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エンジェル 五章

双の黄昏



―― 六 ――

 ――何故だ! 何故なんだ!!

 男。血濡れ。悲痛な問い。

 ――お前は、俺達とは違い過ぎるんだよ……。怖いんだ。どうしようもなく怖いんだ。だから……死んでくれ。

 友。刃。残酷で理不尽で身勝手な宣告。

 ――駄目よ! やめて、お願い!!

 女。涙。必死で切ない願い。

 ――ウアアああアアアアアアああアアアああああああアアアアアアアアアアアアアアアアあアアアあああアアアアああああああああアアアアアアアアアアあああああアアああああアアアアあああアアああああアああ!!!!

 
咆哮。慟哭。絶望。狂気。そして、破壊。

 過去の欠片だ。
 壊れていく憎しみと。怒りと。哀しみと。愛と。友情と。心と。魂と。存在と。全部と。
 壊れた。ただ壊れた。
 壊れて壊れて壊れて壊れて壊れて壊れて壊れて壊れて壊れて壊れて壊れて壊れて壊れて壊れて壊れて壊れて壊れて壊れて壊れて壊れて壊れて壊れて壊れて壊れて壊れて壊れて壊れて壊れて壊れて壊れて壊れて壊れて壊れて――コワレテ。

 過去の欠片だ。
 始まりで終わりだ。
 終わりで始まりだ。
 終わりは、アダムスタを形作っていた命以外の全てが壊れた日で。
 始まりは、壊れたアダムスタが悪魔として生まれた日で。

 嗚呼。
 でも、どうでもいい。
 だって、過去だから。
 自分は壊れたから。
 だから、無性にどうでもいい。
 ただ――どうせだから一緒に壊れてもらおう。
 人間に。世界に。全てに。
 それは。
 裏切った友が憎いから?
 愛すべき者の死が哀しいから?
 愚かな人間達とその世界に怒っているから?
 否。違う。間違い。
 だって、そんな想いはとっくに壊れている。
 ここに居るのは、ただの壊れた悪魔なのだ。
 だから、そこに感情なんて在りはしない。もしかしたら、きっかけはそれらの感情だったかもしれないけれど、全部、壊れている。
 そう。
 ただ、今は。
 当たり前のように道連れを求めているだけ。

