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エンジェル 五章

双の黄昏


―― 九 ――

 ティリアムが再び目を向けたときには、世界破壊の魔法陣も《聖器》も消え失せ、オーシャは、玉座の間の冷たい床の上に静かに横たわっていた。
「……オーシャ!」
 ティリアムは、すぐさま駆け寄ると少女を抱き起こす。
「……う………………」
 小さな唇から呻きが漏れる。
 よく見れば、蒼白だった肌の色も生気を取り戻していた。
「オーシャ!」
 もう一度、名を呼ぶ。
「……ん」
 少女の瞼がゆっくりと持ち上がる。
 大きな黒い瞳が露になり、ティリアムの姿を映すと、彼女は淡く微笑んだ。
「……あ……ティル……」
「ああ、俺だよ。大丈夫か、オーシャ?」
「……うん……でも、私……?」
「――良いんだ。全部、もう終わったから」
 オーシャは、状況が掴めない様子で小首を傾げる。
 そして、ふと面に理解の色を広げた。
「……そっか。ティル、勝ったんだね。……私、何にも出来なかったな……」
 ティリアムは、ゆっくりと頭を振る。
「そんな事はないさ。お前は十分過ぎるほど、俺を助けてくれたよ。ハクトと一緒にな」
 その言葉に、オーシャはきょとんとした表情を浮かべる。
 おそらくは無意識での行動だ。あのときの事は彼女自身の記憶には、はっきりとは残っていないらしい。
 少女は、離れていた時間を埋めようとするように、ティリアムの胸に顔をそっと寄せる。
「……よく覚えていないけど……そうだったらいいな……」
 そして、彼女は続けて、こう問うた。
「……そうだ、ティル、マリアは?」
「――――っ」
 思わず言葉を失う。
「……ティル?」
 途端、オーシャは不安そうな顔で見上げてくる。
 刺すような胸の痛みと共に、ティリアムは絞り出した声で言った。
「あいつは……俺を助けるために……逝ったよ……」
 オーシャは大きく目を見開いて――
 次の瞬間、どこか諦めたように、その事実を受け入れていた。
「…………やっぱり、そうなんだね……」
「やっぱりって、お前……」
 オーシャは哀しみで瞳を揺らしながら、目を伏せる。
「……薄っすらとしか覚えていないけど、私にお別れを言い来たの……なのに私、止める所か、マリアの事すら思い出せなくて……」
 今にも泣き出しそうな少女に、その涙をどうにかして止めようとティリアムは彼女を強く抱きしめる。
「――良いんだ。それはお前のせいじゃない。あいつは、本当に満足そうに笑って逝ったんだ。だから、俺達も笑って見送ってやろう」
「…………っ、うん……」
 それでも、やっぱり抑えきれなかったのか。
 オーシャはティリアムの胸に顔を押し付けて、すすり泣く。
 それをティリアムは、何も言わず受け入れていた。


 しばらくして。
 ティリアムは、ようやく落ち着いたオーシャに手を貸して立ち上がらせた。
「……大丈夫か?」
「うん、平気……少しだけ疲労感はあるけどね」
 目は赤く、哀しみの名残は未だに消し切れてなどいない。
 それでもオーシャは微笑んで見せた。
 この少女は、本当に強い――それをティリアムは改めて思い知る。
「そうか。だったら、もう独りでも戻れるな」
 だから、ティリアムはどこか安堵していた。
 ――この先、自分が居なくても、オーシャは独りで生きていけるはずだ。
 少女は怪訝な顔で、眉を寄せる。
「独りって……ティルはどうするの?」
「…………」
「ティル?」
「俺は――行けないんだ」
「え…………?」
 酷く深刻な声音に、ただごとではない事を悟ったのだろう。
 オーシャは、不安そうにこちらを見つめてくる。
「もう、限界だな」
 ティリアムは呟く。
 それが、きっかけだった。
 ばりん、と嫌な音を立てて、ティリアムの右腕が砕け散ったのだ。
「ティル!?」
 目の前で起きた光景に、オーシャは悲鳴のように叫んだ。
 しかし、本人は、ただ静かにそれを受け入れていた。
 渾沌に命の全てを捧げた時に、もう覚悟していた事なのだ。
 今更、うろたえる様な無様な真似が出来ようか。
 今度は、左腕が一瞬で硬質化して砕けた。
「何で!? 何でこんな――!」
 崩壊をなんとか止めようと、オーシャは縋りついてくる。
「ティル! どうして!」
 悲痛な問いに、ティリアムは達観を含んだ声で語る。
「……《デモン・ゴット》化は命を消耗するんだ――だから、もう俺の命は、アダムスタとの戦いで尽きてる。マリアのおかげで一時的に取り戻せていたけど、もうそれも限界だ」
「……う、そ……嘘、だよ……そんなの……」
 少女が愕然と立ち尽くす。
「……ごめんな、オーシャ」
 目を閉じ、謝罪する。
「駄目……だよ! そんなの駄目ぇっ! 約束したじゃない! 一緒に生き残るって! 幸せになるって! なのに! なのに――!」
 オーシャは責めるように、胸を叩いてくる。
 何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も――
 それは次第に力を失い、ついには添えるようになって動きを止める。
 瞳からは一度は止まったはずの涙が、再び溢れ出していた。
「それ、なのに……酷いよ、ティ、ル……!」
「すまない」
「……マリアも居なくなって……それなのにティルも居なくなったら……私、本当に独りになっちゃうよ……嫌だよ……そんなの……」
「…………」
 硬質化は、再び肉体にまで及び始めていた。
 その速さは、アダムスタの戦いの時の比ではない。全身に及ぶまで、あと数分もないだろう。
「……ティルが死んじゃったら、世界が続いても……私、生きてなんかいけない……意味なんかないよ……」
「オーシャ――」
 きっと何の慰めになんかならない。
 それでもティリアムが何か言おうとした――そのときだった。

