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エンジェル 三章

逃避者


―― 八 ――

「《デンメルング》……だと?」
 ティリアムが思わず問い返すと、《デンメルング》の人間と名乗った男は肩を竦めて見せた。
「そうだよ。《模倣者》イミタツィオンの一人さ。名は、マッド・グレンティーンという。よろしく頼むよ」
「……《イミタツィオン》?」
 オーシャが疑問を漏らす。
「ああ、君達は知らないのか。《フリューゲル》を埋め込み、魔法の力を得た者を、我々の間では《イミタツィオン》と呼称しているのさ。そして、それ以外の雑用係を《黒き者》シュヴァルツァーと呼ぶ。ま、そちらが知っても、大して意味がある知識でもないだろうがね」
「つまり、お前も翼を持っていて、魔法を扱えるってわけか」
 ティリアムは表情を一層、険しくすると身構えた。
 隣のオーシャも緊張感を漂わせている。
「なぜ《デンメルング》の人間が、ここに居る?」
「なに、自分の作った玩具の様子を見に来たら、たまたま君達と遭遇しただけさ。特に他意があったわけでもない」
「……玩具って……まさか……」
 何かに気づいたオーシャが呻いた。
 マッドの眼鏡の奥の瞳に、暗い光が灯る。
「――ああ、ゲイリーを《融合体》にしたのは、私さ、オーシャ・ヴァレンタイン君」
 あっさりと認めるマッドに、三人は絶句する。
「どうして……! どうして、あいつを《融合体》なんかにした……!」
 ティリアムは怒気を込めた目で、間違いなく敵であろう男を睨みつけた。
 マッドは、「ふむ」と顎に手をやると、
「たまたま、この街を訪れたら、自分にとって命よりも大切な女性を殺され、憎しみを持て余した哀れな青年がいた。心優しい私は、その憎しみから解き放たれるための力を与えてあげた。……ただ、それだけの事さ」
 事も無げに答え、酷薄な笑みを浮かべた。その表情から、彼が愉しむためだけに、ゲイリーを《融合体》にしたのは明らかだった。
 そこには、目的も意味もない。
 ただ、己が愉悦を感じるためだけの悪魔の所業だ。
 沸き上がる激情に、ティリアムはぎりっと強く歯を噛み合わせる。
「……ふざけるなよっ!」
「ふざけてなんかいないさ。いや、ゲイリーは、本当に哀れで愚かな――」
 マッドは、あからさまな侮蔑を含んだ口調で続けた。
「笑える玩具だったよ」
「この……っ!」
 あまりの言い草に、ティリアムがさらなる怒りの言葉を吐き出そうとしたとき――
「やめてっ!」
 先んじて、オーシャが叫んでいた。
 驚いて、ティリアムが隣の少女へと顔を向ける。
「……ゲイリーさんのやった事は、確かに間違っていたかもしれない。でも……でも! あの人のツェーネさんへの想いは何よりも純粋だったっ! それを馬鹿にする事は、絶対に許さないわ!」
「オーシャ……」
 突然のオーシャの激昂に、マッドも目を丸くしていた。
 だが、すぐにおかしくて堪らないという風に哄笑する。
「何がおかしいの!」
「ふふふ……いやいや、すまない。まさか君に“人の想い”を語られるとは思いもしなくてね」
 言葉の割には、少しも悪いと思っているような素振りを見せずに、マッドは言った。
 オーシャが訝しがるように眉根を寄せる。
「――どういう意味?」
「おや、そこに居る、マリア・アールクレインは、何も教えてくれていないのかな」
「……! 貴女、私の姿が見えて……!」
 存在を看破され、マリアが目を見張る。
「当然だろう。その程度の魔法迷彩で姿を隠せると思われていたとは、私もみくびられたものだね。なあ、マリア・アールクレイン――いや、《ヴェルト・ケーニヒ》の王妃、マリア・ケーニヒと言った方が正しいのかな?」
「――マリア……ケーニヒ? それじゃ……」
 ティリアムとオーシャが唖然とした表情で、マリアを見る。
「ふむ、この事も隠していたのか。仲間に隠し事はいけないな、王妃様?」
「…………」
 マッドの言葉に何も言い返さず、マリアは黙って俯くだけだった。
 今まで仲間として共に居たマリアが、《ヴェルト・ケーニヒ》の妻だった――。
 この信じられない事実に、ティリアムとオーシャは完全に言葉を失う。
「さて、話を戻そうかな。要するに、私が言いたいのは――」
「――やめなさい!」
