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エンジェル 四章

覚醒


―― 六 ――  

 ティリアムが部屋に入ると、フォルシアはベッドの上で静かに横たわっていた。
 騒動から、すでに半日以上が過ぎている。
 陽は傾き始め、窓からは橙色の射光が入り込んでいた。
 神殿内も、落ち着きを取り戻しており、今は、明日ある――おそらくは敵が本腰を入れてくるだろう最後の襲撃に備えて、戦いの準備を進めている。
 ティリアムは無言でベッドの脇に歩み寄ると、傍にあった椅子を引き寄せて、そこに腰を下ろす。
「……もう目が覚めたのか」
 ティリアムが独り言のように呟いた。
 すると、フォルシアの瞼がゆっくりと持ち上がり、宝石のような碧の瞳が露になる。
「……嫌な人ね。こっちから目を開けるまで待てないの?」
 フォルシアはこちらに視線だけ向けると、言った。
 言葉の割には、口調には非難する響きはない。
 ティリアムは苦笑を浮かべた。
「悪い。もともと気配り上手でもないんでな」
 フォルシアは横になった状態のまま、ティリアムの姿を上から下まで観察する。
「……怪我はもう良いの?」
「ああ。オーシャに魔法で治してもらった。俺は《デモンズ》だから、すぐに完治したよ。幸い致命傷になるような傷もなかったしな。まあ、血が少し足りないから、今も頭がくらくらしてるけど」
「そう」
 自分から訊いた割には素っ気なく呟き、フォルシアは白い天井へと視線を移した。
 部屋に沈黙が落ちる。
 ティリアムは、フォルシアが何か言おうと逡巡しているのを察して、ただ黙って、それを待った。
「――さい」
「ん?」
「――ごめんなさい」
 ようやく彼女の言葉を聞き取って、ティリアムは微笑した。
「お前から謝罪の言葉を聞くなんて、初めてだな」
「……生憎、私は貴方に対して、謝るような失態は今までした事はなかったし、する気もなかったもの」
「そうか」
 彼女の辛辣な言葉が照れ隠しだとわかっているティリアムは微笑を崩さない。
 対してフォルシアは、どこか無理して無表情を装いながら、さらに言った。
「――わかっていた」
 言葉と共に蘇る過去の苦悩が、彼女の美貌を歪める。
「私の兄も傭兵――雇い主が対立すれば、雇われた傭兵も同業者であろうと殺し合う事もある。そして、例えそれで殺されたとしても、周りの人間が殺した相手を恨むのはお門違い――傭兵なんて職業をする時点で、本人は全て覚悟の上なはずだもの。むしろ復讐なんて、死んでいった者の傭兵としての誇りを穢すのと同じ行為――」
 フォルシアはじっと天井を見つめたまま、言った。
「そう、私が貴方を恨み、仇を取るというのはそういう事だった」
「…………」
 ティリアムは何も言わない。ただ無言で、彼女の独白を聞き続ける。
 フォルシアは目を細め、ここではない遠い過去を見つめた。
「――私が物心ついたとき……すでに母はおらず、五歳年上の兄と、ろくでなしの父親が居るだけだった。まともに働きもしない父のせいで、私達は、いつも餓死ぎりぎりの状態。――我ながら、よく生きていたものだと思うわ。
 そして、私が十歳になった頃。
 あのどうしようもない父親は、呆れ果てた暴挙にでた」
 形の良い唇が、暗い感情に押されるように歪んだ。
「私を犯そうとしたのよ? まだ十歳の私を。
 今、思い出しても怒りよりも何よりも、呆れとおぞましさが湧き上がってくる。
 でも、私は助かった。兄が手にしたナイフで父を殺したの。私を助けるためにね。もともと愛情なんて欠片も抱いていない父親だったから、私はあいつの死を悲しむ事はなく、兄も父親を手に掛けた事を後悔する事もなかった。
 その後、私と兄は、子供二人で死に物狂いで生き繋いだ。でも、ある日、街が《デモン・ティーア》の群れに襲われて、その際に逃げる途中で兄とはぐれてしまった。騒動が収まってから、私は必死になって兄を探したわ。だって、当時の私にとって、生きる支えは、私をずっと守ってくれた兄だけだったから。だけど、結局、兄は見つかる事はなく、もう死んでしまったものだと諦めていた」