「そう。お主は生きるべきだ、ティリアム・ウォーレンス」

 声と同時。
 突如、眩い白光が迸る。
 次いで、大きな光輪が出現すると、ティリアム達を囲んだのである。
 途端、ティリアムの崩壊は止まった。それ所か両腕が瞬く間に再生され、肉体の硬質化も回復していく。
「! これは一体……!?」
 目を見張って、ティリアムは自身の復活した両腕を見る。
 オーシャも安堵する以上に、状況が掴めず唖然としていた。
 と、不意に。
「ティ、ティル、あれ!」
 オーシャが指差した先を目で追って、ティリアムはさらなる驚愕で呻いた。
 一つの影が玉座の間の中央に降り立ったのだ。
 影は、女だった。
 床につくほどに長い白銀の髪。
 白光を結晶化させたような同じく白銀の瞳。
 見惚れるほどに整った鼻梁。
 純白の薄布の服を纏う身体の線は、およそ世界中の女の理想を体現したかのように思えた。
 まさに極限的なまでの美女。
 その背には、オーシャと同じ一切の穢れを排除した白き翼――《白光の翼》があった。
「あんたは……一体……?」
 すでに、その正体の予想はついている。だけど、そう問わずにはいられなかったのだ。
 女がたおやかに微笑む。
「妾の名は――イヴァルナ。お主達、人間がかつて女神と呼んだ者だ」
 二人は、言葉を失った。


