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エンジェル 三章

逃避者


―― 六 ――

「夢、ですか?」
 テーブルに疲れた顔で突っ伏しているティリアムへ向けて、その頭上で浮いていたマリアは訝しげに問い返した。
「ああ。最高に気分の悪くなるようなヤツをな。見たんだよ」
「へえ……どんな夢なんですか?」
 マリアはテーブルの反対側に飛んでいくと、ティリアムと目線の合う位置まで高度を下げる。
 それに合わせて、ティリアムも顔を上げた。
「ゲイリーとツェーネが幸せそうに語り合ってる夢だよ。俺にあんなに想像力があるとは驚きだね」
 マリアが考え込むように綺麗な形をした顎に指を持っていく。
「……それ、ただの夢じゃないじゃないかもしれませんね」
「そう……なのか?」
「ええ、ゲイリーとツェーネ……どちらかの残留思念みたいなものが、ティルの夢として現れたのかもしれません。まさに昨日、そんなものが残っていそうな場所にティルは行ったじゃないですか」
「グリアムの屋敷か……」
 その単語を口にした途端、嫌な事を思い出し、ティリアムの顔が歪む。
「でも、本当にそんな事あるのか?」
「魔法なんてものを信じられて、この話は信じられませんか?」
「……そんな事はないけどな。まあ、なんにせよ気分の悪い事には変わりはないさ。もう不幸になった二人の幸せだったときの光景なんて」
「……そうですね。ツェーネはもうこの世におらず、ゲイリーは――」
 マリアが悲しげに目を伏せる。
 最後までは、口にしたくなかったのだろう。
 と、そこで隣の部屋の扉が開く音が響き、二人はそちらに顔を向けた。
「すいません。たいしたおもてなしもできなくて……」
 申し訳なそうな顔で、ティリアム達の居る食堂に姿を見せたのは、線が細く、少し顔色の悪い四十半ばの女性だった。
 彼女は、グリアムに仕える侍女の少女――ミニアの母で、リェンナといった。
 ――ティリアムが、グリアムの屋敷から無事に戻った翌日。
 ジョージから、ミニアの住所を聞いたティリアム達は、すぐさま彼女の家を訪ねた。そして、ゲイリーの件が決着するまで、適当な理由を作って、グリアムの屋敷には行かないように告げた。
 もちろん彼女の安全を考えての事である。
 蛇使いは倒したものの、他の所からミニアがティリアムの侵入を手引きした事がバレていないとも限らないのだ。
 その際、「どうせなら自分の家に泊まっていって下さい」と、ミニアの方から提案された。
 傍に居たほうが、もしものときに守りやすいという事もあり、ティリアム達はそれを快諾し、今に至っている。
「いえ、お気になさらず。急に押しかけたのはこっちですから。それよりも寝てなくて大丈夫なんですか?」
 ティリアムは椅子から立ち上がると、気遣った声をリェンナに掛ける。
「ええ、今日はいつもより調子が良くて」
 リェンナはそう言って、少し頬こけた顔に優しげな微笑を浮かべた。
 その笑顔は、ティリアムにのみ向いており、マリアの存在は意識されていない。
 面倒な説明をしなくて済むように、ティリアムがマリアに「ミニアとリェンナには姿が見えないようにしておいてくれ」と予め頼んでおいたのだ。
「だけど、あの子がお友達を連れてくるなんて、本当に珍しいですわ」
 嬉しそうに言いながらリェンナの視線は、台所の方に向いていた。
 そこでは、オーシャとミニアが、一緒になってケーキ作りに必死に取り組んでいる。時折、何かが割れる音やら、悲鳴じみた声が聞こえてくるのが非常に不安を誘っていた。