「――さて」

 壊れた悪魔が王座から腰を上げる。
 壊れた想いを為すために。

 「そろそろ最後の舞台を整えねばな」

 深淵の瞳の光は、どこまでも暗く。
 やはり壊れていた。


 オーシャは駆けていた。
 マリアと共に、駆けていた。
 真っ直ぐとツェントルムを目指して、駆けていた。
 不意に、
「――――」
 視界がぐにゃりと歪んだ。
 足に力が入らなくて、身体を支えていられない。
 横にあった廃墟の壁に肩からよりかかってしまう。
「……オーシャ!」
 隣のマリアが名を呼んだ。
 実体化した手で、荒い息を吐く少女の背中に手を添える。
「さっきの戦いであれだけ消耗したんです。やはり、少し休みましょう」
「……駄目だよ」
 オーシャは重い疲労の浮かぶ面に微笑みを形作って、頭を振った。
「ティルが待ってる。早く行かないと」
「――意外に頑固ですね、貴女は……」
 マリアは困ったように苦笑する。
 手のかかる娘を見るような眼差しだった。
「ごめんね。でも、大丈夫。まだ走るくらいなら全然……」
 言いかけて、停止する。
 少女の視線がある一点に固定される。
 何故? 
 そんなわけがないのに。
 おかしい。
 どうして?
 疑問が次々と溢れ出す。
 動揺が。焦燥が。恐怖が。全身を支配する。
 動けない。動かなければいけないのに、動けない。
「オーシャ?」
 少女の異変に気づいたマリアも、彼女の見ているものに気づいて、途端に顔色を変えた。
「ア……」
 瞳に映る者の名を呼ぶ。
「……アダムスタ……!?」
 そう。
 ツェントルムへと続く道、その中央に立つのは。
 圧倒的な魔威を放つ体躯。
 深淵の闇を宿す灰色の瞳。
 その手には、鍔の部分に女神像のはめ込まれた、硝子のように透き通った刀身を持つ剣が握られている。
 紛れもなく悪魔アダムスタ。
 手にした剣は、シーナの王城でハロンが持ち去った《聖器》の一つか。
「何故……ここに……」
 単純な疑問が実際の言葉となって漏れた。
 何故、ツェントルムに居るはずのアダムスタがここに居るのか。
 ――いや。
 そもそも、それはこちらの勝手な推測なのだ。
 事実、ツェントルムに彼が居たとしても、おとなしく自分達の到着を待つ義理はない。
 それこそティリアムと離れ離れになっている自分を狙って、姿を見せてもおかしくはないではないか。
 動揺。焦燥。恐怖――自身の行動を阻害する全ての感情を押し退けて、オーシャは身構える。
 闘志を、残り少ない力を燃やし、翼を具現する。
 髪が、瞳が、白銀へと色を変える。
「イリアを屠ったか。たいした成長だな、オーシャ」
 アダムスタは、素直に感心したように言った。
 精一杯の虚勢を張って、オーシャは悪魔を睨みつける。
「そうよ。貴方を倒すために、私はここまで来た!」
「そうか。私をか……くくっ……」
 アダムスタが身を震わせた。
 そして、次の瞬間、
「はははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!!!」
 背を反らせて、狂ったように哄笑した。
「…………!!?!」
 それだけなのに、どうしようもなく恐怖を誘った。
 懸命に支えている心が折れそうになった。
 今更、アダムスタが深奥に秘める狂気を思い知る。
 これほどのものに気づかず、かつて自分は父と慕っていたのか。
