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エンジェル 三章

逃避者


―― 九 ――

 翌日。
 ティリアムの部屋を、何とも言えない重苦しい空気が支配していた。
 部屋の真ん中で、オーシャとマリアが、揃って難しい顔で向かい合っている。どちらも何度か目を合わせようとして、すぐに逸らすのを繰り返していた。
 朝になって、「ちゃんと面と向かって話して、わだかまりをなくしたい」と、オーシャが言い出したので、マリアに《フリューゲル》から出てこさせたのだ。
 しかし、お互いなかなか最初の言葉が出てこないのか、無言のまま、すでに十分近くが過ぎている。
 立ち会っているティリアムも、この居た堪れない空気に、どうしたものかと頭を抱えていた。
(気持ちはわかるが……これじゃ、いつまで経っても進展しないぞ)
 ティリアムが、一際大きな溜息を吐いたのをきっかけに、二人が同時に身を乗り出した。
「「あ、あの……!」」
 声が重なった。
 そのせいで、お互い先の言葉を続けるタイミングを逸してしまう。
 途端、二人は見合わせた顔を慌てて伏せる。
「あ……えと、先にいいよ……」
「い、いえ、そちらが先に……」
 今度は、お互いに譲り合って話が進まない。
 堂々巡りである。
「あー、もう!」
 我慢の限界に達したティリアムは、大きな声を上げて立ち上がった。
 二人が驚いた顔で、こっちを見てくる。
「いつまでやってんだ! ……オーシャは、きちんと自分の中で整理をつけた。マリアはいろいろ黙っていた事を悪いと思って、それも謝った。あとは、今まで通りにやっていけば良いだけだろ」
「だ、だって……」
「こう、あれですよ。人の感情は、そんな単純じゃないというか……」
「知らない。そんな理屈は知らない。もう、こんな重い空気に付き合うのは、まっぴらごめん」
「また、我がままな……」
 オーシャが呟くが、ティリアムは聞こえない振りをする。
「だいたい、暗い空気を一番嫌がるのは、マリアだったんじゃないのか?」
「それは、そうですけど……」
 マリアが口籠る。
「……まったく」
 ティリアムは頭を掻いた後、二人の間に立つと、
「ほら、二人とも、手を出せ」
「な、何をするの?」
「いいから、早く」
 急かされて、オーシャとマリアは訝しがりながらも手を差し出す。
 ティリアムは、オーシャの腕を掴むと、マリアと半ば無理矢理に握手させた――とは言っても、マリアは実体化してなかったので、あくまで形だけだが。
 ティリアムは腰に両手を当てると、満足した顔で頷いた。
「よし、これで余計なわだかまりはチャラだ。もう、うだうだ言うなよ」
「「そんな無茶苦茶な……」」
 オーシャとマリアの声が、再び見事に重なった。
 驚いた顔で、二人が顔を見合わせ――
 不意に、二人は一緒に吹き出していた。
 しばらく、今までのやり取りも忘れたように笑い合い、それが収まると、
「……うん、そうだよね。こんなの、いつまでも引きずってるわけにはいかないもんね」
 言いながら、オーシャはマリアに向けて手を差し出した。
「ええ、そうですね」
 今度は、きちんと実体化すると、マリアは微笑みを浮かべながら、その手を握る。
「これで……」
「チャラですね!」
 また二人は笑った。
 気づけば、部屋の中にあった重苦しい空気は、いつの間にかなくなっている。
 ようやく今まで通りに戻った二人の様子を見ながら、ティリアムは「やれやれ」と肩を竦めた。


 それから、二日後。
「やあ、ティリアム。数日振りだね。元気だったかい?」
 すでに主の居ない、グリアムの屋敷の応接間。
 そこに置かれたソファに腰かけて、シーナの国王レルード・ヴェルアンは、にこやかな微笑みを浮かべながら、ティリアムに向けて手を挙げた。
「……よーし、とりあえず殴っていいか?」
「お、落ち着いてください、ティリアム様っ」
