エンジェル 五章
双の黄昏
―― 八 ――
「む!」
異変に気づき、アダムスタが眉を寄せて後退さった。
ティリアムを抱き止めていた暗黒の柱に、突如ヒビが走ったのだ。
「な、に……?」
アダムスタが信じられないといった面持ちで呻いた。
ヒビの隙間から噴き出すのは渾沌の光。
それは次々と増え、光はより強く激しくなっていく。
「……許してくれ、オーシャ。お前との約束――守れそうにない」
ティリアムの呟きと共に、まるで硝子が割れたような破砕音が響いた。
闇の塔が破られたのだ。
同時に、そこから飛び出す鬼神の影。
突っ込んだ勢いのままアダムスタを殴り飛ばし、ティリアムは駆ける。
「ぐ、うっ! ウォーレンス!」
「アダムスタぁ!」
殴られた衝撃で地面と水平に飛ぶアダムスタ、それを追走するティリアムの身体は、眩いほどの渾沌の光で包まれていた。
その理由に思い至ったか、アダムスタが得心して笑う。
「――自身の命の全て……渾沌の贄としたか!」
「そうだ! 俺の命の一滴までお前にくれてやる! アダムスタ!」
手にした鞭が姿を変える。
長剣。
それを握り、ティリアムがアダムスタへと踊り掛かる。
アダムスタが余裕を見せて笑んだ。
「しかし、無駄! お前の刃は私には届かん!」
空間転移。
悪魔は、空間の狭間へと逃げおおせる。
それに構わず、ティリアムは剣を大きく振りかぶった。
切っ先に渾沌の光を集わせ、凝縮、一気に空間の歪み目がけて振り下ろす。
そして――裂けた。
高密度の渾沌は空間にすら干渉し、歪みに僅かに爪を引っかけ、斬り裂いたのである。
裂けた隙間に、ティリアムは迷わず腕を突っ込む。
空間の狭間に逃げ込んだ悪魔を掴み、無理矢理に引き摺りだす。
この所業にアダムスタが瞠目する。
「馬鹿な!?」
「何度も同じ手が通用すると思うな!」
振るわれる渾身の拳。
完璧に腹部を捉えたそれはアダムスタを地面に叩きつける。
「ぐお!」
その隙を逃さず、ティリアムは上に圧しかかった。
両手で握り、振り上げる《ラグナロク》。
刃に一際、強大、強力な渾沌を纏わせる。
渾沌は紅き光と姿を変える。
必滅魔法《紅》の正体は、超高密度の渾沌だったのだ。
それはアダムスタを魂ごと滅し、再生など二度とさせない威力を剣に与える。
「終わりだ、アダムスタ!」
戦いの幕を下ろす刃が振り下ろされ――
「え…………?」
砕け散った。
それはアダムスタではない。
ティリアムの――腕だ。
《ラグナロク》を握るティリアムの両腕が石化したかのように硬質化し、粉々に砕け散ったのである。
渾沌の光は消え、髪と瞳の色も元に戻り、《ラグナロク》も霧散していく。
「――尽きたな、命が」
アダムスタが冷静に呟き、その腕が軽く振るわれる。
それだけなのに。
たったそれだけなのに。
生まれた烈風に踏ん張る事が出来ず、ティリアムは吹っ飛ばされていた。
「ぐっああああ!」
無様に背中から、地面に落ちる。
そんなティリアムを、立ち上がったアダムスタが微かな落胆と哀れみの視線で見下ろす。
「惜しかったな。もう数秒、命が保っていれば私を倒せただろうに」
「ぐっ……!」
ティリアムは歯噛みする。
だが、どんなに集中しても、もう渾沌は生まれてくれない。
《デモン》化すらできない。
鬼神は、朽ちて死に行くだけの無力な存在へと成り下がったのだ。
命尽きた事による硬質化は、腕の失われた部分より、身体側にも徐々に侵食を始めていた。これが全身に及べば、ティリアムは逃れようない死を迎える。
アダムスタは、ゆっくりと掌をティリアムへと向けた。
「放っておいても勝手に自滅していくだろうが……せめても情けだ。我が手で直接葬ってやろう。案ずるな。すぐに世界も他の連中も後を追う」
「……ふざ、けるなよ……!」
「――――!」
アダムスタが目を見開く。
