あとがき 一覧に戻る 五章の九に戻る

 
エンジェル 終章



 ――二週間後。

「……ああ、退屈です……退屈過ぎて死にそうですわ……」
 秋の到来の近さを感じさせる、少し和らぎ始めた日差しが窓から差し込む中、少女はぼやいていた。
 巻き毛の金髪に、青の瞳。
 小柄だが、街娘には決して持てない風格を漂わせる娘である。
 それも当然。
 彼女――エルリアは、シーナの国王、レルード・ヴェルアンの実妹なのである。
 彼女は、黄金を極細に切っていったような美しい金の髪を指で弄りながら、シーナの王城の長く広い廊下を、とぼとぼと歩いていた。
 気の強さ表すようなつり気味の目には、いつもの覇気がない。
 隣には、侍女長であるメイリーが付き添っている。
 彼女の右腕には、先日の事件の際に負った痛々しい火傷の痕が残っていたが、本人は隠す気もないので、堂々と晒している。
「退屈って事は、要するに平和なんです。結構な事じゃないですか」
「そんな事はわかっていますわ。でも、こうも平穏が続くと、やっぱり刺激も欲しくなります。なのに、お兄様は最近、やたらと忙しそうですし、ティルは全く顔は見せませんし…………はあ」
 大きく嘆息をする。
 毎回、王妹の暇つぶしの相手をさせられているメイリーは、困った顔で腕を組んだ。
「まあ、陛下は一国の王ですし……それに、ティルにはティルで事情があるんですよ。耐えてください。ほら、また私がお茶でも、チェスでも、カードでも付き合いますから、ね? ね?」
「もう飽きましたわ……。そんなありきたりなものは……」
「…………あ、そうですか」
 今度は、メイリーが嘆息する番だった。
 いくら見た目が若々しくても、彼女はもう三十代後半という年齢である。若さ溢れるエルリアのエネルギーは、正直持て余すところなのだ。
 しかし、彼女の愚痴も仕方ないというのもわかっているし、立場的にも放っておくわけにいかない。
「そうですね、だったら……」
 メイリーは、顎に指を当て、回る思考と共に、視線を虚空で彷徨わせる。
 なんとか一時的でもエルリアの暇を解消する手段を模索しようとした、その矢先であった。
「退いてくれ! 退いてくれ! 緊急だ!」
 廊下の向こうから、大音声が響いたのである。
 驚いて目を向けると、近衛騎士の制服を着込んだ若い男が、全速力に近い様子で、こちらに駆けて来ていた。
 これに、たまたま廊下に居た侍女やら、文官やらが慌てて道を空ける。
「な、なんですの!」
 エルリアも、突然の騒ぎに目を丸くする。
「あれはミシェル様ですね……って!」
 このままでは、自分達は間違いなくミシェルと激突する。
「エルリア様!」
「きゃっ!」
 メイリーが咄嗟にエルリアの腕を掴んで脇に避けると、ミシェルが横を走り抜けながら、
「申し訳ありません、エルリア様! メイリー殿! 後で改めて謝罪を!」
 と、言い残して走り去って行った。
 方向的に、どうやらレルードの執務室に向かったらしい。
 ミシェルが居なくなった廊下には、なんとなく唖然とした空気が広がっていた。
 エルリアは、ぱちぱちと可愛らしく目をしばたたかせる。
「な、何だったんですの……?」
「……さて、何でしょうね? どうやら急ぎの報告があったようですけど」
 メイリーの性格としては非常に気になる事柄だが、さすがに国王との会話を盗み聞きをするほど、彼女も非常識ではない。
 何より――エルリアには教えられていないが――現在は、隣国のロロニアが内乱状態である。そして、これがシーナとの戦乱にまで発展するのではないかと、王城内は実際、緊張状態にあるのだ。
(……でも、ミシェル様の様子だと――良い報告かもしれないわね)
 あの若き近衛騎士団の団長の顔には戸惑いこそ浮かんでいたが、悲壮感も決してなかった。むしろ、思いよらぬ形で事態が好転したとか、そんなような顔だったのである。
 だとすれば、内乱が良い方向に動いた可能性はあるだろう。
 と。
「あれ? 何かまた慌しい足音が……」
 気のせいかと思ったが、それは次第に大きくはっきりと聞こえてくる。
 エルリアもそれに気づいたか、ついさっきミシェルが走って来た方向を、どこか引きつった顔で見ていた。
 そして、すぐに、
「すいません! すいません! 緊急なんです!」
 予想通り、一人の侍女服を纏った娘が駆けてきた。
 それこそ、人だけ入れ替えて、時間を巻き戻したような光景だった。
 またしても、侍女やら文官やらが慌てて道を空ける。
(あれは……)
 メイリーは、すぐに思い至る。
 彼女は、ミニアだ。
 水と花の都ウィンリアで起きた、ある事件の際に、レルードに取り計らわれて、病弱な母と共に、城にやって来た娘である。そして、そのまま国王付きの侍女という異例の人事を言い渡されたのだ。
 最初こそ城の人間の中には、これに不満を口にするものもいたが、とにかく一生懸命で、ひたむきに働く彼女の姿に、すぐにそんな雑音も収まっていった。
 おそらくは、レルードと親しく、シーナ王国にとっては恩人であるといっても良いティリアム・ウォーレンスの友人であるという話も、その要因となったのだろう(ちなみに面倒事を避けるために、この件に関してはエルリアにだけは伏せられている)。
 ミニアは、すでに廊下の脇に避難していたメイリーとエルリアに向けて、
「本当に申し訳ありません、エルリア様! メイリー様! 後で必ず謝罪を――!」
 と、言い残して走り去って行った。
 メイリーは、隣で呆然となっている少女をちらりと一瞥する。
「何だか、二人に謝られる事が決定事項になりましたよ」
「……いや、だから、あれは何なのですか……」
 エルリアは、眉間を指で押さえて唸るように呟いた。
「うーん、そうですね……」
 ミシェルが内乱に関する報告だとすれば、ミニアの方は、一体、何を急いでいるのか。
 これは、さすがのメイリーにも想像がつかない。
 でも、やっぱり彼女の表情から推察するに――
「ま、良い事あったんですよ。きっとね」
 言いながら、メイリーは、
(出来れば、エルリア様の暇を潰せるような事だったら助かるんだけど)
 と、都合の良い希望を思い浮かべていた。