 ようやく我に返ったオーシャが、涙もそのままに目をしばたたかせる。
「イ、イヴァルナ? この、人が……でも、なんで……?」
 イヴァルナの白銀の瞳が、魔法陣のあった場所に流れる。
「どうやらアダムスタが死す直前に、封印の解放が終わっていたようだ。幸い魔法陣の方は、発動する前に消滅したようだがな」
(そうか、それで……)
 ティリアムは、得心する。
 魔法陣はアダムスタが死んだ事で消滅したのだろうが、《聖器》がなくなっていた事には少なからず疑問を覚えていたのだ。
 しかし、イヴァルナの解放が完了していたというのなら納得がいく。もともと《聖器》は、そのためだけの存在なのだ。役目が終われば、消えるのも当然だろう。
 イヴァルナが苦渋の表情で、玉座を一瞥した。
「アダムスタ……。最後の最後まで馬鹿者め。どうしてお主は、破壊しか選べなかった……どうして、こんな結末しか……」
 悲痛な声で、独り言のように呟く。
 それはアダムスタを責めているというより、自身の無力を悔いているようにも聞こえた。
 遥か昔、アダムスタを聖地レレナで討ち果たしたのは、他ならぬイヴァルナだ。しかし、伝説に語り継がれるように、その行為は必ずしも彼女の本意ではなかったのかもしれない。
 再び、白銀の双眸が二人へと向く。
 すでにアダムスタへの悔恨は、面からは消えていた。
「今は亡きマリア・アールクレインの記憶から、だいたいの事情は理解している。どうやら妾が至らぬばかりに、お主達に大きな重荷を背負わせてしまったようだ」
 その頭が深々と下がる。
「――本当にすまなかった」
 オーシャが慌てて涙を拭って、ぶんぶんと手を振る。
「そ、そんな! イヴァルナさんが謝る必要なんてないです!」
「いや、これは妾のけじめだ。謝罪させてくれ。アダムスタが摂理を捻じ曲げて転生を果たした事に気づけず、さらに魔法の力を中途半端にこの世に残してしまった事――全てがこの事態を招いた原因だ」
「――でも、あの時代のアダムスタを止め、世界を救ってくれたのも貴女だろう、イヴァルナ」
 イヴァルナの言葉を遮って、ティリアムは言った。
 かつて女神と呼ばれていた《神族》の女は、驚いて顔を上げる。
「……ティリアム・ウォーレンス」
「昔の貴女にどんな落ち度があろうとも、その事実が変わるわけじゃない。それに転生したアダムスタを《ヴェルト・ケーニヒ》として持ち上げて、野放しにしてしまったのは、この世界の連中だ。必ずしも貴女だけが悪いわけじゃないさ。確かにこの戦いでは大きな犠牲はあったけれど、結果的に世界は続いているんだ。少なくとも俺達には、貴女を責める気なんてないよ」
 イヴァルナは、どこか困惑した様子で、
「……面白い男だな、お主は。しかし、本当にそれで納得できるのか?」
 と、訊いた。
 ティリアムは呆れ顔で、歯を見せながら頬をかく。
「納得するもしないも、貴女とアダムスタが戦った時代は、三千年以上は昔だろう? そんな事を今更、ねちねちと責めてたら、こっちの気分が滅入るよ。一度、起きてしまった事は、どうしたって変わりはしないんだしな」
 これにオーシャが思わずといった風に、くすりと笑う。
「そうだね。きっとティルの言う通り」
「…………」
 イヴァルナは、そんな二人のやり取りを興味深げに眺める。
 その後、ふっと笑んだ。
「心が驚くほど広いのか、屁理屈が上手いのか――一体、お主は、どちらなのだろうな?」
 ティリアムは肩を竦めて苦笑いを浮かべる。
「たぶんマリアに散々いろいろと謝られてるから、許すのに慣れてしまったんだろうな。それに、本心からすまないと思っている奴を責める事ほど後味悪いものはないんだ」
「そうか」
 イヴァルナは、小さく頷き、
「…………感謝する」
 と、深い感謝を込めて呟いた。
 次いで、細く白い腕が持ち上がる。
「その気持ちは真に嬉しく思う……だがな」
 開いた掌は、真っ直ぐとティリアムへと向いていた。
「――やはり償いはせねばいかんのだ」
 ティリアムが眉根を寄せる。
「何をする気だ、イヴァルナ……?」
「今のお主の身体は、妾の魔力で一時的に崩壊を食い止めているだけに過ぎぬ。故に、マリア・アールクレインがやったのと同じように、我が魂と力の全てを、お主へと注ぎ込むのだよ。今回の場合は、一応は《神族》のものだからな。それを命へと転化すれば、マリアの時のように一時的なものではなく、真に新たな生を再び得られるだろう」
