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エンジェル 三章

逃避者


―― 七 ――

 さあ、踊れ、踊れ。
 さあ、狂え、狂え。
 存分に、狂って舞い踊れ。
 ああ、愚かなり、偽りの復讐者。
 ああ、哀れなり、心弱き臆病者。
 
 ――この先、お前はどこへ堕ちていく?


 群れをなして襲い掛かって来る触手達を、ティリアムとオーシャはそれぞれ左右に分かれて避けた。
 獲物を逃した触手の槍は、次々と地面へと突き刺さる。
 湖畔を駆けるオーシャの手首にはまった腕輪が、彼女の魔力に呼応して淡い光を発していた。魔法の効果を半永久的に定着させる意味を持つ特殊な紋様を刻み、ティリアムによって《デモン》の力が宿された腕輪だ。
 これを身に着ける事により、オーシャも《デモン》化と同じ、身体能力強化の恩恵を得る事が出来る。その力は、本物に比べれば大きく劣るものの、身体能力の面で不安のあるオーシャにとっては貴重なものだ。
 これに加えて、胸の《フリューゲル》を通じてマリアから受け継いだ戦士としての記憶と知識、さらに、短いながらもティリアムと共に積んだ鍛錬が、急速にオーシャを戦う者として成長させていた。
 オーシャは、次々と襲って来る触手の群れを紙一重に躱しながら、着実にゲイリーに接近して行く。もちろん、躱し切れない攻撃を魔法の障壁が防いでくれる事に救われている部分も大きかった。
 しかし、それでも以前のオーシャでは、決して不可能だった動きだ。
 今、ゲイリーの意識は、巧みに攻撃を避け続ける事に専念するティリアムの方に大きく向いている。
 それは最初の戦闘の時と同じ。
 ――つまりは囮だ。
 作戦は功を奏し、ゲイリーは、オーシャの接近を許す大きな隙を作ってしまっていた。
 ゲイリーがいつの間にか横手から迫っていたオーシャに目を見張る。
 だが、遅い。
 顔面を貫こうとする触手を辛うじて左拳で弾くと、反対側の掌をゲイリーの脇腹に添えた。
 同時に、そこに集めていた魔力を放出する。
 夜闇に弾ける閃光。
 衝撃にゲイリーの身体がぐらりとよろける。彼の脇腹は光の爆発により、大きく抉られていた。
 さらに、オーシャはその場で旋回し、ゲイリーのこめかみに勢いの乗った強烈な蹴りを見舞う。まともに受けたゲイリーの首がごきりと折れる音が響いた。
 足から嫌な感触が伝わったのか、オーシャは顔を歪めるが、それでも動きは止める事なく、その場で高く跳躍した。
 オーシャの姿が消え、次に迫って来たのは大剣を振り抜かんとしていたティリアムだ。
 強烈な横薙ぎの斬撃がゲイリーの身体を上下に両断、さらに振り下ろしの一撃が縦に切り裂く。ゲイリーを十字に捌いたティリアムは、すぐさまその場を跳び退く。
 すでにゲイリーの背後には、着地していたオーシャが光の弓を構えて立っていた。
 光矢が連続して放たれる。
 ゲイリーの頭部が、腹部が、右足が、左腕が、それぞれ吹き飛び、残された肉片が、ぼたぼたと地に落ちていった。
 手に持つ弓を消して、オーシャがティリアムに駆け寄る。
「さすがにこれなら……」
「いや」
 ティリアムは険しい顔つきで否定した。
 地面に散らばるゲイリーの肉片が集まり、融合し、盛り上がっていく。そのまま人の形を象ると、ゆっくりと完璧に再生されたゲイリーの姿が現れる。
「相変わらずの再生力だな」
「やはり普通の攻撃では決定打を得られそうもないですね」
 気づけば、傍に居たマリアが神妙な顔で言う。
 ティリアムは剣を持たない方の掌を見つめた。
「……《紅》は駄目ですよ」
 ティリアムの考えを悟ってか、マリアが厳しい声色で言った。
 はっとした表情で、ティリアムが顔を上げマリアを見る。
「確かにあの魔法なら、ゲイリーの再生力を超えて、彼を滅する事も出来るでしょう。ですが、貴方は、つい先日に暴走したばかりなんです。ここで《紅》なんて使ってしまえば、再び暴走を招き――今度は二度と元に戻れないかもしれませんよ」
 ティリアムが悔しさに歯噛みする。
「だが、他に手がないだろう。このままじゃジリ貧……その先に待っている結末は見えてる」
「それはそうですが……」
 マリアが苦悩の表情を浮かべる。
 ティリアムは、安心させるように不敵な笑みを口元に浮かべて見せた。
「なに、必ず暴走すると決まったわけじゃないだろ。なんとかなるさ」
 そう言って、ティリアムは覚悟を決めて一歩踏み出そうとする――が、それよりも早く。
 オーシャが前に踏み出していた。
「……オーシャ?」
 ティリアムが驚いた顔で少女を見る。
 オーシャは顔だけ振り返ると、その顔に強い決意を込めた微笑を浮かべた。
「二人共、ここは私に任せて」
「任せてってお前……」
「私だって、今まで遊んでいたわけじゃないよ。ゲイリーさんを倒す手段は、私にもある――」
 途端、何かに気づいたマリアが目を見開く。
「まさか、“あれ”を……?」
 オーシャは力強く頷いた。
「あの力は、こんなときのための力、だよね?」
「……確かに、そうですね」
 オーシャの問いかけに、マリアが苦笑気味に応えた。
 師が弟子に教えられた――そんな風な顔だった。
「オーシャ、信じていいんだな?」
 ティリアムはオーシャの瞳を真っ直ぐに覗き込みながら訊いた。
「もちろん」
 臆する事なくオーシャは笑顔を浮かべる。
 それは――ティリアムも初めて見るような自信に満ちた笑顔だった。
「私も戦うって決めたんだもん。自分の中に勝ちに繋がる可能性があるってわかってるのに、そこから逃げたくはないの」
「……わかった。お前を信じる」
 信頼の眼差しを送りながら、ティリアムは首肯した。
「だけど、この力を使うには少し集中する時間が要るの。だから――」
 オーシャは伸ばした指先に魔力の光を灯すと、空中に、かつて《エンジェル》が用いたという魔法文字で一つの名を刻んだ。光の文字は地面へと吸い込まれ、今度は魔法陣が出現する。
 それが輝くと同時に、中央にゆっくりと白き虎が現出した。夜の闇の中に白き身体を浮かび上がらせた《ガイスト》――ハクトは小さく唸り声を上げると、
「お呼びですか、主」
 創造主の少女に深く頭を垂れた。
 オーシャは、ハクトの前に膝を吐くと頭をそっと撫でてやる。それに、ハクトは気持ち良さそうに目を細めた。
「今から《神槍》シュペーアを使おうと思う。だから、それまでティリアムと一緒に私を守って欲しいの」
「御意。我が命に代えましても、主をお守り致します」
「……相変わらず堅苦しい奴だな」
 ティリアムは苦笑しながら、ハクトの背を軽く叩いてやる。
「性分ですので」
 にべもなくハクトは言ってみせた。
 これには、ティリアムも肩を竦めるしかない。
 ――そのとき。
 完全に再生を終えたゲイリーの咆哮が響き渡った。
「……どうやら相当、頭にきているらしいな。まあ、無理もないか」
 顔つきを厳しくしながら、ティリアムは大剣を構える。
「オーシャ、急げよ。少なくとも相手は手数だけは多いからな。いつまでも守り切れるもんじゃない」
「うん、わかってる」
「では、参りましょう、ティル様」
 先立ってハクトは駆け出していた。
「……ハクト、今更だけど、愛称に様づけっておかしくないか?」
 そんな素朴な疑問を覚えつつも、ティリアムもそれに倣って走り出したのだった。


