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エンジェル 五章

双の黄昏



―― 七 ――

 白。
 白い。
 白い部屋だ。
 真四角の空間は、上も下も右も左も――全てが白だった。
 色というものを根こそぎ排除したかのような清廉な部屋。
 家具や窓も何もない。
 ただ白い壁だけが四方を囲んでいる。
 そんな場所に、オーシャはぽつんと独りで立っていた。
 ここは、どこ?
 どうして、こんなところに?
 自分はどうしたんだろう?
 次々と浮かぶ漠然とした疑問。
 でも、頭がぼんやりとして、上手く思考が働かない。
 歯車が回る先で外れて、空回りしているような感覚。
 かろうじて自我だけを保てているような夢現。
 ふと。
 白しかなかった部屋の中央に異質が浮かんだ。
 滑らかな長い金色の髪。
 琥珀色の瞳。
 周囲の白に溶け込みそうなほどに綺麗な白い肌。
 女だ。
 宙に浮く美しい女が、こちらを哀しげな瞳で見ている。
(ああ……)
 知っている。
 自分は知っている。
 この女の人が誰だかを知っている。
 でも、誰だっただろう?
 なんで、知っているんだろう?
 思い出せない。
 掬おうとする傍から、さらさらと砂粒のように記憶が滑り落ちていく。
(…………?)
 オーシャは、また気づく。
 金髪の女の後ろに、もう一つ何かが浮かんでいた。
 人影だ。
 とても小さな人影。
 丸まるように、短い手足をちぢこませている。
(赤ん坊……)
 そうだ、赤子だ。
 まるで母の胎内で眠っているのを、そのまま取り出したかのように、光の玉に抱かれた赤子が眠っている。
 と。
 不意に、赤子の姿に変化が起きた。
 瞬きで視界が遮られた刹那の内に。
 赤子は、気づけば一歳ほどの幼子にまで成長していたのだ。
 オーシャは、驚いて目をしばたたかせる。
 すると幼子は、さらに三歳児ほどに成長する。
 そこまで大きくなって、ようやく赤子が女の子らしい事に気づく。
「……封印の解放で、《白光の翼》に溶け込んでいたイヴァルナの魂が再構成され始めているんですよ」
 顔だけで背後の子供を振り返り、金髪の女が言った。
 親しみさえ覚える声。
 でも、やはり誰だったのか思い出せない。
 白光の翼?
 イヴァルナ?
 それらの単語も何だったのか思い出せない。
「もう時間は、あまりない。このまま解放が終われば、その瞬間、世界は滅ぶでしょう。だから……私は私の為すべき事をしようと思います」
 再び、女がこちらを見た。
 その顔は、ひどく辛そうで、悲しそうで、寂しそうで。
 でも、とても強い覚悟と決意に満ち満ちていた。
 見ているだけで、オーシャの胸がひどく締めつけられた。
 何か言わなければ。
 止めなければ。
 理由はわからないけど、そんな強い衝動に駆られる。
 なのに声一つでない。
 身体が全く動かない。
「……ごめんなさい。本当にごめんなさい。私は、貴女を辛くて苦しい戦いに巻き込む事しかできなかった。こんな身だから、そんな貴女を何一つ助ける事が出来なかった」
 微笑む。
 とても優しい、穏やかな微笑だった。
 オーシャは知らないはずだけれど、母の笑顔とはこんなものではないだろうかと思った。
「でもね、だからこそ最後の最後くらい、貴女の生きる世界を護るために、この命を張ってきます。エアの――ティルの助けになってきます」
(……ああ!)
 駄目だ。
 駄目だ。
 駄目だ。
 行っては駄目だ――!
 思うのに。
 強く思うのに。
 どうしても身体は反応してくれない。
 女の姿が、まるで光の紐が解けていくかのように足の先から消えていく。
 死を確約された行動を為すために、行ってしまう。
「行って……来ますね」
 そして、女の唇は。
 全てが消え失せる直前、こう紡いだのだ。