 マリアと同じ行為。 
 それが意味する事は、考えるまでもない。
「そんな! イヴァルナさん!」
「消える気、なのか……?」
 二人が口々に言う。
 しかし、イヴァルナはただ穏やかな笑みを湛えるだけだ。
「もとより、こうすべきだったのさ。愛したこの世界に未練がましくも残りたいと願い、封印で眠りつくだけで、おとなしく消え去れなかった事が、アダムスタに世界破壊の手段を与えてしまったのだ。何より妾が完全に消えれば、妾の魔力より派生した全ての《フリューゲル》は消滅するだろう。
 ――きっとそれで良い。
 この世界には、あんなものは必要ないのだ」
「イヴァルナ……」
「ただし、ティリアム・ウォーレンス――妾の魂で生を再び得られても、《デモンズ》としての力は消える事になろう。お主の中に流れる《魔族》の血は、アダムスタとの戦いで、ほぼ完全に力を失っているようだからな」
 ティリアムは瞠目した。
「……消える? 俺の力が……」
 自身の掌を見下ろす。
 《デモンズ》の血。
 《デモン》化の力。
 多くの命を奪った。
 自身の命を守ってくれた。
 そして――失いたくない大切な人を救う力にもなってくれた。
 数え切れない哀しみと怒りと憎しみを生んで――でも、大切な絆にもなってくれた。
 ティリアムにとって、この力は罪の証であり、常に隣にあった戦友である。
 だけど――それが消える。
「ティル……」
 オーシャが気遣うように手を握ってくる。
 それに優しく握り返して、ティリアムは穏やかな顔で頷いていた。
「……きっと、それで良いんだよな」
 この世界には、本来なら存在しない力だ。
 だから、イヴァルナの言った通り、このまま消えていくのが正しい形なのだろう。
 自分はこの先、ただの人間として生きていけばいい。たぶんそれは、今の自分ならそんなに難しい事ではないはずだ。
 決意し、改めてイヴァルナを見据える。
「でも、貴女は本当にそれで良いのか?」
 イヴァルナは迷う事なく頷く。
 むしろ、それが望みと言わんばかりの表情だった。
「さっきも言ったように、これは償いであり、この世界を守ってくれたお主達への礼でもある。妾は、もう十分に生きたし、何も気に病む事はない。この世界の未来に生きるお主の命となれるのならば、むしろ本望というものだよ」
「……そうか。わかった」
 ティリアムは、彼女の提案を受け入れる。
 マリアがそうであったように、きっとこれは、彼女にとって単なる死ではない。
 自身の揺るがぬ信念に従って選んだ道なのだ。
 ならばティリアムには、それを止める言葉などあるはずもなかった。
 イヴァルナは天を仰いだ。
 目に映るのは、城の天井――そして、その先にあるのは、城と都市を外界から隔絶する魔法の障壁だ。
 だが、彼女の瞳はそんな障害物を全て越えて、この世界の空を見つめているように思えた。
 その目には、後悔も、哀しみも、寂しさも浮かんではいない。
 あるのは、自身が愛し、守り抜こうとした世界――その未来へと続く者の命になれる事へ対する喜びのみだ。
「さらばだ、我が故郷《エデン》――そして、愛する名も無き世界よ」
 二つの世界への別れを、ゆっくりと噛みしめるように口にする。
 そして。
 次の瞬間、イヴァルナの身体が白く輝き――
 白銀の髪が。
 美しき面が。
 細身の体躯が。
 女神が――無数の白光の粒子と化した。
 それらは天井すれすれまで舞い上がり、軌道を変えて、立ち尽くす青年へと降り注ぐ。
 ティリアムはそれを目を閉じたまま、静かに受け入れる。
 無数の光の奔流に身を委ねながら、思う。
 自分は、たくさんの人達に生かされてばかりだ。
 母に守られた。
 ウェインに導かれた。
 フィーマルの命を奪った。
 マリアに助けられた。
 そして、今、イヴァルナに新たな命をもらおうとしている。
 本当、とことん独りじゃ生きていけない情けない男だ。
 でも、だからこそ――その多くの犠牲の果てにある命で、何が何でも生き続けよう。
 きっと、それだけが死んで行った者達に報いる方法なのだ。
「あ……!」
 突然、オーシャが声を上げた。
 彼女の視線の先に、見覚えのある姿が生まれていたのだ。