 オーシャが、ふうっと小さく息を吐いた。
 これから行使する魔法は、今まで経験にないほどの大魔法だった。
 緊張に自然と手が震え、頬を汗が伝う。
(大丈夫……出来るはずよ……)
 言い聞かせるように、オーシャは胸中で呟いた。
 今、ここで役に立てなければ、これまで自分は何のために戦う事を決意し、鍛錬を積んできたのかわからない。
 それに。
 もう、己の無力のせいで、大切な誰かを救えないなんて事だけは嫌だった。
「オーシャ、何も心配いりません。貴女なら出来ます」
 見守るように背後で浮くマリアが優しい声を掛けてくれる。
 それが、とても心強い。
 オーシャは目を閉じ、ゆっくりと右腕を持ち上げると頭の前に掌を掲げると、
「我が手に」
 囁くにように言った。
 合わせて背中の翼が発光し、光が掲げた掌に集まっていく。
 光は棒状の形を象り、先には小剣の刃だけ取り外したような槍の穂先が生まれる。
 ぐっと掌を握った。
 槍の柄の確かな感触が伝わってくる。
 閉じていた目を開くと、その手には、《白光の翼》に目覚めたときに見た《シュペーア》が握られていた。
 強大な力を秘める、美しき装飾の施された白槍。
「お願い、力を貸してね」
 槍の柄を両手でぐっと握ると、懇願するようにオーシャは、そう口にしていた。


