三章の六に続く 一覧に戻る 三章の四に戻る


オロチ様はイタズラがお好き!?

三章 純白の憎悪とひび割れる平穏


―― 五 ――

 外に出たときには、すでに陽は完全に沈み、夜の帳が落ちていた。
 漆黒の天には無数の星が瞬き、煌々と輝く月が寮に向けて整えられた道を歩く少年を頭上から静かに照らしている。
「……いっつぅ……スクナ先生、本気なんだもんな。一体、何が気に食わなかったって言うんだ……?」
 首を傾げながら、フウガは呟く。
 あれから一時間も掛からず、治療は終わった。
 各所の骨のヒビを含めた、大まかな怪我は全て治癒されていた。ああ見えてヒナコは、世界でも数少ない〈治癒言力師〉であるだけでなく、その中でも紛れもなく天才に位置する人物である。
 故に、処置になんら問題はない。完璧だ。
 だが、その過程にあったヒナコの容赦ないお仕置きにより、フウガは未だ残る身体の節々の痛みに顔をしかめていた。
『いやいや、なかなか愉快な女ではないか。周囲の仲間達といい、お前は良き縁に恵まれているようだな、フウガ』
「……うっさい。お前の意見なんて聞いてないんだよ。口を閉じてろ」
 最近は比較的大人しいオロチの戯言に対し、フウガは冷たく返す。仮にも人に呪いなんてものを掛けたくせに、この妖魔はやたらと馴れ馴れしいのだ。
「…………」
 オロチを黙らせた後、なんとなく脇腹を押さえてみる。
 もう痛みはない。
 間違いなく肋骨のヒビは完治している。
 ただヒナコによると、怪我の治癒――特に骨に関しては自然に時間を掛けて治す方が良いらしい。理由は簡単、そうした方が骨は以前より丈夫な形で治るからだ。
 治癒の〈言力〉とは、それ自体に傷を癒す力があるわけではない。対象の人間の治癒力を強制的に促進させ、通常よりも早く傷を治すだけだ。そのため、人間の自己治癒力で治せない傷は癒せず、治療を施される人間自身に傷を治すだけの体力が残されていなければ、〈言力〉は効果を発揮出来ない――それどころか瀕死の患者であれば、むしろ追い討ちをかける事にもなりかねないのだ。
 時間を掛ければいずれは治る怪我を、身体の摂理を捻じ曲げて急速に癒す――それが治癒の〈言力〉だ。
 だから、自然に治す場合よりも精度が落ちてしまうのは当然で、例を挙げれば、切り傷ならば痕が残ってしまったり、骨折や骨のヒビならば以前よりも強度が落ちてしまったりする。
 要するに治癒の〈言力〉は即効性に優れる代わりに、完璧な結果は残す事は出来ないという事だ。それでも、より自然治癒の結果に近づける事が出来るならば、すなわちその人物は〈治癒言力師〉として優秀であるという証拠だ。
 そういう意味では、ヒナコは間違いなく一流であろう。少なくともフウガは、彼女の治癒を受けて不満を口にした人間を見た事などないのだから。
「……ま、それはそれとして」
 いいかげん寮に戻って、大浴場で汚れを落として休まなければ。
 特訓と治療で体力は極端に落ちているし、ソウゴとの訓練が三日に一回なってしまった以上、間の二日間で他に何か出来る事を考える必要がある。
 そのためにも、消費した体力は少しでも回復しないといけない。
 自然と進める足は速くなり、寮まであと少しという所で――

