとも酷い有様。
「この……学園にきて以来……発作は起きてなかったんだけどな……」
息も絶え絶えに漏らす。
それは、あの亀裂の痣に……欠落の騎士へと戻る事がなかったから。
偽りである今の自分は、でも、確かにスサノ・フウガという存在が終わるまでの時間を引き延ばしてくれたのだろう。
だが、所詮は時間稼ぎ。
必ず終わりは訪れる。
それは命ある者ならば全て平等に訪れるものだけど、きっと自分のものは他の皆のものとは異なり……そして、その日がくるのは、そう遠くはない。守るという誓いと存在のため、痣が浮かび上がる度に、終わりは加速度的に近づいていく。
でも、自分は逃げないだろう。恐れないだろう。
だって、スサノ・フウガは、そういう存在でしかないのだ。
『――残された時間は少ないか、フウガ』
「――――っ!」
頭に響いた声に、フウガは弾かれるように上半身を起こす。
「……オロチ、お前……!」
『ああ、知っているさ。お前の抱く秘密を。必ず辿り着く結末を』
「知っている……? 何故……っ」
疑問を抱き、数瞬ほどで答えはすぐに浮かんだ。
――なに、この少年の記憶を少しだけ探ったのだ。
「――あのときっ」
脳裏に浮かんだのは、この妖魔に憑かれてすぐに聞いた台詞。
フウガは苛立ちのまま、舌打ちする。
「何が少しだけだ。そんな事まで……!」
『致し方あるまい? 記憶の表層を探るだけでも、否が応でもそれは知れた。お前にとって、常に意識せずにおれぬ事実のようだからな。
お前は、終焉の訪れを恐れてはいない。
だが、仲間にそれを知られてしまう事を何よりも恐れている』
「……ああ、そうだ。俺は怖い。あの夜にも、この事だけは話さなかった。もうどうしようもないこの現実――でも、皆に話せば、きっと皆は俺を助けようとしてくれるだろう。それが俺は……辛いんだ」
これは業だ。
自らが招いた罪が課した、覆しようのない罰。
だから……皆に知られてはいけない。
自分は終わりを享受し、ただ誓いとその存在のために、皆を守り続けるのだ。九年前に定められた、その日が訪れるまで……。
『でも、仲間達は、お前に在り続けて欲しいと願っているだろう。……ああ、私としても、呪いの結果がわかるまでは、お前には生きていてもらわねばな』
「わかっている。わかっているさ……っ!」
拳をベッドに叩きつける。
強く歯噛みし、「でも……っ」と押し殺した声が喉から零れた。
「だったら、俺にどうしろって言うんだ……」
受け入れているのに。そうするしかないのに。
いつだって笑っていて欲しい大切な皆は、それを望んでいない。
ただ、その事実が、少年には苦しくて仕方がなかった。
◇ ◇ ◇
「…………平和だな」
休憩用の椅子に腰を下ろして、ヒナコは呟いた。
今日も何事もなく、放課後を迎え、一時の自由を与えられた候補生達によって、学園はにわかにざわめいている。しかし、この場所は静かなものだ。
「ああ、本当に平和だ。喜ばしい。結構だ」
独りごちる。
今日は珍しく煙草を手にしていなかった。伸ばした手が机の上のカップを掴み、ぞんざいに茶をすする。
そうしながら、赤の双眸が医務室内を巡った。
神聖騎士を目指す候補生が訓練に励む場所だけあって、この学園は普段から怪我人が多い。それに合わせて、医務室の規模や人員も、それなりに大きいものになっている。だが、今現在、何十人分用のベッドのほとんどは空いていた。幾人か候補生の怪我人が横になっているものもあるが、大事を取っただけだ。特別、気に掛けるほどの患者でもない。
もちろん医者という肩書きを持つ彼女に取って、その状況は喜ぶべきものではあっても、決して文句など言うべきではないのだろう。