「ええい、こなくそ!」
 苛立つティリアムが大剣を振るうと、斬られた触手が宙をいくつも舞った。
 だが、それらを弾き、砕いて、次の攻撃が迫ってくる。
「ちっ!」
 前転気味に地面を転がって、なんとかそれを避ける。
 それでも掠めた一撃が、肩口を薄く裂き、服を血で濡らしていた。
 ゲイリーの攻撃はさらに苛烈さを増し、もはや近づく事さえ困難になっていた。触手は何度も再生を繰り返し、攻撃はとめどなく続く。それこそ息を休める暇もない。
 ハクトも本物の虎など軽く凌駕する速度で駆け、その牙を何度もゲイリーに突き立てんと迫る。
 だが、触手の怒涛の反撃を受け、やむなく後退するのを繰り返していた。
「死ネ! 全て壊れテしまエ!」
 ゲイリーが狂気を吐き出す。
 もはや、そこに理性など欠片ほども感じ取れない。
(……くそっ)
 その姿に、ティリアムは言いようのない憤りを感じる。
 一歩間違えれば、あれはティリアムの姿だったのかもしれないのだ。
 不意に死角から触手。
 頭部に迫ったそれを、咄嗟に首を捻ってかわし、すかさず大剣で刎ね斬った。
「……戦いの場に置いて、他の思考に気を取られるのは感心しかねます」
 いつの間にか隣にまで退いてきたハクトが厳しい声音で言った。
「わかってるよ。……やれやれ、お前には説教されてばかりだな」
 ティリアムは溜め息をこぼしながら、こちらに突き進んできた触手の数本を切り払った。
「しかし、これじゃオーシャを守る所か、自分の身を守るだけでも精一杯になりそうだ」
「それでもやらねばなりません」
 ハクトは断固たる意思を込めた声で言うと、次なる攻撃に備えて身を低くする。
「確かに」
 ティリアムも大剣を構え直すと、ゲイリーを注視した。
 一人と一匹の必死の活躍により、触手達は一切オーシャには近づけないでいた。
 しかし、同時にこちらも先ほどからゲイリーには、一度も攻撃を加えられていない。
 このままでは埒があかないと見たのか、二十を超える数にまで増殖した触手達は、一旦、主の方まで退いていった。
「ウグゥッ、ウガアアアアアアッ!」
 ゲイリーの叫びに呼応して、触手達が彼の背後で二手に分かれて集い始める。
「……何をする気だ?」
 異様な雰囲気を察し、ティリアムが眉根を寄せた。
 集まった触手達は互いを融合させ、新たな形を構築していく。
 ――それは、人の腕だった。
 触手達は合体し、二本の黒い光沢を放つ人の腕を作り上げていたのである。腕回りの太さは、普通の人間の三倍はあった。さらに、その先に生まれたそれぞれ五本の指の先には鋭い爪が伸びている。
 もともとあった腕も入れれば、ゲイリーは四本腕となっていた。
 ティリアムが驚愕の表情のまま呻く。
「なるほど、量より質を取ったか」
「あの腕……なかなか手強そうですよ」
 警戒を込めた唸り声を上げ、ハクトが言った。
「ああ。……よし、それぞれ一本づつ担当で行くか」
「御意に」
 言い終わるが早いか、ティリアムとハクトはその場で散開する。
 二本の黒腕も同時に伸びると、触手だったときより速度を倍加させて襲って来た。
 握り潰そうと指を広げる手を、ティリアムは跳躍して避けると、伸びた腕の上に着地。そして、腰のホルスターから素早く銃を抜くと、銃口を足元に押し付け至近距離で乱射した。
 だが、硝煙の先に見える黒い肌には傷一つついていない。
「おいおい!」
 驚きの声を上げるティリアムの背後で、ぐるりと方向転換をした掌が再び襲って来る。
 慌てて腕から飛び降り、銃をしまうと、今度は振り返りざまに全力の斬撃を黒腕に送った。
 鈍い金属音が響く。
 強固な皮膚を前に、やはり刃は通らない。
 頭上に圧力を感じ、後方に大きく跳躍。
 さっきまでティリアムの居た地面を、一瞬遅れて伸びて来た手が握り潰す。
 着地したティリアムは、さすがに呼吸を荒くしつつ、ちらりとハクトの様子を伺った。あちらも黒腕に爪も牙も通らないせいで、やはり苦戦を強いられている。
 襲って来る焦燥感に、ティリアムは顎にまで汗を伝わらせた。
(まずいな。こちらの攻撃が全く通じないんじゃ、オーシャに攻撃を仕掛けられたとき、こっちには、それを止める術がない……)
 今はまだ、ゲイリーの意識は攻撃を仕掛けるティリアムとハクトに方にだけ向いている。
 だが、いつオーシャにその矛先が向くかはわからないのだ。
 歯噛みするティリアムに、地面を抉りながら黒腕が突き進んでくる。
「ぐっ!」
 飛んでくる土塊に視界を遮られ、一瞬だけ回避が遅れる。
 なんとか直撃を避けたものの、胸部を爪で薄く裂かれた。
 鮮血が宙を舞う。
 ティリアムは苦痛に顔を歪め――そこで気づいた。
 得物を逃した黒腕は急上昇すると、空中で大きく旋回――そのまま狙いを槍を構えているオーシャに定めたのだ。
「――っ! オーシャ、逃げろ!!」
 血を流す胸を押さえながら、ティリアムは必死の声を上げた。