 応接間に入るなり、硬く拳を握り、早足でレルードに近づいていくティリアムを、近衛騎士の制服を着た真面目そうな風貌の青年が、慌てて押し留める。
「止めるな、ミシェル。こいつは、一度ガツンとやらないと、曲がった性根が治らないぞ」
「いや、気持ちは、よーくわかりますけど! でも、とりあえず、落ち着いてください!」
 ミシェルと呼ばれた青年は思わず本音を口走りつつも近衛騎士の職務を全うするために、必死にティリアムを宥めた。
「そうそう、短気は損気って言うじゃないか」
 レルードは、まるで自分は無関係と言わんばかりに言ってみせる。
 ティリアムのこめかみが、ぴくりと引きつった。
「あ、もう駄目だ。殴る。絶対に殴る」
「陛下! 余計な事を言わないで下さいっ!」
「あははは、ごめん、ごめん」
 そんなやり取りを、離れた場所でオーシャとマリアは眺めていた。
「なんだか、終わった事を一番引きずっているのはティルのような……」
「うーん、まあ、無理ない気もしますけどねぇ」
 マリアは、そう言って他人事のように苦笑していた。


「さて、落ち着いたかい、ティリアム?」
「……お前が言うのか、それを」
 ミシェルの努力のかいもあり、ようやく拳を収めたティリアムが怒りを通り越して、呆れた呟きをこぼす。
「まあ、そう怒らないで。何の考えもなく、君に《デモン・ティーア》騒ぎの件を押し付けたわけじゃないんだよ」
「どうだか……」
 ティリアムは不信感たっぷりの視線を、反対側のソファに腰掛けるレルードに送る。
「いや、本当だよ。《デンメルング》は、《デモン・ティーア》を操って手駒に使うじゃないか。それで、ウィンリアの少々不自然な《デモン・ティーア》騒ぎも、それ絡みの事件じゃないかと踏んだのさ。――実際、そこまで的外れじゃなかったろう?」
「まあ、結果的にはそうだけどな……」
 ティリアムは、じろりとレルードを睨みつける。
「だけど、何で、あんな騙すような形で仕事を押しつける必要があったんだよ」
「それは、そっちの方が面白いからに決まってるじゃないか」
「……陛下。はっきり言い過ぎです」
 レルードの背後で控えて立っていたミシェルが、諌めるように口を開く。
 彼は、もともと近衛騎士団の副団長を務めていた人物である。
 しかし、フィーマルが亡くなったため、そのまま団長へと昇格になったのだ。そして、今回は、ウィンリアを訪れたレルードの護衛のために他の近衛騎士達と共に同行していた。
「いいさ、ミシェル。もう予想通り過ぎて、怒りも湧いてこない」
 ティリアムは諦めきった口調で言った。
「……恐縮です」
 ミシェルは、自分の事でもないのに本当に申し訳なさそうに小さく頭を下げる。
「それより聞いたぞ。お前、街の人間に頭を下げて謝罪したんだってな。ジョアンが聞いたら、それでなくても悪い胃を、さらに悪くするぞ」
「グリアムのような人間を、この街の領主にしたのは、国王である僕の責任だからね。頭を下げるくらい当然の事さ」
 レルードは平然に言ってのけた。
 王城に居るはずのレルードが、ウィンリアにいる理由――
 それは、ティリアム達の働きによって、先日、発覚した領主グリアム・ホールマンの事件に対する後始末を、国王自らがするために出向いたからなのだった。そして、レルードは、街の人間を一堂に集めると、謝罪の言葉と共に、頭を深々と下げてしまったのである。
 仮にも王である人間が、自国の民に対して頭を下げるなど、本来ならあってはならない事だ。
 王には、国を治める手腕と共に、何よりも人の上に立つ者としての威厳を求められる。それがなければ、いくら国を上手く治めようとも、民は、なかなか王を王だと認めようとはしないだろう。
 王を中心とする王政の国において、それは決して良い状態とは言えない。
 故に王は、民の前では国を治める者に相応しい振る舞いが求められるのだ。
 だが、レルードは自らの不手際の謝罪のためとはいえ、民の前で頭を下げてしまった。
 これは、前代未聞の出来事である。
