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エンジェル 序章


 かつて、世界には三つの存在が在った。

 一つ。
 輝く翼を背に広げ、超常の秘儀を行使する者。
 一つ。
 血の様な紅き瞳を持ち、鬼の如き力を振るう者。
 一つ。
 何一つの特別な力を持たず、あまりに脆弱なる者。

 三者三様。
 翼を持つ者は、その秘儀を持って世界を席巻し、支配した。
 鬼の如き者は、その力をあえて振るわず、争いを嫌って身を隠した。
 力なき者は、ただただ支配され、しかし、数だけは他の二つよりも多くした。

 ――あるとき、一つの大きな争いが起きた。

 世界の滅びの危機さえもたらした、その争い。
 それは力ある二つの存在を滅ぼし、皮肉にも最も力ない存在だけを生かした。
 そう。
 力なき存在――人間だけを。

 そして。
 長き年月が流れ、いつしか世界は人間のものとなった。
 すでに、力ある二種族の存在の事も、それが滅びる原因となった争いも、人間達の記憶からは、次第と薄れていっていた。
 まるで。
 彼らが滅びた事実を、長き時を掛けて証明していくかのように――。




 それは偶然だったのか、それとも必然だったのか。
 その日の夜。
 オーシャ・ヴァレンタインは、いつまで経っても寝つく事ができなかった。
 肩の辺りまで伸ばした滑らかな黒髪に、丸く大きな瞳。未だ少女のあどけなさを残しつつ、成熟した女への階段を上がりつつある十六の娘である。
(……何でだろう)
 ベッドの中で、小さく首を傾げる。
 体調は問題ないし、別に昼寝をしてしまったわけでもない。ここ最近の寝つきだって、ずっと悪くなかったはずだ。
 気づけば時計の長針が一周していた。だが、やはり睡魔はやって来ない。
「…………うー」
 時計の針の刻む、規則正しいリズムが段々と耳障りになってくる。
 寝返りを打つ。
 窓を覆うカーテンの隙間から、闇に沈んだ空が見えた。黒い雲塊が覆いつくし、輝く星々も、白い月もまったく見えない。
 雨が近いのかもしれない。
 その事実が、何故かオーシャを否応もなく不安にさせた。
(あ、そうだ……)
 ふと思いつき、オーシャはかぶっていた布団を押しのけて、ベッドを降りる。水でも飲んで気持ちを落ち着けようと思ったのだ。
 だが、
「ありゃ……」
 ベッドの横の丸い机に置かれた水差しには、中身がなかった。
 どうやら炊事場に行って、水瓶の水を飲むしかないらしい。
 そこで、気づく。
(この屋敷に来て、夜、部屋を出るのって初めてだな……)
 オーシャは、もともとこの屋敷――貴族であるエリック・カールソンの家の人間ではない。
 それまでは平凡な家で、平凡な両親と共に、平凡な日常を過ごしていたのだ。
 しかし、両親が突然の事故でこの世を去り、オーシャは独りになった。
 もはや両親はおらず、頼れる親戚などもいない。
 怖かった。
 酷く怖かった。
 孤独が何にも変えがたい恐怖だと、そのときになってオーシャは初めて知った。
 そんな孤独の恐怖に抱かれ、途方に暮れていたオーシャに救いの手を差し伸べてくれたのが、この屋敷の主であるエリックだったのだ。
 エリックは、彼女を暖かく屋敷に迎え入れ、実の娘のように扱ってくれた。彼は、オーシャを孤独の恐怖から救ってくれたのだ。
