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オロチ様はイタズラがお好き!?

四章 その悪夢、甘美に傷を抉


―― 五 ――

「――――」
 気づけば、フウガは暗黒の中に居た。
 肌に纏わりつく濁り湿った空気。
 目に見えなくても全身から感じられる閉鎖感。
 それらの情報から、すぐさま己の居る場所を推測する。
(…………洞窟、か?)
 光源は何もないため、確信は持てないが、おそらくは間違いない。
 自分は、〈異界〉の中で夢魔に捕らわれ、再び幻術に掛けられていたはず。
 それが、何故、独りでこんな場所に居るのか。
 別の〈異界〉に飛ばされたのか――もしくは、これ自体が幻術か。
 おそらく後者の可能性が高い。
 ならば、気を確かに持て。
 これから現れるものに決して惑わされるな。
 ほんの一瞬でも心を弱くすれば、そこにつけ込まれて、今度こそ自分は己を完全に失うだろう。
 そうなれば身体は生きていても、心が死ぬ。
 心が死ねば、その人間はただ生きているだけの人形だ。
 次第に闇に目が慣れてくる。
 僅かだが周囲の光景が視覚で捉えられるようになる。
 ――やはり洞窟らしい。
 背後には先の見えない通路が一つだけ続いているが、他は無機質な岩の壁。
 周囲はかなり広く、天井も高い。
 どうやら、相当に広い空間らしかった。
(ここ、は……いや、まさか……)
 固く蓋をして、でも、封じ切れない記憶が僅かに顔を出す。
 自身の居る場所と忌まわしい過去の光景が繋がりそうになる。
 と。
「…………?」
 一歩だけ足を踏み出すと、ぱしゃりと足元で水音がした。
 湧き出した地下水の水溜りだろうか。
 だが、その割には少し粘り気が強い気がする。
 その違和感に引き摺られるように、フウガは膝を吐き、足元に広がる液体を指で掬う。
 間近で見て、それが何かを理解した――その瞬間。
「――――っ!!!」
 いきなり洞窟内部の暗黒がことごとく息絶えた。
 光源もないのに、それが当たり前のように視界が明確にされる。
 見たくもないものが見えてしまう。
 液体の正体、それは――
「血…………!」
 真っ赤な。
 紅い。
 アカイ。
 血、血、血、血。
 それを溢れ出させたモノもフウガには見えた。
 見えてしまった。
「……あ、ああああ……ああああああああああっ!」
 本人の意思とは無関係に迸る絶叫。
 倒れていた。 
 ぱっくりと胸の開いた女が倒れていた。
 緑髪碧眼の美しい女だった屍が倒れていた。
 そのお腹に膨みがある。
 命の宿っていた証。
 これから外の世界へと旅立ち、新たな生と名を得るべき存在の居た証拠。
 でも、絶えている。
 母体の死と共にその未来は絶えて、死んでいる。
 生も得てなかったのに、死んでいる。
「……やめろ、やめろやめろやめろ……こんなものは……やめろっ……!」
 屍の正体をフウガは知っていた。
 知らないはずがない。
 自分は、彼女の緑の髪と碧の瞳を受け継いだのだから。
「……母、さん……!」
 そう。
 彼女は、スサノ・ヒスイ。
 もう立派な大人のクセに、どんな子供よりも無邪気で純粋で。
 いつも息子のフウガを好き放題に振り回して。
 自分の子供達の未来を希望いっぱいに語っていた、そんなフウガの母だった。
 その終わりの姿だった。
「……ぐっ……うっ」
 吐き出す。
 内臓ごと吐き出しそうな勢いで。
 胃の中身の何一つ残さず吐き出し尽くす。
 それでも消えない強烈な嘔吐感に口を押さえながら立ち上がる。必死に後退る。
 嫌だ! 嫌だ! 嫌だ! こんなのは嫌だ!
 逃げたい。
 一秒でも早く。
 この悪夢から、地獄から、逃げたい。
 だけど。
 何かが背中にぶつかって、逃走は遮られた。
 振り返る。
「――――ひっ」
 もはや悲鳴ですらない、喉から空気の洩れる音がする。
 また別の悪夢がそこに立っていたのだ。
 黒いざんばら髪に、無精ひげ。極限まで鍛え抜かれた肉体を持ちながら、快活に笑うのが良く似合いそうな男。
 しかし、その全身は血塗れ。右目は深く傷つき、その左足は半ばもげかけている。
 妻に負けず劣らず子供みたいな性格でありながら、その実、常に物事の深奥を見抜く、その捉え所のない人物の名は。
 ――スサノ・ラシン。
 父。
 偉大なる父。
 自分には、あまりに遠過ぎる英雄。
 剣を握りすぎてごつごつになってしまった大きな手がフウガの頭を優しく撫でる。
 血塗れの顔で、優しく微笑む。
「お前だけでも生きていてくれて良かった――」
「――あ」
 それは、あの日、あのときの……台詞。
 絶対に忘れえぬ彼の唯一の支え。
 でも、すぐに歪んだ。
「お前が生キ……て良かっタ、良か良かヨカカカカカカ――オ、おまエがオマおマおま…………――オ前ガ」
「え……」