 実際、グリアムの事件の事以上に、この出来事は街の人々を動揺させているようだった。
 しかし、当の本人は、特に気にした風でもない。
「国というものは、王が居るから成り立っているんじゃない。民が居るから王は存在でき、国も在る。何よりも尊ぶべきは民だ。そんな民に、王の不手際で不幸を招いてしまった。ならば、頭を下げるくらいは当然だよ。それに、下げるべきときに頭を下げたくらいで失うような威厳なら、あってもなくても同じさ」
「まあ、言わんとする事はわかるが……重い溜息を吐くジョアンの顔が思い浮かぶな……」
「全くです……」
 ジョアンの代わりのように、ミシェルが重い溜息を吐いた。
 その様子から察するに、今回のレルードの行動に一番肝を冷やしたのは、最もレルードの傍に居た彼なのだろう。
 ティリアムは、胸中で彼に対して同情の念を送っておいた。
 そんな事はつゆ知らず、レルードは本題に入る。
「さて、そんな事よりも《デンメルング》についてわかった事があるなら、教えてくれるかな。一応、こっちでも独自に調べてはいたんだけど、いまいち芳しくないんだ」
 ティリアムは確認を求めるように、隣に座るオーシャに視線を送った。
 彼女が人の手で作られた魔導人間であるという事実を、ここで言ってしまっても良いか、という確認だ。
 オーシャは、迷う事なく頷いて見せた。
 ティリアムはそれに確認してから、改めて城を出てからの数日間に起きた出来事を、レルード達に語ったのだった。


「……《デンメルング》を率いるのは、かつての《ヴェルト・ケーニヒ》――そして、彼らの最終的な目的は、この世界を破壊する事、か」
 聞かされた話を確認するように、レルードが顎に手を当てながら呟いた。
「ふむ……なんだか数日経っただけで、妙に話が飛躍していないかい?」
「……言うと思ったよ。信じたくなかったら、信じなくてもいいからな、別に」
「いやいや、そういうわけにはいかないだろう。なにせ、その《ヴェルト・ケーニヒ》の王妃様が目の前に居るんだしね」
 そう言って、レルードはティリアム達の座るソファの背後に浮いているマリアへと目を向けた。
 話の過程で、マリアはレルード達に対する魔法迷彩を解いている。要するに、姿を見えるようにしたという事だ。
 さすがに、最初はレルードとミシェルも驚きは隠せなかったが、すでにオーシャの翼の事を知っている二人は、程なく目の前のマリアの存在も受け入れていた。
「しかし、そうなると、城で宝剣を奪っていったのも、その目的に繋がるのかな?」
「……おそらく、あれは《聖器》の一つだったんだと思います」
 レルードの疑問に、マリアはそう答えた。
「《聖器》?」
 聞き慣れぬ単語に、オーシャが首を傾げる。
「オーシャの《白光の翼》と、剣、杯、珠の三つの《聖器》が揃ったときに、彼らの言う世界破壊は可能になるんです」
「それ、初耳だな」
「……ええ。初めてティリアム達の前に姿を見せたときは、それでなくても突然な事なのに、あまりいろんな情報まで一緒に告げると、二人を混乱させるだけと思ったんです。何より、残りの杯と珠の所在は不明な上、オーシャの《白光の翼》さえ守り切って、エリックを倒してしまえば、《デンメルング》の計画が防げるのは間違いなかったですから」
「……なるほど」
 ティリアムは得心する。
「ですが、宝剣はすでに《デンメルング》の手に渡り、今はゴードンという男の言葉から、もう一つの《聖器》の居場所は判明してるわけですね」
 言ったのはミシェルだ。
「みすみすそれを渡してやる理由もないか」
 ティリアムは不敵に笑って見せた。
 レルードも同意して頷く。
「じゃあ、さっそくフェイナーン神殿に使者を送るとしよう。事情を知れば、あちらも君達に協力を惜しまないだろうしね」
「お前は協力しないのか?」
「そうしたいのは山々なんだけど、前の城への襲撃の件についても雑務が残ってるし、この街の事もある。なかなか自由に動けないんだ」