 この男を。
 この悪魔を。
 不意に、アダムスタは哄笑を止める。
 狂気の剣を鞘に収めるように。
 また、いつでも抜き放てるという危機感を残したまま。
「だが、残念だな。お前は最後の舞台には立てない。そこに立つのは、私と――そして、ティリアム・ウォーレンスだけだ。お前は舞台の終幕を飾る最後の鍵に過ぎぬ」
「……どういう意味?」
「知る必要はない。鍵は、ただ扉を開くための道具なのだから」
「!」
 刹那。
 アダムスタの姿を見失う。
 気づけば、すぐ眼前に立っていた。
 脚力だけで、《リヒト》を凌駕する速さ。
 とても反応など出来ない。
「眠れ」
 宝剣の刃が迅雷の速度で突き出される。
 かわせない。

 やられる――!

 絶望と共に目を閉じる。
 しかし、耳に届いたのは刃が肉を裂く音ではなく、甲高い金属音。
「え……?」
 目を開ける。
 アダムスタの刃は止められていた。
 自分の胸を貫く、すぐ直前で。
 それを為したのは、半ばで砕けた刀の刀身。
「……イリア様の安否を確認に来ただけのつもりだったのですけれどね。どうやら、想定外の場面に遭遇したらしい」
 聞き覚えのある声。
 それは、かつて兄と慕った男。
 今は、敵となったはずの男。
「ハロン……?」
 そう。
 ハロン・イヴシェナーが折れた刃を盾にして、オーシャをアダムスタの兇刃より守っていたのである。


「はっ!」
 ハロンが力強く息を吐き、宝剣を弾く。
 アダムスタは軽やかに跳躍し、間合いを取った。
「ハロン、どうして……?」
 疑問はたくさんあったけれど、オーシャの唇から真っ先にこぼれた問いはそれだった。
「さて、ね」
 ハロンはアダムスタと対峙し、こちらに背を向けたままで答えた。
 先ほど見た様子では、肩から胸にかけて酷い怪我を負っていた。出血が止まっていないのか、傷を縛った布の上からも染み出した鮮血が滴っており、激しく上下する肩は呼吸の荒さを物語っている。
「本当、何でなのでしょうね」
 声は苦笑を含んでいる。
 敵となってからは、決して宿さなかった暖かさがそこにあった。
 そして、そんな自分にまだ戸惑っているようでもあった。
 オーシャも戸惑いは同じだ。
 満身創痍の様子から見るに、おそらくはティリアムと戦ったのだろう。
 そして、きっと――敗れた。
 その事が彼の何かを変えたのかもしれない。
 突然のハロンの介入にも、アダムスタは全く動揺は見せず、得心した様子で笑んだ。
「そうか。お前は、その道を選択したか」
「……驚かれないのですね」
 意外そうにハロンが口にした。
「これでも部下の内心に気づかぬほど、愚か者ではないつもりだ。そういう結果も有り得るだろうとは思っていた」
「わかっていながら何故、私を傍に置いていたのです? いつ裏切るとも知れぬのに」
「そうだな」
 アダムスタは肩を竦める。
「お前のような人間が嫌いではなかったというのもあるが……まあ、一番の理由は、どうでも良かったからだろう。お前が裏切ったとしても。そう……どうでも良かったのだ」
(……? 何、この……)
 単なる恐怖とは違う、異様な感覚。
 先ほどからずっと覚えている正体不明の不安感に、オーシャは思わず胸を強く押さえる。
 今のアダムスタの返答は、何かが酷く狂っていた。
 言葉面だけではわからない、何かが。