 黙っていたマリアが、不意にマッドの言葉を遮るように声を上げる。その顔は、何かに対する恐怖と焦燥感に満ちている。
 マッドは、わざとらしく申し訳なさそうな顔をすると、眼鏡を指で押し上げた。
「生憎だが、貴女の制止に従う義務はないのでね」
 彼の視線が、オーシャへと向けられる。
「君は不思議に思った事はないか? なぜ、自分が《白光の翼》に覚醒出来たのか」
「それは……私に、たまたま素養があったから……」
「残念ながら違うね。君が思っている以上に、《白光の翼》というものは特殊なものなのだよ。あの翼は、アールクレイン家の者のみに受け継がれてきたものだ。しかも、受け継ぐのは一代に常に一人だけ。例外はない。同じアールクレイン家の者ならともかく、アールクレイン家とは縁も所縁もない君が、《白光の翼》に目覚めるなどという事は、本来なら有り得ない事だ」
「じゃあ、何で私は……!」
 無意識に不吉な予感を感じているのか、オーシャは、ひどく不安げな顔で身を乗り出す。
「オーシャ、駄目ですっ!」
 マリアが必死に制止の言葉を叫ぶ。
 だが、マッドは暗い悦楽を含んだ笑みを浮かべると、構わずに先を告げてしまう。
「エリックの望む世界破壊のためには、《白光の翼》に目覚めた人間は必須だった。だが、普通の翼に目覚める素養があるだけの人間に《白光の翼》の《フリューゲル》を埋め込んだ所で覚醒は望めない。それ故に――」
 マッドは指でオーシャを示す。
「――オーシャ・ヴァレンタイン。君は、《白光の翼》に覚醒させるためだけに、マリア・アールクレインの情報を元に魔科学で作られた偽りの人――魔導人間なのさ」
 マリアの素性以上の思わぬ真実に、ティリアムは絶句した。
 それは当事者であるオーシャも当然同じで、だが、すぐさま拳を握って反論する。
「……嘘よ! そんなわけない! 私は、ちゃんと実の両親に育てられて……!」
 しかし、マッドは揺るぐ事なく、彼女の反論を否定する。
「よく思い出す事だ。本当に君に両親など居たか? 顔は思い出せるか? 名前は? 一体、どんな家に住んでいた?」
「……そ、れは……」
 オーシャが言葉に詰まる。
「答えられないだろう? それが何よりの証拠だ。計画のために作られた魔導人間だったからこそ、君は《白光の翼》の覚醒が可能だった。君の信じてきた記憶は、後から植えつけられた偽物さ。……まったく、たいしたものだよ、《エンジェル》の魔科学はね」
「……嘘……嘘、だよ……」
 オーシャは立ち尽くしたまま、うわ言のように呟く。目は虚ろで、どこも見えておらず、溢れる涙が頬を伝っていた。
「……オーシャ……」
 ティリアムは、そっとオーシャの肩に手を乗せる。
 だが、掛けてやれる言葉など何も見つからない。
 
 ――自分は世界を破壊する計画のためだけに作られた偽りの人間だった。
 
 そんな残酷な真実を告げられた彼女に、自分が何を言えばいいのか。
 それが、咄嗟には浮かばない。
「……ねぇ、嘘だよね、ティル……」
 こちらに顔を向けてきた少女が、縋りつきながら問い掛けてくる。
 声は悲痛なまでに震えていた。
「…………」
「……お願い、嘘だと言って、ティル! ……お願い、だから」
「そんな問い掛けは無意味だよ、お人形さん」
 マッドが愉悦を含んだ声で言った。
 今の状況を心底楽しんでいる顔だ。
「……私が、人形……?」
「そうだ。君は、世界を破壊するために造られた、ただの道具さ」
「黙れ!」
 マッドの並べ立てる残酷な台詞に、ティリアムが激昂した。
「おっと、これはすまない。昔からそういうつもりもないのに、人を怒らせてしまうクセがあってね。気を悪くしないでくれ」
 わざとティリアムの神経を逆撫でしているとしか思えない事を、マッドはぬけぬけと言ってみせる。
「だが、ハロンも甘い事だね。ダランの街で真実を教えてやる機会は、いくらでもあっただろうに。なんだかんだと言いながらも、彼女が傷つくのは見たくなかったのかな。ああ見えて、彼は優しい所があるからね」
(! ハロン、あいつ……)
 確かにダランの街で、ハロンがそれらしい事を口にした事はなかった。
 あの状況で、オーシャが魔導人間である事を隠す意味などない。むしろ、本当の事を告げて動揺を誘った方が、あちらからすれば得だったはずだ。
 マッドの双眸に冷たい光が宿る。