 そこで、フォルシアは再びティリアムへと目を向けた。いつも無表情だった面に浮かぶのは、憎悪でも怒りでもなく、ただただ己への失望だった。
「だからでしょうね。兄が実は生き延びていて、でも、私と再会する前に《デモン》という男に殺されたと知ったとき――例え、兄の誇りを穢すとわかっていても、湧き上がってくる己の激情を抑える事が、私にはどうしてもできなかった」
 フォルシアは息を吐く。
 精神的な疲労を含んだ、ひどく重い溜息だ。
「私は弱かった。今も昔も。理屈で間違っているとわかっていても、己の感情を抑えられないほどに。それに――私はきっと貴方を憎んでいたんじゃない。私を置いて先に逝ってしまった兄の事を憎んでいたのよ。酷く一方的に、自分勝手な感情で。それを貴方への憎しみにすり替えていた。今になって、あんな事態を招いてから……ようやく気づいた。本当に最低の道化よ、私は……」
 自身への嘲りの独白を終えたフォルシアは、そこで口を噤む。
 ティリアムはそんな彼女を見つめたまま、静かに口を開いた。
「……お前が道化だと言うのなら、俺だって同じさ。俺の人生、いつも間違ってばかりだ。そのくせ大切な人間は、いつも守れやしない」
 続く達観を含んだ言葉は、ひどく穏やかだった。
「でもな、フォルシア。この世に間違いを犯さない奴も、やっぱりいないんだ。だから、道化だったんだとしても――間違っていたんだとしても良いんだよ。今までが最低だったんなら、これからを最高にすればいい。お前には、それが出来る。だって、お前は自分の間違いに気づく事が出来たし――そして、今も生きてるんだから」
「…………」
 フォルシアは押し黙ったまま、ティリアムから目を逸らす。そして、しばらくして、大きな溜息を漏らす音が聞こえた。
「私もヤキが回ったものね……貴方に弱音を吐いただけじゃなく――励まされてるんだから」
「なんか、酷い言われようだな……」
 ティリアムが頬を引きつらせる。しかし、その顔は、フォルシアがいつもの調子を取り戻した喜びで、笑みを形作っていた。
 目を逸らしたまま、そんなティリアムの表情には気づかないフォルシアは言う。
「でも、そうね……きっと、貴方の言う通りなんでしょう。今、私は生きていて、これから自分の心と向き合い、間違いを正す時間は、確かにある。――なかなか難儀な問題だけれどね……」
「……そうだな」
 ティリアムは同意して、頷く。
 人という生き物は、ひどく簡単に間違いを犯してしまう。そして、そこから立ち直る事は、並大抵の事ではない。
 しかし。
 決して不可能な事でもないのだ。
 ティリアムは、それを身をもって知っている。
(まあ、たぶん俺も、まだ立ち直ってる最中だけどな……)
 胸中で自嘲気味に苦笑した。
「さて……」
 ティリアムは呟くと、少し重さを感じさせる動作を腰を上げた。
「とりあえず、お前の無事も確認できたし、俺はもう行くよ。お前もオーシャの治療を受けたとはいえ、無理矢理に操られて、身体に相当の負担が掛かってるらしいからな。ゆっくりと休んでくれ」
「ええ、そうさせてもらうわ。まだ、最後の襲撃が残っているもの」
 気づけば、全くいつも通りになっているフォルシアの冷静な言葉に、ティリアムは目をしばたたかせた。
「お前……明日、一緒に戦う気なのか……?」
「当然でしょう。あなた達に戦いを任せて、寝て待ってるなんてまっぴらよ」
「――女は強い……」
 妙な悟りを開いたような表情のまま、ティリアムは扉へと重い足取りで向かった。そして、ノブを掴んでから、
「――最後に言っとくよ」
 目の前にある木造の扉を見つめたままで、ふと思い出したように言った。
「お互い、いろいろ複雑な感情はあるけどな――」
 そこで、振り返って笑う。
 無邪気に、ただ素直な想いを込めて。
「お前と恋人だった一年、悪くなかったと思ってるよ。――それだけだ」
 一方的に言い残して、ティリアムは部屋を出た。
 途端、閉じた扉に、投げつけられた枕か何かがぶつかる音がして。
 その後、扉越しに微かに。
「……馬鹿」
 冷静で無表情なフォルシアとは違う――本当に普通の一人の女としての呟きが聞こえた気がした。