 その異変は起きた。

「――――っ」
 驚愕に、足を止める。
 一緒に息まで止まっていた。
 最初に起きた変化は、月光と夜闇の消失。
 空は淀んだ桃色の靄に覆われ、太陽や月という光源も見えないのに、周囲は昼間のように明るくなっていた。
 それ以外には、景色に特別な変化はない。
 遠い背後には先ほど出てきたばかりの学園の校舎は在るし、前方にも目的地である寮は当然のように建っている。
 だが――違う。
 決定的に異質だ。
 何故なら……人の気配がないのだ。
 ほとんどの候補生が戻っているはずの寮からは、人の気配は一切しない。事実、あの内部には誰も居ないだろう。どこも朽ちてなどいないのに、それはまるで廃墟のような趣があった。
 だから、これはフウガの帰ろうとした寮ではない。
 それを綺麗にそっくりと模倣した偽者。
 寮も背後の校舎も踏みしめる地面も全て偽り。
 つまりは。
「――〈異界〉、なのか……!?」
 フウガは驚きから抜け出せないままに、その正体を口にする。
 〈異界〉。
 それは、中級から上級に値する妖魔だけが駆使する〈妖術〉の名称である。
 簡単に説明すれば、自身の居る場所とは異なる、限定された空間を一時的に創り出し、そこに狙った敵を引き摺り込む術。
 自ら創り上げた世界なのだから、当然、創り出した本人にとっては力を発揮するには非常に有利な空間であり、逆に引き摺り込まれた者は相手の手の内に入ってしまったのと同義だ。
 この術を回避するのは難しく、それこそ上級妖魔と戦おうというのならば、まず〈異界〉に入る事は覚悟しないといけないと言われている。
 一旦、〈異界〉に入ってしまった者が脱出するには、外部からの助けを期待するか、特殊な〈言力〉で〈異界〉そのものに干渉するか――もしくは、それを創り上げた妖魔自体を倒す以外にはない。
 だが、外側からならまだしも、檻のようなものである〈異界〉に中から干渉し脱出するなどというものは超がつく高等技術だ。そんな事が可能な〈言力師〉などヤマトの中でも指で数えられる程しか存在しないだろう。
 故に、外からの助けが期待できなければ脱出は、〈異界〉を展開した妖魔本人を倒すが常套だ。
 おそらく今のフウガの状況は、それに当てはまる。
 夜の学園。
 まさか騎士を育成するという戦う者だらけの場所に妖魔が侵入し、〈異界〉などを広げたなど、誰だって夢にも思わないだろう。
 だから、少なくともすぐに助けはない。
 誰かが異常に気づくまでには、例え昼間であったとしても時間が掛かり過ぎる。
 しかし――
「何でだ? どうして妖魔が学園に侵入するなんて事をして、しかも、〈異界〉に俺を取り込む……?」
 そう、理由がわからないのだ。
 こんな事は無謀で、本当に意味などない。
 いくら〈異界〉といっても、所詮は一時的ものであるため外界からの隔たりはさほど大きくない。内部で派手に戦えば、外に何かしらの物音や影響が出る事も多い。
 故に、例えここでフウガを殺め喰らったとしても、さすがにそれまでには教官の誰かが異変に気づく可能性は高いだろうし、そうなれば妖魔は見つけ出され、囲まれ、排除される。
 つまり、リスクが大き過ぎるのだ。
 いや、もしもこれを行ったのが上級妖魔ともなれば、目的を達した後、退避するのも存外に容易いかもしれない。だが、だとしてもこんな手間が掛かる事までして、フウガを――学園の候補生などという逆に引っ掻かれかねない獲物を狙う必要はない。
 人気のない場所に戦う力のない人間を誘き寄せ、襲う。
 知能が高い中級から上級の妖魔は、普通はそういう手段しか取らず、獣並みの下級妖魔でさえ、本能で危険な場所は察知して近づく事はないのだ。
 だからこそ妖魔は人間の天敵と呼ばれる。
 そういう意味でも、やはり今の状況は不可解であった。
「……まあ、わからない事を考えても仕方ないか。ともかく〈異界〉に入ってしまった以上は原因の妖魔を探すしかない」
 混乱しそうな思考を必死に纏め、フウガはなんとか冷静な判断を導き出す。
『ふむ、妥当な対処だな』
 念話で響いたオロチの声に、フウガは眉をひそめる。
「おい、一応、訊いておくがお前の仕業じゃないだろうな」
『まさか。こんな無駄な事をして、それでなくても少ない妖力を消費しても仕方あるまいに』
 返って来たオロチの答えは、思いのほか真剣だった。
 ……どうやら嘘は言っていないらしい。
「――そうかよ。だったら、やはり探すし、か――」
 そこで。
 フウガはようやく、最後の異変に気づいていた。
「……サワメ、先輩と……ハニヤ先輩達……?」
 呆然と視線を送った先。
 寮へと続く道には。
 確かにサワメ・ナキとハニヤ姉妹本人達が佇んでいた。
 その手には己の〈真名武具〉を携え。
 紛れもない殺意と憎悪を瞳に宿して――。