 オーシャは、両手で掴んだ《シュペーア》を頭上でくるりと回すと、ゆっくりと右脇に構えた。
 やるべき事は、決して難解ではなかった。
 ただ、ひたすらに己の魔力を槍に集め、それを解き放つだけ。
 《シュペーア》で極限まで増幅されたそれは、圧倒的な破壊力をもって、ゲイリーを一瞬にして消滅させてしまうはずだ。
 なんら捻った所のある魔法ではなく、しかし、それ故に強力無比。
 その力を振るおうとするオーシャ自身が恐怖するほどに。
 初めて《白光の翼》に目覚めた時点で、この魔法の事は《フリューゲル》から流れ込んできた知識の中にあったため知っていたし、マリアからも口頭では聞いている。
 だが、それを自分が扱えるとも、扱おうとも、そのときは思いもしなかった。
(……でも、今は信じなきゃ。きっと私には出来るって)
 槍の柄をぐっと強く握ると、ひとつ深呼吸。
 瞼を閉じると、普段は外に向けられている意識の目を己の内へと向けた。すると、血液のように身体を巡り続ける魔力の流れが、はっきりと見える。その流れをゆっくりと、だが確実に右手へと導き、槍へと魔力を流し込んでいった。
 《シュペーア》が光を放ち始め、それは、集y魔力の量に比例して徐々に大きく、力強くなっていく。
 集い、増幅される力が、何度も自分の制御を離れて暴発しそうになり、オーシャはその度に必死に抑え込み、支配した。
(……まだ……まだ足りない……)
 自分の中の魔力を根こそぎ集めるつもりで、オーシャはさらに集中力を高める。
 《シュペーア》から放たれる光は、もはや直視できないほどに強くなっていた。まるで、オーシャ自身が小さな白い太陽のようにも見える。
(……もうちょっと……だから……お願い言う事を聞いて……!)
 槍の内で暴れ狂う力を、なかなか落ちない綱渡りのように、ぎりぎりの線で制御を続ける。
 集束する破壊の力の余波で、オーシャの周囲を強い風が渦巻いていた。
 そして。
 不意に。
 臨界点にまで魔力が高まった事を感じ取れた。
「オーシャ、逃げろ!!」
 ティリアムの叫びが耳に届く。
 目を開くと、ゲイリーの背から伸びた黒腕が、こちらに向かって来ている。
 しかし、危機感はない。
 迫る脅威がなんであろうが、《シュペーア》から放たれる力の前には消し飛ぶだけ。
 あれだけ暴れていた魔力も、限界まで高まった途端、波一つ立たない湖面のような静けさを保っていた。
(――いける)
 右足と共に《シュペーア》を大きく後方に退き、オーシャは声を張った。
「離れて、ティル! ハクト!」
「「!」」
 それに反応して、すぐさまティリアムとハクトはその場を飛び離れる。
「ごめんなさい。あなたのツェーネさんへの想い――それだけは何一つ間違ってはいません。……でも、だからこそ、これ以上はっ!」
 オーシャは、ゲイリーに向けて《シュペーア》を全力で突き出した。
「穿てっ!」
 声に合わせて、穂先から巨大な閃光が轟と放たれる。
 夜気も。
 闇も。
 向かってくる黒腕も。
 万象が、迸る閃光に触れた瞬間、根こそぎ分解され、消去された。
「ウォオオオオオオオッ!」
 狂気の中で咆哮するゲイリーも、また。