すでに戦う力など微塵も残されていないはず。
なのに。
ティリアムは足だけで器用に立ち上がり、しかも、その双眸に爛々と抵抗を意思を輝かせ、アダムスタを睨んだのだ。
「……何故だ? 一体、お前の中の何がそこまでさせるのだ。どう考えても、もはやお前には、私に抗う力など残されていないだろう? そのはずだろう?」
「――――俺には罪がある」
震える足を無理矢理に身体を支え、荒い息を吐きながらティリアムは言った。
辛くて苦しくて、だけど決して忘れてはならない過去を思い出し、黒瞳が悔恨に揺れる。
「全ては俺の弱さ故に犯してしまった罪だ。決して許されない罪だ。
なのに、そんな罪人の俺を、自分の命を犠牲にしてまで助けてくれ、生きろと言ってくれた奴らが居る。この力守るために振るえと言ってくれた奴らが居るんだ。
きっと俺の命の全てを犠牲にしたとしても足りないだろうけれど――
ただの自己満足なのかもしれないけれど――
俺は、そんな皆に報いたい。
犯した罪に少しでも贖いたい。
俺の一生を懸けても……それも理由の一つだ」
一歩、踏み出す。
「だけど――それ以上に……この世界はオーシャが――絶対に死なせたくない惚れた女が生きる世界なんだ。俺はあいつに生きて欲しいんだ」
さらに、もう一歩踏み出しながら、ありったけの想いをティリアムは言葉にする。
「だから、血反吐を吐いて! 歯を食いしばって! 命を張って! ここに立ってるんだ! あいつの生きる世界を守る為に、俺は死んでも諦めるわけにはいかないんだよ!!」
本当に自分の為だけの、ちっぽけで他愛のない理由。
世界の為とか、そこで暮らす人々の為とか、そんな立派なものなんかじゃない。
だけど、ティリアムにとっては何にも変えがたい大切な気持ちだ。
どこまでも人の心を持っているからこそ譲れない想いだ。
アダムスタが静かに目を閉じた。
「なるほど。この絶望的な状況に至っても未だ折れぬ、その強固な意志。全くたいしたものだ、ティリアム・ウォーレンス。だが、哀しいかな、その意志を貫く力は、すでに今のお前にはないのだ。どんなに吼えたところで、我が勝利は揺るがん。
――眠れ。せめて、これ以上の苦しみを感じぬように」
「……ちく、しょう……っ!」
悪魔の掌に魔力が集い出す。
あれが放たれれば、ティリアムは間違いなく死ぬ。
防ぐ事も、避ける事も出来ない。
「駄目なのか! これで本当に終わりなのか……!」
強く目を閉じ、身を裂くような悔しさへのせめてもの抵抗のように、ティリアムは叫ぶ。
だけど。
終焉の一撃は、いつまで経っても放たれなかった。
「…………?」
怪訝に思ってティリアムは目を開く。
「……え?」
視界に映ったのは、なびく長く美しい金の髪。
見慣れた、でも、ここに居るはずがない人物の背中だ。
信じられない思いで、ティリアムが呟く。
「……マリア、なのか……?」
そう。
そこにはマリア・アールクレインが、両腕を広げてアダムスタの前に立ちはだかっていたのである。
「マリア、お前、どうして……」
ティリアムは呆然と口にした。
ここはアダムスタの創った異空間の中だ。
普通に考えて、オーシャが捕らわれてから、ずっと姿を消していた彼女がここに居るはずがない。
アダムスタもそれに驚いたのか、意外そうな顔で動きを止めている。
「遅くなってごめんなさい、ティル」
マリアは、こちらに振り返ると申し訳なさそうに笑った。
「実は、アダムスタが異空間を展開する際に、咄嗟に《白光の翼》の中から糸を繋げておいたんです。アダムスタの魔法陣の干渉を抜け、糸を通して、ここに姿を投影するのには、かなり手間取ってしまいましたけどね」
確かにいつもと違い、彼女の身体はどこか不安定で、常に激しくブレている。それこそ何かの弾みで今にも消えてしまいそうだった。
