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ヒトが最初に覚えること。


 じいちゃんが、死んだ。
 僕が高三に、妹が中二になって、すぐのことだ。
 今時、珍しいほど、頑固で厳格な人だった。
 僕も妹も、些細なことで殴られた。ひどいときには、蹴りだって飛んできた。
 でも、嫌いじゃなかった。
 むしろ大好きだった。
 それはきっと、どんな激しく怒った後でも必ず、

 ――世話を焼かせるな。

 最後にはそう言って、ごつごつした手で頭を撫でてくれたからだ。
 そのときのじいちゃんは、いつだって、とても優しい顔をしていた。僕達のことを心から愛してくれているのだと感じさせてくれた。
 だけど、じいちゃんは死んでしまった。
 病院の一室で、じいちゃんの最期を看取ったとき――。
 医者の先生も、看護師の人も、ただ黙ってベッドに横たわるじいちゃんを見つめていた。
 だから一緒に居る僕も、家族のみんなも――すでに悟っていた。
 もう、じいちゃんの死は避けることのできないものなのだと。
 僕は、自分の居る病室だけが他の空間から切り取られたかのような錯覚を覚えていた。
 それは。
 今、この場で。
 かけがえのない家族が一人、死を迎えようとしているという事実がそう感じさせていたのだと思う。
 このときの僕は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
 初めて体験する身内の死に、まだ感覚が麻痺していたのかもしれない。
 じいちゃんは、いつものこの人なら信じられないほど、か細く弱々しい声で僕と、隣の妹に向けて一言だけ問いかけてきた。
「わしは……お前達にとって胸の張れる、じいちゃんだったか……?」
 途端。
 いろんな感情が胸の内から溢れてきた。
 僕は、それを抑えるように下唇を噛むと、迷わず頷いた。
 妹も同じだった。
 そうしたら、じいちゃんはとても安堵したように笑ってから。
 ゆっくりと、ゆっくりと眼を閉じた。
 眼が開くことは――もう二度となかった。
 張り詰めていた見えない糸が……切れた。
 後ろに居た母さんは父さんに縋りついて泣き、ばあちゃんは優しい顔で死んだじいちゃんの手を擦りながら「お疲れ様」と呟いていた。その目元にも、涙が光っていた。
 僕も、自然と涙が頬を流れていた。
 哀しくて、胸が締めつけられて、声を上げて泣きたいのを両拳を強く握ってこらえた。
 そんな中。
 妹だけが、泣くこともなく、じいちゃんの死に顔をじっと見つめていた。
 じっと。じっと――。


 じいちゃんが亡くなってから、一ヶ月が過ぎた。
 葬儀も通夜も終わって、家族は皆、ようやくじいちゃんが居なくなった悲しみから立ち直りつつある。
 ただ、妹だけが未だに塞ぎこんでいて、父さんと母さんがひどく心配していた。
 それは僕も同じだったが、自分の心の整理をするのが精一杯で、なにを言ってやればいいのかわからなかった。
 気づけば僕は、じいちゃんの遺影の置かれた自分の家の仏壇を、週に一回は拝みに行くのが自然と習慣になっていた。
 そうすれば、じいちゃんも喜んでくれるだろう、と。
 たぶん、自分自身を慰める意味もあったのだと思う。
 ある日。
 僕は、仏壇を拝もうと和室に入った。
 襖を開けるときには、いつも一抹の寂しさを感じていた。
 なぜなら、仏壇を拝みに行くということは、じいちゃんの死の確認と同義だったから。
 自然と俯いていた顔を上げて、そこでようやく和室に妹が居ることに気づく。
 仏壇の前に立って、じいちゃんの遺影をじっと見つめていた。
 まるで、あの日の病室のときのように。
「どうしたんだ?」
 僕は、少しだけ間を空けてから問いかけた。
 すると妹は遺影を見たまま、ぽつりと言った。
「――泣き方が、わからないの」
「泣き、方?」
「おじいちゃんが死んで、とても哀しいのに、寂しいのに……泣けないの。涙が出ないの」
 そこまで言ってから、ようやく妹がこっちを向いた。
 ひどく辛そうな顔をしていた。
「私って冷たい人間なのかな」
「……違うよ」
 自然と否定の言葉が口に出た。
 妹は、まだ中学生だ。
 きっと初めて身近な人間を失った現実を、まだ実感できていないのだ。
 小さな子供が、生き物の死を理解できないように。
 僕だって、父さんに「じいちゃんが危篤だ」と教えられたとき、すぐには実感など湧かなかった。僕より若い妹なら、なおさらのはずだ。
 僕は妹に静かに歩み寄ると、隣に並んだ。
「覚えてるか?」
「何を?」
「じいちゃんが昔、言っていたこと」
 僕が小学生三年生の頃。
 家族が応援に来た野球の試合で負けた僕は、悔しくて泣きたいのを必死にこらえていた。
 男なのに、みんなの前で泣くのが格好悪いと思ったのだ。
 そんな僕にじいちゃんは言った。

 ――泣きたいときには思いっきり泣け。泣くことは何も格好悪いことじゃないだろう。

 それでも僕が意地になって首を横にぶんぶんと振ると、じいちゃんは真剣な顔で、

 ――いいか。人間はな、母ちゃんの腹から生まれるときに、最初に泣くことを覚えるんだ。それは、人が強くなるのに必要なものだからだ。だから、泣け。泣いて泣いて強くなって、今度は勝て。

 そう言って、僕の頭をごしごしと撫でた。
 途端に、僕は我慢できなくなって、わんわんと泣いた。
 じいちゃんは、そんな僕の頭を泣き止むまで撫で続けてくれた。
「……あったね。そんなこと」
 妹が懐かしそうに言った。
「だからさ、お前だって泣き方がわからないわけじゃないんだよ。それに、本当に冷たい人間だったら、泣けないことを悩んだりしないさ」
「……うん」
「さ、一緒に拝もう。じいちゃんも喜ぶ」
 僕は仏壇の前に正座すると、線香に手を伸ばす。
 だけど、それよりも早く、
「おじいちゃんは……」
 妹が呟いた。
「もういないんだよね」
「……ああ」
「また説教してくれないんだよね。頭も撫でてくれないんだよね」
「ああ」
「う……っ」
 そこで言葉が途切れた。
 僕が眼を向けると、妹は顔を両手で覆って――泣いていた。
 あの日の僕と同じように、ずっと抑え込んでいたものが溢れ出たのだろう。
 その場で膝をついて泣き続ける妹の背中を、僕は黙って擦ってやった。
 遺影に写るじいちゃんの顔を見て、僕もまた――一筋の涙を頬に伝わらせていた。


 それから、妹も僕と一緒に、週に一度は仏壇を拝むようになった。
 あの涙をきっかけに振り切れたのだろう。
 塞ぎこんでいたときと比べると、見違えるように元気になった妹の笑顔を見る度に――僕は思う。
 人は、この世に生まれてくるとき、最初に泣くことを覚える。
 それはきっと。
 哀しみに疲れた心を癒す術を、人は生まれつき知っているということではないだろうかと。
 そう思うのだ。

 ――完 


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