 ――閃光に中に消えた。


「はあっ! はあっ! はあっ!」
 オーシャが荒く呼吸しながら、《シュペーア》 で身体を支えて膝を突く。
 マリアが後ろから飛んで来て、優しく労うように彼女の肩に両手を添えた。
「大丈夫か、オーシャ!」
「主!」
 ティリアムが、ハクトを従えて駆け寄る。
 疲労感を滲ませながらも、オーシャは笑って見せた。
「うん、大丈夫。ちょっと体力と魔力を使い過ぎただけだから」
「そうか。……しかし、たいした威力だな」
 ティリアムは、さっきまでゲイリーの居た方角を振り向き、戦慄の呟きを漏らした。
 破壊の光が駆け抜けた後には、何も残っていない。
 遥か彼方まで巨大な轍のように地面を抉り、ゲイリーも黒腕も完全に消失していた。
 まさに、恐るべき破壊力である。
 しかし、勝利の喜びはなく、オーシャは唇を噛むと、何かに耐えるように俯いた。
「…………」
「――お前が、何も責任を感じる必要はないさ」
 破壊の跡を見つめながら、ティリアムが静かに言う。
 オーシャが顔を上げた。
「え?」
「こうするしかなかったんだよ。あそこまで狂ってしまった、あいつを救うには……」
 言いながら、ティリアムは剣の柄を握る手に力を込める。
「……うん」
 と、そこで。
「はいはい、暗くならない! これでようやく《デモン・ティーア》退治の仕事も無事に終わったんですから! さ、早く街に戻りましょう?」
 マリアが笑顔で手を叩きながら、事さら明るい声で言った。
「って、お前は何もしてないだろ……」
 ティリアムは、呆れた顔で呟く。そして、首を巡らせながら、戦闘に巻き込まないように放り投げたグリアムの姿を探した。
「確か、あっちの方に投げたと思うんだけどな――」
 ――刹那。
 唐突に殺意が。
 頭上から降ってきた。
「避けろっ!!!」
「え?」
 いち早くそれに気づいたティリアムは弾かれたように駆ける。棒立ちのオーシャを抱きすくめ、そのまま押し倒した。空から降ってきた黒腕は、オーシャこそ逃したものの、そのまま横に居たハクトを吹き飛ばす。
「ハクトッ!!」
 オーシャが悲鳴のように名を叫んだ。
 ハクトは身体を明滅させながら、無防備に草だらけの地面を転がると、
「……主……申し、訳……ありま……せ……」
 オーシャに向けて弱々しく呟き、その姿を光の粒へと変える。それは、オーシャの方へとゆっくりと寄ってくると、彼女の胸へと吸い込まれていった。
「ハク、ト……?」
 オーシャが呆然と、自らの胸に手を添える。
「……大丈夫です。魔法の構成が保てなくなって、創造主の下へと帰っただけ。しばらくすれば回復するでしょう。それよりも――」
 マリアは口早に説明すると、顔つきも険しく上空を見上げた。
「なんて恐るべき執念……」
 その呟きには、どこか震えさえ含んでいた。
 月を背景に、一つの影があった。
 その影は、下半身こそ失っていたが、間違いなくゲイリーである。
 だが、大きな異変があった。
 驚くべき事に、その背には――翼が生えていたのだ。
 《エンジェル》のものとは違う。
 純粋に空を舞うためにある、夜闇が形を成したかのような漆黒の翼。
「オーシャの一撃を避けるために、翼を生やしたのか……!」
 立ち上がって、同じく空を見上げるティリアムも驚愕するしかなかった。
 狂気の中に堕ちながらも、どこまでも生への執着を失っていない。
 いや、むしろ。
 狂気に堕ちたからこそ、か。
「マリア、オーシャの事を頼む」
 不意に、ティリアムが言った。
「……使う気ですか、《紅》を?」
「ああ」
 マリアの問いに、迷いなくティリアムは頷いた。
「駄目だよ、また暴走が! ――だ、大丈夫、また私が……あ」
 オーシャが慌てて立ち上がろうするが――その途端、かくんと膝が折れて、地に両手を突いてしまう。
「っ! そんなっ」
 オーシャの肩に手を添え、マリアが頭を振る
「無理ですよ、オーシャ。まだ扱い慣れていない状態で《シュペーア》を使ったんです。とてもじゃないですが、二発目なんて撃てません」
「だけど……っ!」
「オーシャ」
 なお言い募ろうとするオーシャの言葉を遮って、ティリアムは、
「今度は、俺を信じてみてくれ」
 そう言って笑った。
「……ティル」
「さて、行くか」
 ティリアムは、オーシャ達から距離を取ると、改めてゲイリーを見上げて叫んだ。
「降りて来い、ゲイリー! 俺が相手になる!」
 狂気を宿した翠の双眸が、ティリアムを捉えた。
「紅イ眼の男……!」
 ゲイリーは背の翼を一際大きく羽ばたかせると、ティリアムに向けて急降下してくる。
 すでに完全に再生の終えている二本の黒腕が、同時に指の顎を開く。
 まずは、右が薙ぐように襲ってきた。
 ティリアムは後方に大きく跳躍。
 五本の爪は空を切るが、すかさず左が覆い被さるよう追撃。
「くっ!」
 辛うじて脇に転がるように避ける。
 両腕の攻撃が空振りに終わり、ゲイリーの動きが一瞬停止する。
(今だ!)
 未だ上半身のみしか残していないゲイリーの本体に向けて、ティリアムは駆けた。黒腕も背後から追って来るが、こちらの足の方が速い。
 剣の届く間合いに入る。
 両手で握った大剣の刃に、《紅》の紅い光を宿し、それを大きく振りかぶった。
「消えろ、ゲイリー!」
 必滅の刃が、狂気の怪物を捉えようとした、そのとき。
 ゲイリーの胸が内側から、ぱっくりと裂けた。
「――――!?」
 さらに、そこから黒い触手が一本だけ飛び出し――ティリアムの腹部を貫いたのだ。
「……反則くさい、ぞ……それ、は……」
 口の端から、つっと血が伝う。
 貫かれた腹部から激痛が全身を襲い、意識が飛びそうになる。
 大剣が手を離れ、草だらけの地面を落ちた。
 黒い触手は、ティリアムの身体をぶら下げたまま上空に伸びると、そこで大きくうねる。その勢いで腹から触手が抜け、血の糸を引きながら、ティリアムの身体は湖の方へと投げ出された。
 大きな水飛沫を上がる。
 ティリアムの身体は、そのままゆっくりと湖の底へと沈んで行き、その途中。
「ティル――――ッ!!!」
 オーシャの悲痛な叫びが、妙にはっきりと耳に届いた――