 ティリアムの予想通り、オーシャとミニアは気が合ったらしく、出会ったその日に意気投合し、あっという間に仲良くなったのである。そして、次の日には、話が盛り上がった末に、なぜか「ケーキ作りをしよう」という話に至り、完全に取り残されたティリアムとマリアは暇を持て余していたのだ。
 不意にリェンナの表情が翳る。
「私が病弱なせいで、あの子にはいつも苦労ばかりさせてしまって。ずっと同い年の友達を作る暇もなかったんです」
「…………」
 唯一の肉親である母が病気で動けないのならば、生きていくためにはミニアが働くしかない。
 だが、幼い娘の出来る仕事は多くないし、稼ぎも決して良いものではなかったはずだ。
 そんな生活の中では、確かに気の置けない友人を作る暇などありはしないだろう。
 病気のせいか年齢以上に老いて見えるリェンナの面には、自分の不甲斐なさを悔やむような表情が浮かんでいた。
「だから、ティリアムさんには感謝しているんです。本当にありがとうございます」
 深々と頭を下げてくるリェンナに、ティリアムは困った顔で頬を掻く。
「ミニアと仲良くしているのはオーシャです。俺にお礼を言う事じゃないと思いますけどね」
「ふふ、そんな事ありませんよ」
 照れ臭さそうにしているティリアムの様子に、リェンナは微笑む。
「そうそう、ケーキの方は期待してくださいね。あの子は、料理の腕はきちんとしていますから」
「どっちかって言うと一緒にやってるオーシャの方が問題ですか……。料理はリェンナさんが教えたんですか?」
「……まだ私がこんな身体でなかった頃には、何度か。でも、ほとんどは、あの子一人で努力した結果ですよ」
 リェンナの口調には、どこか我が子を誇るような響きがあった。
 彼女にとって、ミニアは愛すべき存在であると同時に、自慢の娘でもあるのだろう。
 今は居ない自分の母親とリェンナを重ねて合わせて、ティリアムはどこか眩しそうに目を細めていた。
 その後、少しだけ軽い雑談をすると、リェンナは再び部屋へと戻って行った。
 調子が良いと言っても、やはり長時間ベッドを出るのは辛いのだろう。
「……良いお母さんですね」
 リェンナの姿が消え、今までおとなしくしていたマリアが呟いた。
「そうだな。ま、だからこそ、あんな出来た娘が育ったんだろ」
 少しだけ口元を綻ばせるティリアムの眼前に、マリアがふいっと降りてくる。
「まあ、それはそれとして――いいかげん訊きたいんですけどね」
 いきなりな話題の転換に嫌な予感がして、ティリアムは眉をひそめる。
「なんだよ」
「グリアムの屋敷で見てきた事……まだ、教えてもらってませんよね?」
「……だから、あれは、言うべきときになったら言うって事になっただろ」
 話は終わりだと言わんばかりに、ティリアムは目を逸らした。
「ふ〜ん」
 マリアは、不気味な笑みを顔に貼り付けながら、腕を組んでしきりに頷いてみせた。
 まるで「へぇ、そういう態度に出るんだ」とも言わんばかりである。
 きらんとマリアの双眸に不吉な光が宿る。
「こうなったら、先日、完成させた新たな関節技を披露するしかなくなったようですね」
「って、ちょっ! 待て待て待て!」
 ティリアムは聞き捨てならない発言を耳にし、引きつらせた顔をマリアに向ける。その両手は、何かを制止するように彼女に向けて突き出され、ぶんぶんと左右を振られていた。
「さーて、やりますか……」
 指を鳴らしつつ(実際は、鳴っていないのだが)、マリアが近づいてくる。その背後からはどす黒いオーラが立ち昇っていたりしていた。
「だから、待てって! お前がここで関節技なんて俺に決めたら、お前の姿の見えないミニアやリェンナさんには、俺が一人でもがき苦しんでいるように見えるだろ!」