 ――貴女と出会えて本当に良かった。さようなら……オーシャ。


 ツェントルムの玉座の間。
 輝く魔法陣の上に在るは、封印解放の寄代とされた少女。
 不意に、閉じられたままの彼女の瞳から一筋の雫が頬を伝う。
 それは。
 大切な誰かとの別れを悲しむが故に流れた涙であった。


 無限の顔の浮かぶ、闇黒。
 それを包む無限の喝采と精霊の悲鳴。
 脆弱な者なら、居るだけで発狂するだろう壮絶な空間で、鬼神と悪魔が同時に地を蹴った。
 刹那で高速を越え、神速へ至る。
 もはや常人には目に留める所か、目に映す事すら許さない速度。
 人の限界など疾うに越えた世界で、二人の超人が激突する。
 アダムスタの手には、一瞬にして魔剣が構築されていた。
 そこにティリアムが《ラグナロク》で斬り込んでいく。
 最強の刃と刃が交錯する。
 余波で、近く浮かんでいた顔達が次々と塵と化す。
 だが、顔は無限だ。
 光景は何も変わる事はない。
 交錯。交錯。交錯。交錯。交錯。交錯。交錯。交錯――
 一撃一撃に必殺の威力を込めて斬り合い、その都度、破壊の衝撃波を撒き散らし続ける。
 もはや両者共もが、嵐の具現と言っても良かった。
 それでありながら、互いの攻撃が掠りもしない拮抗した攻防だ。
 このままでは埒があかないと見たか、二人が弾かれるように距離を置く。
 アダムスタが剣を持たぬ方の手を、ゆっくりと天に掲げる。
 唇が笑みを象った。
「最後の舞台――せっかくの観客を飽きさせぬように奇抜な演出もしなければな」
 掲げた手が指を鳴らす。
 途端、闇黒空間に変化が起きる。
 浮かぶ無限の顔だけはそのままに、ティリアムの視界に広がったのは巨大なる都市ヴォール・シュタント、その中央に聳えたつは、光を纏う城ツェントルム。
 気づけば二人は都市の真ん中に立っていたのである。
 だが……違う。
 先ほどまでティリアム達が居たヴォール・シュタントとは明らかに異なる。
 何故なら都市は全く朽ちておらず、立ち並ぶ建物も廃墟ではなかった。
 まさに七百年前の――《エンジェル》最盛期の時代の姿を誇っていたのである。
 おそらくは、アダムスタの記憶の中に在る当時の姿を異空間に投影したのだろう。
「さらにもう一つ」
 再び、指を鳴らす。
 すると、アダムスタの身体がブレた。
 否。
 二人に分裂したのだ。
 続いて。
 三人、四人、五人、六人、七人、八人、九人、十人、十一人、十二人――
 あっという間に数十人に増殖したアダムスタが、ティリアムを取り囲む。
 そして、全員が一斉に疾った。
 全てのアダムスタが、まるで本物と遜色のない速さ。
 とても回避不可能。
「! うぐ、がああああ!」
 躱す事も出来ず、数十の剣に斬り刻まれ、ティリアムの身体が噴き出す赤と共に宙を舞う。
 これに観客が激しく沸き立つ。
 そのくせ、表情は全くの無表情。
 しかし、まだ終わってはいない。
 深く傷ついたティリアムの肉体を渾沌が即座に治癒、苦痛の余韻に顔を歪めつつも闇の床に軽やかに着地する。
 あえて防御に回らず、受け流すように斬られる事で致命的な一撃を避けたのだ。