「……まあ、いい。お喋りは終わりだ。本当は君達が目的ではなかったのだが――せっかくの機会だ。ここで死んでくれるかな?」
 殺気を発すると同時に、マッドの背中に翼が現出する。
 まるで鉄を加工したような、鉛色の重量感を感じさせる翼だった。
「――やる気か。ちょうどいい。こっちもお前をただで帰すつもりはない」
 燃え上がる怒りを殺意に変えて、ティリアムは大剣を構えた。
 さすがに、今の身体の状態では《デモン》化は、もう出来そうにない。
 このまま戦えば、不利だという事もわかっている。
 だが、オーシャの心を深く傷つけた、この男を前にして退く気にはどうしてもなれない。
「いやいや、怖いね」
 自分の有利を理解しているのだろう。
 マッドは余裕に満ちた笑みを浮かべた。
 風貌だけを見れば、どう見ても戦い向きの人間ではない。
 しかし、マッドの漂わせる得体の知れない雰囲気は、彼が油断ならない者である事を暗に知らせていた。
「じゃ、こちらから行こうかな」
 白衣のポケットに両手を突っ込んだまま、マッドが言った。
 同時に背中の翼が、鈍い光を発する。
「――いけない! 避けて!」
 マリアが危険を察して、声を上げる。
「――――!」
 だが、言われるまでもなく、不意に感じた異様な圧迫感に押されるように、ティリアムは動けないオーシャを抱えて後方に跳んだいた。
 さっきまで立っていた地面が、不可視の力によって円形に陥没する。
「これは……!」
 この威力からして、咄嗟に避けていなければ、間違いなくティリアム達は物言わぬ肉片に変えられていただろう。
「私の翼は重力を司っていてね。例えば、こんな事も出来るんだよ」
 マッドが、白衣のポケットから何かを取り出す。
 掌に乗っていたのは、小指の先くらいの無数の鉄の玉である。それをティリアムの上空にばら撒く。
 宙を舞う玉に、マッドが魔法によって強力な重力が付加される。
 ティリアムは、すぐにマッドの狙いを察して、その場から離れるために全力で駆け出した。
 普段の数百倍の重量を持たされた鉄の玉が、死の雨のごとく降り落ちてくる。
 抱えたオーシャを庇いながら、ティリアムは前方に身を投げだし、かろうじて攻撃の範囲内から逃れる。
 後方では、重い音と共に地面に無数の鉄の玉がめり込んでいった。
「なかなか、いい逃げっぷりじゃないか。さあ、どんどん行くぞ?」
 マッドが指を鳴らす。
 すると、再び不可視の重力場がティリアム達を襲ってくる。
「くっ!」
 勘を頼りに、ティリアムは必死に攻撃を避ける。
 周囲の地面は、次々と陥没していった。
 《デモン》化も出来ず、オーシャを抱えたままでは、まともに戦う事も出来ない。
 何より、あの視覚できない重力の攻撃は脅威だった。
「……私……私は……」
 自分の状況など、まったく目に入ってないのか、オーシャは相変わらず呆然自失の状態で呟いていた。
 そんな様子に、ティリアムは激しい憤りを覚えた。
「いつまで塞ぎ込んでるんだ、オーシャ!」
 傍での怒声に、オーシャはびくんと身を震わせて、ティリアムの顔を見上げた。
 すぐ脇で重力場が地面を押し潰す。
「確かに、お前は作られた存在だったのかもしれない! 記憶は偽りだったのかもしれない! ――だけど、それは全部じゃない!」
 湧き上がる想いを、ティリアムは真っ直ぐと、自分が守り続けてきた少女へとぶつけた。
「お前が生まれてから、感じてきた喜びや悲しみや痛み――俺達と共に積み上げてきた記憶は、間違いなくお前だけのものだ! それが在るなら、お前は間違いなくオーシャなんだよ! それでも、自分を信じられないっていうなら、俺が何度でも、お前はお前だと言い続けてやる!」
 ティリアムは、オーシャを抱える手の力を一層強くした。
「だから、俯くな! ただ、ひたすら前を見ろ! そこにはお前の戦うべき敵が居る! ――立て! オーシャ・ヴァレンタイン!」
「ティル……」
 ティリアムに一喝され、光を失いかけていた少女の瞳に、不意に力を戻った。
 それに気づき、ティリアムは笑んだ。
「跳べ」
「――――!」
 声に押されるように、オーシャは、ティリアムの肩を踏み台に跳躍した。
 マッドが目を見張る。
 宙を舞いながら、オーシャは再び具現化した《シュペーア》を敵に真っ直ぐと向ける。
 穂先から、白い閃光が迸る。