 四肢で、誇り高く立つ白虎。
「ハクト!」
 オーシャが名を呼ぶ。
 白虎――ハクトは、少しだけ寂しそうに目元を歪めた。
「主、お別れです。イヴァルナ様が消える以上、《白光の翼》より創造された私も消えなくては」
 少女が動揺し、目を見張る。
「っ! そんな……っ!」
「《ガイスト》である私は、貴女を守るためだけの生まれた存在――その役目を完遂する事が出来て、私は満足しています」
「…………っ」
 もう彼が消える事は止める事は出来ない――言外に彼はそう言っていた。
 だから、オーシャはぐっと唇を引き締めて、ハクトの姿を見据える。
 彼の最期を、目に焼きつけるために。
 それが自分を命懸けで守ってくれ、今、胸を張って逝こうとしている《ガイスト》への、彼女が出来る唯一の礼なのだろう。
「……ハクト、ありがとう」
 主だった少女に、ハクトが恭しく頭を下げる。
「それは私の台詞です。貴女を守る《ガイスト》として生まれる事が出来たのは、私にとって最高の喜びであり、誇りでした」
 続いて、白虎の視線が横に流れる。
「……ティル様、主を今後共、よろしくお願い致します」
 ティリアムは苦笑気味に頷く。
「全く……最期まで堅い奴だな……」
 次に一転表情を引き締め、真摯な言葉を返した。
「でも、言われるまでもないさ。だから、安心して逝ってくれ……お前の事は――忘れない」
「私も忘れない! ハクトの事忘れないよ!」
 ハクトが、嬉しそうに目を細める。
「はい……。私もお二人の事は忘れません。さよう、なら――」
「ハクト――!」
 少女の声が響く中、白虎の姿が光の粒となって霧散する。それらはティリアムへと吸い込まれる光の流れの一つとなった。
「っつう……!」
 ティリアムが呻く。
 新たな命が宿っている証なのか、不意に全身に熱い何かが走ったのだ。
 それをきっかけに次第に辺りを包んでいた白光が収まっていった。
 気づけば、ティリアム達を囲っていた光の輪も消えている。
「――結局、また生き残ったか……」
 自身の掌を見つめ、ティリアムは拳を握った。
 全く持って何一つ自分の力ではないけれど――我ながらしぶといものだ。
 思わず微苦笑がこぼれる。
 と。
「どわっ!?」
 突然の圧力を受けてティリアムはその場に尻餅を突いた。
 オーシャだった。
 何を思ったか彼女が跳び掛かるように抱きついて押し倒して来たのだ。
「オ、オーシャ?」
 目を白黒させながら、胸の中に居る少女を見下ろす。
 小さな唇から漏れ聞こえて来た声に、ティリアムは、はっと息を止めた。
「……良かった…………本当に、良かった……ティルが死ななくて……」
「……オーシャ」
 少女が不意に顔を上げる。
「許さないんだから!」
 ティリアムの瞳に映ったのは、くしゃくしゃの泣き顔で、同時に、この心優しい少女らしからぬ本気の怒り顔だった。
「ここは――ティルの隣は、私の居場所だから、もう絶対に勝手に死ぬなんて許さない! マリアやハクトの分も、何が何でも生きてもらうんだからね! この先もずっとずっと…………死んじゃったら……嫌だよ……」
 最後の方は、もう半ば泣き声だ。
「――――ああ、ごめんな」
 オーシャが首に腕を回してきて、強く強く身体を押し付けてくる。
 もう何があっても離れないという想いを表すように。
「大好きだよ、ティル…………愛してる……」
 ティリアムもまた彼女の背中に腕を回して、同じくらい強く抱きしめ返す。
 決して離してたまるかと、そう強く心に決める。
「ああ、俺もだ。俺もお前が大好きで――誰よりも愛してる」
 相手の生の鼓動と温もりを感じて、二人は互いの気持ちを確かめ合う。
 もう命続く限り、傍に居ると誓い合う。
 そのとき、不意に。
 城が――否、隔絶された空間そのものが鳴動を始める。
 ティリアムは眉をひそめ、頭上を見上げた。
「何だ……? 何が起きてる?」
 すると、何かに気づいたオーシャが声を上げる。
「…………っ! まさかアダムスタが死んで、イヴァルナさんも消えちゃったから――」
「そうか……この空間そのものが魔法に大きく依存して保たれているんだ。それが消えれば暴走、崩壊――くそっ!」
 二人は慌てて立ち上がって――
 自分達を、足元から純白の光が包み始めている事に気づいた。
「! 何だ?」
「これって……」