 廊下に出ると、オーシャとジョンが待っていた。
 ティリアムの姿を見ると、二人はすぐに歩み寄ってくる。
「ティル……」
「フォルシアとの話は終わったか?」
 二人が口々に声を掛けてくる。
 本人達の意志ではなかったとはいえ、仮にも戦う事になった二人だ。それが部屋で二人きりで話すという事に、何か起きるのではないかと心配していたのだろう。
「ああ、問題なくな」
 オーシャは胸に手を当てて、ほっと安堵の吐息を漏らした。
「良かった……。もしかしたら、また二人が戦う事になるんじゃないかって……」
「俺もフォルシアも、そんな事したって誰も喜ばない事はわかってるさ」
 ティリアムは、どこか達観した微笑みを浮かべながら言った。
「なら良かった。なにせ、お前ら二人の痴話喧嘩は派手そうだからな。心配してたんだぞ?」
 ジョンは、ティリアムを肩を叩くと大笑する。
 これにティリアムは、盛大に口の端を引きつらせた。
「誰が、痴話喧嘩だ。誰が」
「違うのか?」
「違うわ! お前、絶対にわかってて言ってるだろ!」
 叫ぶティリアムに対して、ジョンは、ただ笑うだけで取り合わない。
 そんないつも通りのやり取りに、オーシャは隣でこっそり苦笑していた。
 ふと、廊下の向こうから誰かの叫ぶ声が聞こえてくる。
 三人が何事かと目を向けると、リラと、彼女に耳を引っ張られたロウが廊下の角から姿を見せた。
「ロウ! 無事だったのか」
 ティリアムが目を見開きながら言った。
「ああ、ティリアム様!」
 ティリアム達に気づいたリラは、慌ててロウの耳から手を離す。
 ロウは涙目で、赤くなった耳を押さえていた。
「さっき、倉庫の奥で縛られたまま転がされているのを、私が見つけたんです。それで、まずティリアム様に謝らせようと思いまして――ロウ!」
「わ、わかってるって。ずっと縛られてたせいで、身体の節々が痛くて……」
 そこまで言いかけたところで、リラに凄い目で睨まれ、ロウは頬を引きつらせながら口を噤む。
 そして、改めてティリアムに向き直ると、存外、丁寧に頭を下げてきた。
「――すいません、ティリアム様。事情はリラに全て聞きました。俺が捕まったせいで、ティリアム様に本当にご迷惑をおかけしたみたいで……」
 謝罪する声には、真摯な感情が込められている。
 心から自分の失態を悔やみ、謝ろうとしているのだろう。
 もともと責める気など毛頭なかったティリアムは、笑みを浮かべて頭を振った。
「気にするなよ。実際、なんとかなったわけだし、無事で良かったよ」
「ティリアム様……ありがとうございます」
 ロウは、どこかほっとした笑みを浮かべた。
 その隣で、リラが呆れた溜息を漏らす。
「全く……仮にも神威騎士団の副団長が敵に捕まるなんて情けないったらないです……」
 ティリアム達は目を丸くする。
「……ロ、ロウって副団長だったのか?」
「あれ? 言ってませんでしたっけ?」
 ティリアムの問いに、ロウは不思議そうに首を傾げた。
 リラは、苦笑にも近い曖昧な笑みを浮かべる。
「残念ながら、その通りで。こう見えても、この男、私の次に剣の腕が立つんです。しかも、意外に人望もありまして……」
「そうそう。特に、可愛い女の子の人望が……だっ!」
 ロウが言いかけたのを、リラが横から脇腹に肘を打ち込んで黙らせる。
「ともかく、今回の件に関して、後でこってり絞るからね。覚悟してなさい!」
「……え、ええ!? か、勘弁してくれよー……」
 がっくりと肩を落とすロウ。
 ティリアムとオーシャは庇う事もできず、困った笑みを浮かべるしかない。
 そこでジョンが、ロウの背中を叩くと楽しそうに言った。
「まあ、今回はお前が悪いな。惚れられた女にいらん心配を掛けるのは良くないぞ」
「ジョ、ジョン様!?」
 ジョンの思わぬ発言に、リラは顔を真っ赤にして声を上げた。
「照れるな。照れるな。俺には全部、わかってるからな」
 ジョンは豪快に笑い、
「という事で、これから二人でしっかり仲を深めてくれ。ティリアムとオーシャも邪魔してやるなよ」