「ふはははは、むしろ、そちらが本当の狙いじゃないですか」
「こんの外道!?」
 さも当然のように恐ろしい発言を口にするマリアに、ティリアムはもう泣き笑いの顔になっている。
 そのとき。
「出来た――――っ!」
 二人の少女の歓声が、台所の方から響き渡る。
 ぎょっとして、ティリアムとマリアの動きがぴたりと止まった。
 すぐさまオーシャとミニアは、出来上がった物を二人で協力して食堂に運んでくる。
「「こ、これは……」」
 どんっとテーブルに置かれたものを見て、ティリアムとマリアは同時に呻くように声を漏らしていた。
 ……でかかった。
 この狭い家のどこにこんなものがしまってあったのか――誰しもにそう思わせるだろう大きな皿の上に、三段重ねの巨大ケーキが乗せられていた。大量の生クリームでデコレーションされた、見るからに甘ったるそうなやつである。
「……えーと、誰かの結婚式でも始める気なのか?」
 とりあえず、思いついた感想をティリアムは口にしてみた。
 あはは、と誤魔化し笑いをしつつ、エプロン姿のオーシャが頭を掻く。その頬には、生クリームがついているが、本人は気づいていないらしい。
「ちょっと分量を間違えちゃって……」
「……ちょっと間違えたとかいうレベルか、これは……」
 隣で同じくエプロン姿のミニアが申し訳なさそうに小さくなる。
「す、すいません。私、ドジなもので……」
「…………」
 ティリアムは神妙な顔で二人の少女の顔を交互に見つめる。
(そうか、ミニアも天然気味だったのか……)
 なんとも脱力する事実に到達し、ティリアムはがっくりと肩を落とす。口からは思わず溜め息が漏れた。
「ふむふむ、天然×天然で、相乗効果したみたいですね」
「妙な公式を作り上げるんじゃない」
 いつの間にか横に並んでいたマリアに、ティリアムは小声で突っ込む。
「ま、まあ、とりあえず、ティル、食べてみてくれる?」
「……お願いできますか?」
 おずおずとオーシャとミニアが、同時に言った。
「うえっ!?」
 妙な声を上げて、ティリアムは椅子に座ったまま器用に後退った。
 額に玉の汗を浮かべながら、軽く二十人分ありそうなケーキをじっと見つめる。
 …………。
 …………。
 ……これを一人で食べたりしたら、なんとなく命に関わる気がした。
 もちろん、オーシャやミニアも一緒に食べるのだろうが、確か二人とも少食なタイプだったはずである。
「二人の愛らしい少女が、ティルのために作った愛情たっぷり甘〜い甘〜いケーキ。これを食べないやつぁ、男じゃないですよねぇ」
 耳元でマリアが意地悪い声で囁いてくる。
「変な言い回しをすんなっ! っというか、お前、絶対に楽しんでるだろっ!」
 ミニアがいるので、またしてもティリアムは小声で言うとマリアを睨みつける。
 マリアは、したり顔で笑った。
「ええ、もちろん。関節技を出す手間がはぶけましたね。これは私に隠し事をした罰ですよ、罰」
「やかましいっ! お前も処理に協力しろ!」
「えー、だってミニアやリェンナさんに姿を見せるなって言ったのはティルですしねー」
 それはもう物凄い棒読みだった。
「うく……」
 ここにきて、もはや勝者と敗者は、明らかである。
 オーシャとミニアは、期待に満ちた目で、こちらを真っ直ぐと見つめてきていた。
 一体誰が、この純粋な二つの眼差しを裏切れようか。
 逃げ道は――ない。
「俺の明日はどっちだ……」
 どこかおかしな事を口走りつつ、追い詰められたティリアムは覚悟を決めた。
 テーブルの上のフォークを握り締める。
 頬を一筋の汗が流れ落ちた。
 目を閉じると、大きく深呼吸。
 次の瞬間、その双眸が、かっと見開かれる!