「世界の危機が迫ってるのに、呑気なもんだな」
「どんな状況にしろ、国王の責務は放り出せないからね。一応、何人かは城からも人は送るけど――まあ、君達に任せておけば大丈夫だろう?」
「……その期待を素直に受け入れたくなれないのは、なぜなんだろうな?」
「気のせいじゃないかな、きっと」
 レルードは、爽やかな笑顔で言い切ってみせる。
 ティリアムは、頬を引きつらせた。
「もう良い。それじゃ、ついでに頼みたい事があるんだけどな」
「なんだい?」
 ティリアムは、レルードに歩み寄ると何かを耳打ちする。
 それにレルードは、何度か頷いて見せると、
「……うん、大丈夫。それなら、すぐに手配できると思うよ」
「そうか、助かる」
「? 一体、何を頼んだの、ティル?」
 オーシャが不思議そうに訊いてきた。
「ま、気にしない気にしない」
 ティリアムはそう言って、含みのある笑みを浮かべるだけで、それ以上は何も言わない。
 オーシャとマリアは、怪訝そうに顔を見合わせた。
 その後、だいたい一通りの必要な話を終え、ティリアム達は応接間を後にしようとし――
「オーシャ」
 不意に、レルードがオーシャを呼び止めた。
 扉の前で立ち止まり、何事かとオーシャが振り返る。
「何でしょうか、陛下?」
「……いろいろと辛いとは思うが、自分を見失わないようにね。城の皆も、そして、僕達も。君が君であるという何よりの証人だ。それを忘れないでくれ」
 レルードの言葉ともに、背後のミシェルも微笑しながら頷く。
 オーシャは、少し驚いた様子を見せていたが、
「――はいっ!」
 すぐに目元に涙を浮かべて、力強く答えたのだった。


 グリアムの屋敷を出ると、門の所にジョージが立っていた。
 神妙な顔つきで、その姿はどこか憔悴しているように見えた。
「ジョージさん、どうしたんですか?」
 ジョージの姿に気づいたティリアムが声を掛ける。
「ああ、ティリアムさんにオーシャさん。実はお二人を、お待ちしていたんです」
 オーシャが首を傾げる。
「私達を……?」
「はい。少々、ご足労をお願いできますか?」
 二人は怪訝と首を傾げつつも、とりあえずをついて行く事を承諾する。
「ありがとうございます。では、こちらです」
 ジョージに連れられ、ティリアム達は住宅街の方へと歩き出す。
 その途中。
「……グリアムの事、やっぱりショックだったか?」
 ティリアムは気になっていた事を訊いてみる。
 あの夜、グリアムを引き渡した相手は、他ならぬジョージだった。
 顔見知りでない衛兵相手では、話すら聞いてもらえないかもしれなかったからである。
 最初は、彼もティリアムの話を頑として信じようとはしなかった。
 だが、グリアムの屋敷の地下にあった、女達の死体が保管されている光景を見せると、愕然としつつも、ようやくグリアムを捕らえる事を引き受けてくれた。
 ちなみに、その死体の件を知った経緯については、グリアムが例の《デモン・ティーア》――ゲイリーに誘拐され、それを救出する際に偶然に知った、という事になっていた。
 さすがに、グリアムの屋敷に忍び込んだから、とは言えなかったからである。
「……ショックでない、と言ったら嘘になるでしょうね。私は、グリアム様を信じていた――いや、心酔すらしていましたから」
 ジョージは、歩みもそのままに重い口調で続ける。
「あの人以上の領主はいないと思っていましたし、ときどきに耳に入る黒い噂など、彼の人望を妬んだ輩の虚言だと信じて疑わなかった。……ですが」
 足を止め、振り返った彼の顔には、どこか自省を含んだ笑みが浮かんでいた。
「どうやら、私はグリアム様を信じ過ぎるあまり、盲目になっていたようです」
「ジョージさん……」
 オーシャが、気遣った声をかける。
「大丈夫ですよ、オーシャさん。私は、この街の衛兵をまとめる総隊長です。この街の治安と、ここに住む人々の生活を守る義務があります。そんな私が、いつまでも過去に囚われているわけにはいけませんから」