 咄嗟にマッドは前方に障壁を張り巡らせ、それを防いだ。
「……ふん、とんだ茶番だったが――戦意を取り戻したようだね」
 忌々しげに、マッドが舌打ちをする。
 着地したオーシャの隣に、ティリアムが駆け寄る。
「……ごめんね、ティル。――もう、大丈夫だから」
 オーシャが小さく呟いた。
「……ああ」
 ティリアムは頷いて答えた。
 ――本当は大丈夫などではないだろう。
 己の存在を根底から、否定されたようなものなのだ。
 だが、それでも彼女は、戦うために――歯を食いしばって立ち上がったのだ。
 それは生半可な心の強さでは、出来る事ではない。
 他ならぬ自分が、その背を押したとはいえ、ティリアムは少女へ対しての尊敬の念を抱かずにはいられなかった。
「まあ、良いさ。少しぐらいは抵抗してくれないと、殺す側も面白くないものだからね」
 マッドは、相変わらず自分の優位を疑ってない様子で嗤った。
「その言葉――後悔させてやる」
 ティリアムは威圧感を込めた低い声で返した。
 戦いが再開されたようとした、そのとき――
 一陣の風が疾った。
「――そこまでにしろ、マッド。貴様の言動は、先ほどから目に余るものがある」
 風が収まったときには、一人の巨漢の男がマッドの左腕を掴んで立っていた。
 刈り込んだ髪に無骨な顔つきをした、いかにも武人といった風情の人物だった。マッドの腕を掴んだのとは逆の手には、深緑色の棍が握られている。
「……新手か?」
 さらなる状況の悪化に、ティリアムが顔つきを険しくした。
 しかし、加勢に来たにしては、姿を見せた男はマッドを止めるような言動をしている。
 マッドは興を削がれた様子で息を吐いた。
「やれやれ、これから楽しい所だったのに……。とんだお目付け役に見つかってしまったな」
 巨漢の男の瞳に咎める光が宿る。
「エリック様の命令を忘れたのか。《白光の翼》の奪還は後回しにして、我々は《聖器》の回収に専念するはずだ」
「わかってないなぁ、ゴードン君? 言われた事しか出来ない奴は、部下としては三流だよ」
「……貴様に、エリック様の部下としての自覚があるとは思えんがな」
 ゴードンと呼んだ男の言葉を肯定するように、マッドはくっくと笑う。
「まあ、良いよ。今回は、君の顔を立てようじゃないか。それなりに楽しめたしね」
 マッドは掴まれた腕を振りほどくと、ティリアム達に背を向け、
「では、御機嫌よう」
 と言い残し、転移魔法であっさり去っていった。
「……くそっ」
 今までの経験で追っても無駄だとわかっているティリアムは、舌打ちをしつつも引き止めようとはしない。それに、もう一人の巨漢の男が残っている。
 残されたゴードンは、ティリアム達の方に顔を向けると――
「――申し訳ない」
 いきなり頭を下げてきた。
 予想外の行動に、ティリアム達は眼を丸くする。
「あの男の非礼を詫びる。すまぬ」
「…………」
 どう返したものか困り、ティリアムは黙りこんでしまう。
 ゴードンは顔を上げると、さらに厳つい声で続けた。
「――聖地レレナにあるフェイナーン大神殿。そこに安置された《聖器》を奪う事が、次の我々の目的だ」
「……何故それを、敵である俺達に教える?」
「言っただろう。非礼を詫びると。――こんな事で代わりになるとは思わぬが……」
 オーシャの方を一瞥し、ゴードンは沈痛な声で言った。
「…………」
 ティリアムは、無言でゴードンを見つめる。
 どうやら、この男は、今まで出会ってきた《デンメルング》の人間の中でも、かなり異質な者のようだった。
 もちろん、彼の言動の全てが、こちらを罠にかける偽りである可能性もある。
 だが、彼の言葉の端々から感じる不思議なほどに誠実な響きが、そうは思わせないのだ。
 ゴードンは手にした棍で地面を突いた。すると、彼の背中に薄緑の翼が生まれ、足元には転移魔法陣が広がっていく。
「我らを阻みたければ、レレナに来るがいい。もちろん邪魔をするのであれば、我は容赦などしないがな」
「望む所だ」
 ティリアムは挑むように返した。
 ゴードンが不敵な微笑を浮かべる。
「さらばだ」
 別れの言葉と共に、転移魔法でゴードンは去っていった。
 それを見届けてから、ティリアムは背後を振り返る。
「…………」
「…………」
 オーシャとマリア。
 二人は、気まずそうにお互い目を合わさず、無言だった。