「行くぞっ!」
 ケーキを食べるときものとは思えない台詞を叫びつつ、ティリアムは果敢に巨大ケーキとの戦いへと挑んで行ったのだった。

 ――数分後。
 とりあえず半年は甘い物を食べたくない、とティリアムは心から思ったとか思わなかったとか。


 ゲイリーとの約束の日。
 時刻は、すでに夜の十一時を回っている。
 約束の零時までは、もう一時間を切っていた。
 ミニアの家の前で、ティリアムは刃に布を巻きつけた愛用の大剣を背負った。腰のホルスターにも、手入れ済みの拳銃が収まっている。
「よし、行くか」
 ティリアムが後ろに居るオーシャとマリアへと振り返る。
 二人は真剣な面持ちで頷いた。
「あの……」
 見送りに出てきていたミニアがおずおずと口を開く。
「私には詳しい事情はわかりませんが……どうかお気をつけて」
 ティリアムは小さく頷いて応える。
「……たぶん、俺達が上手くやれれば、明日の朝までには、グリアムの事も《デモン・ティーア》騒ぎの事も、一通り片がつくだろうが――」
「……はい。覚悟は出来ていますから」
 ミニアは迷いなく首肯すると、今度はオーシャの方を向く。
「オーシャも無理しないでね。私には何も出来ないけど……」
 オーシャは、ゆっくりと頭を振った。
 彼女の両手には、格闘用の黒いグローブがはまっている。
 この日のために、ティリアムが買い与えたものだ。
「ううん。ミニアと一緒に過ごした三日間は、とっても楽しかった。それだけで十分過ぎるぐらい私の力になってくれているから」
「オーシャ……」
「…………」
 ふと。
 そこでティリアムは思う。
 もしかしたら、今まで不幸な人生を辿ってきたオーシャにとっても、同い年の友人とこんな風に共に笑い合う日々を過ごせたのは初めての事だったのかもしれない。
 そう考えると、ミニアと出会わせた事は正解だったなと思うと同時に、オーシャの事が不憫でならなかった。
 オーシャは片手を胸に当てながら、真摯な声で言った。
「だから、私達を信じて待ってて」
「……うん、わかった。また――ケーキ作りしようね」
 ミニアは、深い信頼を込めた微笑みを浮かべながら頷いた。


「よし、じゃあ、二人はここで待っててくれ」
 グリアムの屋敷に、もう少しで辿り着くという所まで来たとき――
 ティリアムが前置きもなく唐突に言った。
 オーシャが訝しげに首を傾げる。
「え? どうして?」
「グリアムを連れ出すだけなら、俺一人で言った方が早いさ。すぐ終わる」
「すぐ終わるって……仮にも相手は、この街の領主なんだよ。警備の人だってたくさんいるだろうし……」
「関係ないさ。じゃ、行ってくる」
「あ、ちょっと、ティルってば!」
 もはや問答する気もないのか、ティリアムは有無を言わせない口調で言い切ると、さっさと行ってしまう。
「あらら、行っちゃいましたね」
 頭上で呑気な声で言うマリアとは対照的に、オーシャは考え込むように俯いていた。
「…………」
「どうかしました?」
 スッキリしない顔をしているオーシャに気づき、マリアが不思議そうに問いかける。
「あ、いや……なんとなくなんだけどね」
「ええ」
「ティル、グリアムさんの屋敷から戻ってきてから、ずっと様子が変じゃなかった?」
 マリアが首を捻る。
「そうでしたか?」
 オーシャは、記憶を探るように眉を寄せる。
「うん。なんだか、態度はいつも通りにしてるんだけど……どこか怒ってる感じがしたの。ずっと気のせいかなって思ってたんだけど」
「今も、そんな違和感を感じたんですか?」
「……うん」
 オーシャ自身も具体的な言い方が思いつかないのか、口調は自信なさげだ。
 ――もしも少女の言う通り、ティリアムが今まで怒りを押し隠してきていたというのなら。
「グリアムの屋敷で、本当に何を見てきたんですかね、あの人は……」
 マリアは闇夜に浮かぶ屋敷を見つめながら、囁くような声で呟いていた。


「おい! なんだ、お前は!」
 グリアムの屋敷の正門前。
 門の前で、見張り立っていた男の一人が声を張った。
