四章の二に続く 一覧に戻る 三章の九に戻る

 
エンジェル 四章

覚醒


 ―― 一 ――

 悠久の時。
 深緑の中で佇み続ける神殿。
 名を、フェイナーンという。
 一説では女神イヴァルナの没した地とも言われるその場所を、マッド・グレンティーンは離れた丘の上より見つめていた。
 白衣を纏い、理知的な顔つきは科学者然としている。
 しかし、その身に秘めるは、科学とは逆にある魔法の秘儀だ。
「聖なる森の守護を受け、長き時を経ても変わらぬ姿で在り続ける聖地と荘厳なる神殿。さらに、そこに集うは敬虔なる信徒達、か。――ふふ、なかなか美しい光景じゃないか」
 眼鏡を指で押し上げ、一人呟く。
 その唇が、酷薄な笑みを象った。
「だが、もっと美しくなる」
 狂気の笑みだった。
「私の手で、血の赤と絶望の破壊がそれを彩るときにね」
 男の肩が震えた。
 笑っているのだ。
 これから起こるであろう光景を思い描き、笑う。
 嗤う。
 嘲う。
 そして、両手を天高く掲げ、
「さあ、最高に楽しい宴の始まりだ」
 告げた。
 壊れてしまえと。
 死んでしまえと。
 私を満足させよと。
 女神を称える聖地へと向け、告げた。


「やっと……着いた」
 馬車から降りたティリアム・ウォーレンスは、森に囲まれた聖地レレナの見事な木造の門を前に、弱々しい声をこぼした。
 黒髪黒瞳。
 年の割には童顔気味で、しかし、整った面は疲れを隠す事なく浮かべている。もちろん、その背には刃を布で隠した身の丈ほどの大剣を、いつも通りに背負っている。
 ティリアムのあまりに憔悴した様子に、門番が心配そうな視線を送っていた。
「本当にようやくだね……」
 隣でティリアムより頭一つ低い、同じく黒髪黒瞳の少女――オーシャ・ヴァレンタインが呟いた。こちらも、やはり表情は疲労困憊の様子だ。
「うーん、ここまでの旅路は、なかなかに大変でしたからねー」
 二人の頭上から、呑気な声が落ちてくる。その視線が向かった先には、長い金髪に琥珀色の瞳を持った美女が居た。
 マリア・アールクレインである。
 オーシャの《翼石》フリューゲルに宿る、かつて栄華を誇った《翼持つ者》エンジェルの王妃は、その透き通る身体を楽しげに宙に泳がせていた。
 肉体を持たず疲労とは縁遠い彼女は、元気一杯だ。
 はあ、とティリアムは溜め息を吐く。
「大変所じゃないっての。野盗に狙われ、《鬼獣》デモン・ティーアに襲われ、家出少女を家に送り届け、道に迷い――どんだけトラブルに遭ってるんだ、俺達は」
「いやいや、誰が原因なのやら」
 ティリアムとマリアの視線は、自然と一人の人物へと向かう。
「え? え? 私……?」
 オーシャが驚いた顔で自分を指差した。
 ティリアムは呆れ顔のまま半眼になる。
「自覚ないのか? 野宿の途中、散歩してくると言ったら野盗を引き連れてくるわ、珍しい動物がいるって言って近づいたら《デモン・ティーア》だわ、気づかなきゃいいのに家出少女を見つけて声を掛けるわ、地図を見ながら間違った方向を指示するわ……」
「よくも、まあ、ここまでトラブルを引き寄せるもんですよね」
 マリアが妙に感心した様子でうんうんと頷く。
「あ、あははは。えと、その、なんと言えばいいのか……ごめんなさい」
 誤魔化し笑いも虚しく、オーシャはがっくりと肩を落とした。
「普段からそういう部分はあったけど、今回は特に酷かったぞ。何かあったのか?」
「……ええと、あったような、ないようなで」
 ティリアムの問いに、オーシャは目を泳がせなら、しどろもどろになる。
 そこに背後に降りて来たマリアが少女の両肩を掴んだ。
「うふふー」
「な、何? その不気味な笑い」
 マリアは、オーシャの耳元にそっと口を寄せ、
「ようやく誰かさんと気持ちが通じ合って、少しはしゃいでたんですよね、オーシャ」
 ぼっとオーシャの顔が、まさに一瞬で紅に染まった。
「ち、ちちちち、違う! 断じて違うよ!」
「どーですかねー」
 両手を振り乱して必死の弁解をするオーシャを、マリアは上からほくそ笑んで見やった。
「……何をやってるんだか」
 蚊帳の外にされたティリアムは、やれやれと肩を竦める。
 まあ、いつもの事ではあった。
 一時はぎくしゃくしていた二人の様子を思えば、元通りの関係になった事を喜ぶべきなのだろう。
「とりあえず、オーシャ」
「は、はい?」
 名を呼ばれ、オーシャがびくりと直立する。
「気をつけろよ。フェイナーン神殿では、何があるかわからないんだ。《黄昏》デンメルング相手じゃ笑い事じゃ済まないんだからな」
「……うん、わかってる」
 オーシャは、一転、表情を引き締め首肯した。
 かつての《世界王》ヴェルト・ケーニヒ――エリック・カールソンが率いる組織、《デンメルング》。
 その組織の、魔法の力を与えられた《模倣者》イミタツィオンの一人であるゴードンという男の言葉が正しければ、フェイナーン神殿に安置された《聖器》を狙って、近いうちに彼らによる襲撃があるはずなのだ。
 ティリアム達は、それを迎え撃つために、ここに来た。
 それは図らずも世界の存亡にも繋がっている。
 三人の顔が聖地レレナを向いた。
 視線の先に厳然と建つは、巨大なるフェイナーン神殿。
 その周囲は、《デモン・ティーア》の侵入さえも許さぬ聖なる森が包んでいる。
「よし、行くか」
「うん」
「いざ行かん、聖地レレナへ、ですね」
 ティリアムの呼びかけに、オーシャとマリアが応える。
 そうして十日の道程を終え、三人は聖地レレナへと足を踏み入れたのだった。