 * * *

「先輩達、どうしてこんな所に……? まさか先輩達も一緒に〈異界〉に取り込まれたんですか?」
 問いながらも、フウガは歩み寄らない。
 彼女達の様子がおかしい事など、とうに気づいている。
 だから、近づかない。
 いや、近づくな、と本能に近い何かが全力で警告を発している。
『…………』
 三人は、誰一人口を開かなかった。
 ただただ、フウガを負の感情に塗れた視線で射抜く。
「…………っ」
 ――どうしたというのだろう。
 確かに彼女達は、フウガを忌々しく思っていただろうし、見下してもいた。
 だが、あそこまで暗いものを向けてきてはいなかったはずなのに。
 瞬間。
 フウガにはどちらがどちらなのか判断がついていないが――ナキの右側に立っている姉のスビコの右腕が動いた。
 翻る得物は、妹と全く同じ形状の漆黒の鞭。
「蛇鞭、彼方へ伸び、弾け」
 呟かれる〈具言〉。
 彼女とフウガの間合いは、およそ五メートル。
 どう考えても鞭など届く距離ではなかったが、発動した〈言力〉はそんな常識など当然の如く破壊する。
「っ!」
 フウガは、咄嗟に後方に跳び退さる。
 間合いを超越した鞭は、先ほどまで少年の立っていた地面を抉り、弾き飛ばした。
 舞い上がり、ぱらぱらと落ちる土の破片。
「…………」
 その音を聞きながら、フウガは険しい顔でいきなり襲ってきた双子の片割れを無言で見据える。
 もしも避けていなければ、死にはしなかったにしても、確実に両足の機能は奪われていた。
 そんな容赦のない一撃。
 間違いない。
 彼女達は――こちらを殺す気でいる。
 その事実に背筋が凍るような寒気を覚え、
『フウガ』
 そこにオロチの声が割って入った。
「っ、なんだ! 今はお前の戯言に付き合う余裕は――」
『話など無駄だ。あの娘達、〈妖術〉に掛けられているぞ』
「っ…………」
 オロチの言葉に、フウガは僅かに目を見開いた後、切れて血が滲み出すほどの強さで唇を噛む。
 ああ、そんな事は予想していた。
 この〈異界〉は妖魔の仕業。
 なら、そこに様子がおかしい人間が姿を見せれば、すでに妖魔の毒牙に掛かってしまった可能性を考慮しないわけがない。
 それでも。
 そんな許せない事は否定したかったから、彼女達に話し掛けたのだ。
 だが、そんな淡い希望など、泡の如くあっさりと消えた。
「……助ける方法は?」
 余計な事など口にせず、フウガは要件だけをオロチに問う。
 〈妖術〉による洗脳ならば、妖魔であるオロチの方が詳しいのは必然だ。
 フウガからすれば、妖魔に頼るなどという行為は死んでもごめんだったのだが、事は自分だけものでなく、少女達の命も掛かっている。
 ならば今は、そんな嫌悪感など後回しにするしかない。
『そうだな。あれはおそらくは娘達の内に存在する何かしらの負の感情を増幅する事で対象を支配しているのだろう。だが、幸いその侵食は浅いもののようだ。確証はないが、意識さえ失わせれば術が解ける可能性は高い』
「…………え?」
 正直、そんなに素直に答えるなどとは思ってはいなかったフウガは一瞬、呆気に取られる。オロチの答えは少年の予想に反して、真面目で納得のいくものだったのだ。
『どうした? 訊いてきたのはお前の方だろう?』
「…………いや、いい。気にするな」
『ふむ、そうか。……では続きだが、どうやら術を掛けた者は、本気で娘達を手駒にするつもりはなかったのだろうな。そうでなければ、あんな軽い洗脳で済ますはずがない。良い気分のする想像ではないが――やった妖魔からすれば遊びのようなものか』
「遊び……だと」
 湧き上がった激しい怒りに一瞬、目の前が真っ白になった。
 ぎりっと歯を噛みしめる。
 人を思うままに操り、誰かを殺させる。
 例え自分以外の誰かの意思だとしても、手を下すのは操られた彼女達本人であり、血に汚れるのも、罪を被る事になるのも彼女達。
 仕向けた本人は、それを遠くから眺め、嘲笑う。
 そんな。
 そんな非道な事を、この〈異界〉を創った妖魔は、遊ぶような感覚でしようとしているのか。
「ふざ、けるな……っ!」
 唸り、腰の後ろ鞘から愛剣である二対の得物を引き抜く。
 こちらの戦う意志を感じ取ったのか、対峙する少女達も動きを見せる。
 ナキの左右に控えていた双子がそれぞれ移動し、一定の距離を保ったままフウガの両脇に立つ。ナキは最初と同じ場所で――彼女の〈真名武具〉なのだろう――細い棒のような一振りの刺突剣を手にしたまま一歩として動かなかった。
 あれが、彼女達の得意とする陣形なのかもしれない。
 例え操られていたとしても、頭と身体が覚えた経験が彼女達を動かしている。
 フウガを殺すために。
「…………」
 静かに深呼吸をする。 
 怒りで熱を持った頭を少しでも冷却し、心を落ち着ける。
 今から為そうとする事は激情に囚われていては、決して達成できないからだ。
 フウガは、彼女達を倒す。
 それはもちろん殺すという意味ではない。
 気絶させ、〈妖術〉を解くだけだ。
 出来る限り、傷つけたくはなかった。
 ナキ達とは決して良好な関係などとは言えなかったが、フウガ自身は決して彼女達を嫌ってなどいない。
 フウガを邪魔者のように扱うのはウズメを心から慕っているからこそだし、見下した態度を取るのは名門貴族の人間であるという事に誇りを持っているからだろう。
 やり過ぎの感はあるが、言動自体は理解できないものではなく、彼女達の芯が純粋故の過剰なのだと思う。
 そして、何より。
 そんな風に感じる理由はわからなかったが、家族でもない他者に一途な想いを向けられるという彼女達が、何故か酷く羨ましかったのだ。そんなものは、人間なら当たり前だと理解していても。
 だから、フウガは彼女達が嫌いではない。
 胸に在るそんな事実を確かめ、フウガは戦いに備え、腰を落としていく。
 すでに〈異界〉として模倣された学園の敷地には、緊張と殺気の入り混じった空気が呼吸すら困難にするほどに満たされていた。
 頬に、冷たい汗が一筋流れる。
 フウガが目指すのは、ナキ達を可能な限り無傷で無力化する事。
 しかし、それは奇跡にすら肉薄する、酷く困難な行為でもある。
 単純に相手の命を絶つと事と、傷つけないように無力化する事では、その難易度の違いは比べるべくもないからだ。
 しかも、相手は三人。
 ライとゴウタに聞いた所によれば、ナキ達の階位はB。壱から参のどれかまではわからないが、つまりは学園内でも有数の手練れであるという事である。
 もう一度言うが、それが三人なのだ。
 ウズメの言葉を信じて、フウガの実力がAに至っているとしても、それは例え一対一でさえ決定的な実力差ではなく、状況の悪さは何も変わらない。
 さらに悪い条件は、もう一つ。
 今のフウガは著しく疲労している。
 特訓と治療による体力の消費。
 おそらく使える〈言力〉は基本の〈龍身〉ぐらいで、それも長時間は無理。身体もほとんどの怪我は治療されたとはいえ、万全とはほど遠い。
 数の不利を覚悟で、実力も有利というにはあまり心許ない差しかない相手を三人、傷つき疲労した身体で無傷で無力化する。
 そんなものは、ほとんど自殺行為だ。
 ――でも、やるしかない。
 やるしかないのだ。
 何故なら、スサノ・フウガはそれを為すと決意してしまったし、何より――