 渾沌の再生力があるという前提と、数を増やした事でアダムスタの攻撃の正確性が落ちていたという要素があったからこそ通った無茶である。
 そうでなければ、あの時点で戦いは本当に終わっていただろう。
 常識など当たり前のように踏み越える――この戦いは、そういう類のものなのだ。
『さすがにやるな、ウォーレンス』
 ティリアムの生存を見て取るや、またしても素早く囲い込み、全てのアダムスタが同時に口を開いた。
『では、月並みで悪いが、どれが本物の私かな? 正解出来たならば無防備でお前の一撃を受けようじゃないか』
「――三流演出だな、アダムスタ。その程度じゃ金は取れないぞ」
 不敵に笑い、ティリアムは《ラグナロク》を前に突き出した。
 そして、叫ぶ。
自己アイデンティティを塗り変えろ、《ラグナロク》――!」
 その言葉をきっかけに山吹色の長剣が渾沌の粒子となって崩れる。
 粒子はすぐに再び集い始め、新たな形を再構築。
 ティリアムの手に握られるのは、先ほどの剣と同じ山吹色をした――
 鞭だ。
『ほう、面白い!』
 数十の悪魔が昂ぶった声を合わせ、襲い掛かって来る。
 今度こそ鬼神を仕留めんと刃を振りかぶる。
「無駄だ!」
 ティリアムの腕が踊るように振るわれる。
 合わせて鞭が流れるようにしなり、華麗に舞い疾った。
 ティリアムの意思に導かれ、近づくアダムスタを次々と薙ぎ払い、打ち砕き、貫き、破壊していく。
 偽者の悪魔は、倒されると粉微塵となって消え去っていった。
 残るアダムスタは瞬く間に一人となる。
 一度、引き戻した鞭を手で掴むと、ティリアムは残ったアダムスタを目線で示す。
「お前が本物だ」
 宣告する否や、再び鞭が迸った。
 棒立ちのアダムスタは避ける様子もなく、鞭をまともに喰らう。
 受身も取ろうとせず、背後の建物をいくつも貫通しながら、吹っ飛ばされて行った。
 崩れ落ちる瓦礫に、地響きのような破砕音が巨大な都市を包む。
 ティリアムは反撃に備え、油断なく身構える。
 律儀に約束を守って攻撃を喰らったようだったが、あの程度で死ぬような男でない事は、エアの記憶によってティリアムは嫌と言うほど知っている。
 程なくして、やはりアダムスタは粉塵を裂いて姿を見せた。
 身を包む衣服こそ破れていたが、肉体は無傷――おそらくはすでに再生したのだろう――だった。
 面に壊れた笑みを張り付けたまま、アダムスタは掌で身体の埃を払う。
「武器の形状を変えるという戦い方はエアもしていなかった。どうやら七百年前以上に楽しめそうだな」
 言って、指を鳴らす。
 またもや光景が変わる。
 今度は、深き森だ。
 向こうには、天を衝かんとするほどの巨大な建築物――フェイナーン神殿が見えた。
 今度の舞台は、七百年前の聖地レレナの森か。
 他ならぬアダムスタが、遥か数千年も昔、イヴァルナによって滅ぼされた地だ。
「悪いが、お前をゆっくりと楽しませてやるつもりはない! こっちは時間がないんだよ!」
 舞台の変化には目もくれず、ティリアムは大きく跳ねた。
 そう。
 今この時も、イヴァルナの解放は進んでいる。 