マリアは、両腕を失ったティリアムの姿を痛ましそうに見つめた。
「命が……尽きてしまったんですね」
「…………ああ」
唇を噛みつつ、ティリアムは頷く。
「でも、大丈夫。まだ終わりじゃありません」
「なん、だって?」
「糸を通して、《白光の翼》と同化している私の魂を貴方に流し込み、それを仮の命として転化すればいいんです。そうすれば、まだ戦えます」
その言葉に、ティリアムは瞠目する。
「馬鹿な! そんな事をすればお前は……!」
消える。死ぬ。
だけど、マリアは穏やかに微笑した。
それは死を覚悟した者だけが見せる酷く胸を締めつける哀しい表情。
「良いんです。どのみち、この戦いが終われば私は姿を消すつもりでした……ならばせめて、貴方達の世界を守るための礎になりたい」
「…………マリア」
そこでマリアは、何かの痛みに揺れる瞳を伏せる。
「ティル――実は私は、貴方とオーシャにもう一つだけ謝らないといけない事があったんです。こんな時にそれを言うなんて、本当に卑怯だと思うけれど、今しかないから……言わせてください」
「……何だ?」
僅かに逡巡して、しかし、マリアははっきりと言った。
「《デモンズ》の最後の生き残りであり、エアの転生者である貴方と《白光の翼》を宿したオーシャ――貴方達二人が出会ったのは偶然ではないんです。オーシャの内に居た私が意図的に出会わせた」
「…………」
それは、ティリアムも推測していた事だった。
二人の出会いは、互いの境遇を考えると、偶然と呼ぶにはあまりに都合が良過ぎるものだ。だからティリアムは、ずっと誰かの――おそらくはマリアの意志がそこに介入していると考えて――でも、あえて問い詰める事はしていなかったのだ。
そんなティリアムの考えを知って知らずか、マリアは独白を続ける。
「魂を《白光の翼》に同化させた私は、オーシャが力に目覚めるまでは、外界に直接的な干渉は出来ませんでした。でも、逆にむき出しの魂だけの状態だったからこそ、エアの魂が現世に貴方という形で転生を果たした事も感じ取れた。私は、ずっと貴方の魂を見失わぬよう感知し続けていました。
そして――ある日、オーシャが居た屋敷の近くに、貴方が訪れ時を見計らって、屋敷の外に出るようにオーシャの意識を誘導したんです……貴方と出会わせる為に」
マリアは、悔恨の想いに耐えるように胸を押さえ、琥珀色の瞳からは抑え切れなかった涙が溢れ出る。
「全てはこの世界の破壊を防ぐ為――でも、そんなものは何の言い訳にもなりません。だって、貴方やオーシャが、こんな戦いに望む事になったのは、全て私のせい……! きっと何をしたって償う事なんて出来ないけれど! いくら謝っても許されるはずはないけれど! でも! それでも! 言わせてください、謝らせてください……本当にごめんなさい……ごめん、なさい……!」
「……マリア」
泣き崩れるマリアに、ティリアムは身体の崩壊が進行するのも構わず歩み寄る。
そして膝を突き、彼女と目線を合わせると苦笑気味に微笑んだ。
「お前、馬鹿だよ」
「……え?」
マリアが不思議そうに目を見開く。
「俺達が、この戦いに巻き込まれたきっかけは、確かにお前だったのかもしれない。でも、この道を歩むとを決めたのは、間違いなく俺達の意思だろう? それに俺がエアの生まれ変わりとして転生したのだって、オーシャが《白光の翼》の宿主として創り出されたのだって、お前のせいなんかじゃないんだ」
「…………」
「だから、俺達はお前を責めたりもしないし、責める事が出来るはずもない。もちろん謝る必要だってない。むしろ感謝したいぐらいだよ。お前のおかげで俺はオーシャに出会えて、この力を守るために振るう事が出来た」
「ティル……」
ティリアムの言葉に、マリアは救われた様で、でも、少し寂しそうな――そんな複雑な笑みを浮かべた。