「だが……」
……暇だ。
凄く暇だ。
中身を飲み干したカップを置く。
仕方ない。隣の事務室から、同じく暇そうな同僚か看護婦でも適当に捕まえて愉快な話をさせる……もとい、談笑でもしようか。
「……よし、そうしよう」
と、百人中百人が、見た瞬間に後退りしそうな笑顔を浮かべた所で、医務室の戸が叩かれた。
一拍置いて、扉が開く。
その向こうに居たのは、少々意外な人物だった。
「何だ、タマヨリか。……どうした? ソウゴとフウガの特訓を見にいったんじゃなかったのか?」
なんにせよ、ちょうど良い暇潰しの相手がきてくれた。そんな医務室の責任者としては、あまりよろしくない気持ちが声を少し弾ませる。
しかし。
「スクナ先生」
ヒナコの内心とは裏腹に、少女の声は重く沈んでいる。
表情も真剣そのものだ。
「話があるんですけど……大丈夫ですか?」
……どうやら、愉快な話をする気はなさそうだった。
退屈が解消されるかと思えば、これだ。
全く神様という奴は、なかなか気持ち穏やかな日々を与えてはくれないらしい。
「――良いぞ。ただその前に、場所だけ変えようか」
ヒナコは何も訊かず、そう言って立ち上がった。
◇ ◇ ◇
放たれた斬撃を、咄嗟にソウゴは槍の柄で受ける。
眼前で、金属のぶつかり合う音と共に、細い火花が舞い散った。
「むっ」
「おおおおー!」
舞台の外で、特訓を見守るゴウタ達が歓声を上げる。
すでに七回目を数えるフウガとソウゴの〈錬守結界〉内での実戦訓練。これまで一方的にやられるだけだったフウガが、ここにきて初めて、まともな反撃をして見せたのだ。
「……烈風、研ぎ澄ませ!」
この機会を逃さぬと、フウガは〈具言〉を唱え、両手に握る二振りの刃へと風を纏わせる。そのままソウゴの槍を強引に跳ね上げ、がら空きになった脇腹へ剣を迸らせた。
「甘い」
しかし、そこは幾多の戦いを生き抜いたソウゴだ。
僅かに後方へ退くだけで、紙一重で刃に空を切らせる。そして、頭上の槍を容赦なく少年の肩口へ振り下ろした。
「がっ――!?」
容赦ない衝撃に、フウガの動きが止まる。
それは、ソウゴを相手にするには致命的な隙。
すかさず放たれた槍の連撃がフウガを襲い、捌き切れずに、強烈な突きの一つを胸に受ける。〈錬守結界〉内であるため、穂先が身体を貫く事はないが、その威力は十分過ぎる程に少年を打ち据える。
今度こそ踏ん張れずに、フウガは背中から倒れた。
「終わりだ」
槍の切っ先を、倒れた相手の喉元に突きつける。
「……結局、こうなるのか……」
はあ、と大きく息を吐くと、フウガの全身が脱力する。
「やっと反撃出来たのになぁ……」
「攻撃は、相手へ当たってこそ意味がある。……まだまだだ」
冷たい声を落として、ソウゴは簡易舞台を降りる。
背後で「厳しい……」と切なそうなフウガの声が聞こえた。
(……それにしても)
観戦していた皆が、少年の元へ集まるのを見ながら、ソウゴは思う。
(まさか、反撃を許すとは思わなかった)
それは、紛れもない彼の本音。
フウガが、この特訓を行う際にソウゴに望んだのは、彼に手加減抜きで本気で戦ってもらう事。それぐらいしなければ、大きな実力の開きがあるウズメに勝つに至る実力を、三ヶ月と言う短期間で身に着ける事は出来ないからだ。
……いや。
例え、どれほど厳しい修練を重ねようと、あの稀に見る才を持つウズメという少女に勝てる程の力を、そんな短い時間で得るのは、まず不可能に近い。少なくとも、フウガとウズメの力の差は、それほどに在るはずだ。
(だが、あるいは可能なのか……?)
