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オロチ様はイタズラがお好き!?

四章 その悪夢、甘美に傷を抉り


―― 六 ――

 夢魔が息絶えた事により、〈異界〉は消滅した。
 外の淀んだ桃色の靄は消え、廊下の無残な破壊の跡も元通りになる。
 正確には、今までフウガ達が居た学園は、夢魔の〈異界〉の妖術により模倣された偽者で、もともと本物の校舎は一切傷ついてなどいなかったのだ。
 だが、景色は元に戻っても、その場の空気は張り詰めたままだった。
「…………」
 夢魔を容赦なく消し飛ばしたフウガは、無言で佇んでいた。
 誰も声を掛けられない。動けない。
 彼のあまりの変貌による驚愕から未だ抜け出せていないのだ。
「――ライ、ゴウタ」
 どこまでも続きそうだった沈黙を破ったのは、他ならぬフウガだった。
「……何?」
 ライが静かな声音で応える。
 二人を縛っていた幻術の茨も、夢魔の腕がウズメによって焼かれた時点で消滅していた。
「夢魔の事……教官達に報告頼む。俺は、悪いけど先に寮に戻るよ」
 少年は振り返る事なく、そう告げる。
 どことなく、皆と今、顔を合わせる事を恐れている風でもあった。
「わかった、任せとけ。フウちゃんは、ゆっくり休むんやで」
 応えるゴウタの口調も、普段のおどけたものと比べると随分堅い。それでも必死に、いつも通りに振舞おうとしているのが感じられた。
「……ああ」
 小さく応えると、フウガは足元の剣を拾い上げ、そのまま歩き出す。
「……あ、フウガ……」
 何か。
 何か言わなければと、ウズメは一歩踏み出し、口を開きかけた所で、
「――先輩」
 先にフウガの方が足を止めて、こちらを振り返っていた。
「…………っ」
 思わず身体が強張っていた。
 自身の表情の変化に気づき、ウズメは慌ててそれを振り払う。その後、すぐに湧いてきた感情は、激しい自噴と罪悪感。
 だけど、フウガはただ穏やかに――だけど、少しだけ悲しげに微笑んでいた。
「助けてくれて、ありがとうございました」
「あ……」
 それは。
 紛れもない、いつもの彼の口調。声音。
 酷く少女の胸が締めつけられる。
 少年は、歩みを再開する。
 程なく、その姿は廊下の奥の闇へと消えていった。
(……何故……私は……)
 強い悔恨に押され、ウズメは固く拳を握る。
 フウガが振り返った瞬間。
 自分は、一体、どんな表情を浮かべた。どんな感情を胸に宿した。
 それは――恐れ。
 一瞬とはいえ、紛れもなくそんなものを彼に向けてしまった。
 きっと、あのとき。
 少年が何よりも望んだのは、普段と変わらぬ態度で接してくれる事だったはずなのに。
 ――それを裏切ってしまった。
 先ほどの少年の微笑みは、瞼の裏に強く焼きついて離れてくれない。
 だが、彼を追う事は出来ない。今のフウガの様子を見れば、独りにしてやる事が自分達に出来る精一杯の気遣いだろう。
 だから、ウズメは、この場で別の行動を選択した。
「……確か、ミカヅチとフドウだったな?」
 言いながら、ウズメは二人の少年へと振り返る。
「はい」
 ウズメが声を掛けて来るのを予想していたのか、落ち着き払った様子でライが返事をした。
「少しだけ君達に訊きたい事がある。構わないか?」
「俺らは、フウちゃんと一緒に先輩に助けられた身ですやんか。断るなんて出来へんですよ」
 ゴウタはそう言って、少しでも暗い空気を振り払おうとしているのか、笑って見せる。
「では……君達はフウガの過去を――例の事件を知っているのか?」
「「…………っ」」
 問うた瞬間、二人の顔が明らかに強張る。
 ――これは、彼女がずっと知りたいと思っていた事でもあった。
 ウズメは、スサノ・フウガという少年の事を何も知らない。
 特に彼が神聖騎士になる事を拒む理由は、未だ謎のままだ。きっとそれは、フウガ自身が話す事を躊躇う過去の出来事と切って離せない関係がある。
 彼女が、フウガ自身とその過去について知っているのは――
 フウガが、あのスサノ・ラシンの息子である事。
 ラシンが騎士を引退する原因となった事件で、同時に母親とそのお腹に身篭って居た子供を妖魔の手により失っている事。
 そして。
 彼自身もその事件が起きた原因に深く関わっているらしい事。
 ……そのぐらいのものだ。
 フウガの深い心情を知れるような詳しい概要は何一つとして知らない。
 この学園の候補生でありながら、神聖騎士となる事を拒もうとしてしまうほどの悔恨の根なるものを――知らないのだ。
 ウズメの父は、ラシンが騎士を引退する事が決まった際には深く嘆いてこそいたが、事件については全く語ろうとはしなかった。さらに、ラシンの知名度に対して、突然の引退という衝撃的な出来事があったにしては、世間にも詳しい話はまるで流布はしていない。
 今思えば、それは不自然な話だ。もしかすると事件の深い概要を伏せる事で、そこに関わるフウガを周囲の誹謗中傷などから守るためだったかもしれない。
 つまり……フウガは事件の起きた原因に深く関わっているのではなく――“事件の起きた原因そのものなのではないか……?”