『――また会ったね』
 どこか聞いた覚えのある声が聞こえた。
 だが、それよりも。
 今、自分はどこ居るんだったろうか。
 
 ――ああ、そうか。
 
 俺はゲイリーと戦って。
 腹を触手で刺されて。
 湖に放り投げられたのか。
 やけに身体が重くて、冷えるはずだった。
 ――妙にぼんやりとする。
 腹の傷から、血と一緒に意識も水に溶け出していくような感じだった。
 思考が混濁し、薄まり、いまいち上手く回らない。
 以前にさっきの声を聞いたときも、確か今と似たような状況だったはずだ。
 我ながら成長がないと、思わず苦笑がこぼれた。
『おや、笑うなんて余裕だね。今、君は死を目前にしているのに』
 内容のわりには、呑気に声が言った。
 相変わらず、ずっと前から知っていたような感じがする声だった。
(死ぬ、か……。生憎、腹を刺されたくらいじゃ、俺は死ねないさ)
 声の主が笑う。
『ふふ、そうだね。でも、このまま戻っても、《融合体》の彼に勝つのは難しいんじゃないかな?』 
(何でも……お見通しか)
『何でも、ってわけじゃないけどね。――で、どうする?』
(どうする?)
『僕が力を貸そうか? って言ってるんだけど』
(冗談、だな。お前の言葉に耳を貸したせいで……この間は、しなくてもいい暴走をした)
『違うよ』
 あっさりと否定した。
(何?)
『あれは僕のせいじゃないさ。むしろ、君が僕の差し出した手を払ったから、暴走を招いたんだ』
(何、だって……?)
『自覚がないんだね。……まあ、無理もないか。あれは無意識に近い反応だったし』
(意味がわからないな)
『そうだな……。じゃあ、こうしよう。これから、また僕が少しだけ力を貸すよ。君は、今度こそ、それをちゃんと受け取って。そうすれば、僕が悪いんじゃないってわかるはずさ』
(また、いきなりな話だな)
『何事も実践ってね』
(……まあ、いいさ。この際、借りられるもんがあるなら、全部借りてやる)
『そうそう、その意気だ。じゃ、行くよ――?』

