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エンジェル 三章

逃避者


―― 五 ――

「小悪党が臆病って言うんなら、間違いなくグリアムは小悪党の代名詞だな……」
 うんざりした気分で、ティリアムは溜息を吐いた。
 ゲイリーの襲撃にあった、その日の夜。
 ティリアムは予告通り、グリアムの屋敷に侵入していた。
 しかし、予想以上の屋敷の広大さに加えて、鼠一匹入れる事を拒むような警備の厳重さに、辟易していた。
 それでも、今夜は幸いにも雲のおかげで月が隠れている。そのため闇に乗じて動ける分、侵入はまだ楽な方である。
 今は、茂みの一つに伏せるように身を隠していた。
 目の前を引っきりなしに見張りの足が通り過ぎて行く。
(よし……今だ!)
 見張りがいなくなった一瞬を狙って、ティリアムは茂みを飛び出すと、屋敷の壁に張り付く。侵入を開始して、約二時間――ようやくである。
(帰りも難儀しそうだなぁ……)
 またも漏れそうになる溜息を抑え、屋敷への侵入口を探す。
 初夏はとうに過ぎ、夜になってもかなり蒸し暑い時期である。ならば、風を入れるために、窓の一つくらいは開いているはずだと、ティリアムは踏んでいた。だが、その予想に反して、ありとあらゆる窓も出入り口も、しっかり鍵が掛けられ、閉じられている。
(外をあれだけ守らせておいて……厳重な事だな)
 呆れを通り越して、感心すらしてしまう。
 しかし、このままでは侵入を果す事は出来ない。
(割るしかないか……?)
 そう考えたときだった。
 突然、内側から目の前の窓が開いた。
「あ……」
 思考に耽っていたために、ティリアムは身を隠す暇もなく、窓の向こうの人物と対面する。
「……あ、貴方は……!?」
 驚いた顔で、こちらを見つめているのは、侍女姿の少女だった。
 しかも、見覚えのある顔である。
「き、君は……ミニアだっけ」
 今朝の記憶を引っ張り出して、ティリアムが少女の名を口にする。
 非常にまずい状況である。
 いきなり屋敷の人間に見つかったばかりでなく、相手には完全に素性が割れている。このままでは、面倒な事になるのは必至だった。
「……あ、あの、どうして、ティリアムさんがこんな所に……?」
 ミニアは、困惑した顔で尋ねてきた。
 当然の疑問ではある。だが、驚きが先行して、ティリアムが無断で屋敷に入り込んでいるという所にまでは、まだ頭がいかないらしい。
「あ……いや……ちょっと散歩を……」
 我ながら情けない言い訳と思いつつも、そんな事を口走っていた。そもそも状況的に、何を言っても怪しまれる事は避けられないのだが。
「…………」
 ミニアは、明らかな疑惑の視線をティリアムに向けている。ここで声でも上げられれば、もう侵入などとは言っていられない。
 ティリアムが、そのときに備えて身構えようとしたとき、
「……入ってください」
 ミニアは、身振りでティリアムに屋敷に入るように促したのだ。
「え……?」
 これには、さすがにティリアムも驚きを隠せない。
「急いでください。また見張りが来ます」
 急かされて、ティリアムはとりあえず言う通りに動いた。
 とにかく今は、ここで見張りに見つかる事だけは避けるべきだ。
 窓枠に手を掛けて、屋敷へと跳び込むと、素早くその場に伏せる。
 ミニアは窓を閉めると、何事もなかったように見張りをやり過ごした。
 室内を見回す。
 ここは、どうやら客室の一つらしかった。どこか簡素で、丁寧に手入れされた寝具などには、あまり使われた痕跡が見られない。
「さて……理由を聞かせて欲しいだけどな」
 立ち上がったティリアムは、こちらに背を向けたままのミニアに問い掛ける。
「……訊くまでもないと思いますが、ティリアムさんはグリアム様に関わる事でこちらに?」
 ティリアムの質問には答えず、逆にミニアは聞いてくる。
「――そうだ」
 少し間を空けて、ティリアムは返した。
 ここで嘘を吐く事に意味は感じなかったし、そもそもグリアムの屋敷に忍び込んでおいて、「グリアムとは関係ない」というのもおかしな話だ。
「一つだけ教えて欲しいんです。答えていただけますか……?」
「……ああ」
 ティリアムは、静かに首肯した。
 躊躇しているのか、しばらくの沈黙の後、ミニアは切り出してきた。
「グリアム様は……あの方は……私達の考えているような人とは違うのですか? 何か――人に言えぬものに手を染めているのですか?」
 声は震えていた。
 間違いであって欲しい――そんな切なる想いに満ちていた。
 だが、真実は常に人を裏切り、傷つける。
 それでも、それを受け止めなければ、人は前には進めない。
 だから、ティリアムは、はっきりと告げた。
「違う。グリアムは……君の思っているような真っ当な人間じゃない」
「そう……ですか」
 消え入るような声で、ようやくと言った風にミニアは応えた。
 必死に真実を受け入れようとしているのか、再び沈黙が部屋を支配する。
 しばらくして。
「……今、グリアム様はお出かけになられています。お部屋に行っても誰も居ません。もう、しばらくは戻られないでしょう」
 ミニアが振り返る。
 ランプの光に照らされた幼さの残る少女の顔には、紛れもない葛藤と苦悩が表れていた。
「グリアム様のお部屋は、ここを出て右へ。突き当たりを左に曲がれば、見つかると思います」
「……なぜ、それを俺に?」
 ミニアが俯き、下唇を噛み締める。
 その顔は、今にも泣き出しそうだった。
「グリアム様は、私の恩人です……。あの方がいなければ、私も、母も、生きてはいなかったでしょう」
 堪えきれない涙が、頬を一筋流れた。
「でも、最近になって、私は気づいてしまったんです。あの方が何か人には言えないものに手を染めている事に……」
 やはりか、とティリアムは胸中で改めて納得した。
 朝に彼女に会ったときの様子は、確かにグリアムに対しての恐れに近いものが感じ取れた。
 だからこそ、屋敷に忍び込んできたティリアムが答えを知っていると考え、それを聞いてきたのだろう。
「グリアム様は恩人です。でも、だからこそ、あの人をこれ以上の罪人にしたくはないんです」
「……俺が、君のご主人の悪行を止めるために来たとは限らないのに? それでも俺を手助けして良いのか?」
「どのみち私には、グリアム様を止める力はありません。だから…………信じます。ティリアムさんも、私の命を助けてくださった恩人です。それにジョージさんからも、貴方はレルード陛下ともお知り合いの信頼の置ける方だと聞いています」
「……そうか」
 この少女を疑う気にはなれなかった。
 少なくとも、嘘を吐いているようには思えない真摯なものをひしひしと感じた。
 もしも、これで彼女が自分を罠にはめるために嘘を吐いていたのだったら、それは騙された自分が愚かだったというだけの話である。
「わかった。大丈夫――俺を信じてくれて良い。きっと悪いようにはしないさ」
 そう言いつつ、嘘を吐いている事に胸が少し痛んだ。少なくとも、グリアムが無事で済む保証は、この先、全くないのだから。
 だが、ここでミニアを、これ以上追い詰めるような事を告げる気にもならなかった。
「私は、間違っているのでしょうか……」
 不意に擦れた声で、ミニアが呟いた。
「恩人であるグリアム様を売るような事をしている私は……」
「……それでも、君はこの選択をしたんだろう? グリアムにこれ以上の罪を重ねさせないために」
 ティリアムは、優しくミニアの肩に手を置いた。
 ミニアが顔を上げて、ティリアムの顔を見つめる。
「だったら、迷わずその選択を信じるんだ。何が正しくて、何が間違ってるなんて、結果が出るまで誰にもわからない。だけど、自分の選んだ道に迷いを抱いていたら、きっと後には後悔しか残らないんだからな」
「……はい」
 ミニアは、涙を流しながらも気丈に頷く。
 ティリアムも、それに微笑み返した。
「だけど――」
 不意に、ミニアがティリアムの背中に手を回し、遠慮がちに顔を埋めてくる。
「ミニア……?」
「今だけ……今だけは……少しこうさせてください……」
 幼い少女に重過ぎる葛藤だ。
 それを誰にも相談する事も出来ず、一人で抱え込んできたのだろう。昨日今日会ったばかりのティリアムに縋りつきたくなるほど追い詰められて……。
 だから、ティリアムもミニアを拒絶する事なく、か細く今にも折れてしまいそうな少女の身体を優しく受け止めてやった。
「――よく今まで頑張ったよ」
 呟きながら、そっと頭を撫でてやる。
 ミニアは、しばらくそのまますすり泣きつづけたのだった。