 彼の視線の先には立っているのは、ついさっき門の前に姿を見せたティリアムだった。
 見張りの男は、すらりと腰の鞘から剣を抜き放つ。
「怪しい奴め。ここがウィンリア領主グリアム様の屋敷だとわかっているのか。さっさとこの場から立ち去らな……い、と……」
 言葉は最後まで続かなかった。
 男は手から剣を落とし、へなへなと尻餅をつく。
 その身体は、哀れなほどにがくがくと震えていた。
 何故なら。
 ティリアムの目は煌々と紅い光を宿し、その全身からは恐ろしいほどに強烈な鬼気が放たれていたのだ。
 見張りの男は、それに当てられただけで、立っている事も出来なくなっていた。
 ティリアムは、力任せに鉄造りの門を蹴りつける。
 蹴りの威力に耐えられず、門はひしゃげ、屋敷の敷地内へと吹っ飛んでいく。
 一緒に立っていたもう一人の見張りの男も、ティリアムを止める事も出来ず、呆然と塀に背を預けて震えるだけだった。
 門の破壊される音を聞きつけて、他の警備の人間達が続々と集まってくる。
 しかし、誰一人として、ティリアムに攻撃を仕掛ける所か、威圧の声を上げる事さえも出来ない。
 ティリアムから放たれる鬼気はそれほどまでに凄まじかった。
 その源は、グリアムに対する怒りと殺意だ。
 これまでは、一緒に過ごしている者達に余計な不安を与えないために、悟られぬようにしてきた激情。
 それを今、全て解き放っていた。
 ティリアムが口を開く。
 とても低く静かだが――強い赫怒が練り込められた声だった。
「……一つだけ言っておく。俺が用のあるのはグリアムだけだ。だから、誰一人、俺の邪魔はするな。邪魔をすれば……誰であろうと容赦なく殺す」
 《デモン》としての本来の姿を解放したティリアム。
 そんな彼の言葉に逆らえるような人間は、この場のどこにも居はしなかった。


 ウィンリアの街の外れにあるキュニア湖。
 湖面には、雲一つない夜空に浮かぶ月を鏡のように映し出している。
 美しい景観を誇る湖ではあったが、観光地にするには街から離れすぎていたため、周囲は今でも人の手の加えられていない自然な姿を保っていた。
 そこから遠目にウィンリアへと続く街道が見え、さらに奥には巨大な河が薄っすらと姿を覗かせている。
 ウィンリアに網目のように引かれた水路の水は、あの河から全て引かれているのだ。
 湖の周囲は、深更を迎えている事もあり、人気もなく静寂を保っていた。
 その畔に一人の人影が立っている。
 月明かりの下、長衣に身を包み、フードを目深に被った男。
 ――ゲイリーだった。
「……もう少しだ、ツェーネ……もう少しで……」
 ゲイリーは熱に浮かされたように呟き続けている。
 彼が狂うほどに渇望した、ツェーネを殺した男――グリアムへの復讐。
 それが今日、成されるはずなのだ。
「必ず……君の命を奪ったあの男は、必ず僕が……っ!」
 そこに。
 静寂を破り、草を掻き分ける足音が響く。
 ゲイリーがぴくりと顔を上げた。
「待たせたな、ゲイリー」
 姿を見せたのは、両手両足を縄で縛られ、猿ぐつわを噛まされたグリアムを肩に担いだティリアムだ。
 後ろにはオーシャと、ゲイリーには姿は見えないがマリアが浮いている。
 担がれたグリアムは、今は気を失っていた。
「……五分の遅刻だ」
 グリアムを前にしたせいか、ゲイリーはうわずった声で言った。
 懐から懐中時計を取り出し、ティリアムの足元に放り投げる。
 地面に落ちた衝撃で蓋が開いたそれの指し示す時刻は、確かに約束の零時を五分ほど過ぎている。
 ティリアムは苦笑する。
「意外に時間に細かいな。五分くらい見逃せよ。約束通りにグリアムだって連れて来たんだ」
 言いながら、ティリアムは塵でも投げ捨てるようにグリアムを地面に放り投げた。
 背中から思い切り地面に叩きつけられたグリアムは、猿ぐつわのはまった口から呻き声を漏らすと、ようやく目を覚ました。
 どうやら気がついたらしい。
 ティリアムは背中の大剣を手にすると、その切っ先で器用に猿ぐつわを外してやった。