「オ前が死ネバ良カッタノニ」

「――――」
 びしりと。
 フウガの何かにヒビが入った。
「ナンデ、オ前ダケガ生キテイル。何ヨリモオ前ガ死ヌベキナノニ。ナンデ、オ前ガ生キ残ルンダ!」
「う――ああ……!」
 ぐらりと後ろによろめく。
 足首を何かに掴まれている。
 視線を向ければ、血の跡を残しながら這いずる母の虚ろな目が自分を呪うように見つめていて。
 次いで聞こえた幼い声は、生まれる事すら叶わなかった赤子のものか。
「……オ前ガ――死ネ……オ前モ死ネ……」
「……やめろ……やめてくれ、やめて……やめてよ……」
 これが幻術だとか。
 これは偽者だとか。
 冷静に、そんな事は判断出来ない。
 心の傷から血が噴き出して思考が真っ赤。胸を突き刺し、引き裂き、抉り続ける罪悪感でとにかく死にたくなる。
 開く。開く。開く。
 黒くて、古い。
 九年前の箱が開く。
 見たくない、見てはいけない。
 過去が。残酷な過去が最悪な形で改変されて、少年の喉下に突きつけられる。魂を蹂躙する。

「死ネ」
「死ネ死ネ」
「死ネ死ネ死ネ死ネ」
「死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ」
「死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ」
「死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ」

 ――死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死ンデシマエ!!!! 

 憎悪。
 怨嗟。
 殺意。
 呪い。
 そんな感情が、究極の一言に凝縮されて繰り返される。
「嫌だ。嫌嫌嫌、嫌だ。やめてよ、やめて、やめて……やめてぇ!!!!!!」
 膝を折って、その場に崩れ落ちる。
 耳を塞いで、ひたすらに必死に哀れに頭を振る。振り続ける。
 馬鹿みたいに涙が止まらない。
 すでに逃げる意思も力もない。
 ただ無意味に、拒絶を叫び続ける。
「……あ、ああああ……あああああああああああ……アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
 壊れていく。
 ぐずぐず。
 ぼろぼろ。
 スサノ・フウガという心が魂が存在が。
 コワレル。
 そして、白く。
 ただシロく。
 マッシロニ……ナル……

 ――でも。
 そんなシロになる直前。

 暖かくて、優しくて、力強い。
 唯一無二の赤色が見えた。

 ◇ ◇ ◇

「くっそぉ! 解けろぉ!」
「フウガァ!」
 二人の少年は必死に、自身を縛る幻術の呪縛に抗っていた。
 今、目の前でスサノ・フウガという一人の友が壊されようとしている。
 だと言うのに。
 自分達は、何一つ出来ずに指を咥えて見ているしかないと言うのか。
 歯を折れそうなほどに食いしばる。
 血が溢れるほどに拳を握る。
 でも、精神を縛る幻の茨はびくともしない。
 ただ無慈悲に少年達の無力を思い知らせる。
「のぉっ! 消えろよ!!」
「このままじゃ……!」
 フウガの心が陥落するのは時間の問題だ。
 それでなくても残酷過ぎる過去を持つ彼は、幻術というもの対しての耐性が極端に弱いのだ。致命的な弱点と言っても良い。
 だから、自分達が守らなくてはならなかったのに、この体たらく。
 なんと無力か。なんと無様か。
「うおおおおおおおおおっ!」
「ぐぅうう!」
 駄目……なのか。
 絶対に認めたくない、そんな諦めが過ぎりそうになる寸前。
 彼女は――来た。

「――炎獣、その牙を立て!」

 赤く染まる空間。
 迸り燃え上がる炎牙。
「ギィヤアアアアアアアアアアア!」
 耳の痛くなるほどの絶叫を上げ、夢魔がフウガから跳び離れる。その右腕が一瞬の内に消し炭と化して、無残に崩れ落ちていた。
「あ――――」
 紙一重で幻術から解放された少年が前のめりに倒れそうになるのを、一人の少女が片腕で優しく受け止める。
「……遅くなってすまない、フウガ」
 いつも凛としているその声は、今は強い悔恨が滲んでいた。
 翻る滑らかな黒髪と烈火の怒りを宿す漆黒の瞳。
 細身ながら、無駄なく鍛えられたしなやかな体躯。
 手にするのは、炎の赤を照り返す、それ以上に美しい緋色と紋様を持つ長刀。
 思わず彼女に見惚れるライとゴウタは、言葉すら発せない。
 その美しさ、雄雄しさは――まさに炎姫と呼ぶに相応しいだろう。
 揺らめく炎火の中。
 ツクヨミ・ウズメが今、そこに立っていた。