 ――瞬間。

 世界がカチリと切り替わった。
 気づけば、闇の世界に一人で立っていた。
 周囲には何もない。
 闇。
 黒。
 虚無。
 否、ただ一つだけ。
 目の前には、巨大な両開きの扉があった。
 なんの装飾もない、無骨な扉だ。
 近寄って触ってみるが、まったく知らない材質で出来ていた。
 さらに、不思議な事に。
 その扉が何色なのか理解できなかった。
 白かと思えば、黒で。
 黒かと思えば、赤で。
 赤かと思えば、緑で。
 黄で、茶で、紫で、青で、橙で、灰で、紺で――全部だった。
 扉は、全ての色を備えていた。
 そして、そのどれでもなかった。
 不意に。
 扉の中央にヒビが走る。
 小さな亀裂。
 そこから、何か――何かが――……来た。


 ティリアムが湖に中に沈んでから、ほんの数秒。
 突然、湖面が爆裂した。
「え……?」
 ショックで愕然と固まっていたオーシャが、呆然と巨大な水柱を上げる湖を見つめる。
 遥か上空まで昇った湖の水が、雨のように周囲へと降り注ぐ。
 そして、それと一緒に。
 ティリアムが、オーシャのすぐ目の前に――静かに湖畔へと降り立った。
「ティル!」
「無事でしたか……」
 オーシャとマリアが同時に安堵し、次にぎくりと身を震わせた。
 戻って来たティリアムの纏う空気が、前に暴走したときの雰囲気と、どこか似ていたのだ。
 しかし、決定的に違うのは、
「ちょっとやばかったけどな。安心してくれ、今度はしくじらない」
 そう言って、彼が振り返って笑った事だった。
 間違いない、ティリアムのいつも通りの笑み。
 だが、オーシャは同時に、どこか今までと何か異なる雰囲気をティリアムから感じた。
「まさか――……に――?」
 驚愕の表情でマリアが何か呟く。
 だが、声が小さくて、何を言っているのか、よく聞き取れない。
「……マリア?」
「い、いえ、なんでもありませんよ」
 オーシャがそちら見ると、マリアは、どこか取り繕うように言った。