そんな彼女の目を見据え、ティリアムは口を開く。
「……マリア。悔しいけれど、もう今の俺には戦う力はない。放っておけば、このまま身体が崩壊して死ぬだろう。そして、世界はアダムスタの手で壊される。でも、それだけは決して許すわけにはいかないんだ」
そこまで言って、ティリアムは一瞬だけ迷い、目元を歪める。
「――本当なら……こんな事を頼みたくはない。でも、お前がそうやって覚悟を決めたのに、俺だけが失う事から逃げ出すわけにはいかないから……言うよ」
一度、心を決めるために目を閉じて。
少しして、それをまた開いて。
ティリアムは今度こそ、言い淀む事なく言った。
「――お前の命を……俺にくれるか?」
「はい……もちろんですよ」
マリアは無邪気な子供みたいに嬉しそうに、半泣きの笑顔で頷く。
恐れる事も、迷う事もなく。
ただ真っ直ぐとティリアムの瞳を見返して。
今にも消えそうに不安定なマリアの手が、ティリアムの頬に添えられる。
「マリア」「ティル」
互い名を呼ぶ。
ゆっくりと顔を寄せていく。
「俺はお前と出会えて、本当に良かった」「私は貴方と出会えて、本当に良かった」
唇が近づいていく。
そして、それが触れ合う直前に、二人は声を重ねて互いへと告げた。
たった一言の心からの想いを。
「「ありがとう」」
二人の唇が触れた。
マリアの身体がティリアムの中へと吸い込まれていく。
刹那、眩い光が溢れ、偽りの森を包み込んだ。
渾沌ではない。
それは――金色の光だったのである。
アダムスタは、あえてティリアムとマリアのやり取りを静観していた。
もちろん妨害する事ならいつでも出来た。
だが、もしも、この心昂ぶる戦いがまだ続けられるようになるというのなら、それは彼も望む事だったのである。
しかし、その結果、目の前に広がった光景は、彼の想像を大きく越えるものだった。
マリアの魂を自身の仮の命へと転化したティリアム・ウォーレンス。
彼の内から溢れ出た光は、先ほどまでの渾沌とは明らかに違った。
おそらくは、マリアの繋いだ糸を通じて、オーシャの《白光の翼》の力の一部すらも、自身の内に流し込んだのだろう。
しかし、それにしても、あの世界そのものを染め上げんほどの輝き。
見る者の魂を問答無用で揺るがす力強さ。
そして、アダムスタでさえ無条件で跪いてしまいそうな神々しさ――……
まるで、あれは。
神の纏う光にふさわしいものではないのか?
ティリアム・ウォーレンスは、今、この瞬間、真に誰よりも神に近しい存在へと昇華したのではないのか?
「…………くくっ……」
それを理解した瞬間、引きつる様にアダムスタが笑った。
「ははははははははははははははははははっはははっははははははははっはははははははははははははっははははははははっ!!!!」
酷く可笑しくて堪らなくて、背を反らして哄笑した。
なんと皮肉な事だろう。
《神族》と《魔族》の争いの副産物として神の意思を外れて生まれ、神の手より真に創造されし二種族に限りなく近い姿と心を持ちながら、哀れなほど脆弱なる者――人間。
そのちっぽけな存在が、《魔族》の男との交わりの果てに鬼の如き力を手に入れ、《神族》の女の残した力を受けて――人の心、《魔族》の血、《神族》の魔力という三種族の要素全てを所持する事で、他の何者より神に近い領域に立つとは!
アダムスタは思考する。
もしかすると……名も無き世界も、人間も、さらには魔導人間であるオーシャやイリアでさえも、本当は《エデン》とそこで暮らす二種族と同じで、神の意思より生まれた正しい存在だったのかもしれない。だからこそティリアム・ウォーレンスは、あれほどの高みに到達出来たのかもしれない。
――だとすれば。
神の意思にはない世界と生命の創造?
それは神への冒涜であり、何よりも重い罪?