「陛下!」
 突然、国王の執務室の扉が開け放たれた。
 これに執務机に座るレルードと、雑務の報告に来ていた将軍のジョアン・グリードが振り返って目を丸くする。
「ミシェル! 国王の執務室にノックもなしに入るなど……!」
「……あ! も、申し訳ありません! 思わず!」
「いや、良いさ。ジョアン」
 レルードは片手を上げて、叱責したジョアンをやんわりと制止する。
「でも、次からはノックは忘れずに頼むよ、ミシェル」
「は、はい……申し訳ありません」
 頭が冷えたのか、深々と頭を下げて、ミシェルは陳謝する。
「まったく……それで一体、どうしたというのだ」
 ジョアンが呆れた顔で問う。
 ミシェルは恐縮しつつ、敬礼のポーズを取る。
「じ、実は、先ほど国境近くより早馬が来まして、どうやらロロニアの内乱が終結した、と……」
「なんと!」
「――なるほど」
 ジョアンは驚きに目を見張り、レルードは冷静に顎を引いていた。
「それで? 勝ったのはどちらなんだい?」
 レルードが静かに問う。
 これにジョアンが、息を呑んだ。
 そう、それが何よりも重要だった。
 もしも軍事に傾倒する強硬派が勝利したのならば、それは同時にシーナとの戦争が勃発する可能性が限りなく高くなったという事だ。
 逆に穏健派が勝利したのなら、シーナとの和平の道も開かれよう。
 ただ、最新の情報では強硬派が有利であると、レルード達は聞いていた。
 ならば、やはり勝ったのは強硬派か。
 レルード、ジョアン共に、その顔には緊張をはらんでいた。
 しかし――
 ミシェルは戸惑いを隠さず、しかし、安堵も含んだ声で、こう報告した。