「……ぶはっ! 貴様ら! 私が誰だかわかっているのか! ウィンリア領主の――げっ!」
 それ以上の罵倒は続かず、グリアムは草だらけの地面へと背中から無様に転がっていた。
 鼻は曲がり、大量の鮮血が噴き出す。
 ティリアムが、いきなり強烈な蹴りをグリアムの顔面に見舞ったのだ。
「ティ、ティルッ!? いきなり何を――っ」
「いいから黙って見てろ」
 片腕でオーシャを制すと、ティリアムはゆっくりとした足取りで倒れたグリアムへと近づいて行く。
「ああ、知ってるさ、グリアム。お前は人望もあって、心優しい、みんなに愛される領主様だ。……そう、表向きはな」
「うぐ……はっ……き、貴様よくもっ!」
 グリアムは信じられないものを見るように、血で染まった顔でティリアムを見上げる。
 ティリアムは、そんなグリアムを冷たい目で見下ろす。
「だがな、本当のお前は、とんでもないクズ野郎だよ。屋敷の地下の部屋に隠してあった“モノ”……見せてもらった」
「な、なな、何っ!? で、では、あそこに侵入して、ギルゴを殺したのはお前か!?」
 グリアムが激しく狼狽する。
 ギルゴというのは、おそらく蛇使いの名前だろう。
「そうだ。そして、あの部屋にあったモノを見つけた」
「!? ……そ、そんな馬鹿な……」
 グリアムは、大きな動揺を見せて呻く。
「ティル、何を見たんですか?」
 マリアが緊張をはらんだ声で訊いた。
 噴き出す怒りを抑え込むように、ティリアムは大剣の柄を強く握り締める。
 そして、口にした。
 グリアムの屋敷の地下で見た、残酷な真実を。
「……容器に薬漬けで保管された――女達の死体だ」


「女の人の死体……?」
 オーシャは、自分の耳を疑うように訊き返していた。
 それは、あまりに信じ難い現実だった。
 グリアムの屋敷に侵入した翌日。
 ティリアムは、ジョージにミニアの住所聞きに行った際、同時に行方不明者のリストを確認させてもらっていた。そして、そのリストから、ちょうどグリアムが領主の地位についた時期より、一定期間おきに、明らかに不自然な人数の若い女が行方不明になっている事がわかったのだ。
 水と肥沃な大地に恵まれた美しき街。
 その街の民に慕われる領主。
 そんな男の裏側には、美しい女達の死体を集め、それを眺める事に喜びを感じる人体収集家として歪んだ欲望に塗れた姿があったのである。
「こいつは自ら女を手に掛け、その死体を収集し、コレクションしていた。そして――」
 ティリアムが、ぎりっと歯を噛み締めた。
「己の欲望に暴走したこいつは、しまいには自分の妻……さらに娘のツェーネも――」
「……自らの手で殺してコレクションに加えたんですね」
 言葉を引き継いだのは、嫌悪感に目元を歪ませたマリアだった。
「……そうだ。全部、こいつがやった」
 突然、ティリアムの面から感情が消え失せ、仮面のように無表情になる。
 大剣に巻かれた布を取り払うと、その冷たい刃をグリアムの首筋に当てた。
「ひっ!」
 隠し続けた己の闇を全て暴露されたグリアムが身を震わせる。
「ち、違うんだ、私じゃないっ! 私がやったんじゃっ! や、やめてくれ、殺さないでくれっ! 死にたくないぃっ!」
「死にたくない、だと……っ!」
 感情の消え失せていたティリアムの顔に、激烈な怒りが浮かび上がった。
 グリアムの肩を、容赦なく踵で踏みつける。
 静かな湖畔に、鎖骨が砕ける音に続いて凄まじい悲鳴が響き渡った。
「ぎゃあああっ! 痛い痛い痛い、やめてぐれっ!」
 泣き叫ぶグリアムを無視して、ティリアムは肩を踏む足にさらに力を込める。折れた鎖骨が肉を突き破り、鮮血と共に姿を覗かせた。
「ひぎゃああああっ!」
「お前が殺してきた女達は、一度でもお前に向けて同じ言葉を――助けてくれと言わなかったか! そんな女達にお前は何をしてきた! どんな仕打ちで応えた!」
「ティル! やめてっ!」
 顔を蒼白にしながら駆け寄ってきたオーシャが、ティリアムの腕を掴んで制止しようとする。