 愛に満ち満ちている。
 ――だけど、誰も愛していない。
 憎しみに塗れている。
 ――だけど、誰も憎んでいない。
 怒り狂っている。
 ――だけど、誰にも怒りを覚えていない。

 そんな矛盾が当たり前に成り立っているような、おかしさ。
 生まれた傍から感情が消えてしまっているような不条理さ。
 まるで、心というものが壊れてしまったかのような異常さ。

 オーシャは思った。
 もしかすると、今までアダムスタが見せていた顔の全ては虚構であり、これこそが彼の本性なのかもしれない。
 それを今、自分達は垣間見ているのかもしれない。
 大切な何かが壊れてしまった悪魔――そんな顔を。
 ハロンも同じ事を感じ取ったのか、背中ごしに戦慄が伝わってきた。
「どうでも良い、ですか……。お言葉ですね。だが、それでも私は貴方に恩がある。心は痛みますが――それを仇で返させてもらいますよ」
「それも良かろう。どうせ、何も変わりはせん」
 アダムスタは確信に満ちた口調で言う。
「オーシャ」
 ハロンが、少女の名を呼ばう。
「アダムスタは私が相手をします。貴方はその間に、ウォーレンスと合流しなさい」
「ま、待って! どうしてハロンは私の事を……!」
「……話している時間はありません。――早く行きなさい!」
 最後に、強い口調でハロンが命じる。
 次いで、マリアが冷静に口を開いた。
「オーシャ。詳しい事情はわかりませんが、今は彼の言葉に従いましょう。ここで貴方がアダムスタに捕らえられる事だけは、絶対に避けねばなりません」
「…………」
 僅かに逡巡して――すぐに答えを出した。
「……わかった」
 今は、信じるしかない。
 敵であるはずの自分を助けるために己の主に刃を向ける――この青年を。
 オーシャは、一度だけハロンの背中を一瞥して、
「死なないで、ハロン」
 そう願うように言った。
 ハロンは何も答えなかった。
 でも、何故か、見えない顔が微笑みを形作っているような気がした。
 次の瞬間、オーシャは身を翻して駆け出す。
 同時に、ハロンは《蒼雷の翼》を現出させ、アダムスタへ向けて疾った。
「はあああああああああ!」
 アダムスタは動かない。
 ただ立ち尽くして、ハロンを待ち受ける。
 瞬間、ハロンの姿が雷光となった。
 残る力を振り絞った《リヒト》だ。
 光の軌跡の終着点は、アダムスタの背後。
 雷光から実体を構築し、折れた刃を振り下ろす。
「なっ!?」
 斬撃は何も捉える事は出来ない。
 まるで、最初からそこに居たかのように、アダムスタは、さらにハロンの背後に立っていたのだ。
「寝ていろ。次に目覚めたときには、全てが終わっている」
「――――っ!」
 手刀がハロンの首裏を打った。
「……く、そ……時間すら……稼げ、ません……か……」
 彼の意識は完璧に断ち切られる。
 糸の切れた操り人形のように、崩れ落ちた。
「!」
 見なくても、音だけでハロンが敗れた事がオーシャにはわかった。
 でも、走らなければ。
 でも、逃げなければ。
 今、何よりも優先すべき事は、ここを離脱して、ティリアムと合流する事。
 そんな事は、わかっている。
 わかっているけれど――!
「――やっぱり……見捨てるなんて出来ない!」
「オーシャ!」
 マリアが必死の声で制止する。
 でも、振り返らずにはいられなかった。
 ハロンを助けるため、駆け戻る事を止められなかった。
 だけど。
「………………え?」
 すでにアダムスタの姿は、ハロンの傍を離れていて。
 まるでオーシャが戻ってくる事がわかっていたかのように、目の前に立っていて。
 冷たい光を放つ何かが、真っ直ぐと自分の胸へと伸びていて。
 つまり。
 自分は、アダムスタの持つ宝剣で胸を貫かれていて――
「そん、な……」
 呻いた。
 驚愕に。無力に。絶望に。
「オーシャ――――!!!!!」
 絶叫したと同時に、マリアは自身の姿を保てなくなり消失する。
 あの姿は、オーシャの魔力を借り受けて創造したもの。その供給が断たれれば、消え失せるだけ。最初から存在などしていない幻のように。
「眠れ」
 アダムスタが、一言、冷酷に告げた。
 その後。
 目の前の全てがあっという間に真っ白に染め上がって――