「――内乱に勝利したのは、穏健派です、陛下。強硬派は敗れました」

 僅かな沈黙。
 そして。
「…………そうか」
 レルードは緊張を解くと頬を緩めた。
 ジョアンも気が抜けたように長く息を吐いた。
「……穏健派が勝ってくれたか。しかし、何故だ? 直前までの話では、強硬派の有利は揺るぎそうもないと聞いていたが……」
「それが、報告に来た者も詳しくは知らなかったのですが――」
 ミシェルの説明は、こうだった。
 確かに、もともと帝国に古くより馴染んでいた強硬派の勢いは凄まじく、穏健派はかなりの劣勢にいたそうだった。
 しかし、ある出来事をきっかけに、事態は急転する。
 穏健派に保護されていた前皇帝ガルダン・シャトナーの皇妃エイナ――彼女が突然、亡き皇帝の意志と継いで、自身が女帝となる事を宣言したのだ。
 娘である皇女ローザもそれの補佐に付き、これをキッカケに落ちかけていた穏健派の士気は大きく高まる事になる。さらには、中立の立場に居た貴族達までも穏健派に付き始めたのだ。
 こうなれば強硬派も、今までのような勢いは保てなかった。
 あっという間に戦況は盛り返され、強硬派を率いていたガルダンの叔父ザーセムが討たれたのは、エイナの女帝宣言より僅か七日後の事だったそうである。
「まさか、そんな事が……」
 ジョアンが信じられないといった面持ちで唸る。
(……ガルダン)
 レルードは、机の上で組んだ手の上に顎を乗せ、瞑目した。
(君の平和への意志は、確かに君の家族と民に受け継がれていたよ……)
 それは、最期まで顔を合わせる事すら出来ずに去って行ってしまった、友への報告。
「…………ありがとう」
 誰にも聞こえぬほどに小さく、レルードは囁いていた。
「本当に奇跡的な事ですが――これでロロニアとの戦争を避けられそうですな、陛下」
 ジョアンは心から安堵した様子で言った。
 レルードも頷く。
「そうだね。和平に関しては、とりあえずロロニア国内が落ち着くまでは先送りだろうが……女帝がガルダンの意志を継ぐと宣言している以上、おそらく断られる事もないだろう」
 部屋の中の空気が緩みかけた、その次の瞬間。
「ですが、戦争は回避出来ても、ティリアム様達の方は……」
 不意に、思い出したようにミシェルが呟いたのだ。
「「…………」」
 レルードとジョアンは、何も言えず押し黙った。
 彼らが、世界破壊を目論むアダムスタを止まるため、《陽炎の森》へと向ってから、すでに一ヶ月以上だ。
 《陽炎の森》は程なくして消滅し、今もなお、世界は在り続ける。
 ならば、ティリアム達がアダムスタを止める事に成功したと考えても良いかもしれない。
 だが、そうならば、彼らは一体、どうしてしまったのか……?
 最悪の事態は、どうしても否定はし切れなかった。
 執務室に居る者達は、一様に表情を暗くして――
「……あ、あの……?」
 声は、廊下からだった。
 申し訳程度に開けた扉を、おずおずと叩きながら、最近、国王付きの侍女となったばかりの娘――ミニアが立っていたのである。
 レルード達が話に夢中でノックには気づかなかった上に、どうやら部屋に漂う深刻な空気に、入るタイミングを逸してしまっていたらしい。
「ああ、ミニアか。すまない。良いよ、入って」
「は、はい!」
 レルードに促されて、ミニアは緊張した様子で部屋に足を踏み入れた。
 彼女が侍女になって、もはや数日だが、未だに城暮らしには慣れていないらしかった。
「それでどうしたんだい?」
「あ、は、はい! 実は、先ほどフェイナーン神殿の使者の方が訪れまして、ティリアムさ――じゃなかった、ティリアム・ウォーレンス様とオーシャ・ヴァレンタイン様が、無事にアダムスタを倒し、帰還した――との事です。それで、これが詳しい旨の書かれた宗主サレファ様の書状で……ど、どうぞ!」
 そう言って、勢い良く頭を下げつつ、両手で書状を差し出す。
 実はミニアは、本来なら一部の人間しか知らされぬティリアム達に関する事情を――国王付きなら知っておいても良いだろうという事で――レルードより特別に聞かされているのだ、故に、ティリアム達が無事だったと知って、内心の興奮を無理に抑えこんでいるのか、声がどこか上ずっていた。
 おそらく彼女も、ティリアム達の安否が心配で、これまで気が気でなかったのだろう。
「…………あ、あの?」
 ミニアが、恐る恐る顔を上げた。
 いつまで経っても、レルード達の反応がなかったからである。
 そして、彼女は目の前の光景に、唖然と目をしばたたかせた。
 なぜなら、レルード達は、口も半開きで呆気に取られていたのだ。
「え? あ、あの……皆様、どうなされたのですか……? 私、何かまずい事を……」
 びくびくと恐縮するミニアへ、真っ先に我に返ったレルードは、
「……い、いや、違うんだ。ちょっと、あまりにタイミングが良すぎて驚いただけだよ」
 と、慌ててフォローを入れると、書状を受け取った。
 次いで苦笑しつつ、ジョアンとミシェルを、それぞれ一瞥する。
「二人共、よく悪い事は続くと言うものだけど……案外、良い事もそういうものらしい」
「ふむ、そのようですな」
「こんなものは逆に心臓に悪いですよ、陛下」
 返す二人もまた、苦笑いを浮かべていた。
 それはきっと、心からの安堵の裏返しなのだろう。
 レルードは、横手の窓に視線を滑らせる。
 窓からは、ティリアム達が《陽炎の森》へと旅立った日と同じ、蒼穹が広がっている。
 だが、その色は、すでに秋の訪れを感じさせるものだ。
 さらにこの先、大陸は秋を終え、冬を過ぎ――春を迎える。
 そんな当たり前が続くのも、彼らが命懸けで勝利を掴んでくれたおかげに違いない。