 ティリアムは、痛みに悶絶するグリアムの背中を蹴り飛ばした。
「ぐえ!」
 グリアムは、これまで黙って静観していたゲイリーの足元まで転がっていく。
「グリアム……っ!」
 フードの下に隠れたゲイリーの双眸に殺意の光が灯る。
「お前には生きている価値なんざない。そのまま無様に――死ね」
 ティリアムが冷え切った声で吐き捨てた。
 次いで、ゲイリーが吼える。
「このときをずっと待ち望んだ! お前が僕のツェーネを殺した! お前が僕からツェーネを奪った! お前が……お前が――――っ!!」
 ゲイリーは、喉の奥から震える声を絞り出し、憎悪の言葉を紡いでいく。それに合わせて、長衣の背を突き破り、触手達が月明かりに下に次々と姿を見せていった。
「ひぃ、ひいいいいっ! ば、化け物っ!」
「そうだ! 僕はお前に復讐するために人で在る事を捨てた!」
 触手が一斉に、グリアムに狙いを定める。
「死ね! グリアムッ!!」
 ゲイリーが一際大きく、咆哮した。
 殺意の雨が、グリアムへと降り注ぐ。
「駄目っ!」
 オーシャが必死に制止しようと叫ぶ。
 ――だが、触手がグリアムに突き刺さる事はなかった。
「な、に……?」
 ゲイリーが驚きに目を見張る。
 触手は、何もない地面に突き立っていた。
 グリアムは、白目を剥いて泡を吹き、失禁するという情けない姿を晒しながらも――生きていた。
 襟を引っ掴んで、グリアムを触手の群れから救出したのは、他ならぬティリアムである。
「まあ、こんなもんだろ」
 ティリアムは、自分が助け出したグリアムを見下ろしながら、あっけらかんと言ってみせる。
「……最高に人が悪いですね、貴方は……」
 ティリアムの考えを察したのか、マリアは自分の額を抑え、呆れた声で言った。
「ど、どういう事なの?」
 オーシャはわけがわからず、ただ困惑していた。
 マリアが助け舟を出す。
「ティルは、最初からゲイリーにグリアムを殺させるつもりなんかなかったんですよ、オーシャ」
「そう言われても……何がなんだか……」
 オーシャは戸惑ったまま、答えを求めるようにティリアムを見る。
 だが、ティリアムは、それに答える事はせず、失神したグリアムを後方に思いきり放り投げる。グリアムは悲鳴も上げず人形にように地面を転がっていった。
「何故だ! 何故、邪魔をした!」
 ゲイリーが激昂する。
 ついに果たされようとしていた復讐が、目前で阻まれたのだから、それも当然だった。
「もういいだろう」
 ティリアムの声は、先ほどまでの怒りが嘘のように冷静だった。
「グリアムは領主としての尊厳も誇りも失った。そして、街に戻って罪を暴露されれば、あいつは法の下で最低最悪の元領主の罪人として裁かれる。領主という立場でありながら、あれだけの事をやったんだ、おそらくは死刑か、良くても死ぬまで牢獄から出る事は出来なくなるだろう。それは、きっと、ただこの場で殺されるよっぽど屈辱的で、苦しい死に方のはずだ」
「あ……」
 オーシャの顔にようやく理解の色が浮かぶ。
 ティリアムは、グリアムをただ殺す事、殺させる事を良しとは思わなかったのだ。
 彼の偽りの全てを引き剥がし、あえて法という人の定めた決まり事の上で、犯した罪の報いを受けさせようとしている。
 グリアムのように領主という加護の下に隠れ、己の欲望を満たしてきた人間には、確かにそれは一番堪える結末だろう。
 さらに、ティリアムは言った。
「だから、もうやめろ」
 ゲイリーが片腕を振るい叫ぶ。
「黙れ! そんな事関係あるものか! 僕の手であいつを殺すんだ! 切り刻み、引き裂き、踏みつけてやるんだよ! それで、初めてツェーネの復讐となる!」
 どこか達観した表情のティリアムは、ぼそりと呟いた。
「お前のそれは……本当に復讐か?」
 ほんの一瞬。
 ゲイリーの顔に動揺が走る。
「なん、だと……?」
「お前のやってきた事は本当に復讐だったのか、と訊いている」
「当たり前だ! そうじゃなければなんだと……!」