 ジョージの言葉には、断固たる信念が込められていた。
 もちろん、そう簡単にグリアムの事を割り切る事はできないだろう。
 だが、それでも彼は、もう前を見つめ、自分自身の道を進もうとしている事が、力強い言葉から感じられた。
 それはきっと、オーシャが一つの辛い真実を乗り越えたのと同じ事なのだろう。
「……そうですか。俺が言える台詞じゃないかもしれませんが――頑張ってください」
「はい、ありがとうございます。もちろん全力を尽くしますよ」
 ティリアムの激励の言葉に、ジョージは以前通りの穏やかな微笑で答えた。

 二十分程して。
 三人は住宅街の外れにある、小さく寂れた建物へと辿り着いた。
「こちらです」
 ジョージに促され、ティリアムとオーシャは建物内に入った。
 途端、油絵の具の臭いが鼻につく。
 狭い室内には、椅子の上に置かれた木のパレットと筆、描きかけの絵など、いかにも画家が使うような物があちらこちらに置かれていた。ふと目に入った壁に掛けられた古い振り子時計は、随分前に止まっており、さらに床には薄っすらと埃が積もっている。
 これらの事が、しばらくこの部屋に人が入っていない事を教えていた。
「ここは……アトリエか?」
「ええ、そうです」
 ティリアムの漏らした言葉を、ジョージが肯定した。
「あの、私達をここに連れてきたのは、一体?」
 オーシャが訊くと、ジョージはゆっくりとした歩みで、部屋の真ん中に置かれた画架――それに乗せられた、布のかぶせられている絵の前に立った。
「実は、ここはゲイリーのアトリエなのです」
「え……」
「……ここが、ゲイリーの?」
「ええ、主が自殺してしまって、もう使う者も居ないアトリエですが……」
 ジョージが沈痛な声で呟いた。
「…………」
 ティリアムを少し申し訳ない気持ちになる。
 ジョージを含めた街の人々には、ゲイリーはツェーネが死んでいる事を知り、悲しみのあまり自ら命を絶ったと嘘を教えていた。
 もしも本当の事を告げれば、ゲイリーは人々を惨殺した化け物として扱われてしまうのは想像に難くなく、彼が《融合体》にされてしまった経緯を考えれば、それはあまりに哀しい結末である。
 故に、街の人々を殺めた《デモン・ティーア》はティリアム達に倒され、それとは無関係のゲイリーはもういない恋人の後を追って死を選んだ――そういう事にしておくのが、誰にとっても良いと思ったのだ。
 全ての真実を告げる事が、必ずしも皆を幸せにするとは限らない。
 少なくともティリアムはそう思う。
「実はお二人に、この絵を見て欲しいと思い、ここにお連れしたんです」
 ジョージはそう言って、目の前の絵にかけられた布を取り払った。するとその下から、花畑で子供達と戯れる、若草色の髪をした女性の描かれた美しい絵が姿を見せる。
 絵に関しては素人なティリアムにさえ、素晴らしいものだと思わせる――そんな魅力に溢れた絵だった。
「なんて素敵な絵……特に、真ん中で微笑んでいる女の人が綺麗……」
 オーシャが絵の覗き込みながら、素直に感嘆の言葉を述べる。
 不意に、ティリアムがある事に気づいて目を見張った。
「……もしかして、これってツェーネがモデルなんじゃ……?」
「はい、おそらく……」
 ジョージが神妙な顔つきで頷いた。
「どうやらゲイリーは失踪する直前に、この絵を描きあげたようです」
 その場にいる皆が、この絵を描き終えたときのゲイリーの心情を慮る。自然とアトリエ内を沈黙が流れた。
 しばらくして、ティリアムが口を開いた。
「ジョージさん」
「……なんでしょうか?」
「もう、ツェーネの埋葬は終わったんですか?」
「屋敷の地下に置かれていた女性達の死体は、昨日から順次、埋葬を進めていますが――ツェーネ様は、まだ終わっていなかったと思います」
「そうですか。なら埋葬のときに、この絵をツェーネと一緒の棺に入れてやってくれませんか。きっとゲイリーが生きていれば、それを望んだと思うんです」