 ――妾を見くびってもらっては困るな、二人共。

「イヴァルナ!?」
 どこからともなく響いて来た声。
 それは紛れも無く、ティリアムの命となって姿を消したはずの彼女のものだった。

 ――これが正真正銘、最後の餞別だ。この場所が空間の狭間へと消える前に、最後の力を用いて、お前達を外界へと飛ばしてやろう。

「待ってください!」
 オーシャが慌てた様子で、前へ踏み出す。

 ――どうした、オーシャ・ヴァレンタイン。

「都市の方にハロンとイリアが――生きている人が居るんです。あの人達も一緒に……!」
 返ってきたイヴァルナの声は、優しい笑いを含んでいた。

 ――そうか。わかった。なに、この空間内におるのならば、さほど難しい事ではない。

「ありがとうございます……」
 オーシャは、ほっとした様子で胸を押さえる。
 そんな少女を、ティリアムは優しい笑みを浮かべて見つめていた。

 ――では、行くぞ……!

 下から湧き出る光が、一際強くなる。
 互いの絆を表すように、青年と少女の手が強く絡み合う。

 ――……最後に言い遺しておこう。

 白く染まる意識と視界の中で、イヴァルナの声が聞こえた。

 名も無き世界にも――神は在る。
 《エデン》と共に、平等に世界を見守っておられるよ。
 ただ、あの方が慈悲深き創造主なのか、それとも冷酷な傍観者なのかは、妾にもわからぬ。
 だが、きっとお主達には、そんな事は関係なかろう。
 いつであろうとも未来を切り開くべきは、人の意志と力なのだ。
 お主達は、それをよく理解していようからな。
 だから、これからお主達の作り上げていく未来、楽しみに見守らせてもらうよ。
 長く長く平和な世で在らん事を……願っている。

