オロチ様はイタズラがお好き!?
四章 その悪夢、甘美に傷を抉り
―― 四 ――
「ぐっ……!」
折れそうになる膝を必死に立てて、フウガは迫る夢魔を睨めつける。
だが、揺れる視界に、明確にならない意識。
力の入らない身体は、拳すらまともに固められない。
こんな状態では、無駄を覚悟した抵抗すらも不可能。
夢魔が近づく。
あと、数歩。
まさに万事休す――自ら相手の手の内に来てしまっている以上は、すでにこの戦いは詰められている。
それこそ敵の予想外の介入でもない限りは――
「――断て! ヴィシュヌッ!」
そして、それは来た。
絶望の感情を裂いたのは、聞き覚えのある鋭い声。
次いで、背後で何かの切断音が聞こえて、
「え…………おおおおおお!?」
不意に、フウガは背を預けていた扉の支えを失い、思いっきり後方へと倒れ込んでいた。
「――――っ!!!!」
受身も取れず後頭部を強打。
絵に描いたような星が目の前で瞬いた。
そこに、どかどかと誰かが近づいてくる足音。
一人ではない。おそらくは二人は居る。
「フウちゃん、貞操は無事かー!」
「どうやら間に合ったね」
耳朶を叩くのは、戯けた台詞と冷静な呟き。
すぐに誰のものかわかった。
フウガの親友の二人、ライとゴウタである。
「……お、フウちゃん。なんや、泣くほど嬉しかったんか。いやー、そんなリアクションしてくれると助けに来たかいがあるなー、ほんまに」
「アホかっ! 痛みで悶絶してるんだよ、これは!」
後頭部を抑えて蹲っていたフウガは咄嗟に立ち上がると怒鳴る。
当然ながら、ゴウタは確信犯だったようで、けらけらと笑うだけだ。
「こんにゃろう……」
だが、頭を打った痛みのおかげか、それともあの教室から廊下に脱出出来たからか。いつの間にか視界は明瞭、あの酩酊感もほとんど抜け、万全ではなかったが四肢にも力が戻っていた。
くっくっとオロチの念話の笑い声が頭に響く。
『なかなか悪運は強いようだな、フウガ。せっかく恩を売るチャンスかと思ったのだが……』
「悪いが、お前なんかに助けてもらう気なんてさらさらない。引っ込んでろよ」
フウガがそんな風に冷たく突き放していると、
「フウガ、走れる?」
空中を旋回し、戻って来た物を指で受け止めながらライが訊いて来た。
指を中央に通されて回転するそれは、平べったい金属製の輪だった。円の外側の端は、刃のように丁寧に研がれている。
ライの〈真名武具〉であるヴィシュヌだ。
戦輪と呼ばれる、斬る事を目的した非常に珍しい投擲用の武器である。彼はこれを計六輪ほど所持しており、戦闘時は腕に通して持ち歩いていた。おそらくは、先ほど扉を斬ったのもこれだろう。
「俺は大丈夫だ。それよりお前達どうして……」
そこまで問うた所で、近づいて来たライにがっちりと腕を絡められる。
「……ライ?」
「話は後。――ゴウタ!」
「まっかせとけ!」
ゴウタは声も大きく応え、突然の介入者にも何の動揺も見せないまま佇んでいる夢魔へと向き直った。
そして、一歩前に出ると自身の拳と拳を打ちつける。
響いたのは肉と肉のぶつかる音ではなく、甲高い金属音。
ゴウタの手から肘辺りまでを、無骨な装備が覆っていたのだ。
その装備――篭手は、彼の〈真名武具〉であるミョウオウだ。見ての通り基本的な扱い方は接近して殴るのみである。
「剛拳――」
ゴウタは硬質の篭手を身に着けた右腕を振り上げ、
「――打ち砕け!」
紡ぐ〈具言〉と共に、渾身を込めた拳を床に叩き込んだ。
轟く破壊音。
爆砕された床の破片が、がらがらと階下に落ちていく。
さらに巻き上がる粉塵で、フウガ達は夢魔の視界から遮られる。
後方に跳躍し床の瓦解から逃れたゴウタは、すかさずライとは反対側に立ち、彼と同じくフウガの腕にしっかりと自分の腕を絡めた。
