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オロチ様はイタズラがお好き!?

四章 その悪夢、甘美に傷を抉


―― 三 ――

 まるで異質なる者達だけに許された居場所とでもいうように。
 そこは、世界という名の檻から隔てられた場所だった。

「……えぐいねぇ」
 椅子に背を預けながら、男はわざとらしく身震いして見せた。
 年は、三十代の前半辺りか。
 彫りの深い顔に、細身ではあるが、しなやかな力強さを感じさせる身体つきをしている。
 黒髪に褐色の肌、さらに纏う服まで黒一色でありながら、その瞳だけが血を塗り固めたような紅色だった。
「初っ端にちょっかい掛けさせるのが、“あれ”なのはちょっとキツイんでないかい、姐さんよ」
 軽い口調で、豪奢の卓を挟んで対面に座る人物に声を投げる。
 それは、黒衣の男とは対照的に白のみで構成された少女。
 ――シラユリだ。
 まるで城の一室を切り出したような明るい、豪華な家具の並ぶ部屋。
 しかし、窓から見える景色は桃色の靄で閉ざされ、扉の向こうへ出れば、闇の支配する無骨な洞窟しかない。
 シラユリの創り出した〈異界〉である。
 いかに〈妖術〉で生み出す偽りの空間と言えど、ここまで思い通りに〈異界〉を構築するのは至難の業である。それはシラユリという少女の力の程を明確に表していた。
 彼女はハーブ独特の匂いを香り立たせる紅茶の入ったカップを手に取り、唇を湿らせる。
「そうでもないわよ? ここ数年で彼も随分と腑抜けてしまったようだし、まず最初に昔をしっかりと思い出してもらわなきゃ」
 そう言って、軽やかな音と共にカップを受け皿の上に置く。
 一連の動作は、幼い容姿にそぐわぬ優雅さを伴っていた。
 男は、やれやれと苦笑する。
「まあ、姐さんがそれで良いなら俺は構わんが、あの坊主……壊れちまっても責任は取れんよ」
「そのときは、彼がその程度の存在だったという事。ならば、残念だけれど仕方のない事よ」
 平然と言う白の少女に、少し呆れたように男は鼻を鳴らした。
「……んな事言いながら、姐さんは坊主が生き残る事を疑ってさえいないだろうに。嫌だねぇ。この先、坊主の所に送り込まれる役目になるのは。だって、ほぼ死ぬ事前提の命令だろう?」
「あら? 別に彼を殺してはいけないなんて私は言ってはいないもの。ちゃんと活路を残しているだけ優しいとは思うけれど? ただの傀儡の妖魔に対してにしては破格の待遇でしょう。それに――」
 少女の純白の瞳が怪しい光と共に細まる。
「貴方に関して言えば、私と同じく一度は夜見へと至った身。戻った仮初めの時間は、刹那と同義のようなもの。なればこそ、今更、死を恐れる意味もないでしょう。どうせ今の生などあってないようなものよ」
「……まあ、確かにな」
 男は肩を竦めて、それを認める。
 自身の特殊な境遇など微塵も悲観していない様子だった。
 それ所か、黒衣の男はどこか愉しそうに笑むと、
「ま、どのみち俺の出番は、もうちょい先かな。……せめて無意味な二度目の生にならぬよう、あの坊主に奮起してもらうするさね」
 まだ見ぬ未来に期待を込めるように、そんな風に囁いていた。

 ◇ ◇ ◇

 ――夢を見ている。

 朝、自分の部屋で目覚める。
 顔を洗い、身支度を整え、寮を出た。
 教室ではいつものように、担任のソウゴが来るまで、ライやゴウタと他愛無い世間話をする。今日は、〈三の水〉の教室から、レナやミヨも顔を出していた。
 授業をサボる頻度は、以前より格段に減った。
 未だに自分がオロチに取り憑かれた際の事を気に病んでいる節のあるレナとミヨの事があるからだ。自身で、あれは授業を朝からサボった自分も悪かったのだと言った手前、けじめは見せないと彼女達に筋を通せないだろう。
 ただ、学園の授業は、講義にしろ、実技にしろ、全てが候補生を鍛え、騎士へと昇華させるためのものだ。故に、呪いを解く――すなわちウズメに勝つために強くなる、という目的のためにも決して無駄でもない。

 ――夢を見ていル。

 午前の授業が終わった。
 あの日以来、昼休みには、第一校舎の屋上で、皆が集まって食事する事が自然と決まっていた。
 弁当は、レナ、ミヨ、ウズメがいつも作ってくれている。
 ウズメにとっては、もともと普段通りの作業だし、レナとミヨにしても、「ツクヨミ先輩に勝てる弁当を作り上げる!」と燃えているようで、むしろ自ら進んでやっているようだった。
 口にはしないが、ウズメは、この時間をとても楽しんでいるのがわかる。
 それが、なんとなく嬉しかった。