 それを最後に。
 女神の声は聞こえなくなった。


 満天の星空だ。
 気づけば二人は、その下で大平原の真ん中に、ぽつんと立っていた。
 首を巡らせても、辺りには《陽炎の森》どころか、木の一本すら見えなかった。
 当然、人の姿もない。
「帰って……きたのか……」
 ティリアムは、安堵を含んだ呟きを漏らす。
 何だか、この場に無事に立っている事が夢のように思えた。
 だけど、肌を撫でる夜風も、踏みしめる草の感触も間違いなく本物だ。
「でも、夜になってるね。私達が《陽炎の森》の中に入ってから、半日も経ってないと思うんだけど……」
 オーシャが不思議そうに、空を仰いだ。
 確かに、彼女の言う通りだった。
 どう考えても、夜になるには早過ぎるはずだ。
 と。
「おい! こっちだ!」
 少し離れた場所から、聞き覚えのある声が耳朶を叩いたのだ。
「誰だ……?」
 夜闇の中、ティリアムが目を凝らすと、二つの人影が駆け寄って来るのが見えた。
 月明かりで姿を明確にした人影は――
「おう! 生きてたかぁっ!」
「どうやら無事みたいね」
「ジョン! フォルシア! お前達何で、ここに!」
 ティリアムは目を見張って、長い付き合いの二人の傭兵を交互に見た。
 隣に立つ少女も、驚いた様子で目をしばたたかせている。
 ジョンは呆れた顔で、事情を説明した。
「何でって……お前達が神殿を離れてから、もう一ヶ月が過ぎてるんだぞ!」
「「え……! ええええ!?」」
 思わぬ話に、ティリアムとオーシャは、一緒に素っ頓狂な声を上げる。
 次いで、フォルシアが口を開いた。
「《陽炎の森》は唐突に消えるし、貴方達はいつまで経っても帰って来ないしで、この一ヶ月、フェイナーン神殿の人間と一緒になって、この周辺をずっと捜索してたのよ」
「んで、さっき、たまたま妙な光が見えたから、こっちに来てみたら、お前達がここに居たってワケだ。まあ、何にしろ無事で良かった! 良かった!」
 ジョンは、やたらと嬉しそうにティリアムの背中をばんばんと叩いた。
「って! わかったから! 叩くなって!」
 なんだか凄い久々なやり取りだ。
 でも、懐かしさを感じるより先に、痛みの方が大き過ぎる。
 いいかげん、この男には手加減というもの覚えて欲しかった。
「だ、だけど、何で一ヶ月も……」
 驚きから未だ解放されていないオーシャは、唖然としたまま呟く。
「――たぶん、イヴァルナに飛ばしてもらうときに、時間軸が少しズレたんだ。だから、《陽炎の森》が消えた時間と俺達が戻ってきた時間に、一ヶ月の誤差が出たんだろうな」
 涙目で背中を擦りながら、ティリアムは自分の推測を口にした。
 おそらくは、それ以外に原因は考えられなかった。
 正直、一ヶ月程度のズレで済んだのは、幸運としかいいようがない。
 フォルシアが肩を竦める。
「まあ、よくわからない原因は良いわ。とりあえず、《陽炎の森》が消えて、貴方達が無事に戻ったって事は――勝ったんでしょう?」
「おう! そうだった!」
「……まあ、一応な」
 歯切れの悪いティリアムの返答に、ジョンとフォルシアは顔を見合わせる。
 そして、それに気づいた。
「そういやマリアは……どうした?」
「そう……そういう事なの」
 二人は、すぐに理由を察して口を噤んだ。
 ――重い沈黙が落ちそうになる。
 しかし、それを遮ったのは、オーシャだった。
「あの……マリアは満足して逝ったんだって、ティルは言ってました。だから――出来れば笑顔で見送ってあげてください。たぶん、マリアはそっちの方が喜ぶと思うから……」
「オーシャ……」
 ティリアムは困った笑みを浮かべ、少女の頭をくしゃりと撫でる。
「そういう台詞は、そんな顔で言うもんじゃないだろ」
「……ごめん」
 オーシャは、自身の言葉とは裏腹に、今にも泣きそうな顔をしていたのだ。
 ジョンが気を取り直し、自分の腰を叩いた。
「……まあ、あれだ! そういう事なら――俺達もしんみりするのは、やめとくか! 正直、俺も柄じゃないしな!」
「貴方は切り替えが早すぎるのよ」
 すかさずフォルシアが呆れた様子で、冷たく突っ込む。
 相変わらずのやり取り。
 もしかしたら、二人なりに少女を励まそうとしたのかもしれない。
 そして、オーシャもそれに気づいたか、涙を溜めながらも微笑を見せていた。
 ティリアムも頬を緩め――ふと、ある事を思い出す。
「ああ、そうだ。ジョン」
「ん?」
「これ……どうやらご利益あったみたいだ。ありがとな」
 懐から取り出したのは、弾丸だった。
 神殿を離れる際に、ジョンより手渡され、アダムスタとの戦いでは、危機に陥ったティリアムに、戦う意志を取り戻させてくれたものである。
 戦いの終わった後、足元に転がっていたのを拾っておいたのだ。
 すると、ジョンは、彼らしからぬ静かな笑みを湛えた。
「そうか。そりゃ良かった」
「……これ、本当に返さなくて良いのか?」
 予想外の反応に少し戸惑いつつも、指の間にある弾を掲げて訊いた。
「良いんだよ。それは、お前の持っとくモンだって言ったろ」
 何だか有無を言わせない響きを、そこに感じてしまう。
 だから、ティリアムもそれ以上、何も問う事は出来ず、
(……まあ、いいか)
 と、適当に割り切っておいた。
 そして、大きく息を吐いて、
「――それにしても、本当……」
 背中から、思いっきり大の字に草の上に倒れた。
「むちゃくちゃ、しんどかったぁっ!」
 何の体裁もない、心からの一言。
 最初は、行き場を失ってしまった少女を守りたいと思っただけだった。
 でも、いつかしかその行動は、自分の出生とも無関係ではない、世界の存亡を左右する戦いにまで発展してしまったのだ。
 今、思うと、どれだけとんでもない話なのだろう。
 事情を知らない人間に話した所で、とても信じてもらえるとは思えない。
 ある意味、どんな物語の主人公よりも、作り話の世界を生きているような気分だった。
(あの日から――本当に毎日が必死で、気づく暇もなかったけど……疲れるのも当たり前だよな)
 ティリアムが感慨に耽る中、他の三人は、突然の彼の行動に目を丸くしていた。
 そんな中、真っ先にオーシャが笑顔を浮かべた。
「……うん、本当に……大変だったよね」
 彼女もまた感慨も深く呟き、隣に腰を下ろす。
 そして、その手が、ティリアムの手にそっと添えられる。
「お疲れ様……ティル」
「お前も、な」
 目を閉じて、少女の手の暖かさを感じつつ応えた。
 ジョンは口髭を撫でながら笑い、
「お前達は、本当にたいした事をしたんだ。これから、ゆっくりと休めばいいさ」
 と、労う言葉を掛けてくれる。
「そうね。結果的に世界を救った英雄――という事になるんだから」
 フォルシアは髪をかき上げて、彼女には珍しく淡く笑んだ。
「――違うさ」 
 ティリアムは目を開き、静かに否定した。
 掌を天に向けて翳す。
 指の隙間から見えるのは、《陽炎の森》の中で見たのは違う――偽りではない本物の星空だ。
「俺は、俺の守りたいものを守っただけ――結局は、全部、自分の為だ。本当、世界の事も、そこで暮らす人間達の事も考える余裕なんて全くなくて……とてもじゃないけど、英雄なんてご立派なもんじゃない」
「でも、守ったんだよ。皆を。世界を」
 愛しい少女が目を細め、優しく言う。
「ああ。絶対に自分の力だなんて、胸を張れないぐらい、皆の力を借りてばかりだったけど――ちゃんと世界は続いてる。全く出来すぎだよ。これが物語なら、とんだ三流作品だ」
 ティリアムは可笑しくなって、自虐的に笑った。
「そんで、どうするんだ?」
 不意に、ジョンが興味深げに訊いた。
 ティリアムは、そちらに怪訝な顔を向ける。
「何がだ?」
「だから、自分の為に世界を救ってしまったお前達は、この先どうするつもりなんだって訊いてるんだよ。《デンメルング》もなくなったし、もう旅の目的もなくなったんだろう?」
「……そうだな。これから、ゆっくりと考えるさ」
 夜空に向けて翳していた掌を、ティリアムは強く握り込んだ。
 まるで輝く星々を――いや、望む未来を掴まんばかりに。
 きっと掴んで見せると、心に誓って。
「俺とオーシャが幸せで在れる……そんな道を」