 一方的に言い残して、片目を閉じると、満足そうな顔でさっさと去って行った。
「……あいつ、わざと厄介事の種だけ残して逃げたな……」
「か、確信犯なのかなぁ、やっぱり……」
 ティリアムとオーシャはそれぞれ呟き、恐る恐るリラの様子を覗う。
 当のリラは顔を赤くしたまま、完全に固まっていた。
 ロウも、これにはどう対処したらいいのかわからないのか、当惑した顔で、彼女の顔の前で手を振ったりする。
「お、お〜い、リラ? どうしたー?」
 と、不意に、リラは我に返った。
 そして。
「ち、違うっ!!!」
 そう叫んだかと思うと、踵で思い切りロウの足を踏みつけて、慌てて走り去って行った。
 残されたロウは踏まれた足を押さえて、一人悶絶する。
 もうあまりの痛みに声も出ないらしい。
「なんというか……頑張れ」
 ティリアムは、そんなロウに対して哀れみすら含んだ声をかける。
 今回ばかりは、さすがにロウに同情を禁じえなかった。
 ロウは涙目のまま、声を出す余裕がないのか、かくかくと頷く。
 そして、しばらくしてから、なんとか立ち上がるとティリアム達に一つ頭を下げてから、危なっかしい足取りで去って行った。
 方向がリラの向かった方と同じなのは、おそらく彼女の後を追って行ったのだろう。
 案外、あの二人は両思いなのかもしれないな、とティリアムは思い、苦笑気味に頬を綻ばせた。
「あの二人、平気かな……?」
「ま、たぶんな」
 ティリアムはそう言って――
 不意に強い目眩を覚えて身体をよろけさせた。そのまま倒れそうになり、なんとか後ろの壁に背中を預ける。
「ティル!?」
「――大丈夫だ」
 こめかみを指で押さえて、なんとか意識を繋ぎ止める。
「……さすがに今回は血を流し過ぎたからな」
「ティル、もう休まないと……」
 オーシャが身体を支えながら気遣った声をかける。
「そうだな……まあ、血が足りないくらい、喰うもん喰って、しっかり寝ればなんとかなるさ」
「もう……《デモンズ》って言ったって、無理は禁物だよ」
「わかってるって。でも、明日の戦いは負けられないだろ」
 なんとか地に足をつけて立つと、ティリアムは言った。
 オーシャは頷き、強い決意と覚悟を宿した双眸を向けながら、そっと手を握ってくる。
「――うん。明日、勝とうね」
「当たり前だろ」
 答えたティリアムは、不敵な笑みを口元に刻んだ。


 東の空から、ゆっくりと陽が昇りはじめていた。
 薄暗い世界は、命を育む光に照らされ、徐々に覚醒を始めている。
 今日の空には雲一つない。
 おそらく快晴になるだろう。
 朝の少し肌寒い空気の中、マッドは着慣れた白衣姿のまま、隠れ家にしている遺跡の入り口の前に立ち、そんな空を見上げていた。
「ふむ、絶好の襲撃日和になりそうじゃないか。なあ、ゴードン君?」
「…………」
 斜め後ろに立つゴードンは答えない。
 傍の地面に愛用の棍を突き立てたまま、筋肉の敷き詰められた太い腕を組み、険しい顔で押し黙っていた。
 マッドは肩を竦める。
「そんなに難しい顔をする事はないだろう? 私の計画は万全だ。今日、無事に聖杯を手に入れれば、君の敬愛するエリックも喜んでくれる」
「…………」
「それで、君のすべき事はわかっているかな?」
「……わかっている」
 そこで、初めてゴードンが口を開いた。
 だが、それだけだ。
 再び、その口は固く閉じられる。
 機嫌が悪いと言うよりは、戦いに備えて集中力を高めていると言う方が正しいように思える姿だった。
 実際、彼は武人だ。
 本来、研究者である自分とは正反対な人種なのだから、戦いに挑む前の姿勢が違うのも、考え方が合わないのも、そもそも当然なのだろう。
 しかし、マッドは特に気分を害す事もなく、満足気に薄く微笑んだ。
「そうか。なら構わないさ」
 言って、眼鏡を指で押し上げる。
 そう、構わない。
 ゴードンは所詮、駒だ。
 自分の思惑通りに動いてくれれば、何の文句もない。
「では、今、昇っている陽が最も高くなったとき――我々は行動に移るとしようか」
 果てなき暗き欲望をその身に秘めながら、マッドは静かにそう口にした。


「そろそろ昼ですね……」