 それが完了してしまえば、戦いの勝敗以前に全てが終わるのだ。
 なればこそ一刻も早くアダムスタを討たねばならない。
 ティリアムの腕が舞った。
 鬼神の意思を受けた鞭が、渦巻くようにアダムスタへと牙を剥き、生まれた旋風で辺りの木々の葉が枝を離れて巻き上がった。
 アダムスタがすうっと目を細めた。
 途端、彼の纏う空気が変質する。
 より鋭く。より強く。より鮮烈に。
「そう言うな。壊れた私にとって、互いを破壊し合う戦いという行為は心からの高揚を得られる唯一の手段なのだ。もっと楽しもう。長く長く楽しもうではないか!」
 恍惚すら含んだ声を上げ、アダムスタの持つ魔剣が翻った。
「なっ!」
 ティリアムが目を見張った。
 死角から死角へと移動しながら次々と襲い掛かって来る鞭。
 アダムスタはそれを、その場から一歩も動く事なく剣一本でことごとく打ち払っていたのだ。
「どうした。攻撃が甘くなったぞ」
 驚愕で生まれてしまった隙を逃さず、アダムスタが跳んだ。
 刹那の後には、すでに悪魔の顔が真横にあった。
「っ!」
 鞭を振るっていたティリアムは防御に移れない。
 擦れ違い様、持っていた鞭ごと右腕を斬り飛ばされる。
 喪失感とそれ以上の激痛と共に、傷から鮮血が吐き出され、血の糸を引く。
 これに観客が歓喜する。狂喜する。
 さらなる血を。殺戮を求める。
 それに応えるかのように、アダムスタの攻撃は続く。
 空中で身を捻って何もない空間に着地し跳躍すると、再度、斬り掛かって来たのだ。
「舐め、るなぁっ!」
 腕を失った痛みを捻じ伏せ、ティリアムは喉から怒りを迸らせた。
 落ちる右腕と鞭が渾沌の粒子と化す。
 粒子は鮮血を吐き出す右腕の切り口へと集い、腕を再生、剣を構築。
 紙一重のタイミングで、アダムスタの斬撃を受け止める。
「あああああああああ!」
 さらに、吼える。
 渾身の力でアダムスタを受けた剣ごと弾き飛ばし、唱える。
「塗り変えろ!」
 剣が変化する。
 山吹色の銃身を持つ拳銃へと姿を変える。
 両者が同時に地面に着地。
 すかさずティリアムは握った拳銃の銃口を、体勢を崩しているアダムスタへとポイント、引き金。
 渾沌の銃が高らかに咆哮する。
 吐き出された弾丸は、軌跡の先にある存在を何一つ許さず屠る。
 渾沌の銃弾に喰らいつかれ、アダムスタの脇腹が消失した。
 さらに。
 引き金。引き金。引き金。引き金。引き金。
 咆哮。咆哮。咆哮。咆哮。咆哮。咆哮。
 アダムスタの頭部の半分が、左肩が、右手首が、右胸が、左大腿部が粉砕される。
 突き抜けた弾丸は、軌道の先にあった木々を次々と薙ぎ倒し、地面を巨大な轍のごとく抉り飛ばす。
「このまま塵になるまで撃ち砕いてやる――!」
 だが。
「――――!!?」
 息が止まった。
 容赦ない破壊に晒されながら。
 自身の存在の駆逐を前にしながら。
 でも、確かに。
 半ば壊れた顔で。
 アダムスタは笑っていたのだ。
「――我が本気を見てみるか、ウォーレンス?」
 吹き荒れた。
 今までより、さらに凄まじい、禍々しい、おぞましい強大な魔力が悪魔の肉体より放たれたのである。
 そして。