「――愚かな」
なんという傲慢。
なんという自惚れ。
結局、《神族》も《魔族》も神の掌の上で踊っていただけではないか。
だと言うのに、勝手に自分達で恐れ慄き、名も無き世界とそこで暮らす人間への接触を禁忌とするなど――馬鹿馬鹿しいにも程がある。
とんだ道化だ、《神族》も《魔族》も。
もちろん、この推測が真実かどうか確かめる術など誰にもない。
神は決して我々の前には姿を現さないのだから。
アダムスタの知る限り、神は気紛れで無造作に命と世界を創造し、そして、優しく残酷に生命の足掻きを傍観するだけの存在だ。
それ以上でも、それ以下でもない。
だから、誰にも神の真意など理解出来ないし、知る事も出来ない。
しかし、もし。
この推測が真実で、ティリアム・ウォーレンスが真の意味で神如き力を得たというのなら。
(……まるで神すらも私に消えろと言っている様ではないか)
自らは決して世界に干渉しない神が、ティリアム・ウォーレンスという使徒を導いて、アダムスタへの死刑執行を告げている。
暇つぶしの箱庭と人形を消す事は許さぬと言わんばかりに。
もちろん憶測の範疇を越えるものではない。
しかし。
「……もし本当に、貴方がそう思われたのなら、それも良かろう」
アダムスタは嬉々として叫んだ。
神にすら否定された事を、むしろ喜ぶように。
「私は私の壊れた意志を貫き、この世界を道連れにしてやるだけだ! 我は万象の創造主たる神にすら叛逆しようではないか!」
金色の光に、ティリアムは静かに身を委ねていた。
自身より溢れた力が渾沌とは違う事は、どうでも良かった。
これはマリアが自身の命を犠牲に、ティリアムに与えてくれた最後の刃だ。
ならば、全力でそれに報いるだけ。
失われた腕が一瞬で再生すると、同時に復活していた《ラグナロク》が手に握られ、髪は穢れ無き白、瞳は血の如き紅に染まる。かつてない力が全身に漲り、果てしない高揚感が心を包んでいく。
さらに、その背に生まれ、輝くは――白銀の翼。
完全に《デモン・ゴット》化――アダムスタの考えに従うなら《使徒》(化か――したティリアムは自身の胸に、どこか祈るように手を当てる。
「……マリア。俺の中でエアと一つになってくれ」
もう今は亡き彼女に向けて呟き、アダムスタを見据える。
この力も長くは保たない。
おそらくは、保って数十秒ほどか。
イヴァルナの解放までにも、さほどの時間は残されていないだろう。
ならば、次の攻防で全てを終わらせるしかない。
と。
不意に、アダムスタが歓喜の表情で叫んだ。
「私は私の壊れた意志を貫き、何としてもこの世界を道連れにしてやるだけだ! 我は万象の創造主たる神にも叛逆しようではないか!」
その言葉の意味はわからない。
だが、次の瞬間、ただならぬ凄まじい魔力が悪魔の身より立ち昇ったのである。
ティリアムは、驚愕に目を見張った。
「……あれは、まさか!」
同じ事をしているティリアムにはわかる。
アダムスタは燃やし、力へと変えている。
自身の――命を。
「どのみち世界破壊が完遂すれば、我とて消える。ならば、その瞬間を見届けるためのだけの命が残ればそれで良い。それ以外は、ティリアム・ウォーレンス――お前を滅するために捨てようぞ!」
アダムスタが天へと手を翳す。
異変が起こる。
無数の暗黒の球体が次々と生まれ、ティリアムの周囲を包み込んだのだ。
その正体に気づき、ティリアムは戦慄する。
「っ! これは……!」
アダムスタは会心の笑みを広げた。
「そう、これら全てに闇の塔と同質の力が秘められている。如何に真に神如きを得た今のお前とて、容易くは防げまい!」
「くっ……!」
確かにアダムスタの言う通りだった。