「……聖地レレナって神殿が建っているだけじゃないんだね」
 レレナに入ってすぐにオーシャはそんな感想を口にした。
 聖地レレナは、フェイナーン神殿を中心に、それを囲むように居住地があり、さらにその周りを深い森が囲んでいるのだ。
 故に、深緑の聖地とも呼ばれ、その建物のほとんどが木造である。
「私の時代から、聖地も神殿もありましたけど、こんな風に街みたいにはなってなかったですけどね……」
 マリアがきょろきょろと見回しながら言った。
「ああ、それはロロニア帝国のせいだな」
 馬屋に馬車を預けて戻って来たティリアムが説明する。
 オーシャが首を傾げた。
「ロロニア帝国?」
「シーナ王国とでドルガ大陸を二分にする、巨大軍事国家だ。イヴァルナ神教は《エンジェル》の時代から大陸全土で布教してるんだが、先代の皇帝が、突然帝国内でのイヴァルナ神教の信仰を禁じたんだ」
「どうしてそんな事を……」
「理由は定かじゃない。ただ単純に皇帝が女神イヴァルナの存在に対して懐疑的だったっていう説もあるし、もう一つ、当時やたらと推進していた軍備強化に平和主義のイヴァルナ神教の信者は邪魔だったからっていう話もある。まあ、どちらにしろ帝国のイヴァルナ神教の信者は居場所をなくし、信仰を捨てるか、国を出るかの二択を迫られた」
「でも、帝国を出たら、あとはシーナ王国に来るぐらいしかないんじゃ……?」
「その通り。だから、帝国を出たイヴァルナ神教の信者は、シーナ王国領内にあるレレナへと集ったんだ。まあ、聖地なんだから当然の成り行きだろうな。フェイナーン神殿も集まった信者達を無下には出来ず、受け入れようとしたんだが、いくら神殿がでかくても受け入れには限界がある」
「なるほど。それで神殿の周りに居住帯を作り上げてしまったんですね」
 マリアが顎に手を当て、得心した様子で言った。
「そういう事だ。だから、聖地レレナが今の形になってから、まだ数十年くらいしか経ってないのさ」
「へー……」
 オーシャはひたすら感心した様子で、首を巡らせた。
 と、そのとき――
「お二人は、旅の方ですかな?」
 小柄な一人の老人が、ティリアム達に近づいてきて声をかけてきた。
 くたびれた長衣ローブを身につけ、皺だらけの顔に人の良さそうな笑みを浮かべている。
 突然に声を掛けられたオーシャは、きょとんとした表情のまま訊いた。
「ええ、そうですけど。あの、おじいさんは……?」
「ああ、これは申し遅れました。私はレレナで語り屋をやっているゼウラという者です」
「か、語り屋?」
 ますます困惑するオーシャに、ティリアムが苦笑しつつも補足する。
「その土地に伝わる伝承や物語を、旅の人間やらに語って聞かせるのを職業にしている人間の事だよ」
「どうやらお嬢さんは、レレナは初めてのようですね」
 ゼウラに優しく問いかけられ、オーシャは素直に頷く。
「はい。だから、知らない事ばっかりで……」
「では、良ければ私が何かお一つ語りましょうか?」
「え? 良いんですか?」
 ゼウラはにっこりと笑った。
「もちろんです。それが仕事ですから」
「確かにそれは良いかもな。……じゃあ、神魔戦争の話を頼んで良いですか?」
 ティリアムが提案すると、ゼウラは年の功を感じさせる丁寧な仕草で深々と頷いた。
「ええ、もちろん構いませんよ」
「えっと……銅貨二枚くらいでしたっけ?」
「いえ、一枚で大丈夫です。こんな老いぼれの話を聞いてくれるのですから、たくさんはいただけませんよ」
「わかりました。んじゃ、銅貨一枚……と」
 ティリアムは財布から銅貨を取り出すと、老人へと渡した。
 ゼウラはそれを両手で受け取ると、
「――ありがとうございます」
 と、恭しく頭を下げる。
 そして、こほんと一つ間を取った。
「語るは、遥か三千年以上は昔の出来事――」