 ――夢ヲ見ている。

 その日の授業が全て終わり、放課後になる。
 前から随分と日が空いてしまったので、今日こそソウゴとの訓練をしようと思ったが、生憎と彼の方に暇がなく、仕方なく筋力鍛錬やライ達との簡単な手合わせなどに終始した。
 明日は、ソウゴも時間が取れるようなので、少しでも遅れを取り戻さなければならない。
 ただヒナコには、焦るな、と何度も釘を刺された。

 ――夢を見てイる。

 陽が落ちた。
 寮の前で皆と別れ、自分の部屋へと戻る。
 何故か酷く眠く、瞼が鉛のように重い。
 大浴場に行こうと思いつつ、気づけばベッドの上で

 ――夢ヲ見テいル。

 気づけば、学園の廊下を歩いていた。
 夜の校舎は、まるで異世界のような不気味な空気が流れている。
 静寂の中で、かつんかつんと甲高い足音が反響。
 自分のものだ。
 だけど、まるで宙を歩いているかのように実感がない。
 自分という存在にも実感がない。
 そういえば何故ここに居るのかそれ以前にこれは夢なのになんでこんなに現実感に溢れていやこれは夢だったのかああどうでも良いか良くはないけどどうでも良いその方が楽だと結論して間違いだと己に警告して忘れた。

 ――ユメをミている?

 教室に入った。
 学園に幾つかある空き教室の一つだった。
 窓から見える景色の高さから、第三校舎の三階だろうか。
 ふと視界の端に、さらりと黒いものが流れるのが映った。
 俯き気味だった顔を上げる。
 射し込む月光を背に、床に届かんばかりの長髪の少女が立っていた。
 遠くない未来に少女から、成熟した女と呼ばれるだろう彼女は、ツクヨミ・ウズメだった。
(先、輩……?)
 口に出したはずなのに、声になっていなかった。
「――――」
 逆に、ウズメの方が紅い唇で何かの言葉を紡いだ。
 おいで、と。
 そう言った気がした。
 何も聞こえなかったけど、そう言った。言ってないけど言った。
 自分の身勝手さに呆れながら、ふらりと前に進んだ。
 ウズメが両手を広げて自分を迎え入れる。今日の彼女は、なんだか普段とは別人のように妖艶に見える。
 その細身で柔らかな体躯に身を預ける。向こうも腕を回して抱きしめてくれる。
 温かくて、とても心地良かった。酷く安心した。
 もしかしたら、自分は心のどこかで、ずっとこれを望んでいた気もした。
 少女の細い指が、優しく自分の頬を撫でる。
 その冷たく滑らかな感触に理性が溶けそうになる。いや、溶けている。
「――――」
 ウズメが、艶かしく微笑む。
 ――次の瞬間。
 唇が、唇を塞いでいた。
 特に、驚きはない。
 数日前に、自分達は同じ事をしたばかりなのだから、驚く必要はない。
 本当はあるはずだけど、ないんだと納得した。
 口内に彼女の舌が侵入して来て、淫靡に蠢き、自分はされるがままになる。
 何故か、それに応える気力が湧かない。
 理性の溶解が一層に進み、思考が混濁して白濁になった。
 自分が誰だかわからなくなり、そういえばとっくの昔にわからなくなっていた事に今更気づいて、内心で自嘲した。
 深い深い口付けはなお続き、自身の存在の輪郭が曖昧になり、自我は遠いどこかへ「行って来ます」と笑顔で旅立とうとしている。だったらこちらも、「行ってらっしゃい」と笑顔で見送ろう。こんなに気持ち良いんだから、この快楽に身を任せて、そのままで良いじゃないか。

 ――お前の存在は

 そもそも自分はウ  を――……?
 少女の名前を忘れたのでとりあえず少女と定義し、自分は少女にすでに惹かれ始めていたはずで、
 
 ――それをユルスのか?

 好きな女の子と繋がり合いたいと一つになりたいと思うのは男ならいや人間として当たり前の事ではないのかそもそも自分は人間?
 まあ良い。ともかくこのまま

 ――ゆるすのカ? カ、カカカ? 許すのか?

 許す? 許して良い訳がない。だって、こんな少女は少女ではなく、もともとの少女がどんなだったのかすでに忘れているけど記憶としてではなく感覚を手がかりとしてそれは否定されこんな偽りに身を委ねる事は間違いであり自身という存在が守るべきは真実の少女やそこから連なる大切な人々でそしてそのためにも他の理由のためにも自分はここで死んではいけない。それは許されない。
 許すな。
 許すな。許すな。
 許すな。許すな。許すな。許すな。
 許すな許すな許すな許すな許すな許すな許すな許すな!