 だから、オーシャもエリックの事を、もう一人の父のように慕い、信頼していた。
 この屋敷は彼女にとって、一度は失われ、そして、新たに与えてもらった居場所なのだ。
 オーシャは足音を立てぬように扉に近づき、そっとそれを開ける。
 すでに深夜の二時を回っている事もあり、廊下に人の気配はない。さらに月が雲に隠れているせいで、窓から光が入らず、余計に真っ暗だった。
 オーシャは手にしたランタンの光で夜闇を侵食しながら廊下に出ると、静かに扉を閉める。
 初めて見る夜の廊下に、鼓動が僅かに早くなっていた。
 台所に向けて、やはり音を立てぬように気をつけつつ足早に歩く。
 オーシャは、もう十六だ。夜に部屋の外を出歩いたからといって怒られるとも思わなかったが、慣れない空気が無意識に足を急がせていた。
(あれ?)
 途中、ある部屋の扉の隙間から明かりが漏れているのに気づく。
 もう二年も住んでいる場所だ。誰の部屋かはすぐにわかった。
 彼女にとってのもう一人の父――エリックの部屋だ。
(……こんな時間に何をしてるんだろう?)
 いけない、と思いつつも好奇心には打ち勝てなかった。
 そっと扉の前に近づき、耳を当ててみる。
 声が聞こえてきた。
 どうやらエリックは、部屋の中で誰かと話をしているようだった。
 思ったよりもはっきりと聞こえる。問題なく会話の内容まで聞き取れた。
「……始末するのですか?」
 エリックのものではないが、オーシャの知っている人間の声だった。
 度々、この屋敷を訪れているハロンいう名の青年だ。エリックとの関係は定かでないが、オーシャに対しても優しく接してくれ、オーシャの方も悪い印象を持ってはいなかった。
 ――だが、その印象は、あっさりと裏切られる事になる。
「何か問題があるか?」
 今度こそ、エリックの声。
 エリックとハロンの他には、人が居るような様子はない。
「いえ。仮にも人前では娘のように扱っていらっしゃいますので……」
 娘のように扱う?
 まさか……私の事?
 盗み聞きをしていると罪悪感とは別の理由で、オーシャは鼓動がさらに早くなるのをはっきりと感じた。
「情が湧いたとでも思ったか? 笑えない冗談だな」
 オーシャが今まで聞いた事がないような冷徹なエリックの声。
 鼓動がまた早くなる。
 徐々に、思考が真っ白に染まっていく。
 身体が小刻みに震え出した。
(何、を……話してるの……?)
「そうでしたね」
 自分が聞いておきながら、さも当然のようにハロンは返した。 
 なおも会話は続く。
「例のモノを埋め込んでから二年。力の発現が見られないのなら生かしておく意味はない」
 例のモノ?
「もう利用価値はないと?」
 利用価値?
「所詮、実験台の一人だ。いらなくなれば切り捨てる。――当然の選択だろう?」
 実験台?
 ……いら……なくなっ……た……?
 不意に、際限なく早くなっていた鼓動が収まった。
 むしろ止まってしまうのではないかとさえ思った。
 思考は完全に真っ白に。
 会話の意味はよくわからなかった。
 だが、これだけは確かだった。
 自分は再び、居場所を失ったのだ。
 そして、その先に待つのは、孤独の恐怖と信じていた男から与えられる死の運命。
 