「ティル……」
 オーシャは少し驚いた顔をしたが、それはすぐに同意の微笑に変わる。
「……そうですね。主のいないアトリエに置かれているよりも、そちらの方が良いのかもしれません」
 ジョージは、ゲイリーの絵を丁寧に手に取った。そして、ティリアム達に一礼すると、一足先にアトリエを出て行く。
 ――ティリアムは気づいていた。
 あの絵の中で、子供達へと笑顔を向けるツェーネの後ろに、小さく――本当に小さく、愛しい女性を見守るようにゲイリーとおぼしき青年が描かれている事に。
 この絵は、もしかしたら彼の思い描いた希望に満ちた未来の姿だったのかもしれない。
 もう、決して叶う事のない――だけど今も輝きに満ちた未来予想図。
 
 ――もしも、来世というものが本当にあるのなら。
 
 そこで、ゲイリーとツェーネには、この絵に描かれたような幸せに満ちた未来を叶えて欲しいと――ティリアムは心から、そう願うのだった。


 それから、三日後。
 ティリアム達はウィンリアを出るために、レルードの用意した馬車に乗り込もうとしていた。
 聖地レレナには、蒸気機関車の線路は敷かれていないため、レルードが気を利かせてくれたのである。
「まったく、いつもこうなら、あいつも素直に良い奴だと思えるんだけどな」
 馬の背を撫でてやりながら、ティリアムが言った。
 オーシャが苦笑する。
「ふふ、本人に聞かれたら、また意地悪されちゃうよ?」
「――だけど、これで、もうウィンリアとはお別れですね」
 マリアが感慨深げに呟く。
 それにティリアムは頷きながら、ゆっくりとウィンリアの街を眺めた。
「そうだな。ほんの二週間しかいなかったけど……いろいろあったな」
「うん、本当に……」
 オーシャも、どこか別れを惜しむように目を細める。
「そういえば、ミニアが見送りに来るんじゃなかったか? レルードは、まあ、例のごとく執務で手が離せないらしいが……」
「うーん、そろそろ来ると思うんだけど……」
 オーシャはそう言いつつ、街の方へと目を向ける。
「あ、来たみたいですよ」
 指で示したマリアの言う通り、こちらに駆けてくる小柄な少女の姿が見えた。
 ミニアは、かなり激しく息を切らせながら、ティリアム達を前まで走って来る。
「……すい、ません……遅れて、しまって……」
「お、落ち着いて、ミニア。そんなに待っていないから」
 慌ててオーシャが、ミニアの背をさすってやる。
「そ、そう? 良かったぁ……」
 ミニアは、ほっと胸を撫で下ろす。
「だけど、どうしたの? なんだか必要以上に慌ててるように見えるんだけど……」
「あ、それは……あ、あの、ティリアムさん」
 オーシャが不思議そうに問いかけると、ミニアはティリアムの顔を見上げた。
「どうした?」
「さっき私の家にレルード陛下の使者の方がいらっしゃって、私に城で侍女として働くようにと。私、びっくりして慌てて理由を聞いたら、ティリアムさんがレルード陛下に取り計らってくれたと……」
「え、ええっ!?」
「ああ、俺が頼んだよ」
 隣で素っ頓狂な声を上げるオーシャを尻目に、ティリアムは平然と答えた。
「グリアムがあんな事になったから、ミニアも働く場所がなくなって困るだろう。だから、レルードに頼んでおいたんだよ」
「……ああ、そういえば。なんか耳打ちしてましたね」
 マリアが一人納得した様子で頷く。
 ティリアムはミニアに微笑を向けると、その肩を優しく叩いた。
「大丈夫。一緒に母親も城暮らしで良いってさ。しかも、ちゃんとした医者の治療つきだ」
「で、ですが、そこまでお世話になるわけには……」
 遠慮しようとするミニアに、ティリアムは頭を振った。
「良いんだ。ミニアにはいろいろと世話になったし、迷惑も掛けた。だから、せめてもの礼代わりだよ。レルードも優秀な働き手が増えるなら大歓迎って言ってたしな」
「……ティリアムさん……その……私、なんと言えばいいのか……」
 感極まったように、ミニアが両手で口を押さえ、涙を流し始める。