「――――え?」

 気づけば五回、斬られていた。

 今、思い出したかのように斬られた場所から遅れて赤の滝が噴き出した。大量の血を失った脱力感と斬り刻まれた痛みが一斉にティリアムの脳髄を激しく突き上げる。
 立っていられなくて、自身で作った血の海の上で膝を折った。
 ばしゃりと血の跳ねる音がする。
 それを呆然とした思考の中で聞いていた。
 前のめりに倒れそうになった所を、反射的に出た両腕がかろうじて支える。だが、その腕さえも今にも折れそうなどほど弱々しい力しか入らない。
「……がっ……はっ……!」
 喉から、さらに赤黒い血を吐き出す。
 生きているという事実さえが、もはや奇跡に近い。
 あの瞬間。
 アダムスタの動きは、ティリアムの目に何一つ映らなかったのだ。
 咄嗟に背筋を走った危機感に従って回避に動いていなければ、まず即死であったろう。
 深く傷ついた身体を、すかさず渾沌が癒し、失われた血や肉すら補完する。
 立ち上がれ――と、さらなる戦いに誘う。
 そこには、まるで何者かの残酷な意思すら介在しているかのようで――そして、ティリアム自身もまた、その意思に逆らうつもりなど毛頭なかった。
 オーシャの為にも、こんな所で決して倒れるわけにはいかないのだ。
 闘志が再燃し始めた時、すぐ前に誰かが降り立つ足音がした。
 ようやく力が戻り始めていたティリアムは、未だ残る苦痛で歪んだ顔を上げる。
 当然、視界に入ったのはアダムスタだ。
 しかし、その姿は、先ほどまでとは明らかに違っていた。
 大きく破損していたはずの肉体は、完全な五体満足にまで再生している。
 そして、何より――頭の両脇に生えていたのだ。
 禍々しい魔気を放つ、捩れた大きな二本の角が。
 あれこそ《魔族》の象徴であり、力の証。
「……それが、お前の本当の姿か……」
 驚愕と畏怖が滲んだ声でティリアムが呻くように問う。
 アダムスタは鷹揚に頷いた。
「そうだ。この姿でこそ、私は《魔族》としての真の力を発揮出来る。ただの人間などお呼びもつかない領域に立つ事が出来る」
「だったら――」
 ほぼ完全に治癒と再生が終わった事を確認して、
「俺がそこから引き摺り落としてやる!」
 全身をバネのようにして跳ね起きた。
 同時に手にしている渾沌の銃をアダムスタに向け、引き金を――
「なっ――」
 しかし、銃口の先には、すでに誰も居なかった。
 途端、背中に衝撃。
「――ぐっ!? がああああああああああああああああ!」
 錐揉みしながらティリアムの身体が前方に吹っ飛び、軌道上の木々を薙ぎ倒し、土を抉り上げる。
 その先に待ち受けるアダムスタ。
 無造作に蹴り上げられると、さらに上空でもアダムスタが先回りして出現、合わせた両拳で今度は真逆に叩き落とされる。
 流星のごとく地に落ちたティリアムは、地面を丸く大きく抉って、その中心で倒れ伏していた。
 文字通りで手も足も出ない。
 屈辱に唇を噛みながら、地面に両手を突いて身体を持ち上げる。
 連続の衝撃で脳と内臓とが大きく掻き回され、苦痛と痺れと吐き気が仲良く襲って来る。生きてる事自体が僥倖とはいえ、最悪の気分だった。
「……ぐ……あう……くっ!」
「どうした、こんなものか? 私は、まだまだ楽しみたいのだがな」
 気づけば上空に立つように浮くアダムスタが居た。
 格が違うと言わんばかりに、地を這う鬼神を泰然と見下ろす。
 ティリアムは口の中の血を吐き出す。治癒と再生を施す渾沌の光を纏いながら、少しふらつきながらも立ち上がった。
(……どういう、事だ……?)
 先ほどから覚えている疑念。
 ティリアムは、本気を出したアダムスタの動きを全く察知できない。
 速すぎて捉えられないのではない。
 そもそも気配自体が完全に消えてなくなるのだ。
 だが、そうかと思えば、唐突に出現し、防御も回避もする暇なく攻撃を浴びせられる。
(このままじゃ……なぶり殺しだ)
 《デモン・ゴット》化の状態では、ティリアムは常に命を消耗し続けている。
 このまま再生に力を使い過ぎれば、イヴァルナの解放の云々以前に、ティリアム自身の命が尽きて自滅してしまうだろう。
 アダムスタとて無限に再生出来るわけではないだろうが、このまま戦い続ければ、命を消耗するティリアムと魔力を消費するアダムスタ――どちらが力尽きるのが早いかは明白だ。
 自身の不甲斐なさに歯噛みしつつ、ティリアムは《ラグナロク》を鞭へと変えた。