 ――その夜。
 オーシャは屋敷を飛び出したのだった。


 雨が降っていた。
 屋根や地面を叩く水音が、一定のリズムで耳朶に届いてくる。
 オーシャは街の片隅で、膝を抱きかかえるように蹲っていた。雨は容赦なく降りかかり、薄汚れた服を濡らしていく。
 横切る人々が彼女に目を止める事はない。
 隣に居る人間が、次の日には死体になってるかもしれない。自分に刃を向けてくるかもしれない。
 ここはそんな場所だった。
 小さな島国であるニスタリスは、決して豊かな国ではない。
 だから、大きな街になれば必ずと言っていいほど、こんなスラムの一角があった。毎日、自分の身を守る事で精一杯で、他人に気を配る余裕など無い。そんな者達が暮らす場所だ。
 
 ――私は、ここで死んでしまおう。
 
 オーシャはそう思っていた。
 放って置いてくれるのならそれでいい。きっと眠るように静かに死んでいける。
 それが今の彼女のたった一つの望みだった。
 少女の生気のない目は濡れた地面をじっと見つめ続けて動く事はない。
 ただただ死の訪れを待ち続ける。
 ――ふと。
 通り過ぎる足音とは、違う足音がある事にオーシャは気づいた。
 こっちに向かって来ている。
 なんとなくそう思ったが、ただそれだけだった。
 どうでもいい事だ。
 どうせ、自分はここで死ぬのだから。
 足音が、すぐ傍まで来て止まる。
「――何をしてるんだ?」
 若い男の声が聞こえた。
 雨は相変わらず激しく降り続いているのに、雨音の中で、その声は不思議とはっきりと届いた。
 しかし、オーシャは動かない。
「…………」
 男は、沈黙する。
 一旦、間を置いてから、改めて問いかけてくる。
「……死にたいのか?」
「…………!」
 オーシャは、思わずはっと顔を上げていた。
 目の前に立つ男が視界に入った。
 自分と同じ、黒い髪に黒い瞳。年は二十歳は越えているように見えた。背中には、布に包まれた身の丈ほど何かを背負っている。
 彼もまた雨に濡れる事を気にしていないのか、すでに全身がずぶ濡れだった。前髪からは、雨水がぽたぽたと滴っている。
 オーシャは、眼前に立つ青年の顔をじっと見上げた。ついさっきまで生気を失い、無表情だったオーシャの面には、驚愕が張りついている。
 どうして、この青年は、自分になど構うのか?
 どうして、自分が死を望んでいる事がわかるのか?
 そんな疑問が、胸中を渦巻いていた。
「何故だ?」
 青年は黒瞳で真っ直ぐとオーシャの顔を見つめながら、さらに訊いてきた。
 オーシャは俯き、今にも消え入りそうな震えた声で呟く。
「……私は……いらない人間なの……」
 とっくに枯れ果てたはずの涙が溢れ出し、雨に混じって頬を流れた。
「……一度は居場所を失った……でも、また居場所を与え、てもらって……」
 言葉は嗚咽交じりになってくる。
「……嬉し、かった……私、は必要、とされ、てる……そう思え、た……だけ、ど……違った、の……もう……私に居場所は、ない……」
「だから、死ぬのか?」
 責めるような口調でもなく、青年は静かに尋ねた。
「…………」
 オーシャは応えなかった。
 俯き、泣き続ける。
 まるで沈黙が答えだと言うように。
「……居場所がない、か……」
 不意に青年がそう漏らした。その声は、どこか達観した響きがある。
「名前は?」
「……オー、シャ……」
 なぜ、そんな事を訊くのか。応える事に意味があるのか。
 それはわからなかったが、オーシャは何故か自然と答えていた。
「そうか」
 青年は頷き、ゆっくりと手を差し伸べた。
 ――オーシャへ向けて。
「……え?」
 状況が掴めず、オーシャは、呆然とその手を凝視する。
「俺が君に――オーシャに居場所を与えてやる」
「……居場所、を……?」
 青年が頷く。
「だが、この手を掴んで、俺が与える居場所を、真実の君の居場所に変えるかどうか……それを決めるのは君自身だ」
「……私が……決め、る……」
「昔、友だった男が言っていた。本当の居場所は人から与えられるものじゃない。自らで手で掴み取るものだ、と。だから、決めるんだ。君に、まだ生きる意志があるのならば」
 オーシャは差し出された手を見つめ続ける。
 一度は死のうと思ったはずだった。
 だけど、本当に自分はその結末を望んでいるのだろうか?

 ――そんなわけはない。

 もう自分には居場所がない。あるのは、もはや孤独がもたらす恐怖だけだと。
 ただ、それだけだと。
 そう絶望したから、オーシャは死のうと思ったのだ。
 だが、まだ居場所を与えて貰えるのならば……
(……違う)
 オーシャは、そこで自分の考えを否定した。
 彼は居場所を与えてくれているのではない。
 新たな居場所を自分の手で掴み取るチャンスを与えてくれているだけなのだ。
 オーシャが選ばなければ、彼はきっと差し伸べた手を躊躇なく引くだろう。そして、自分は二度とそれを掴む事はできなくなるのだ。
 掴むかどうかは自分次第。
 そして、掴んだ居場所を再び失わずにいられるかも、自分次第。
 彼はそう言った。
 ならば……!
 それならば……!
 気づいたときには、オーシャは青年の手を掴み取っていた。
 二度と離さないように。
 強く。
 しっかりと。
「……私は……私は……生きたい! まだ生きたいよ……っ!」
 心からの想いが自然と溢れ出た。
 他に言いたい事はたくさんあるのに、今はただそれしか口に出来なかった。
「ああ」
 青年が笑顔を浮かべた。
 子供のような屈託のない笑顔。
「俺はティリアム・ウォーレンス。――よろしくな、オーシャ」
 雨はいつの間にか止んでいて、流れる雲の隙間から澄み切った蒼穹が広がっていた。
 輝く太陽が、いつも以上に眩しかった。


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