「ミニア……」
 オーシャが気遣って、彼女の髪をそっと撫でた。
 思わぬ反応に、ティリアムが困った顔で頬を掻く。
「な、泣かれると、ちょっと困るんだが……まあ、遠慮しないで受け取ってくれると嬉しい」
「……はい、ありがとうございますっ。私、頑張りますね!」
 目元の涙を拭いながら、ミニアは嬉しそうに泣き笑いを浮かべた。
「ああ、頑張れ」
 ティリアムも優しい微笑を返してやった。
「――ティリアムさんっ!」
 不意に名を呼ばれ、声のした方にティリアムが顔を向けると、今度はジョージが駆け寄ってきていた。
「いや、間に合ってよかった。もう、行ってしまわれたかと思いました」
「あれ? ジョージさんも見送りに来てくれたんですか?」
「ええ、もちろんです。お二人にはお世話になりましたから」
 ジョージはそう言って、相変わらず人の良さそうな笑顔を浮かべる。
「うーん、ずっと思ってましたけど……私も居るんですよ?」
 頭上でマリアが不満気に呟いていたが、ティリアムはあえて無視しておく。どのみちミニアとジョージには、彼女の姿は見えていないのだ。
「……なんだか、改めてこうやって見送りされるのは、ちょっと照れくさいね」
 隣で少し恥ずかしそうにオーシャが笑った。
 そこに、
「オーシャ」
 ミニアが一歩踏み出すと、彼女の手をそっと握る。
「しばらく会えなくなるけど……私達、ずっと友達だよね」
「……うん、もちろんだよ」
 オーシャは力強く頷くと、ミニアの手を握り返した。
「また、いつか会おうね」
「ええ、絶対に」
 二人の少女は、そう言ってお互いに笑顔を向け合う。
 別れを惜しむ涙はなかった。
 それは、きっとまた会えると――互いが決して疑う事なく信じているからなのだろう。
 次にミニアは、ティリアムの方を向いた。
「その……ティリアムさんも、お気をつけて。たまには、お城にも遊びに来てくださいね」
「ああ、もちろん」
 真摯な言葉を投げかけてくる少女に、ティリアムは頷いてみせる。
「…………あの」
「? まだ、何かあるのか?」
 ミニアは両手を胸に当て、何かを言い出そうと、しばらく逡巡していたが――
「――いえ、やっぱり何でもないんです。すいません」
 結局、そう言って笑って誤魔化しただけだった。
「…………」
 ――彼女の言わんとしていた事に、ティリアムは何となく感づいていた。
 しかし、あえて追求はしない。
 きっと彼女にとっても、ティリアムにとっても、そして――オーシャにとっても、それが一番なのだと思ったからだ。
「……ミニアも元気でな」
「――はい」
 そう答えたときのミニアの笑顔は、少しだけ寂しげに見えた。
 今度は、ジョージが手を差し出してくる。
「ウィンリアにも、またいらっしゃってください。新しい領主様と共に、この街を前以上の素晴らしい場所にしてみせますから」
「ああ、楽しみにしてるよ」
 ティリアムは微笑し、固い握手を交わした。
 さらにジョージは、律儀にオーシャとも握手をする。
 見送りの二人と別れの言葉を交わし終え、ティリアム達は馬車へと乗り込んだ。
「それじゃあ、また」
「行って来ます!」
 御者台に座ったティリアムが手綱を握り、馬の尻を打った。
 馬車はあっという間に加速し、街から離れていく。ミニアとジョージの最後の別れの声も、すぐに聞こえなくなった。
 だが、それでも荷台側に乗ったオーシャは、小さくなっていくミニアとジョージに向けて、ずっと手を振り続ける。
 背後に控えたマリアは、そんな少女を優しい眼差しで見守っていた。
「さあ、飛ばすぞ!」
 ティリアムは、遥か遠くまで続く道を真っ直ぐと見据える。
 今は、まだ遠くて見えない目指すべきものを見失わないように。
 こうして。
 ティリアム達は、新たな地――聖地レレナへと旅立っていったのだった。


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