 意識がぷつりと途絶えた。


 ティリアムは駆けていた。
 独りで駆けていた。
 傷つき、疲れた身体を引き摺り、駆けていた。
 廃墟の街を抜け。
 巨大な城門をくぐり。
 長い階段を駆け上がって――
 ついにツェントルムの入り口へと辿り着く。
 城の入り口の前――広場の中央に、崩れかけた大きな台座がぽつりと立っていた。
 エアの記憶が正しければ、あの台座の上には、女神イヴァルナを象った巨大な像が乗っていたはずだ。
 だが、今はない。
 空虚な空間だけがある。
 誰かが持ち去ったのか、それとも砕いたのか。
 そんな過去の残影との相違に思いを馳せつつ、ティリアムは辺りを見回す。
 オーシャとマリアの姿はない。
「まだ来てないのか……?」
 そう呟いて。

『――来ない。お前の前には、永遠に』

 忌まわしき声に遮られた。
 すぐに誰のものか理解する。
 わからぬはずがない。
「――アダムスタ!」
『いかにも』
 本人の姿はない。
 虚空から、不気味に声だけが響いている。
『すまないが、君の愛しい少女には、最後の舞台を整えるために私の手中に来て貰った。安心するがいい、死んではいない。今は……だが』
「! アダムスタ……!!」
『褒めてやるといい。命までは奪わなかったようだが、彼女は一人でイリアを破っていたよ』
「……くっ!」
 懸命に戦ったのだろう少女を想い、ティリアムは歯噛みする。
 そして、もう一つ気懸りな事。
 マリア。
 彼女は、一体、どうなったのか。
 《フリューゲル》と同化している以上、オーシャが生きているなら、彼女もまた無事である可能性は高いだろう。
 だが、あくまで可能性だ。看過出来るものではない。
『そういえば、オーシャを攫うときに、ハロンに邪魔をされたよ。どうやら、お前もあの男を見逃したようだな。二人して優しい事だ』
「…………!」
 大切な想いを認められなくて、認めたくなくて、世界を憎む者を演じてしまった男。
 ティリアムとの戦い――その敗北の果てに、ようやく自分の中の想いを認める事が出来た男。
「――殺したのか! ハロンを!」
『いいや。生きている。どうせ、もうすぐ世界を壊れるのだ。ならば殺す意味もない』
 ティリアムは激情のままに腕を振るう。
「させはしない! 俺がお前を倒して、世界は続く!」
『ならば、来い。我が玉座の間に。最後の戦いの舞台にな』
「ああ……行ってやる! 行ってやるさ! そのために、俺はここに来た!」
 再び駆ける。
 ツェントルムに突入する。
 内部は不気味なほどの静寂に包まれ、ひどく暗い。
 光源となるものは、どこにもなかった。
 暗黒。
 闇。
 なのに、なぜか辺りをはっきりと視認できた。
 明るい闇。
 暗い光。
 矛盾が当たり前に成立する異形の空間。
 見覚えのある長い廊下を駆け、駆け、駆け、駆け――
 立ちはだかる扉を開き、開き、開き、開き――
 城の最奥に、豪奢で巨大な両開きの扉が見えてくる。
 謁見の――もしくは、玉座の間と呼ばれる場所。
 かつてエアが、アダムスタと刃を交えた場所。
 アダムスタ曰く、最後の戦いの舞台。
 迷わず扉を押し開く。
 広がる。
 巨大な空間が広がる。
 ツェントルムの中でも最も広大な部屋だ。
 そして、かつて足を踏み入れた誰もが慄き、畏怖し、歓喜し――彼に跪いた場所。
 そう、《ヴェルト・ケーニヒ》に。
 だが、今、奥に鎮座する玉座に腰を下ろすのは、違う。
 もはや《ヴェルト・ケーニヒ》ではなくなった者だ。
 ――悪魔アダムスタ。
 ティリアムは、その宿敵を睨めつける。
 宿敵は、静かに笑みを湛えた。
 《デモン・ゴッド》の来訪を歓迎するように。
「――――!」
 ティリアムの目が唐突に見開かれた。
 アダムスタのすぐ隣。
 床に、複雑精緻な模様と文字で構成された淡い光で輝く魔法陣が在る。
 その真上の中空。
 一人の少女が――オーシャが浮いていたのだ。
 瞼を固く閉じ、昏々と眠りに続けているかのように見えた。
 だが、閉じられた小さな唇からは、寝息一つこぼれていない。蒼白の肌からは、生命の温もりはまるで感じられない。
 さらに。
 彼女の胸には一本の長い何かが刺さっている。
 鍔に女神像を埋め込み、硝子のような透き通った刀身を持つ、《聖器》の一つである宝剣だ。