 大陸が、まだ多くの小国家で占められていた頃。
 一人の美しい女の姿をした者が、天より人世に降り立った。
 女の名は、イヴァルナ。
 全てを包み込む慈愛と素晴らしき創造の力をその身に宿す、偉大なる我らが女神。
 人々は彼女を敬い、彼女もまた人を愛した。
 だが、時を同じくして。
 美しき女神と対する者もまた、この世に降り立つ。
 その者の名は、アダムスタ。
 全ての呪う憎悪と忌まわしき破壊の力をその身に宿す、恐るべき悪魔。
 人々は悪魔を畏れ、悪魔もまた人を憎んだ。
 イヴァルナは言った。

「この愛しき世界に、お前の在る場所はない。今すぐ去れ」

 アダムスタは言った。

「その必要はない。全ては我が力で無に還るのだから」

 かくして、イヴァルナとアダムスタの戦いが始まった。
 人々はイヴァルナに味方し、多くの者達がアダムスタの破壊の力によって命を散らしていった。
 イヴァルナをそれを深く悲しみ嘆きながら、だが、剣を捨てる事はなかった。
 戦いは三日三晩、続いた。
 そして、ついに女神の刃は、悪魔の心臓を捉えた。
 アダムスタは世界を呪いながら、レレナという名の地で滅び去る。
 人々は勝利を喜び、女神を称えた。
 しかし、イヴァルナの面に喜びはなく、瞳から涙がこぼれた。