 そうだ。
 これから考えていけばいい。
 この先、永遠なんて保証は絶対にないけれど。
 世界の危機は、またいつか訪れるかもしれないけれど。
 でも、確かに今、世界は続いているのだ。
 そして。
 世界が続く限り、未来も在り続ける。
 彼らが思いつく限り、進む道は無限に存在する。
 きっとそれは、神にだって創造できない――果てなき希望なのだ。

「……うん、探そう。いつまでも一緒に――」
 隣に腰を下ろす少女が、今まで見た中で一番綺麗な微笑を浮かべる。
 そして――
 青年の唇に、優しく自身の唇を重ねた。


 大平原の一角にある丘の上。
 そこに枯草色の髪の青年と、亜麻色の髪の少女の姿があった。
 ハロンとイリアである。
 彼らも、イヴァルナにより大平原へと飛ばされたのだ。
 目を凝らせば、向こうには、微かに月明かりに照らされるティリアム達の姿が見える。
「どうやら、ウォーレンスは勝ったようですね……」
 ティリアム達の居る方向を見据え、ハロンが僅かな驚愕を含ませながら、呟いた。
 正直、あの悪魔相手に本当に勝利を掴んでしまうとは、信じ難かった。
 だが、現実に《陽炎の森》は消え失せ、今もなお、世界は在る。
「そうね」
 隣に立つイリアは、何の感情も含まない声で返した。
 意外そうに、ハロンは少女を振り返る。
「――悲しまないのですね」
「意味が……ないもの」
 イリアはそう言って、目を閉じる。
「マスターは、世界を壊そうとしていた。それで自身が死ぬ事も厭わずにね。つまりマスターの為に戦うという事は、彼を殺すのと同義……私はそれを理解していた。だったら、世界破壊が実行されなかった事は別にしても、彼が死んだ事を嘆くのは、お門違いだわ」
「……なるほど。そうですね」
 ハロンは苦笑を含みつつ肯定すると、次に別の事を訊いた。
「それで、どうしますか? 世界は壊れず、アダムスタは死んだ。もう私達は生きる目的も、居場所も失ってしまったんです」
「…………」
 イリアは再び目を開けると、天を仰いだ。
 以前よりも柔らかさと、年相応の幼さを感じさせるようになった顔には、どこか途方にくれた表情が見えた。
「どうしたものかしらね。敗者としては死んではいけないようだし……だからといって生きるにしても、あてがあるわけでもない」
「ならば、一緒に行きますか?」
「…………え?」
 イリアが呆気に取られた様子で、微笑む青年へと視線を下ろした
「お互い生きる場所も、目的もわからない。なら、とりあえず共に歩んでみるのも一興でしょう」
「本気?」
「ええ、もちろん」
 ハロンは、不思議と高揚した心持ちで頷く。
「…………」
 イリアはしばらく沈黙して――
 まだ少し慣れない様子で、淡く微笑した。
「そうね……。そういう選択をしてみるも――一つの道かもしれないわね」
 これにハロンは満足そうに頷き、
「では、行きますか」
 すぐに踵を返して、少女を促した。
 イリアはそれに従う前に、一つだけ訊いた。
「あの娘に……会っていかなくて良いの?」
「……ええ」
 数瞬ほど間を空け、ハロンは答えた。
 もう、あの白の少女の居る方向を見る事もしなかった。
 それが彼なりの、あの少女へ対するけじめだった。
「……そう」
 イリアは呟き、もう何も言わない。
 今度こそ青年と共に歩み出す。
 途中、青年が一度だけ立ち止まり、その唇が僅かに動いた。
 それは、

 ――さようなら

 と、言っているように見えた。
 きっと、そこには様々な想いが込められていたのだろう。
 言葉になど出来ない――大切な想いが。
 その後。
 もう足を止める事も、振り返る事もせず、二人は夜闇の向こうへと姿を消した。


「――あの事……言わなくて良いの?」
 フォルシアが、ティリアムとオーシャに聞こえないくらい小さな声で、囁くように訊いた。
 相手は、隣に立つジョンだ。
 彼は、静かに頷いた。
「……良いだろ。形見は、ちゃんとティルが持ってるし、あえて言う事でもないさ。それがあいつの遺言でもあるしな」
「そう」
 フォルシアは納得したのか、してないのか、いまいち判断しかねる返答をした。
 そして、もう何も問う事はしない。
 まあ、これはいつもの事だ。
 ジョンは肩を竦め、平原に横たわる青年を、優しい眼差しで見つめる。

 ――ジョン・カルバリオには、かつて一人の年の離れた友が居た。

 彼は親友であり、自分に戦う術を仕込んでくれた師でもあった。
 共に旅する中、彼は、いつも誰かを捜し求めていた。だが、それが一体誰なのかを訊いても、彼は決して教えてはくれなかった。
 だから、ジョンもすぐに教えてもらう事を諦めた。
 ――数年が過ぎて。
 ある日、友は病により床に伏す事になる。
 当時、不治と呼ばれていた重い病だった。
 ジョンの必死の看病も届かず、程なくして彼は命を落とした。
 そして、死に間際、彼はジョンにある遺言を残したのだ。

 ――生き別れになった俺の妻と息子を探して欲しいんだ……。

 ――妻と……息子だって? そんなのがあんたには居たのか。

 ――ああ……。あいつら、きっと今も、キツイ境遇に居るはずだ。俺の代わりに見つけ出して、見守ってやって欲しい。

 ――あんたの事は教えてやらなくていいのか?

 ――良いさ。俺は、あいつらを受け止め切れずに逃げ出した男だ。今更、何を言ったって許してなんてもらえるはずもない。

 ――…………そうか。

 ――悪いな、ジョン……。俺の責任をお前に押し付けて。だけど、きっとお前なら、俺なんかより、ちゃんとあいつらを見守ってくれる気がするんだよ。本当、身勝手な話だが……。

 ――気にするなよ。あんたには世話になったんだ。それぐらいなら、いくらだって引き受けてやるよ。

 ――ああ……。礼を言う……。

「…………」
 ジョンは目を閉じる。
 瞼の裏に、今も鮮明に残る、友の顔が映った。
 ――そう。
 今更だ。
 だから、きっとこのままで良い。
 知らずとも良い。
 俺が、そっと心に秘めておこう。
 自らが捨ててしまった妻と息子を、最期の瞬間まで案じ続けた一人の男の記憶を。
 ジョンは改めて、そう決める。
 再び目を開け、亡き友への言葉を囁くように紡いだ。
「お前の息子は、もう俺が見守る必要がないぐらい立派な男になったぞ――なあ、親友」


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