「あれは……」
 ティリアムは、気づく。
 宝剣は肉体を傷つけてはいなかった。
 なぜなら、刃と身体が繋がる部分からは、血一つ流れていないのだ。
 宝剣は、オーシャの身をすり抜けて、内部に眠る《フリューゲル》だけを貫いていた。そして、オーシャの両脇に浮く杯と珠――残り二つの《聖器》と光の鎖で繋がっている。
「何だ、あれは……。あいつに……オーシャに何をした、アダムスタ!」
 噴き上げる怒りを隠さず、ティリアムが咆哮した。
 叩きつけられる殺気に周囲の床や壁にヒビが走り、アダムスタの服が、髪が、激しく靡いた。
 だが、アダムスタは、あくまで平然と口を開く。
「オーシャに埋め込まれた《白光の翼》と呼ばれる《フリューゲル》がイヴァルナの魂と力を封じた物である事はお前も知っているだろう。そして、《聖器》とはイヴァルナが魂と力を《フリューゲル》に変えた際に生まれた物であり、封じられたイヴァルナを解放するための鍵なのだ」
「! まさか……」
「そう。今、《白光の翼》は、鍵である《聖器》によって、イヴァルナの解放へと向かっているのだ。オーシャの肉体を寄代にしてな」
「そうなったら、オーシャはどうなる!」
「どうもならんさ。あくまでオーシャは、解放のための触媒だ。多少、魂と肉体に負担は掛かるだろうが、命に支障が出るほどではない。ただし――その先は、そうはいかんだろうがな」
「何だと?」
「……この名も無き世界は、《神族》と《魔族》の戦乱によって生まれた。それは二種族の魔力の性質が真逆である事に起因している。二つの力が接触すると、強烈な反発作用が起き、強大な破壊エネルギーが生み出される。それが臨界点を越えた事で、創造の力へと翻ったわけだ。つまり今回も同じ事――創造の際の力を、今度は破壊に使おうというだけの事だ」
「!」
 アダムスタの言わんとしている事を察し、ティリアムが顔色を変えた。
 その様子を目を細めながら眺めつつ、アダムスタはさらに語る。
「オーシャの下に広がる魔法陣――あれには私の魔力が満ち満ちている。《白光の翼》からイヴァルナが解放されたとき、彼女の力は自動的に魔法陣へと干渉、反発による破壊エネルギーを作り出す。破壊エネルギーは魔法陣の導きで一直線に地中深くを目指し――その先に眠る世界の核を打ち砕くというわけだ」
「それが……お前の世界破壊の仕組みか……!」
「その通り。世界の核は私の力を持ってしても破壊できない。ウォーレンス、貴様の必滅の魔法――《紅》くれないですらな。故に、《神族》と《魔族》、二つの力によって、生まれる破壊エネルギーがどうしても必須だったのだよ。創造の際と同質の力なら、破壊も可能。簡単な理屈だ」
 アダムスタは全てを語り終えると、ゆっくりと玉座から腰を上げる。
「ウォーレンス、お前は知っているか?」
 まるで気心の知れた相手と世間話でもするような口調で訊く。
「我が組織《デンメルング》、そして、お前の手にする《ラグナロク》。どちらも同じ《黄昏》を示す古き言葉ではあるが、それが意味するものは大きく異なっている」
 持ち上がった掌が自身の胸を示す。
「デンメルングとは、全ての国、人、命が黄昏を迎え、世界が無へと回帰するという意。世界の最初で最期の終焉」
 次に真っ直ぐと伸びた指が、ティリアムを示す。
「ラグナロクとは、一つの大きな時代が、その導き手が、黄昏を迎え、世界が次なる時代の到来を迎えるという意。世界の新たな未来」
 アダムスタが笑む。
 本当に楽しそうに、でも、とてもつまらなそうに。
 酷く皮肉めいて、でも、全く皮肉を含まず。
 そんな壊れた笑み。
「まさにお前と私にふさわしい言葉とは思わんか」
「そうだな」
 ティリアムは静かに肯定する。
「お前は独りで《デンメルング》を迎え、世界は《ラグナロク》を迎える。まさにふさわしい結末だ」
「……果たして、お前はそんな未来を掴めるかな?」
「掴む気がなければ、こんな所まで来るものか。いいかげん始めようじゃないか。お前の言う最後の舞台をな!」
 宣言が引き金。
 ティリアムの内より、全ての色を含み、そのどれも含まない光が湧き出る。漆黒の髪は、何色にも染まらぬ白へと変わる。
 混沌の輝き。
 輝く混沌。