 この空の色を、自分は一生忘れる事はないだろう――

 レルードは、そう確信しながら、ミニアより受け取った書状をゆっくりと開いていった。




 ――――彼女は窓際で独り、椅子に腰掛けていた。
 腰まである滑らかな黒髪は、あの戦いを終えて以来、切らずに伸ばしたものだ。今は、邪魔にならないよう後ろで一つに縛っていた。
 何の曇りもない黒の双眸は、外に見える広大な森を見つめている。森は、春という季節を表すように、優しく淡い緑を広げており、開け放した窓から吹いてくる風も、心地良い暖かさを抱いていた。
 控えめなノックの音。
「……身体の調子はどうですか、オーシャ?」
 続いて、落ち着いた丁寧な口調で、横手から声が掛かった。
 目を向けると、開いた扉の向こうに、神官の長衣を纏う、朱色の髪を切り揃えた娘が居た。 
 彼女は、部屋に入って来ると楚々とした仕草で扉を閉める。
「ええ、問題ないわ」
 ――オーシャは淡く微笑んだ。
 四年という月日は、彼女を驚くほど大人びさせていた。おそらく、四年前の彼女しか知らない人間が見れば、驚きで目を剥く事は間違いないだろう。
 それは大人びた容姿の事もそうだが、何より――
 すでに戦いより離れた彼女の細い指は、大きく膨らんだ自分のお腹を愛しそうに撫でている。今、そこには、ティリアム・ウォーレンスとの新たな生命が宿っているのだ。
「心配して、様子を見に来てくれたの? ありがとう、サレファ」
「良いんですよ。ちょうど暇が出来ていましたから」
 ようやく容姿が内面の大人ぶりにも追いついてきているイヴァルナ神教の宗主サレファは、小さく頭を振ると、オーシャの傍にある椅子に腰を下ろす。
 そして、不思議そうに首を傾げた。
「そういえば……もうすぐ父親になる、貴女の旦那様は、どこに行ったのですか? いつもは、貴女の傍を離れないのに……」
 困った顔で、オーシャが笑う。
「さっき神殿の近くで《デモン・ティーア》の群れが出たって聞いたら、騎士の人達とあっという間に出て行っちゃったの」
 サレファは呆れ顔で、嘆息した。
「……全く。身重の妻を置いて行ってしまうなんて、困った人ですね」
 オーシャは、くすりと笑う。
 その後、一転、真面目な面持ちになった。
「あの人にとって、生きるという事は、今でも償いのために戦い続けるという事だから……きっと仕方がないのよ」
 サレファが哀しそうに、目元を歪める。
「それは――不器用で、辛い生き方ですよ」
「……うん、そうね。でも、それが私の愛したティルだから」
 夫への深い信頼を、オーシャは黒瞳に宿らせる。
「それに、何があっても私の下には帰って来るって――あの人は、そう約束してくれた……だから、私も信じて待っていられる」
 諦念の表情で、サレファは眉尻を下げた。
「そうですか……。確かに、そういうのがティリアムさんらしいのかもしれませんね。ただ、困った人という評価は変えられませんけど」
「ふふ、そうかも」
 オーシャも否定せず、声を出して小さく笑った。
 妻としては、心配せずにはいられない夫ではあるのは間違いない。