この球体全てに対処していたら、先にマリアにもらった命の方が尽きてしまうだろう。
このままではティリアムの剣は、アダムスタには届かない。
それでも一か八か、飛び出そうとして――
それは起きた。
ティリアムとアダムスタの二人が戦う空間とは別にあるツェントルムの玉座の間。
そこに在る世界破壊のための魔法陣の上でたゆたう少女。
彼女の口が微かに動いた。
未だ意識は戻っていないのに。
未だに目は開かず、呼吸すらしていないのに。
未だ《聖器》は、イヴァルナの解放を続けているのに。
でも、間違いなくこう紡いだのだ。
――ティル、と。
「「!」」
ティリアムとアダムスタが同時に気づき、瞠目した。
それは何の前触れもなく出現した。
イヴァルナの力の具現。
一切の穢れを認めぬ白き槍。
《シュペーア》。
それがマリアの通した糸を伝い、空間を越え、無数の暗黒球体の浮かぶ森の上空に構築されていた。
――ティル。
「……オーシャ?」
幻聴かと疑うような小さな、小さな声。
でも、確かにティリアムにはそれが聞こえた。
世界中の誰よりも愛しいと思う少女の声。
絶対に死なせたくなくて、命を捨ててまで必死に守ろうとしている少女の声。
聞き違えるなど、絶対に有り得ない。
ティリアムは、その声の意味を言葉ではなく込められた想いで理解する。
優しく淡く微笑む。
「……ありがとう、オーシャ」
――命令を。
今度は少女のものではなく。生真面目な《ガイスト》の声。
ティリアムは頷く。
マリアの魂と糸を通じて、《白光の翼》とも繋がっている今のティリアムならば可能なはずだ。
「我が前に立ちはだかる脅威全てを――穿ち抜け!」
――御意に。
肯定の声と共に白虎が、《シュペーア》が、吼える。
上空に浮く槍の穂先から、いく筋もの閃光が降り落ちる。
破壊、粉砕、撃滅、消滅、蒸発。
偽りの聖地の森が、光の槍達に蹂躙される。
暗黒球体が――いや、それどころか無限の顔の観客達までもが断末魔の悲鳴と共に消失されていく。
この光景に、くくっとアダムスタが引きつった笑いを漏らす。
その笑いには、どこか諦念のようなものも含まれていた。
「ここに至り、無意識を越えてまで我を阻むか、オーシャ」
「――今度こそ舞台の幕引きだ、アダムスタ!」
ティリアムが駆けた。
金色の迅雷となって駆けた。
己の全てを込めた刃を強く握り駆けた。
少女の想いの宿った無数の光の柱の間を駆けた。
駆けて、駆けて、駆けて、駆けて、駆けて、駆けて、駆けて!
アダムスタに迫る!
悪魔もまた、渾身の魔剣で迎え撃つ!
「アダムスタァッ!!!!!!」
「ウォーレンスッ!!!!!!」
交錯する刃。
両者の意思が、想いが、心が、魂が、存在が、互いを否定し合い、衝突する。
生まれたドーム上の衝撃波に、一瞬で周囲の森が蒸発した。
次いで、異空間が軋み、歪み、崩壊を始める。
「――ぐっうっ!」
激しい鍔迫り合いの中、ティリアムの膝が僅かに折れる。
強大過ぎる力に、早くもマリアにもらった命が尽き果てそうになる。
互角だった戦いが、徐々に悪魔の方へと傾き始める。
「我が愚行の道連れとなってもらうぞ、ウォーレンス!」
勝利を見たか、アダムスタが笑みを広げた。
しかし、ティリアムの心はまだ折れてはいない。
折るわけにはいかない。
「まだ、だ……! まだだああああああぁぁっ!!」
強引に体勢を立て直し、一途に、一心に、ひたすらに。
自身の剣へと命じる。
自身の力へと命じる。
自身の魂へと命じる。
自身の存在へと命じる。
届かなくても、届け!
斬れなくても、斬れ!
貫けなくても、貫け!
砕けなくても、砕け!
不可能なんて、可能に――塗り変えろ!