 神殿を囲むように護る騎士――さらに衛兵達もほぼ総動員する中で、ロウが一人呟いた。
 周囲には、今、戦う者以外の姿はない。
 神殿内でも神官などの非戦闘員は、奥に避難させられている。
 街の人間達には、今日は決して神殿には近づかず、さらに家の外にも出来る限り出ないように御触れを出していた。
 なにせ今日が聖杯を狙う最後の襲撃である以上、今までで最も大規模になる事は想像に難くない。もしかしたら、街にまで余波が及ぶかもしれないのだ。
 天高く昇る陽は、最も高い位置にほぼ辿り着いていた。
 大陸は、夏の真っ盛りである。
 フェイナーン神殿は大陸の北寄りに位置しているため、日差しはそれほど強いわけではない。しかし、それでも鎧や胸当てを身に着けた騎士や衛兵達は、吹き出る汗を何度も拭っていた。
「もしかして、このまま夜まで襲撃がなかったら、俺達、なんか緊張のし損な気もしますよね」
「そうだなぁ」
 隣に立つジョンが頷いた。
「まあ、仕方ない。 敵さんは時間の指定まではしなかったしな。だけど、今回、確実に向こうが襲撃に本腰を入れてくるのは間違いないし、気を抜くわけにもいかんよ」
「――愚痴ってる暇があるなら、今のうちに胃に何でもいいから放り込んで置く事ね。もしかしたら、人生最後の食事になるかもしれないんだから」
 冷ややかな声は背後からだ。
 フォルシアである。
 脇には、オーシャと、その頭上に浮いたマリアも付き添っていた。
 フォルシアは、昨日、寝込んでいたとは思えない滑らかな足取りで、オーシャ達を伴い、ジョン達の所まで歩み寄る。
「おう、フォルシア。もう動けるのか」
 ジョンが手を挙げて声を掛けた。
 彼女が戦いに参加するつもりだという事は、すでに皆、ティリアムから聞かされている。なので誰も驚く者はいない。
 フォルシアは涼しい顔で、髪をかき上げた。
「万全ではないけれどね。足手まといにはならない程度には、動けるつもりよ」
「一応、ここに来る前に私が出来る限りの治療もしましたから」
 オーシャが少し困った顔で補足する。
 彼女としては、フォルシアには安静にしていて欲しいのが本音なのだろう。
「しかし、最後の食事ですか――ちょっと笑えませんね……」
 いつも明るいロウも、今日ばかりは少し気弱げに言った。
 今までの襲撃では、魔法を操る《イミタツィオン》は出てこなかった。しかし、今回ばかりは確実に姿を見せるはずである。
 オーシャの力を目の当たりにしているとはいえ、敵として魔法を扱う相手と未だ対峙していない彼としては、どうしても不安を禁じえなかった。それは他の騎士や衛兵達も同じだろう。
「おう、らしくないな。もしかして、昨日、リラに振られたか?」
 ジョンがからかうように訊く。
 ロウは溜息交じりに言った。
「……勘弁してください。あの後、フォローが大変だったんですから。それに不安なのは確かですけど、やる気はあるつもりですよ。なにせ昨日は、とんだ失態をしてしまいましたからね。今日はリラが宗主様についているから、副団長として騎士達の指揮も任されていますし、バッチリ汚名返上をしてみせます」
「あんまり気負わない事ね。気持ちだけが先行すると、大抵、周りが見えなくなって早死にするもの」
 フォルシアに冷静に指摘され、ロウは、乾いた笑いをこぼした。
「じゃ、冗談にしてもキツイですよ……。まあ、もちろん無理はしないつもりですよ。これでも身の程はわきまえているつもりです。――ただ、宗主様に危険が及ぶようならそうも言ってられないでしょうけどね」
 そう口にしたときのロウの双眸には、普段はおどけている彼にしては、今までにないほどの強い光を宿らせていた。
 もともと望まずなった神威騎士とはいえ、副団長を任された以上、それなりの矜持はある。仕えるべき主を見捨てて、おめおめ逃げ出すなど出来ようはずもなかった。
「大丈夫ですよ、ロウさん」
 言ったのは、いつの間にか傍にまで寄って来ていたオーシャだった。
「《イミタツィオン》が出てくるのなら、私かティルが相手をしますから。ロウさん達は、他の敵に集中してもらえれば大丈夫です」
 そう告げたオーシャは、にっこりと微笑む。