 ともかく、この状況を打開しなければならなかった。
 アダムスタが余裕を感じさせる笑みを見せる。
「ほう、また曲芸を見せてくれるのか?」
「……ほざいてろ!」
 叫び、腕を振るう。
 頭上のアダムスタへと、美しい螺旋を描きながら鞭が襲い掛かる。
 またしても悪魔の姿は消失。
 しかし、ティリアムは焦る事なく、すかさず目を凝らした。
 アダムスタが何かしらの魔法を用いているなら、発動の瞬間こそ、その正体を見抜く最大の好機であるはずなのだ。
「!」
 そして、見た。
 つい先ほどまでアダムスタの居た空間。
 そこが僅かに歪みを見せていた。
「――空間転移か!」
「御明察」
 声は下。
 足元から、土を焼き尽くしながら、凄まじい業火の渦が立ち昇った。
「ぐうっ!」
 今度は、かろうじて跳んで躱す。
 それでも避け切れなかった右足が焼けてくすぶっていた。
 刺すような苦痛を無視して、ティリアムは自身の周囲を注意深く観察する。
「! 居た!」
 見つけたのは、空間の歪み。
 アダムスタが空間転移で移動しているのなら、消失時と同じく、出現の際にも歪みが発生すると踏んだのだ。
 そして、それは的を射た。
 歪みに向け、すかさず鞭を疾らせる。
 このタイミングなら躱せないはずだ。
「何っ!」
 だが、思い違いだった。
 歪みは、何も出現させる事なく消え去る。
「残念だったな」
 突如、脇に姿を見せるアダムスタ。
「――――!?」
 ――あの歪みは、フェイク!
 アダムスタの指がそっとティリアムの胸を撫でた。
「闇の塔よ、参れ」
 瞬間、天より巨大な暗黒の柱が降り落ちる。
 ティリアムの身体を囲い貫く。
「ウグがアアアアアアアアあうああああああああああああああああ!?」
 途端、喉の奥から迸る絶叫。
 剣で突き刺し、抉り、引き抜き、またしても刺す抉るような激痛。
 全身の血が沸騰し、肉体が根本から徐々に分解されていくような感覚。
 それらがティリアムを肉体を容赦なく襲って来たのだ。
 必死に逃れようともがこうとするが、指一つ動かせない。
 無限の顔の観客達が、狂ったように――否、狂って喝采する。
 鬼神の最期を熱望する。
 最悪の苦痛にのたうちまわり、しかし、何一つ動けないティリアムを、アダムスタは、まるで愛おしむかのように優しい眼差しで見つめる。
「《紅》ほど即効性はないが、私にも必滅魔法は使える。この闇の塔は、お前の肉体を、魂を、存在をゆっくりと消去していく。まるでナイフで少しずつ肉を削いでいくように。最高最悪で極上の苦痛を味わうが良い」
「グアアアアアアアアアアおおおおオオオおおおおおオおおおおおおおおおオオオオおオオオアオオおおおおおおおおオオおおおおおおおおおおおおおおおおオオああオオオオオおおオォォォォっ!!!!!!」
 悲鳴が、さらに大きくなる。
 発狂する寸前。
 抗う意志など、疾うに失われている。
 あとは残酷な遅さで、ゆっくりと消されていくだけ――
 終わる。
 負けたのだ。
 鬼神は、悪魔に負けた。
 後は、それを追って世界は壊れるのだ。
 もう運命は決定づけられた。
 苦痛に呪縛されたティリアムには絶望を感じる事すら出来ない。
 ――と。
 闇の塔に捕らわれたティリアムの懐から、一つの輝きが落ちた。
 小さな弾丸。
 神殿を離れると時、ジョンより渡されたお守り。
 ことん、と地面に微かな音を立ててそれが落ちる。
 音というには、あまりに小さな儚い音なのに、それは滅び消え去りそうなティリアムの耳朶を確かに叩いたのだ。
 一つの声へと形を変えて。

 ――本当にそれで良いのか?

 それは、

 ――これで終わってしまうのか?

 聞き知らぬ男の声で、母の声で、クルツ村の村人達の声で、ウェインの声で、フィーマルの声で、これまでの戦いで死を見届けた者達の声で――

 ――終わって良いのか?

 問われた。

「………………良い、わけ……あるか……」

 ――終わって良いのか?

 問われた。

「……終わって……………たま、るか……」

 ――では、どうする?

 問われた。

「……そんなもの、は決まって……る……!」

 ――どうする?

 問われた。

「……足掻……く! 足掻き抜いて……やる! この命尽きる果てる瞬間まで!!」

 ――では、戦え。

 最後に誘われた。


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