 ティリアムは、怒りを撒き散らすゲイリーに鋭い視線を突き刺し、さらに問いかける。
「だったら、何故殺した。ツェーネの死には無関係な人間達や、お前を止めようとした衛兵達まで」
「……当然だ。グリアムの傍にいながら、ツェーネを助けられなかった奴らは全て同罪だ! そして、僕の復讐を邪魔する者にも容赦はしない!」
 ティリアムは静かに頭を振る。
「違うな。お前は怖かったんだろう?」
 ゲイリーがぎくりとした表情を見せた。
「……怖かった、だと?」
「そうだ。他の誰よりもツェーネに一番近かったのはお前のはずだ。それなのに、お前はツェーネを助けられなかった。その現実を受け入れるのが怖かったんだろう?」
「ち、違う!」
「違わない。お前は現実から逃げ出したんだよ。そして、ツェーネの死とは関係ない人間にまで責任を転嫁して、復讐という偽りの大義名分をかざし、その手に掛けた。そうやって自分を誤魔化し続ける事で、自分の心を保ってきたんだ。そう――かつての俺と同じようにな」
 ――《デモンズ》だという事が知れ、恐怖にかられた村人達に母が殺されたとき。
 幼かったティリアムは、暴走する力を振りかざし、村人達を皆殺しにしてしまった。
 だが。
 それは母を殺された憎しみよりも、悲しみよりも、何よりも――ただ恐れたのだ。怖かったのだ。
 自分が母を守れなかった事。
 自分のせいで母が殺されてしまった事。
 そう。
 己の無力と、母を死なせてしまったという責任を受け入れる事が怖かった。
 そして、その恐怖に押されるまま、村人達を殺めてしまった――
「今思えば、それは復讐ですらなかったよ。ただの逃避だった。母さんのためなんかじゃない。あのときの俺は自分自身の心を守りたいだけだった……」
「ティル……」
 オーシャが悲しげな瞳を、ティリアムに向ける。
 マリアも真剣な面持ちで、黙って独白を聞き続けていた。
「お前の目を初めて見たときにすぐに気づいた。昔の俺と同じ目をしているってな。復讐者という仮面を身につけた――哀れな臆病者の目を」
「違う! 違う! 違う、違う、違う、違う、違う違う違う違う違う!!!」
 双眸を血走らせ、血が滴るほどに両拳を握り締めながら、ゲイリーが否定する。
「僕は違う! 僕はツェーネのためにたメにタメにタめニッ!」
 そんな青年へ向け、ティリアムは容赦なく宣告する。
 彼の身につけた哀れな仮面を引き剥がす一言を。
「お前は復讐者じゃない。――ただの逃避者だ」
「ウガアアアァァアアアアアアァァアァ!!」
 ゲイリーは狂ったように頭を掻きむしりながら、その場に膝を吐き、悶え苦しむ。主の変化に呼応するように、背中の触手達も苦しむように地面でのたうっていた。
「一体、どうしたの……?」
「……ティルの言葉によって、彼の心の均衡を保ち続けていたものが崩れてしまったんでしょう」
 驚くオーシャに、マリアが静かな声音で答える。
 その美しい琥珀色の瞳には、何か悲しむ光が湛えられていた。
「可哀想な子……あんな力さえ得なければ、ここまで歪む事はなかったでしょうに……」
「マリア……」
 ティリアムは大剣をゆっくりと両手で構えた。
 すでに漆黒の両目は紅く染まり、全身に《デモン》の力を漲らせていく。
「……あの間違った力で、これ以上誰かの命を奪わせるわけにはいかない。だから、ここで止める。なんとしても」
 オーシャもティリアムの隣に立つと、その背に《白光の翼》を現出させる。同時に瞳と髪が、黒から白銀へと変化していった。
「そうだね。絶対に、ここで止めよう」
 決然とした声で、オーシャが言った。
 不意に苦しむのをやめたゲイリーが血走った目を、ティリアム達に向けた。
 もはやそこにあった理性の光は薄れ、狂気に満ちている。
「殺してヤルッ! 僕ヲ恐怖させルお前達を! 僕を狂ワせるおマえ達を!」
 殺意の宣言と共に。
 触手達が嵐のようにティリアム達に襲い掛かった。


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