あのスサノ・フウガという少年ならば、出来てしまうのかもしれない。
戦神とまで呼ばれた男、スサノ・ラシン。
彼は、確かにその父の非凡な才能を受け継いでいる。
決して油断などしていなかったのに、たった一度と言え、予想外の反撃を許してしまったソウゴは、己の考えを改めずにはいられない。
そして、それとは別に言い知れぬ不安も同時に抱いていた。
(……何だ? この違和感は?)
フウガの成長振りは素晴らしい。
実戦に近い訓練の中で、確かに見る見る実力を上げている。
なのに。それなのに。
(何かが足りない……)
そう、何かが欠けている。
その何かは、きっと言葉などでは明確に表せるものではない。例えるならば、人が当たり前に人であるために必要な芯のようなモノ。
だけど、刃を交える毎に、ソウゴは感じるのだ。
その芯が、スサノ・フウガには欠けている。
それが、彼の本来の才を発揮するのを阻害している。
だから、このままでは、やはりフウガは、ウズメには勝てないだろう。欠けているもの、足りないもの――それを取り戻さねば勝てない。
いや、それ以前に、彼という存在自体がもしかすると……
(馬鹿な)
ソウゴは、頭を振る。
なんて愚かな推測だ。確証も何もない。
今も、フウガは友人達と普通に笑いあっている。そこに何の問題もなく生きている。
そんな馬鹿げた考えなど、正しい訳がない。信じたくもない。
「…………どうかしました?」
不意に、横手から声が掛かった。
「え……? ああ、ミカヅチ教官」
同僚である若き教官、ミカヅチ・フヨウだった。
彼女は、その性質上、現役を引退した神聖騎士がなる事が多い教官に、元神聖騎士でもなく、僅か二十代という若さでなった変り種だった。
とは言え、上官であるラシンが怪我による引退をしたのを機に、まだ十分に現役だというのに、自らも騎士から学園の教官へと鞍替えしたソウゴも、そういう意味では同じなのだろう。
フヨウは、いつも通りの眠そうな目で、でも、確かにこちらを気遣うような表情をしていた。
彼女は、普段から何を考えているか掴み辛い。
だが、本当は女性らしい優しさを持った好感の持てる人物である事を、シラユリの件をきっかけに行動を共にする事が多いソウゴは知っていた。
「いえ、ちょっと考え事を。大丈夫です」
ソウゴは眼鏡を掛け、もう一人の気弱な自分へと切り替えると、微笑んで見せる。
「…………そうですか」
フヨウもまた、安心したように淡く微笑んだ。
弟のライと同じ銀色の輝く髪に、海色の瞳。さらには、もともと美しい顔立ちをしている彼女だ。普段から、今みたいに笑えば、周囲の男も放ってはおかないだろうに、すぐにまたとろんと眠そうな顔になってしまうので、非常にもったいない。
そんな事を思っていると、ふと向こうで話すフウガ達の会話が聞こえた。それは、明日から一週間、学園を離れる事に関しての話だ。
「……そういえば、ミカヅチ教官も、明日からスサノ君達と一緒に王都の方へ行かれるんでしたね」
数日後の学園の創立記念日を挟んだ一週間は、毎年、長期の休日となっているのだ。この機会に、比較的近くの街から学園にきた候補生は、実家へと帰る者も多い。そして、ライとゴウタ、それに付き添いするフヨウが王都の郊外にある孤児院へ帰郷するのに、フウガ達も付き合う事になったのだ。
そもそもフウガは、去年も同じようにライ達に付き合って、孤児院へ訪れている。今回は、それにレナとミヨが加わった形だ。
「…………はい。ですが、それが?」
フヨウが不思議そうに訊き返す。
「王都ならば、神聖騎士団の目も光っていますし、万が一の事もないとは思いますが……スサノ君達の事、よろしくお願いします」
言って、ソウゴは頭を下げる。
フヨウは、珍しく戸惑った様子で首を傾げた。
「…………やっぱり何かあったんですか?」
「……いえ。念のためです。そう……それだけです」
未だに消えない不安と違和感を拭い去ろうと。
ソウゴは、自身に言い聞かせるように、そう呟いていた。
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