 それは、自ら危険な相手を引き受ける者の表情とは思えなかった。
「……怖くは……ないんですか?」
 だから、ロウは思わず問うていた。
 しかし、オーシャは微笑みを崩さない。
「怖いですよ。でも、今までも何度か《イミタツィオン》とは対峙してますし――この力は、私にとって、皆を守るためのものです。怖いからと言って、逃げ出すわけにはいきません」
 《フリューゲル》の埋まった胸に掌で触れながら、オーシャは言った。
 その瞳の奥にあるのは、まだ十六歳の心優しい少女には似つかわしくない戦いへの強き覚悟だ。
「……強いですね」
 ロウは目の前の少女に、心からの感嘆を覚えながら、呟いていた。
 オーシャは苦笑しつつ、頭を振る。
「本当の事を言うと、たぶん緊張のしすぎでいろいろ麻痺してるせいなんだと思います。私自身、戦いの経験は、まだまだ少ないですし」
「いえ、それでも強いですよ。オーシャちゃ……いえ、オーシャ様は」
 呼び方を言い直して、ロウは笑った。
 騎士であるはずの自分は、戦いを前にして、確実に年下の彼女に気持ちで負けていた事に気づいたのだ。
 今、神殿内でサレファの護衛についているリラも、きっとオーシャと同様の強い想いで戦いの始まりを待っているだろう。外から来たオーシャ達は知らない事だが、サレファを守る事は聖杯を護守る事と同義なのだから。
(情けない……一応、男して、ここは俺も気合は入れないとな)
 想いを新たにして、ロウは腰の剣に触れた。
「ん、そういえば……」
 不意に、ジョンが顎に手を当てて、訝しげな声を上げた。
「ティルはどうした? 姿が見えないが……もしかして、まだ寝てんのか?」
「……ティルは、自分の居るべき場所に行ってます。だから、大丈夫」
 オーシャは、どこか意味深な言い方をして答えた。
 そして、それ以上は何も言わない。
 ジョンの方も「そうか、そうか」と笑って、問い詰めるような事はしなかった。
 ロウは疑念を覚えて首を傾げる。
 だが、彼の事だ。
 きっと考えあっての事だろうと自分を納得させ、別の事を口にした。
「しかし……実際の所、敵はいつ来ますかね」
 答えは上から来た。
「――たぶん、すぐですよ」
 マリアだ。
 ロウにも負けず、普段はおどけている彼女は、今は酷く真剣な面持ちでそう呟いていた。
「わかるんですか?」
「ええ。虫の知らせとでも言うんでしょうかね。なんとなくわかるんです」
 この会話が聞こえたのか、近くの騎士達が、表情を引き締め、周囲を覗い始める。その緊張感は、あっという間に全体に広がり、空気が張り詰めていった。
 まるで、それに合わせたかのように。
 異変は起きた。
 前方の石畳の地面。
 そこが次々と陥没し始めたのだ。
「何だ!?」
 ロウは、すぐさま腰の鞘から剣を抜き放つ。
 陥没した石畳から、次々と姿を見せたのは、焦げ茶色の毛に身を包んだ巨大な土竜のような獣だった。二本の角を持つ頭も含めて細長い体躯を持ち、その目は完全に退化している。前足には地中を移動するための、硬い岩盤や石畳すら容易く破壊する強靭な爪を備え、それを使って自らが掘り抜いた穴から器用に這い出していた。
 《デモン・ティーア》の一種である土牙どがだ。
 姿が多種多様な《デモン・ティーア》の中で、人により固有名の与えられた数少ない《デモン・ティーア》である。姿こそ巨大な土竜なようだが、陽の光はまるで平気だ。存在しない目を補ってあまりある優れた嗅覚を持ち、地上に姿を見せても、その敏捷性は少しも損なわれない。故に、一匹が外から獲物を引きつけ、もう一匹が下から引きずり込むという狩りの方法を得意にしている。
「また面倒なのが来たな」
 ジョンが忌々しげに言いつつ、腰のホルスターから二丁の銀の拳銃を抜く。
「――いえ、まだよ」
 空を見上げたフォルシアが言った。
 それに導かれるように、皆の視線が上に向く。
 夏の雲一つない青い空――そこに、いつの間にか無数の黒い影が浮かんでいたのだ。それは近づくごとに徐々に大きくなり、その姿を明確にしていく。
 優に人間、四、五人分の大きさを誇る、鳥に似た生物が空を飛翔し、神殿に向かって来ているのだ。