 なればこそ、あの屋上でのフウガの態度や騎士となる事を頑なに拒もうとする理由にも繋がる気がした。
「……確かに、僕達はフウガの過去を知っています。他ならぬ彼の口から、それを訊きましたから」
「やけど……俺らにはそれを話す事は出来ません」
 二人は断固とした意思を込めた口調で言った。
 それにウズメは、当然のように頷いた。
「ああ、わかっている。私だって本人の気持ちを無視して、他人からそれを訊き出そうとなど思ってはいないさ。ただ……これだけは教えて欲しい。彼が神聖騎士になる事を拒む理由と、そして――さっきの変貌ぶりは、やはりその過去が関係しているのか?」
 数瞬の沈黙の後、ライが口を開いた。
「神聖騎士に関しては、原因は例の事件にあるのは間違いないです。ただ……フウガのあの変わりようは、僕達にもわかりません。彼に何か隠している事があるのは薄々察してはいましたけど、あんな風になったのは初めて見ましたから……」
「そうか」
 ウズメは納得したように呟いた。
 確かに、あのときの二人の様子を見れば、フウガの変貌に関しては、本当に何も知らなかったのだろう。だが、それでもウズメには、過去の事件と切り離せるものではないような気がしてならなかった。
「……ツクヨミ先輩は、何故、そんな事を……?」
 問うたのは、ゴウタだ。
 ウズメは静かに目を閉じる。
 そして、先ほどの己の愚かな行為を戒めるように強くその一言を口にした。
「…………私は、フウガが好きなんだ」
「へ?」
 予想外の返しだったのだろう、ゴウタはぽかんと口が半開きになる。
 隣でライも目をしばたたかせていた。
「だから、彼の見ているもの、感じているもの、考えている事、好きなもの、嫌いもの――そんな全てを知りたい。何かに辛いものを背負い、それに苦しんでいるのなら、その原因を取り除いてやりたい。
 そうして、彼に笑って欲しい。
 自分に――笑いかけて欲しい。
 理由あるとすれば、そんな勝手で、本当に他愛ないものだよ。……おかしいかな?」
 本当に真っ直ぐに本音を口にして、慕う少年の親友二人へとウズメは微笑を向ける。
「「…………」」
 二人の少年は、呆然と互いに顔を見合わせる。
 そして、次の瞬間には、苦笑気味に微笑んで首を横に振った。
「――ツクヨミ先輩。僕達ってね、孤児なんですよ」
「え……?」
 何の脈絡もないライの告白に、ウズメは瞠目する。
「ゴウタは捨て子で、姉さんと僕は小さい頃に野盗に両親を殺されて、行き場を失った。それから、ずっと孤児院育ち。この学園にも、孤児院での親代わりだった院長が無理して入れてくれたんです。立派な神聖騎士になって来い、ってね」
「ま、よくある話ですわ」
 ゴウタが何でもない事のように笑う。
「…………」
 確かに、そんなものはどこにでも転がっている話だ。
 でも、だからと言って、決して容易く笑い飛ばせるほど軽い過去でもない。なのに、この二人からは、己の境遇を恨むような様子はまるで見られなかった。彼らの育ての親は、そんな生き方が出来るだけの暖かいものを二人に与えてきたのだろう。
 ゴウタは頭を掻きながら言う。
「そんな境遇ですからね。学園に入ってすぐの頃、やたら孤独な空気を振りまいていたフウちゃんは、妙に気になる存在やったんですよね。なんてーか、勝手な共感ちゅうのかな。上手く言えへんのですけど……どうも放っておけなかった。それで声を掛けて、気づけば親友になってた」
「僕達は、理不尽な理由で大切な誰かと切り離される辛さと悲しみを知っている。それは、たぶんフウガの知っているものと同じものです。だけど、フウガが背負うのは僕達以上に重く、残酷なものだ。そして、だからこそ――僕達も助けたいんです。
 親友だから。
 仲間だから。
 フウガだから――助けたい」
「初めて会ったときに比べれば、フウちゃんはよう笑うようになりました。でも、俺らは本当の意味で、まだあいつを救ってはやれてません」
「何で……そんな話を私に?」
 ウズメが当然の疑問を投げかける。
 すると、ゴウタはちょっと可笑しそうに言った。
「やって先輩、恥ずかしがる事も躊躇う事もなく、フウちゃんを好きやって、助けたいんやって言ってくれたやないですか。それって言うほど、簡単な事やないって俺らにもわかりますからね」
「そんな貴方なら、もしかしたらフウガを救ってくれるんじゃないかと――そう思ったんです。もちろん僕達だって、まだ諦めたわけじゃないですけどね」
「……なるほどな」
 ようやく彼らの言いたい事を理解して、ウズメは苦笑していた。
「つまりは――共同戦線か?」
 ライは微笑したまま、肩を竦める。
「そんな大袈裟なものじゃないですよ。ただ僕達になりに、フウガを本当に想ってくれている先輩への誠意を見せただけです。
 あいつを――助けてやってください、ツクヨミ先輩」
「ああ……もちろんだ。互いにな」
 そう言って、三人で笑い合った。
 何か確かな約束が交されたわけじゃない。
 だけど。
 笑顔の下に未だ大きな傷跡を隠し続ける少年――
 彼を助けたいという気持ちが、また新たな絆を作った瞬間であった。