 ――そウだ。許スな。
 お前の存在そのものが……ソレを否定しロッ!

 ――――――――。
 刹那。
 少年を構成する要素のことごとくが一気に覚醒した。

 * * *

「――――!!!!」
 気づけば、反射的にウズメの姿をした何かを両腕で突き飛ばしていた。
 反動でふらふらと背後へとたたらを踏み、ぶつかった扉に背を預ける。
 急速に自我と意識と記憶とが復帰した。
『ふむ……自力で戻ったか』
 感心したようなオロチの声が、酷く遠い場所から響いて来たように聞こえた。
 咄嗟に状況の全ては把握出来ないが、ともかく自分がスサノ・フウガで、この場所が夜の学園の中であるという根本的な足元の現実を思い出す。
 これが根底に戻っていないと、どうしようもない。
「っ――! こいつは……!」
 次に、目の前に居る女。
 もうすでにその姿はウズメとは程遠い、妖艶かつ淫猥なものに変化――否、戻ったのだ。長い紫紺の髪と瞳に、女という特徴を激しく主張する肉体は、申し訳程度に布で隠している。背には、異形の羽が垣間見えた。
 その正体はすぐに、これまで積み上げてきた知識から検索された。
 まず妖魔である事は当然。
 その種族の名称は――夢魔。
 人心と人身を惑わす妖術を得意とする中級妖魔。
「……いつから……いつからだ……」
 理解は、急速に脳に浸透した。
 おそらくは自分は、この妖魔の幻術に囚われていた。そのまま夢現の状態でこの教室まで誘導され、一気に魂まで掌握されそうになった所で、奇跡的に己を取り戻したのだ。
 だが。
 だとして、いつから自分は幻術を掛けられた。
 過去の記憶を辿る。
 どんな些細な事でも良い。何かしら、今思えば違和感を感じる何かが原因で始まりのはず。
 そこで、教室に漂っていた覚えのある――だけど、少し記憶のものとは差異のある香りに気づいた。
(白梅香の、香り――?)
 昨日の屋上。
 ウズメから漂った香と同じ匂い。
 そうだ。
 今思えば、屋上で匂ったそれは、以前に〈錬技場〉で匂ったものとは微かに……
「…………そうか、先輩のものに紛れて――!」
 ウズメの事を意識するあまり、香りの僅かな違和感など流してしまっていた。
 すでにあのとき、幻術の種が自身の内に植え付けられていたのだ。種は丸一日を掛けて、じわじわとフウガの内へと侵食し、本人も周りも気づかぬ内に自我や意思を徐々に奪っていっていたのだろう。
「…………くっ」
 不意に先ほどの口付けを思い出して、フウガは忌々しげに口を手の甲で拭う。
 こうやって夢魔自身が堂々と姿を見せた以上、ここまで自分が来た事は、半ば操られていた他ならぬ自分自身が誰にも気づかれないようにしてしまったはずだ。
 さらには。
 さっきまで当たり前の景色を見せていた窓の向こうは桃色の靄で覆われ、すでに〈異界〉が展開されてしまった事を教えている。
 つまりは、前のナキ達の襲撃の際と同じく、まず助けは期待出来ないという事。
「……はっ……はあっ……」
 呼吸が荒れる。酷く淀んだ空気が喉にまとわりついて息が苦しい。
 四肢にはまるで力が入らず、視界がぐにゃぐにゃと歪んだ。
 頭は、脳に直接、大量の酒をぶち込まれたような強烈な酩酊感でぐらぐらとしている。
 未だ夢魔の幻術は解け切っていないのだ。
(……とにかく……今は、逃げない、と……)
 こんな状態では、〈言力〉も使えず、まず戦いにならない。
 ――いや、それ以前に。
 相手は女の夢魔なのだ。
 男である自分には、天敵と呼んでも過言ではない相手。
 夢魔は、単純な戦闘能力が極端に低い代わりに、異常なまでに幻術に長けており、歴戦の強者でさえも容易く手の内に落ちる事があるような危険な妖魔だ。そして、その幻術は異性に対して特に多大な効果を発揮する。故に、対峙する夢魔が異性の場合は、まず真っ向から相手にしてはならないと、妖魔学の授業でも教官に口を酸っぱくして言われていた。
 咄嗟に背後の扉の取っ手に指を掛ける。
 完全に固定されたかのように、全く動かない。
「……くそっ……!」
 前を向く。
 夢魔は、滑るような足取りでこちらに歩を進めて来た。
 フウガが逃げる事も、抵抗する事も出来ないとわかっているからだろう、その足取りはこちらを馬鹿にしているかのように、ゆっくりで余裕に溢れている。
 夢魔の舌が、ぬらりと自身の唇を舐めた。
 それは、まるで。
 雌蜘蛛が、網に掛かった獲物を前にした舌なめずりのようであった。


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