「私は悲しい。私は全ての者を愛す。だから、アダムスタの死も、また悲しい」

 女神の涙はレレナの地に落ち、荒れ果てた土地を深緑の森へと変えた。
 イヴァルナは人に、こんな悲しみのない平和なる世界を望み、いずこかへ姿を消した――


「そして残された人々は、レレナの地にフェイナーン神殿を建立したのです。世界を深く愛し、そして救った女神の事を忘れぬように、と」
「はあ……」
 オーシャは感嘆の溜め息を吐いた。
「そんな事が昔、この世界にあったんだ……」
 そのまま神殿を見上げ、呟く。
「でも、ちょっと悲しいお話ですね。なんで、アダムスタは世界を憎んでいたんだろう……」
「それは今を生きる我々には決して図り知れぬ事ですな」
 ゼウラは顎に蓄えた、すでに白くなっている髭を撫でながら、しとやかに笑った。
「そういえばフェイナーン神殿って、ほとんどは《エンジェル》達が建てたもんだって話も聞いた事あるな」
 ティリアムは、ふと思い出して事を口にする。
 ゼウラが双眸に少し悲しげな光を湛えながら頷いた。
「そうですね。力を持たない私達のような人間は、戦争の最中で多くが死んでしまっていましたから、必然的にそうなったと言われています。言うなれば、フェイナーンは《エンジェル》の残した遺跡の一つでもありますな」
「……なぁ、この話って、お前の時代にもあったのか?」
 これは小声で《エンジェル》の元王妃に訊く。しかし、肝心のマリアは珍しく神妙な顔で何かを考え込んでいた。
「…………」
「おい、マリア?」
「――えっ! ……ああ、はい? なんですか?」
 慌てふためくマリアの様子に怪訝な顔をしながら、ティリアムは再度訊いた。
「だから、神魔戦争の話って、お前の時代にもあったのかって」
「え、ええ、もちろん。イヴァルナ神教自体、もともとは《エンジェル》が興したものですから。……内容自体は、微妙に違う部分もありますけどね」
「……なるほどな」
「さて、せっかくですし、もう一つぐらい何かお話しましょうか?」 
 ティリアムとオーシャにしか姿を見えないようにしているため、マリアの存在には気づかないゼウラは、穏やかな微笑みを浮かべながら訊いてくる。稼ぎたいというよりも、単純に話をする事が楽しい様子だった。
「んー、そうだな……」
 ティリアムが顎に手を当て、思案を始めた――
 瞬間。
 聖地独特の喧騒に包まれた街の奥で、突如悲鳴が上がった。
「――何だ?」
 ティリアムは、素早く騒ぎの方に首を巡らせる。
「誰か捕まえてくれ! 食い逃げだ!」
 被害者と思われる人物の怒声が響く。
 目を向ければ、食い逃げ犯と思われる男が人を押しのけながら、こちらに必死に駆けてきていた。口の周りがソースで汚れているのが、なんとも情けない。
「食い逃げって……またしょぼい……」
 ティリアムは呆れながらも、自然な動きでオーシャの背中を押していた。
「え? え? 何?」
 ティリアムは悪戯っぽく笑った。
「修行の一環だよ。出来るだけ怪我をさせないように、あいつを捕まえるんだ」
「なるほど。――よ、よーし!」
 オーシャは気合を入れるように拳を握ると、道の真ん中に立ち、ゆっくりと構えを取る。
 ウィンリアを出てからも、彼女は魔法と格闘技の鍛錬は怠ってはいなかった。ただの食い逃げ犯程度なら、今の少女には造作もない相手である。
 食い逃げ犯が唯一の逃げ道を塞ぐオーシャに気づき、余裕のない表情で叫んだ。
「どけ、邪魔だ! 胸もない糞餓鬼がぁ!」
「んなっ!」
 オーシャは顔を真っ赤にして、愕然とする。思わずといった動きで、両腕で胸を隠してしまう所が、彼女の悲しい本心を語っていた。
 こんな状況なのに、周りからちょっと忍び笑いが起きる。
「ぜ、絶対に捕まえるっ!」
 眉を逆立てて、オーシャが声を上げる。小さな少女の背中からは、明らかな怒気が立ち昇っていた。
 ティリアムは何とも言えない曖昧な笑みを浮かべ、ぽりぽりと頭を掻いた。
「……出来るだけ怪我させないようにだぞー?」
「あの様子だと、骨の一本や二本折っちゃいそうですけどね」
 マリアは完全に他人事の様子で、上から妙に楽しそうに傍観している。
「邪魔つってんだろうがぁっ! 胸なしぃっ!」
「まだ言うかぁっ!」
 まさにオーシャと食い逃げ犯が激突しようとした、そのとき。
 聖地に、銃声が轟いた。
 高速で飛来した銃弾は、人ごみを奇跡のように真っ直ぐと縫っていき、食い逃げ犯の足元の大地を貫いた。
「うおおっ!」
 思わぬ事に、ソースで口を汚した男は無防備にずっこけ、顔面を地面で強打。
「――――っ!」
 食い逃げ犯は、顔を抑えて悶絶する。
 当のオーシャは振り上げた怒りをぶつける相手を失って、ぽかんと立ち尽くしている。
「ぢくじょーっ! いっだい、何だってんだ!」
 ようやく立ち直った男は立ち上がろうとして――
 硬直した。
 その眼前に、冷たく輝く刃が突き立ったからだ。
「動かないで。次は血を見る事になるわよ?」
 いつの間に姿を見せたものか。
 声の主は妖麗なる美貌を持つ金髪碧眼の女である。その手にした長剣すらも、彼女の美しさを際立たせるために存在しているかのように思えた。
 周囲の野次馬も、男女問わず、その姿に見惚れてしまっている。
「――仮にも女神様の聖地で食い逃げはいかんぞ。食い逃げは」
 今度は奥の方から、馬鹿でかい声が響いた。そして、蒼い線の入った銀の拳銃で肩を叩きながら、口髭を蓄えた壮年の男が姿を見せる。
 銃口から漂う硝煙が、さっきの銃弾がこの男が撃ったものだと教えていた。
「フォルシアさん! ジョンさん!」
 呆然としていたオーシャは、我に返るとそう叫んでいた。
 そう。
 それは、名高き二人の傭兵――
 フォルシア・ハルバラードとジョン・カルバリオだったのである。


四章の二に続く 一覧に戻る 三章の九に戻る 

inserted by FC2 system