(これが……あいつの言う“力を貸した”って事か……)
 ティリアムは、改めて自分の感覚を確かめるように両手を何度も開いたり、握ったりしてみる。
 腹や胸に受けた傷は、すでに全て塞がっていた。
 全身の感覚が澄み渡り、視界は風の流れさえ見えそうなくらい鮮明だ。
 今の自分なら、誰を相手にしても勝てる――そんな不思議な高揚感が身体に内から湧き上がっている。
「……剣、拾わないとな」
 さっきゲイリーの傍に落とした愛用の大剣を見つめ、ティリアムが呟く。
 軽く一歩踏み出した。
 瞬間。
 ティリアムの身体が霞んで消える。
 風の壁を突き破り、ティリアムの身体は刹那のうちに大剣の傍へと移動していた。
 そのまま、ひょいと片手で剣を拾い上げる。
「は、はや……」
 オーシャは目を見張り、ぽかんとしている。
「キ様……っ!」
 湖中から舞い戻り、一瞬で目の前に移動してきたティリアムを見て、ゲイリーが激昂する。
 今度こそ《デモン》を破壊せんと、右の黒腕を振り上げた。
「邪魔だ」
 無造作に、ティリアムが大剣を振るう。
 ただ、それだけで、あの強固な皮膚が切り裂かれ、黒腕が両断された。
 斬撃の威力が、先ほどまでとは段違いだ。
 愕然とするゲイリーに、ティリアムは言う。
「退場の時間だ、ゲイリー」
「黙レッ!」
 今度は、左手が轟風と共に頭上から落ちてくる。
 しかし、ティリアムは頭上に掲げた左手で、軽々とそれを受け止めてしまう。
「今の俺に、こんなものは通用しない」
 受け止めた手で拳を作ると、とんっと大きな黒い掌を叩いた。
 途端、黒腕の手が凄まじい衝撃を受けたように、吹き飛ぶ。
「グウッ!? ッウア……アァァ……ッ」
 ティリアムの圧倒的な戦闘力を前に、翼をはためかせて、ゲイリーが後退さる。
 その面には、明らかな恐怖が浮かんでいた。
 以前、ティリアムに与えられた恐怖が、再び表面化したかのように。
 どんっとティリアムが足元に剣を突き立てた。
 そして、右足を一歩引き、半身の構えを取ると、握った右拳に《紅》を集中させていく。
「お前の偽りの復讐劇は、ここで終わりだ」
 ティリアムが静かに告げた。
「終わラなイ! 終ワりはシなイ!」
 ゲイリーの胸がばくりと開き、さっきの黒い触手が飛び出す。
 だが、それも左の掌であっさりと受け止められ、《紅》で消滅させられた。
「じゃあな」
 短い別れの言葉。
 ひゅっと風を裂く音。
 必滅の拳が、今度こそゲイリーの胸に突き立つ。
 びくんっとゲイリーの身体が震えた。
 哀れな復讐鬼を《紅》があっという間に包んでいき、その身体がぼろぼろと崩れていく。脅威の再生力も、全てを完膚なきまで滅する《紅》の前には無力だった。
「……僕、は……」
 滅びに向かうゲイリーが、呟く。
 そこには今までとは違う、理性の響きが戻っていた。
「……ただ……ツェーネを……愛して、いた……愛し……続け、たかっただけ……」
「――わかってるさ、そんな事は」
 ティリアムが言う。
「だからこそ、お前はツェーネの愛した――人間のゲイリーのまま、最後まで在り続けるべきだったんだ」
 紅き光の中、ゲイリーが目を見張り――次に、どこか無念そうに微笑んだ。
 初めて見る、人間としてのゲイリーの微笑。
「そうかも、しれないな……」
 死を迎える直前。
 彼はようやく怨嗟と狂気から解き放れていた。
 ゲイリーは、最後にティリアムの方を見ると、
「……迷惑を……掛けた……それと――」
 どこか救われた表情で、
「ありがとう」
 そう言い残し、静かに消滅していった。
 後には、何も残らない。
 ティリアムは、その場で夏の夜空を仰いだ。
「……馬鹿野郎……。礼なんか……言うなよな……」
 静かに歩いてきたオーシャが黙って隣に立ち、同じように空を見上げる。
「ゲイリーさん、最後に人に戻れたんだ……」
「…………」
「向こうでツェーネさんに会えてるといいね」
「人として死ねたんなら……会えるさ。きっとな」
「……うん」
 オーシャは目元に浮かんでいた指で涙を拭い、少しだけ頬を綻ばせた。
 ティリアムは、足元の突き刺していた剣を引き抜くと、
「よし、帰るか」
 気持ちを切り替えるように言って、《デモン》化を解く。
 途端。
「!?」
 視界が歪んだ。
 立っていられず、がくりと膝を突く。
「ティル!? 大丈夫!」
「あ、ああ……少し疲れただけだ」
 オーシャが胸を抑え、ほっと息を吐く。
「良かったよ……。また、血でも吐いちゃうんじゃないか、と思って」
「そういえば……」
 以前までなら、《紅》を使った直後は、反動で立つ事も困難な状態になっていたはずだ。
 しかし、今回は、それなりの疲労感はあるものの、大きな反動は感じられない。
(あいつが力を貸したから……って事か?)
 しばらく考え込み、
「……まあ、いいか」
 答えは出そうもなかったので、早々に思考を遮断した。
 それに、なんとなくだが――また、あの声の主とは出会う気がしたのだ。
 ならば、そのとき喋らせればいい。
「…………」
 そんなティリアムを、マリアが複雑な感情を宿した眼差しで見つめていた。
「さあ、今度こそ帰ろう。早くミニアやジョージさんを安心させてあげないと」
 オーシャが、ティリアムに手を貸しながら明るく言った。
「そうだな」
 ティリアムは重い身体を持ち上げると――不意に顔つきを険しくして、弾かれるように背後を振り返った。
 それにつられて、オーシャとマリアもそちらに顔を向ける。
「おや、気づかれたか。一応、気配は消してたんだがね」
 ――見知らぬ男が、そこに立っていた。
 無精髭に眼鏡、くたびれた白衣を纏い、まるで研究者のような格好をしている。
 その口元には、嘲るような笑みがあった。
「誰だ、お前は?」
 ティリアムが厳しい声音で問うた。
 突然、姿を見せた男を、オーシャとマリアも警戒した様子で見つめる。
 男は、慣れた手つきで眼鏡を押し上げ、
「ああ、そうだな。君達には、こう言った方がわかりやすいか」
 楽しげに目を細めると、言った。
「私は――《デンメルング》の者さ」
 男の口から出た予想外の言葉に、ティリアム達は絶句したのだった。


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