「お、おい! お前ら!」
「んじゃ、まあ……」
「戦略的撤退――――っ!」
困惑するフウガを無視して、二人はいきなりフウガを強引に引き摺って逃走に移る。
「のわああああああ!?」
フウガが冷静になる暇もなく。
三人の姿は、あっという間に廊下の奥へと消えていった。
――次第に粉塵の帳が収まっていく。
教室と廊下の境目辺り。
瓦礫の積もる階下を見せる大穴が開いた中。
残された夢魔は慌てる事も、動揺する事もなく自身に掛かった埃を手でのんびりと払う。
口元では、先ほどと変わらず淫靡な舌なめずり。
怪しく光る彼女の紫紺の瞳には。
ただただ新たに獲物が増えた喜びしか映っていなかった。
* * *
「――うん、ここまで来れば大丈夫かな」
走る事数分。
先ほどの空き教室が視界から完全に消えてから、ライは足を止めた。
合わせてゴウタも走るのを止め、ようやくフウガは解放される。
「……はっ……はあ……それじゃ話を聞かせて……くれるんだろうな……」
息を切らしながら、フウガは問う。
普段ならこの程度走ったぐらいで息など切らさないはずだ。
どうやら未だ体調は万全ではないらしかった。
ゴウタはぽりぽりと頬を掻いた。
「事情と言っても、そんなたいしたもんはあらへんけどな」
「……まあ、一応説明するとね」
銀髪の美貌の少年は、ここまでの経緯を簡単に説明する。
「今日、寮に帰ってフウガと別れた後、部屋に戻る途中にゴウタと話してたんだ。今日一日どうもフウガの様子が変だったってね。それでどうも気になったんで、念のためフウガの部屋に様子を見に行ったら……」
「……幻術で操られた俺がふらふらと出て来たと」
すぐに察したフウガの言葉に、ライは頷く。
「そう。どう見ても普通な様子じゃなかったし、とりあえず気づかれないように後をつけてたら、いきなり〈異界〉に引き摺り込まれたんだ」
「たぶん夢魔の方も俺らがつけてるのには気づいてへんかったんやろうな。だから一緒に〈異界〉に巻き込むなんてヘマしたんやろ」
「と言っても、たぶんあっちは獲物が増えたぐらいにしか思ってないだろうけどね」
当たり前のように言って、ライは肩を竦めた。
これにゴウタが渋い顔をする。
「ほんまの事やと思うけど、そんな凹む事さらりと言わんといて欲しい……」
「現実は見据えないと。しかし、まさか出くわすのが夢魔とは思わなかったよ。とりあえず真正面からやり合える相手じゃないし咄嗟に逃げて来たものの……」
「状況が悪いのは変わらない、か」
フウガが言葉を継いだ。
なにせ、この場に居るのは女の夢魔の獲物以外の何者でもない男ばかりだ。
ライ達が不意を突いて何とか自分を救い出してくれたものの、劣勢なのは何も変わっていない。
――特定の条件が揃った者以外には極端に弱い代わりに、得意な相手には理不尽な程の強さを発揮する。
夢魔はそういう類の敵だ。
故に本来なら相手の有利な条件では、決して戦うべきではない。
だが、ここは〈異界〉。
まず内部から脱出は不可能な檻の中。
夢魔は中級妖魔なので、上級のそれに比べれば脱出の難易度は低いだろうが、どちらにしろフウガ達には無理な話だ。
ならば、何とかして幻術を躱し切り、夢魔を倒す以外に道はないだろう。
「……悪いな。お前達も巻き込んだ」
じわりと罪悪感が胸に広がる。
シラユリが自分を狙う限り、いずれは避けられない事だったかもしれない。
でも、出来ればこれ以上、周囲の人間を巻き込みたくはなかったのだ。
と。
「いってっ!」
いきなり横からゴウタにどつかれて、フウガは思わず声を上げる。
「なっ、何すん……だ……?」
咄嗟に文句を言おうとして、それは尻すぼみになる。
何故か、ライとゴウタは呆れと怒りがない交ぜになったような目で、こちらを見ていたのだ。