 自分ハそウいう存……ザ……ざざザい、イいイ……!!?

 ――何か。
 脳裏に、声が聞こえた。
「…………!」
 血が滲み出すほど剣を持つ手に力を込めて、雑念を振り払う。
 今は余計な事を考える余裕はない。
 目的を達成するために必要な事だけ思考し、他一切を遮断する。
 ナキ達の纏う殺気は濃密になり、もはや臨界を越えようとしている。
 明確な行動を起こすのは、すぐ。
 集中しろ。
 集中しろ。
 集中しろ。
 限界など二つ三つ越えなければ、ただ自分は無駄死にするだけだ。
 そうすればナキ達に、まだ背負う必要のない罪を背負わせる事になる。
 神聖騎士になれば、いずれ誰かの命を奪う事を覚悟しないといけないとしても、それは今ではないし、こんな形ではないはずだ。
 故に許さない。
 こんな事は許さない。
 左右にきっちり五メートルの距離を保ったままの双子が、同時に右と左――鞭を手にした自身の利き手を持ち上げ、
「「蛇鞭、彼方へ伸び、喰らいつけ」」
 戦闘開始の宣告となる、全く同一の〈具言〉を綺麗に重ねて紡いだ。


三章の六に続く 一覧に戻る 三章の四に戻る

inserted by FC2 system