 ふと思い出したように、サレファは話題を変える。
「ああ、そうそう」
「何?」
「実は、近々、レルード陛下が神殿にいらっしゃるそうですよ」
 オーシャは、小さく目を見開いた。
「レルード陛下が?」
「ええ。最近、婚姻を結ばれたミニア王妃も一緒にだそうです。名目は、神殿との親善と交流の為となっていますが――本音は、貴女とティリアムさんの子供を見に来るつもりみたいですね」
「陛下、相変わらずなのね……」
 オーシャは懐かしさに、目を細めた。
 もう彼を含め、城の人間達と顔を合わせなくなって、随分立つ。
 だが、今でもあの飄々として常識外れの王様は相変わらずらしい。
 それがなんとなくオーシャには嬉しくもあった。
「ミニア王妃とも、お友達なのですよね? だったら、久々にじっくり話せる機会になりますね」
 サレファが興味深げに言った。
「ええ。ミニアが陛下と結婚すると聞いた時は、本当に驚いたけれど……」
 これが決まった時には、城や王都を含め、シーナ国内は騒然となった。
 なにせ、ミニアは国王付きの侍女とはいえ、もともと貴族とは程遠い貧しい平民なのだ。当然、王族との結婚など本来なら有り得るはずもない。
 だが、レルードは、王という立場と、いつもの本心を掴み難い態度で周囲の反対をなんとなくで受け流し、とんとん拍子で話を進めてしまったのだ。
 おそらくジョアンやミシェルなどは、相当に頭や胃を痛めた事だろう。
 まあ、現在は、ほとんど諦念な雰囲気で、この件も落ち着いてしまっていて、ミニアも王妃として、民にも徐々に認められ始めていた。
「なかなか仲睦まじいようですよ、あの二人。そう遠くないうちに、お世継ぎもできるのでは――というのが、王都での専らの噂みたいです」
 サレファが微笑ましそうに言った。
「だったら、私も負けないようにしないといけないわね」
 オーシャは微笑し、自身の腹を見下ろす。
 そこに浮かんだ表情は、紛れもなく子を慈しむ母のものだ。
 サレファも、それに倣って彼女をお腹を見つめ、
「そういえば子供の名前は、もう決めたのですか?」
 と訊いた。
 するとオーシャは、なぜか可笑しそうに頷いた。
「もちろん」
「では、男女、どちらでも良いように、それぞれ?」
「いいえ、決めたのは女の子の分だけ」
 サレファは怪訝な顔になる。
「? でも、それでは男の子の場合は……」
「大丈夫なの。生まれてくるのは、女の子だってわかってる。だから、名前もティルと一緒に、すぐに決められた」
「どういう事なんですか? 私にはさっぱり……」
 サレファは困惑の度を深めて、目をしばたたかせる。
 これにオーシャは悪戯っぽく笑った。
「だったら、今からその名前を教えるわ。そしたらどういう事か、きっとわかるはずよ」
 そして、彼女の唇は紡ぐ。
「その名前はね――」
 懐かしさと、親しみと、慈しみと、愛しさを込めて。
 自身と彼女が愛する人とで育む、これから生まれてくる子の名を。

 ――マリア

 と。

 ―― 完 ――


あとがき 一覧に戻る 五章の九に戻る

inserted by FC2 system