「いけええええええええええええぇぇ――――!!!!!」
世界が砕け散る。
最後の舞台が閉幕を迎えた瞬間であった。
そこは、最初の玉座の間に戻っていた。
最後の攻防の末に、異空間は消滅している。
ティリアムとアダムスタは、無言で背中合わせに立っていた。
ティリアムの《アポステル》化は解け、アダムスタの角は消え、すでに両者の手に剣もなかった。
戦いは、すでに決着を得たのだ。
ならば、もはや武器など必要はない。
アダムスタが口を開いた。
「ようやくだ、ウォーレンス」
壊れた想いに染まる瞳は、念願の達成によって歓喜に満ち満ちていた。
でも、同時に少しばかりの無念も宿していた。
「ようやく訪れたのだ。求め続けた黄昏が。ついに私にも訪れた。やっと消えられる。やっと滅びる事が出来る」
ティリアムは何も答えない。
ただ背中越しに悪魔の独白を無言で聞いていた。
「長かった。ひたすらに長かった。永久かと錯覚しそうなほどに長かった。長命である《魔族》としても、あまりに長すぎる時だ。もしも私が壊れていたのでなければ、間違いなく狂っていただろう。――まあ、どちらにしろ我ながらろくなものではないがな……」
アダムスタは自嘲の笑みを浮かべ、目を伏せる。
「ただ一つの悔いは世界の道連れはお前に阻まれてしまった事だが――最期を前に楽しい一時を過ごせた。それで良かろうさ」
長く、長く、長く息を吐いた。
次いで、大きく吸った。
生の証たる呼吸を、最後に存分に味わうように。
ふと、彼の双眸に懐かしい誰かを見るような光が宿った。
「……ああ、君か。もう私も逝くよ。逝った先でもう一度、一目でもいいから君の顔を見たいけれど、たぶんそれは叶わぬ望みなのだろうね。……壊れたはずの私に、こんな気持ちがまだ在るなんて自分でも驚きだ」
それはきっと、かつて愛した女へと向ける言葉。
彼が見ているのは死を目前にした事による幻だろうか。
それとも――
アダムスタは、穏やかな顔で天を仰いだ。
「……そうだね、せめて君の名だけは私の疲れた切った魂に刻んで逝こう。今度こそ、本当にさようなら――」
そして、消えた。
エリック・カールソンだった男が。
《ヴェルト・ケーニヒ》だった男が。
アダムスタだった男が。
音も無く、何も一つ残さず消えた。
ただ、アダムスタの残した囁くような最期の一言は、勝者であるティリアムの耳にはっきりと届き、彼は信じられない思いで目を見張った。
――さようなら、リーヴェ。
アダムスタの愛した女の名は――ティリアムの母の名と同じだったのだ。
それを知った瞬間、脳裏に一つの過去の記憶が流れ込む。
誰よりも大切で、いつ如何なる時も互いに愛し合った女。
心より信頼し、いつ如何なる時も互いに笑い合った友。
彼らと共に過ごす、かけがえのなくて、大切で、楽しくて、夢のような、でも、ささやかな日々。
いつまでもいつまでも、それが続く事を願った。
でも。
それはアダムスタが《魔族》である事が知られた瞬間、いとも容易く崩壊した。
――ティリアムがそうであったように。
――ハロンがそうであったように。
友は、アダムスタを恐れ、刃を向けた。
女は、アダムスタを庇って、友の兇刃で死んだ。
女の血で塗れた友の刃。
目の前に転がる愛する女の無残な死体。
それを目にした時にアダムスタは酷くあっさりと――壊れた。
強過ぎる力に反して、彼の心はあまりに脆弱だったのだ。
だから、哀しむより、嘆くより、怒るより、憎むより、狂うより――壊れるのが最初だった。
だから、その後、友を手に掛けて、女の亡骸と共にその屍を眺めても、何の感傷など湧かなかった。
壊れた心は何も感じなかった。
ただ求めたのは、自身と一緒に壊れて消えていく道連れで。
道連れに選んだのは、名も無き世界とそこに暮らす人間達で。
強過ぎる力を持ってしまったが故に、気の遠くなるような時が過ぎていっても、彼は死ぬ事は出来なくて。
それが――悪魔アダムスタの物語だ。
滑稽で、悲しくて、愚かで、辛くて、どこにでもある、どこにもない悲劇の物語。
今となっては何の意味もない、誰の記憶にも残らずひっそりと消えていくだけの物語。
そう、消えていくのだ。
酷く無慈悲に、だけど、当たり前に。
他の者達の生きた物語と同じように。
物語の主人公の最期と共に――消えていく。
「…………でも」
ティリアムは振り返る。
アダムスタの立っていた場所を。
今はもう誰の姿のない場所を。
「きっとそれが――お前にとっての救いだったんだろう、アダムスタ」
それが。
悪魔に黄昏を与えた男の、最初で最後の彼への手向けの言葉だった。
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