 朱色の身体に、《デモン・ティーア》の証たる長い角を頭頂に一本だけ生やし、その嘴はまるで長槍のように鋭く尖っている。あれで上空から獲物を突き刺してから持ち去り、安全な所で喰らうのだ。
 こちらは槍鳥そうちょうと呼ばれている《デモン・ティーア》である。
「空と地からの二重襲撃……いやらしいけど確かに効果的な組み合わせですね」
 ロウは舌打ち交じりにこぼす。
 土牙はともかく、槍鳥は剣や槍を得物にする騎士や衛兵達には辛い相手だ。中には弓を扱う者も少なからず居たが、あれを相手にしては大した効果は期待出来ないだろう。
「あっちは俺とオーシャに任せとけ。お前達は、土牙を」
 ジョンが意外にも冷静に告げ、槍鳥を迎え撃つために駆け出す。
「ロウさん、気をつけて」
 オーシャも一言だけ残すと、マリアと共にそれに続く。
 その素早い判断に、ロウは返事をする暇もない。
 やはり、この手の特殊な敵を相手にするのは、騎士や衛兵よりも、彼らの方が慣れているらしい。
「ぼんやりしないで。来るわよ」
 フォルシアが鋭い声を投げかけてくる。
 慌てて意識を前方に向けると、一匹の土牙がこちらに長い体躯をするすると滑らせるように運んで来ていた。
 ロウは素早く剣を構えると、副団長として、皆を鼓舞するために声を張った。
「――皆、守り抜くぞ!」
 工夫も何もない、たった一言。
 しかし、それに騎士や衛兵達は、気合の入った咆哮で応えた。

 ――そして。

 皆が神殿を守るための戦いを開始する中。
 《イミタツィオン》の一人、ゴードン・クラースもまた、自身の役目を果たすために、ゆっくりと神殿へと近づいていたのだった。


「戦いが始まったようですね」
 宗主の間。
 そこの奥に鎮座する椅子に腰掛けて、サレファは呟いた。
 脇にはリラのみが控え、他の護衛は、宗主の間の扉の前に控える数人の騎士のみである。神官達は、より安全な別の部屋へと移動し、騎士達に護衛されていた。
 リラは、どこか落ち着かない様子で、閉じられた扉をじっと眺めていた。その向こうからは微かにだが、戦いの音が漏れ聞こえている。
 サレファは、そんな彼女を気遣って声を掛けた。
「皆が心配なのならば――行っても構わないのですよ?」
「――いえ。私の役目は、宗主様を守る事です。もちろん、聖杯を敵に渡さないためでもありますが……何よりも、私達は貴女を失うわけにいきません」
 リラは、サレファの提案を丁寧に拒否する。
 内心は、ロウや他の皆に対する心配で一杯なのだろうが、それを面には決して出さなかった。
 サレファは静かに眼を伏せる。
「ありがとう、リラ。私は、本当に誇りにすべき素晴らしい者達に守られていますね……」
「宗主様が我々をそうさせるのですよ」
 リラは微笑する。
 これにサレファは、少し照れ臭そうに口元を綻ばせた。
 そして、すぐに表情を引き締める。
「では、今は、皆の勝利と無事を信じる事にしましょう。戦いの場に出られない私達に出来るのは、それだけなのですから」

「――いやいや、そんな事はありませんよ」

 その声と同時。
 前方の巨大な両開きの扉が外側から、轟音と共に崩壊した。
 ばらばらと扉の破片が舞い落ちる中、サレファとリラは、決してこの場に居てならぬ者の姿を見つける。
「くっ!」
 リラは迷わず剣を抜き放った。
 扉の破片を踏みしめて、こちらに歩み寄る白衣の男――マッドの背後には、すでに動かなくなった護衛の騎士達が横たわっていた。
 サレファは胸中に動揺と驚愕を収め、冷静な声で問うた。
「――貴方は……マッド・グレンティーンですか」
「いかにも。私がマッドです、宗主様」
 マッドは片腕を腰の前に回して、慇懃無礼なほど丁寧に頭を下げた。
「どうして、ここに……!」
 リラは、今にもマッドに斬りかからんばかりの様子でそう口にする。
 マッドは慣れた仕草で、眼鏡を押し上げると嗤った。
「簡単な事さ。我々の扱う魔法の中には、転移魔法というものがあるんだよ。ただし転移と言っても、好きな場所に自由に移動できるわけじゃない。予め描いておいた魔法陣に自身の血を馴染ませておく事で、それとの繋がりを作っておく――そうして初めて、繋がった魔法陣のある場所にだけ、自由に移動出来るという仕組みだ」