「水臭いにも程があるで、フウちゃん。俺らは親友やろ」
「そうだよ。フウガに危険があるなら、僕達は命を張って助ける。フウガだって逆の立場なら絶対にそうするだろう?」
矢継ぎ早にそう言われ、フウガは目を白黒させる。
「……いや、まあ、そうだけど……」
「だったら、謝るなんて意味のない事は必要ないよ。今は、ここを力を合わせて切り抜ける事だけを考えよう。……まあ、我ながらクサイ台詞だけどね」
「…………」
フウガはしばし言葉を失い。
次に、困ったような苦笑を浮かべていた。
「だったら……助けてくれた礼もいらないわけだな、二人共」
ゴウタはにやりと笑うと、今度は優しく肩を叩いて来る。
「そういうこっちゃ。当たり前の事して礼を言われるなんて、くすぐったくってしゃあないやん」
「……ああ、そうだな」
フウガは微笑と共に頷く。
――本当に。
良い友人を持ったと。
照れ臭くて絶対に口に出来ないけど、そう思う。
そして、だから。
自分が“偽り”であると言う事実は、酷く胸を苛んだ。
だが、今は罪悪感に囚われている状況ではない。
頭を振って、すぐに気持ちを切り替える。
ふと、ゴウタが困り果てた顔で腕を組んだ。
「しかし、まいったなぁ。俺ら、中級の妖魔と戦り合った事なんてないやけどな。学園の実戦訓練で戦こうた妖魔も所詮、下級レベルやし……」
「僕も似たようなものだね。フウガは……訊くまでもないか」
ライが視線を向けて来るのに、フウガは首肯する。
「ああ、俺はある。中級ぐらいならいくらでも」
それを口にしたとき、ふと少年の瞳に苦い過去を思い返すような光が過ぎって――すぐに消えた。
「……ともかく武器を召喚しておくか」
イザナギ、イザナミは寮の部屋に置きっぱなしだ。
フウガは親指の先を噛み切ると、溢れ出した血で床に文字を描く。
〈言紋〉に訳されたフウガ自身の名だ。
〈真名武具〉は、持ち主の名が刻まれた時点で、その名の人間と目に見えぬ繋がりが構築される。故に、それがある限りは、どこであろうと〈言力〉を用いて〈真名武具〉を召喚出来るのだ。
そう、例えその場所が〈異界〉であろうとも。
描いた血文字の上に掌を置き、フウガは〈具言〉を唱える。
「――遥か越え来たれ、我が下に」
呼応するように血文字が眩い光を放ち。
その光に彩られながら、中空に二本の小剣が空間を越えて呼び出された。
剣を握る。
まるで己の身体の一部かのような慣れ親しんだ感触。
相棒とも分身とも言えるこの二振りが手元にあるだけで、フウガは安堵と頼もしさを共に感じる。
そうして自身の愛剣を手にすると、フウガは親友の二人に向き直った。
「さて、夢魔が追いついて来る前に何か作戦を考えないと……」
「ああ。正面から戦れる相手やないしな」
「……まあ、作戦があるとすれば一つだろうね」
ライが確信を込めて声音で言った。
「先手必勝。僕達が生き残るには、それ以外にはない」
◇ ◇ ◇
〈異界〉と化した学園の廊下を、夢魔は独り歩いていた。
しとりしとりと。
ゆっくりゆっくりと。
逃げた獲物を急いで追う事なく、落ち着き払った歩みだ。
この学園のどこかに居るだろうフウガ達は、〈異界〉を脱出する術を持たない。
ならば、後は少しずつ追い詰めれば良いだけ。
虫の羽を一枚一枚もぎ取る様に。
希望を抉り取り、絶望を心の奥深くへと埋め込んでいく。
もう自分は、ただ捕食されるだけの存在なのだと思い知らせる。
それが終われば、後はゆっくりと思うがままに喰らえば良い。
なんて簡単。
思わず嘲笑が口元に浮かぶほどに。
だから、何も慌てる必要などなかった。
「…………?」
ふと、夢魔が足を止める。
そして、訝しがるように足元へと視線を向けた。
次の瞬間。
「剛拳、打ち砕け!」