 * * *

「ツク、ヨミ先輩……? 一体、どうして?」
 ようやく我に返ったライが呆然と問う。
「――たぶんきっかけは、君達と同じだろう」
 振り返る事なく片腕を失った夢魔を睨めつけたまま、ウズメは言った。
「今日のフウガはどこかおかしかったからな。ずっと気に掛かっていた。それでどうにか彼の様子を確認出来ないかと男子寮の方へ向かっていたら――寮を出て行くフウガとそれを尾行する君達が目に入った」
 そんな明らかに不自然な光景を見てはとても放って置けず、三人の後を追った所、ちょうど学園の前まで来た瞬間に〈異界〉が展開したらしい。
 ゴウタが不思議そうに目をしばたたかせる。
「え……やったら先輩は〈異界〉に巻き込まれたわけやないんですか?」
「いや、違う。私はぎりぎりで外に居た。だから、すぐに〈異界〉に干渉して侵入して来たんだ」
「し、侵入して来たって……」
 二人は、再び呆然となる。
 〈異界〉への干渉は、外部からならば難易度は大きく下がるものの、それでも本来なら候補生レベルでは行使など決して不可能な高難度のものだ。しかも、それを成功させ、さも当然のように〈異界〉の中へと侵入して来たと口にする彼女は、本当に今更だが非常識過ぎる。
「……学園最強の面目躍如ってやつかな」
 ライの呟きは感心を越えて、諦念すら含んでいる。
 どう足掻いても、届かない領域に立つ人間は確かに居るのだ、と。
 何にせよ、これで形勢は逆転した。
 この場に男しか居なかったからこその夢魔の圧倒的優位は、女であるウズメの登場で完全に瓦解したのだ。もはや幻術が意味を成さぬ以上は、下級妖魔並みの戦闘能力しか持たない夢魔などウズメの敵には成り得ない。
 ウズメの手にする長刃の切っ先が、腕を喪失した苦痛に喘ぐ夢魔へと向いた。
「――覚悟してもらおう、夢魔」
 その声音からは、先ほどまでの悔恨は消えている。在るのは、灼熱する確かな殺意と憤怒だ。
 隻腕となった夢魔は、ウズメの迫力に圧されるように歯噛みしながら後退る。
「フウガのこの姿を見た瞬間に、私は冷静さも慈悲も捨てた。この先、容赦など一切ない。彼の傷を抉り、耐え難い苦しみを与えた罪――死を以て償ってもらう!」
 他に言うべき事などないとでも言うように。
 その宣告そのものが〈具言〉となり、刃を煉獄の火炎が包む。
「塵へと還れ――!」
 赤の軌跡を描きカグヅチが振るわれ――

「――――穢しタな」

 地獄の底から響いてきたような、その声で止められた。
 時が止まった――
 そう錯覚しそうなほどに、周囲の空気が一気に変質する。それは物理的な変化ではなく、感覚で感じ取るものだ。そして、異変の原因は、紛れもなく――
「……フウ、ガ……?」
 刃を振るい掛けた体勢で、ウズメは有り得ぬものを見るように、逆の腕で支えた少年を見下ろす。
 そう、あの声は確かに彼のものだった。
 なのに、まるで別の誰かのもののようだった。
 フウガは――そこだけは優しく――ウズメを押し退けた。
 そのまま、どこか頼りない足取りで夢魔の方へと歩き出す。
 両手に剣はない。
 幻術に堕ち掛けた時点で、床に落としてしまっている。そして、彼自身も拾う気などないようだった。
「……穢したナ……」
 少年は、再度呟く。
「……あの人達を……親父を……母さんを……セツナを……!」
 暗く、赫怒と憎悪と怨嗟と自虐に満ちた声で叫ぶ。
「穢シたな――――っ!!!!」
 全身から吹き出す。 
 それは負の風。
 普段の彼には、あまりに似つかわしくない黒の感情。
「――――!!!」
 歩み寄る少年に何を見たか。
 夢魔は無様なほどの焦慮と恐怖を見せて、逃走に移る。
 ――だが、それは、あまりに遅い。
「魔風――」
 少年によって、〈具言〉が口にされる。
 世界への願いは。
 まるで世界すら呪っているかのように聞こえた。
「――喰らい尽くせ!」
 まさしく魔性の風が咆哮し、廊下を駆け抜けた。
 硝子という硝子が粉々に砕け散った。
 天井が床が壁が破壊され尽くした。
 開いた魔風の顎は、逃げる夢魔を無慈悲に残酷に飲み込み、

「ひっ……アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア――――」

 その一切の存在を許さずに完全に消し飛ばしていた。
 後に残ったのは。
 不気味なまでの静寂。
 無残な姿を晒す偽りの学園の廊下。
 破壊をもたらした少年。
 そして。
 別人のようになってしまった彼を、ただただ愕然と見つめるウズメ達だけだった。


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