 眼鏡を押し上げた指が、逆を向いて足元を指した。
「そして、その魔法陣が、この神殿内にも存在する。もちろん私との繋がりを作ってあるものがね」
「馬鹿な! そんなものを描くときが、いつ――!」
 そこまで言いかけて、リラは、はっと口を閉ざした。
 マッドの双眸が肯定する光を宿した。
「そう。今、君が考えている通りだ。昨日、この神殿に潜入した私の部下――彼がここに忍び込む事に成功してから、まず最初に行った事は、フォルシア・ハルバラードの洗脳ではない。神殿の人間に見つからぬように巧妙に細工した魔法陣を神殿内のどこかに描く事だったのさ。もちろん、予め渡しておいた私の血を使って、繋がりも作った上でね」
「……フォルシアさんを操りティリアムさんと戦わせたのは、その本当の狙いを悟らせぬため――ですか」
 サレファの苦渋を含んだ問いかけに、マッドは涼しい顔で頷く。
「その通り。まあ、実際は、私が楽しむためのゲームという比重の方が大きかったがね」
「どこまで……どこまで人を弄べば気が済むの、貴方は!」
 リラが激昂し、一歩踏み出す。
 後一押しすれば、彼女は確実にマッドへと飛び掛かってしまうだろう。
「弄んでなどいないさ。私は、ただ自分が心から楽しいと思う事をしているだけだ。己の望むままにね」
 マッドは、さも当然のように言う。
 サレファは双眸も険しく、その侵入者たる男を睨みつける。
「むしろ、質が悪いと言うべきでしょうね、それは」
「かもしれませんね」
 マッドはあっさり認め――
 不意に、背中に翼を現出させた。
 鉄をそのまま加工したような重量感のある翼。
 重力を思いのままに操るその力は、《デモン》化できない状態であったとはいえ、ティリアムをも苦戦させるほどの強力な能力だ。
「さて、私がこの場にいる理由が納得いただいた所で……あなたの内に眠る聖杯を渡してもらえますか、宗主様?」
 この台詞に、サレファとリラが瞠目する。
「な、何故、その事を――!?」
 そう口にするリラの声は驚愕に震えていた。
 《聖器》の一つである聖杯が、宗主であるサレファの身に宿っているという事実は、一部の高位の神官と護衛の神威騎士以外は、誰も知らぬ秘事のはずだ。
 しかし、今、このマッドという男は、それに気づいている。
 マッドは白々しい声でこう言った。
「確か、この神殿には三人の大司教の方がいらっしゃいましたね。そのお一人――ゴウマ様でしたか? その方にお尋ねしたら、とても親切に教えてくださいましたよ」
「――まさか」
 サレファが青い顔になって呻く。
 マッドが名の出したゴウマという大司教は、二週間ほど前に、近くの街に私用で出かけていたはずだ。しかし、聖杯の件もあるので、三日前には帰ると文があったきり、連絡が取れなくなっていた。
 マッドは、自身の行った所業など、全く感じさせぬ微笑みを浮かべる。
「非常に助かりましたので、お礼にゆっくりと休んで頂きました。――二度と目覚める事のない安らかな、ね」
「き、貴様ぁっ――――!!!」
 リラは喉から怒りの叫びを迸らせると、マッドに向けて駆け出した。
「駄目です、リラ!」
 咄嗟にサレファが制止の声をかけるが、彼女には届かない。
 冷静さを失い、剣を振りかぶるリラに向けて、マッドはゆっくりと掌を向けた。
 そして、くすりと笑い、小さく呟いた。
「さようなら」
 同時に背中の翼が輝き、全てを押し潰す重力場がリラを襲う――
 
 それより一瞬早く。

 銃声が轟いた。
 空を裂く銃弾は、マッドの足元に突き刺さり、リラとマッドの動きを止める。
「悪いな、リラ。そいつを殺す役は、俺に任せてもらえないか」
 声は、宗主の間の脇に立ち並ぶ柱の一つから。
 ゆっくりとその影から姿を見せたのは、硝煙を漂わせる拳銃を片手にした、黒髪黒瞳の青年――ティリアム・ウォーレンスだった。


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