「…………っ」
そんな声と共に、足元の床が真下から爆砕した。
◇ ◇ ◇
夢魔は、そのまま崩れる瓦礫と共に三階から二階の廊下へと落下する。
先ほどと同じように、巻き上がる粉塵の中。
「雷輪よ――」
出迎えるは、また別の人間の流れるような〈具言〉だった。
「六鎖となり彼の者を縛せ!」
夢魔の周囲を六つの戦輪が取り巻く。
それらは高速で旋回すると激しい雷を纏った。
雷はさらに鎖と化し、夢魔の四肢を縛り上げると、完全に動きを封じる。それだけでなく雷鎖より襲う強烈な雷が、夢魔自身へと多大な損傷を与えていた。
「!」
苦悶の呻きを洩らす、雷鎖の縛られた夢魔の目が見開かれる。
眼前に、いつの間にか両手に剣を手にした緑髪の少年の――フウガの姿があったのだ。
「――終わりだ、夢魔!」
三人の少年の連携。
最初の一人が自分達の前に敵を導き、
次の一人が動きを封じ、
最後の一人が止めを刺す。
一人が一つの役割をこなす事で、ほぼ隙なく相手を仕留めるまで戦いを一気に運ぶ作戦。
今、それが見事に功を奏した――
渾身を込めて、フウガは叫ぶ。
「烈風、研ぎ澄ませ――!」
刃が風を纏い、切れ味を増す。
放たれた二筋の斬撃は、問答無用で夢魔を断ち斬った。
――はずだった。
「よっしゃ!」
「やったか……?」
背後でライとゴウタの歓喜を含んだ声が聞こえ、
『……いや、まだだ』
オロチの険しい声音がそれを否定した。
「「なっ!?」」
「ライ、ゴウタ!?」
不意に上がった驚愕の声に、フウガは慌てて振り向く。
目に飛び込んで来たのは、茨の群れに縛り上げられた親友達の姿だった。
「そんな馬鹿なっ!」
敵は、今まさに倒したはずだ。
手応えも完璧だった。
咄嗟に倒れた夢魔の方へと視線を戻す。
「…………っ!」
居ない。
そこには、誰も居なかった。
有り得ない現実に気づいた瞬間、フウガもまた茨に捕らわれていた。
「ぐっ……! 何で?!」
間違いなく幻術。
だが、何故だ。
一度は術中に落ち掛けた自分はともかく、ライとゴウタは一体、いつ幻術に掛けられた――?
「っ、まさか……」
あのとき。
自分を助けに来たとき、ほんの十数秒の対峙の間に――!?
「そんな……理不尽な事があるのかよ……!」
かつての教官が言った台詞。
――決して異性の夢魔とはまともに戦うな。
あれほどしつこく繰り返した理由が、今になって嫌になるほど思い知らされる。
こんなものは反則だ。
一つに特化しているから。
限定された対象のみだから。
型にはまれば有り得ないほどの強さを発揮する。
わかっていたはずなのに、それでも甘かった。
所詮は中級だと高を括っていた。
不意に。
背筋が凍りつきそうな不気味で冷たい感触が頬に触れた。
どこから現れたのか、本物の夢魔が背後からフウガを抱き竦めていたのだ。
「フウちゃん!」
「フウガ!」
ライとゴウタが叫んだ。
「……こ、のっ……!」
フウガは必死に抵抗しようとするが、茨はびくともしない。
これは力で肉体を縛するものではなく、精神を侵す物だ。
故に打ち破るのは容易い事ではない。
他の二人もどうにか逃れようと必死に足掻いているが、ただ夢魔に嘲笑われるだけに終わる。
『このままではまずいぞ、フウガ』
「そんなのわかってるっ!」
オロチの言葉に激昂するフウガの頭を、夢魔が無理矢理に横に向け、目を合わせて来た。
碧の瞳と紫紺の瞳が交差する。
「……あ……」
途端に全身が脱力し、どこか間抜けな声が洩れた。
再び、脳が心が魂が深奥まで侵されていく。
自分と言う存在が曖昧にとろけていく。
「……う、あ……ああ、あ……あ……」
何一つ抗えない。
精神の壁は、まるで濡れた紙の様に哀れなほど容易く壊される。
意識が遠いどこか、へと、行って……しま……―――― |