 それは、人間と《魔族》という有り得ぬ、有ってはならぬ交わりの生んだ異質なる力。
 すなわち――《デモン・ゴット》化。
 渾沌は瞬時に傷ついたティリアムの肉体の再生に移った。全身の傷は癒され、ハロンの雷で感覚を失い、動かなかった左腕も完治する。
「いいだろう。イヴァルナの解放までは、およそ十五分といった所。時は熟した――!」
 アダムスタもまた魔力を解放する。
 巨躯より吹き荒れるそれは、まさに嵐そのもの。
 渾沌との激突により、玉座の間が見る見ると無残な姿へと引き裂かれていく。神如き力を誇る両者を讃える《精霊の賛歌》は、もはや歌ではなく、まるで悲鳴のようだった。
 刹那。
 空間が引き裂かれた。
「!?」
 まさに一瞬で、周囲の光景が根本から変質する。
 オーシャの姿も見えなくなる。
 気づけば、そこは、すでにツェントルムの玉座の間ではなかった。
 闇黒空間。
 城の内部のときと同じく視界は明確。
 だが、どこまで目を凝らしても果ての見えぬ、終わり無き永遠の闇――そこにティリアムとアダムスタだけが立っていた。
 その二人を囲むは、闇を裂いて浮かぶ。
 顔顔顔顔顔顔顔顔貌顔顔顔顔カオ貌貌顔貌貌顔顔顔カオカオ貌顔顔顔顔かお貌顔貌カオ貌顔顔貌顔顔貌貌顔かオ顔顔顔顔顔貌カお顔カオ顔顔顔貌顔顔かおカオかオ貌カおカオ顔顔顔貌顔顔顔かお貌顔顔顔貌顔顔かオ顔顔カオ顔カお貌貌顔顔――無限。
 つまりは、最後の舞台を見届ける観客。
 さらに無限の顔の下から、それぞれ二つの長い何かが生え出した。
 不気味なほどに白い腕だ。
 続いて。
 拍手拍手拍手拍手拍手拍手拍手拍手拍しゅ拍手ハく手拍手拍手はくシュ拍手拍手はくしゅ拍手拍手拍手拍手ハク手拍手拍手拍シュ拍手拍手拍手拍手ハクしゅ拍手拍手拍手ハクシュ拍シュハクシュハクしゅ拍手拍手拍しゅ拍手拍手はくシュ拍手はく手拍手拍しゅ拍手ハく手拍手ハくシュ拍手拍手拍シュ拍手拍手ハク手拍しゅ拍手――無限。
 つまりは、二人の主役を讃える轟音の喝采。
 闇は劇場。
 顔は観客。
 まさに、ここが最後の舞台か。
「悪趣味な事だな」
 唐突な異変にも動揺する事なく、ティリアムに冷静に呟く。
 おそらくここは、アダムスタの力によって生み出された異空間。
 あの場所で、自分とアダムスタが戦えば、まず城の崩壊は避けられない。そうなれば玉座の間のオーシャと魔法陣も巻き込まれるのは間違いなかった。
 それは、アダムスタもティリアムも望む事ではない。
 故に、アダムスタは新たに戦いの場を用意したのだろう。
「さあ、舞台は整った!」
 アダムスタが両手を掲げ、満足気に言う。
 二人の声は、拍手の轟音の中も、何故かはっきりと両者の耳に届く。
 ティリアムはゆっくりと《ラグナロク》を構え、問うた。
「――最後に一つだけ訊きたい。お前は、何故、この世界を破壊しようと思った?」
「…………」
 一瞬だけ。
 アダムスタの悪魔の顔に、違う表情がよぎった。
 ……ただ当たり前に、何かに悲しみ、何かを憎む人の顔。
 だが、それは幻だったかのように、すぐに消え去る。
「ハロンやゴードン、それにウォーレンス。きっかけは、お前達と何も変わらんさ。
 ――愛した女が居た。
 ――信じた友が居た。
 だが、友は裏切り、女は死んだ」
「…………」
「しかし、それは欠片だ。壊れた過去の欠片だ。そう、私は壊れたのだ。だから、そんな想いに、もはや何の意味もない。今、ここに居るのは、すでに転生も適わぬほどに魂を磨耗させ、ただひたすらに自分の道連れを世界に求める破壊の化身――アダムスタ。それだけだ」
「――――――そうか」
 呟く。
 ただ、納得したというだけの一言。
 今更、哀れみなど覚えられようか。
 同情など出来ようか。
 それをするには、この男は、あまりに罪深い。あまりに災い。
 だから、もはや与える想いは必要ない。
 悪魔から魔気が吹き荒れた。
 高らかに告げた。
「さあ、始めよう! 終焉の破壊を! 破壊の終焉を! 今日、この世界の全てが終わる! 来るがいい、渾沌の鬼神ティリアム・ウォーレンスよ!!」
 鬼から渾沌が渦巻いた。
 猛々しく吼えた。
「終わりじゃない! 始まりだ! お前という導き手を捨て、世界は新しい未来を手にする! お前だけが、ここで終われ! 破壊の悪魔アダムスタ!!」