 揃って、表情は暗く沈んでいる。
 ティリアムは小さく溜息を吐くと、
「……とりあえず戻るか」
 そう呟いたのだった。


「……私は、《フリューゲル》の中に戻ります。今は、オーシャにどんな顔をして会えばいいのか――わからないんです」
「ああ」
 マリアの言葉に、ティリアムは頷いた。
 今、二人が居るのは、ウィンリアにある宿屋の廊下である。
 街に戻ったティリアム達は、衛兵に事件のあらましを説明し、グリアムを引き渡した後、ミニアの家には戻らず、宿に部屋を取ったのだ。
 オーシャは自分の部屋に入ってから、一度も姿を見せていない。
 マリアが深々と頭を下げてくる。
「ティルも……すいませんでした」
「謝るなよ。オーシャの事は、別にお前が悪いわけじゃない。王妃の件は、さすがに驚いたけど――それだけだしな。別に、お前を敵だと疑ったりはしないさ」
 それは、ティリアムの素直な気持ちだ。
 まだ、ほんの数日の付き合いだったが、マリアが人を裏切る事が出来るような人物でない事は、よくわかっているつもりだった。
「――本当にすいません」
「だから、謝るなってば。お前も、少し心の整理をする時間が必要だろ。今日は、もう《フリューゲル》に戻って、休んだほうがいい。あんまり――思い詰めるなよ」
「……はい」
 マリアは素直に答えると、そのまま姿を消していった。


 ――それから、十分程だった頃。
 不意に、ティリアムの部屋の扉がノックもなしに開かれた。
 ベッドに横になって考え事に耽っていたティリアムは上半身を起こす。
 物音と気配から、扉を開けたのが誰なのか察しはついていた。
「……どうしたんだ、オーシャ?」
「…………」
 問われたオーシャは、俯いたまま無言で部屋へと入ってくる。
 やはり、ひどく憔悴しているようだった。
 ティリアムもベッドから降りると、オーシャへと歩み寄る。
「黙ってたら、何もわからないぞ」
「……ごめん、なさい……」
 消え入るような声で、ようやくオーシャが答えた。
「一人で居ると、どうしようもなく不安になるの。ティリアムは、自分で積み上げた記憶があるなら、私はオーシャ・ヴァレンタインだって言ってくれた。でも――胸の奥から込み上げてくる、どうしようもない不安な気持ちが消えてくれない。私が私でないんじゃないかって、ひどく怖くなってくるの」
「…………」
「ごめんね。私、弱いから。もう、自分じゃどうしたらいいかわからない。こんな事じゃいけないってわかってるけど……でも……!」
 溢れる感情を抑え切れなくなったのか、オーシャはティリアムの胸に飛び込んでくる。そして、そのまま泣き出した。
 そんな少女を、ティリアムは優しく受け止め、腕を回して抱きしめてやる。
「いいや、お前は強いさ。さっきの戦いでも、お前は俺の呼びかけに応じて、立ち上がって戦ったじゃないか。不安になるのも、ちゃんと目の前の現実を受け止めようとしている証拠だ」
「……でも……もう、戦えない、よ……」
「……お前は、いつも一人で頑張りすぎるからな」
 オーシャの頭を撫でてやりながら、ティリアムは言う。
「――ダランの街で、オーシャは、俺の正体がなんであろうと“ティルはティルだ”って言ってくれたよな。それにシーナの城では、俺の悲しみを真っ直ぐに受け止めてくれた。俺はお前の強さと優しさに、ずっと救われ続けてきたんだ。だから――今度は俺が、オーシャはオーシャだって証明してやる。俺がお前の悲しみを受け止めてやる」
「……ティル」
「お前は、オーシャ・ヴァレンタインだよ。呆れるくらい純粋で、どこまでも優しくて、オデン好きで、ちょっと天然な――そんなオーシャだ。誰にも、それを否定なんかさせはしない。絶対にだ」
「……う、ん……うん……」
 オーシャが胸の中で、何度も頷く。ティリアムの言葉で、自分自身を確かめるかのように。
「今は泣いて良い。弱くなって良い。お前は、今まで十分過ぎるほど頑張ったから――今だけは良いんだ、オーシャ」
「…………っ」
 オーシャは、再び泣いた。ただ、ひたすらに、とめどなく泣いた。
 ティリアムは、ただただ受け止め続けた。
 そして。
 いつしか二人は、お互いの存在を確認しあうように――唇を交わしたのだった。


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