 ◇ ◇ ◇

 ――スサノ・フウガは思い出していた。

 それは本来なら、もっと早く抱くべきだった感情。
 しかし、己の内に取り憑いたその者は。
 あまりに人間染みていて。
 あまりに妖魔らしくなくて。
 あまりに掴み所がなくて。
 それに気づく事が出来ていなかったのだ。
 だが、もう思い出した。
 その憎しみを。怨嗟を。呪いを。
 奴らは、父の未来を、母の笑顔を、これから生まれるべき命を奪った。その発端が自身に在るとしても、その事実が変わるわけではない。
 だから、憎む、怨む、呪う。
 妖魔。 
 人間の天敵たる忌まわしき存在。
 それは――オロチであっても例外ではない。
「…………出て行け」
 学園の廊下を歩きながら、フウガは自身の胸を強く掴む。
 それこそ心臓を抉り出さんばかりに強く。
「出て行けよ……俺の中から……っ!」
 黒く淀んだ憎悪を吐き出す。
 それを向けた相手を呪い殺さんばかりに。
『――そう思うのならば強くなる事だ。ウズメを倒せる程にな』
 自身に向けられた負の言葉に動揺一つ見せず、オロチは淡々と言う。
「ああ、なってやるさ……! 先輩に勝って、呪いを解いて、お前を必ず俺の中から引き摺り出してやる……!」
 ――わかっている。
 どうしようもなく理解している。
 こんなものは逆恨みだ。
 彼は妖魔だけど、少年の大切な人達を奪った者とは違う。
 彼は妖魔だけど、決して邪悪ではない。
 でも、この感情は理屈などでは抑え切れないのだ。
 だから、どんな手段を用いても排他する。その存在を絶対に許さない。
 そう誓った。あの日から、そうやって生きてきた。
 今更、どうして、その生き方を変えられよう。

 ――なのに。
 何故だろう。
 こんなに胸が苦しいのは、何故なのだろう?

「…………」
 そんな思考から逃げるように、ふと窓の外に目を向ける。
 黒い空には、淡く輝く月が一つ。
 夜の象徴たるそれは、日を追う毎に欠けていき、朔の日には完全に闇へと溶ける。
 その姿が、まるで自分のようだと――
 未だ誰にも語らぬ事実を胸に秘めたまま、少年は独りそう思った。


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