 ――そして。
 人外の者達の最後の戦いが始まる。


 暖かい光を感じていた。
 全身を激しくつんざいていた痛みが少しずつだが和らいでいく。
 心地良いと思った。
 安らぐと思った。
 遠い過去で感じた母の温もりは、これによく似ていた気がした。
 とても大切だったはずなのに、残酷な時の流れによって薄れてしまった記憶をハロンは思う。
 水中をたゆたうようだった意識がゆっくりと浮上し、覚醒する。
 最初に視界に入ったのは、見覚えのある黒の少女の顔。
「……イリア……様?」
「気づいたの」
 少女は特に感慨も無さそうに呟く。
 なのに、どことなく照れ臭そうにも見えるのは気のせいだろうか?
 しかし、それよりも。
 先に気懸りな事をハロンは問うた。
「……あの娘は……オーシャは、どうなりましたか……?」
 イリアが少しだけ表情を強張らせた。
「――マスターが、連れて行ったわ」
「…………そう、ですか」
 やはり逃げられなかったのか。
 無念の想いが胸に広がる。
 と。
「…………?」
 そこでハロンは自分が柔らかい何かに後頭部を乗せている事に気づく。
 イリアとの位置関係から考えるに――まさか。
 膝枕を……されている?
「これは…………酷く変な夢でも見ている――というわけでもないですか」
 イリアの双眸が僅かに厳しくなる。
「なかなか失礼な事を言うわね」
「……いえ、申し訳ない」
 本当にその通りだな、とハロンは苦笑する。
 そして、少しだけ頭を持ち上げ、イリアが掌を当てている部分に目を向けた。
 ティリアムとの戦いで斬られた傷。
 まだ出血すら止まっていなかったはずのそれは、徐々にだが塞がり始めていた。
 癒しを為しているのは、少女の掌を包む光。
 光はいつもの黒ではなく、淡い白色をしていた。
 少女の髪と瞳が闇色に変化している事に気づいた時点で察してはいたが……
「治癒魔法……使えたのですね」
 本物には――《白光の翼》には届かなかった《灰燼の翼》。
 だけど、確かにその力の片鱗は持っていたのだ。
 しかし、イリアの顔には、誇るような感情は何一つなかった。
「一応……ね。《白光の翼》のモノに比べたら、応急処置程度の効果しかないわ」
「いえ、それでも……ありがとうございます」
 そう言って、自分で驚きに目を見張った。
 一体、いつ以来だろう。
 こんなに自然と礼の言葉が口についたのは……。
 そんなハロンを呆れた顔で、イリアが見下ろす。
「人にお礼を言って、自分が驚いてどうするの」
「全くですね……」
 反論の言葉もなかった。
 自分の変化に戸惑いつつ、ハロンは目覚めてから、ずっと気になっていた事を訊く。
「少し……変わられましたか、イリア様」
 それは口調の事であり、表情の事であり、行動の事であり、雰囲気の事であり――多くの意味を含ませていた。
「…………」
 イリアはすぐに返事はしなかった。
 言葉を選ぶように、しばらく間を空けてから、こう言った。
「……余計なものを吐き出したせいかもしれないわね。だけど、変わったというなら、あなたも同じように見えるけれど?」
「ええ。月並みな言い方をすれば……やっと自分に正直になれたと言った所でしょうか」
「同じ穴のムジナかしら?」
「ああ、そんな感じです」
 何だか可笑しくなって、笑い交じりにハロンは答え――また驚く。
 自分は、こんなにも自然に笑える人間ではなかったはずなのに。
 これもきっと、変わった部分の一つ。
 ハロンは、黙って治療を続けるイリアの無表情な顔を見上げた。
「――もしも」
「何?」
「アダムスタが敗れて、この世界が続くようなら、イリア様はどうされるのですか?」
 イリアは、複雑な感情を瞳に浮かべ、ツェントルムを見つめた。
「……私にとって生きるという事は、マスターの為に働く事、そして、マリアとオーシャに、自分の存在を思い知らせるという事が全てだった。だから、それが無くなった今、本当なら私に生きる理由はない」
「本当なら、とは?」
「……勝者の命令だそうよ。イリアとして『生きなさい』と言われたわ。死んではいけないと」
「これは奇遇ですね。私も勝者に同じ事を言われました」
「同じ穴のムジナ」
「そのようで」
 また可笑しくなって、ハロンは笑う。
 今度はイリアも一緒だった。
 そして、先ほどのハロンと同じように、次の瞬間、彼女はそんな自分に驚いたように唇に指を当てていた。
 ハロンも、この少女の笑顔を見るなど、初めての事だ。
 そんな機会が訪れるなど、夢にも思わなかった。
 オーシャとの戦いは、確かに彼女の何かを変えたらしい。
 いや、あるいは――本当の自分を取り戻させたのか。
 イリアは、少しの間、自身の変化を咀嚼するような様子を見せた後、ぽつりと言った。
「――……わね」
「はい?」
 不意のイリアの呟きに、ハロンが目線を上げる。
 いつも破滅を見つめていた少女の瞳には、いつしか未来を見据えようとする光が宿り始めていた。
「本当に世界が続くようなら……生きてみるのも面白いかもしれない――と、そう言ったのよ。そんな事が万が一にもあれば、だけれど」
 ――あくまで自分は世界破壊は実行されると信じている。
 内心はどうあれ、そんな風にイリアは言っていた。
 だけど、ハロンは不思議と微笑を浮かべてしまう。
「…………そうですね」
 そのとき。
 ツェントルムが――否、障壁に閉鎖された空間そのものが激しく震動し、軋み、悲鳴を上げ始める。
 離れたこの場所からでも、城の内部から凄まじい力の奔流を感じ取れた。
 鬼神ティリアム・ウォーレンスと悪魔アダムスタが、ついに対峙したのだろう。
「――始まるわね」
「ええ」
 二人の視線が、あの少女の、自分達の、そして、世界の命運を握る戦いの舞台である城に集う。
 ハロンが呟いた。
 例え、どんな結果が待っていようと、その全てを受け止めようという意志を込めて。
「全ては貴方次第――結局、そういう事のようです……ウォーレンス」


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