「……ごめんなさい……もう大丈夫です」
 少しして、ミニアは自分から、ゆっくりと身体を離した。
「急いでください。いつグリアム様が戻ってくるかわかりませんから」
 まだ目尻に残っていた涙を拭うと気丈にそう言った。どこか頬が紅潮しているのは、思わず取った自分の行動が今になって恥ずかしくなったのだろう。
「やっぱり似てるな……」
 そんな少女の顔を見つめながら、ずっと感じていた事をティリアムは思わず漏らしていた。
「え……?」
 不思議そうにミニアが首を傾げる。
「いや……なんとなく自分の連れに君が似ていると思ったんだ」
  信じている人間に裏切られた境遇、そして――呆れるほど純粋で優しすぎて、そのせいでいつも一人で泣いている……。
「私を助けて下さったときに、一緒に居た方ですか……?」
「そう。こんなときに言う事じゃないだろうけど、今度、ぜひ会ってやってくれ。きっと、気が合う」
「はい、ぜひ」
 ミニアが微笑みながら頷く。
 それは。
 今まで見た中で一番少女らしく可愛らしい笑顔だった。


 外をあれだけ厳重に警備している反動なのか、屋敷の内部は拍子抜けするほど動きやすかった。
 問題なくグリアムの部屋と思われる扉の前に辿り着く。
 周囲に人の気配がない事を確認してから、そっと扉を少し開き、内部を覗き見る。
 グリアムの姿はない。
 ミニアの言う通り、外出中のようだ。
 街を治める領主が、こんな夜遅くに出かけているというのは、どう考えても普通ではない。おそらく人には言えぬ裏の用事でもあるのだろう。
 領主として有るまじき事だが、それは今更だし、ティリアムにとってはそっちの方がかえって都合が良い。
 部屋に身体を滑り込ませると、そっと扉を閉める。
 どうやら、ここは執務室らしい。
 奥にある扉は――おそらく寝室だろう。
 領主の部屋だけあって、置かれているの家具は全て高級で質の良い物ではあるようだった。だが、意外にも派手さはなく、どちらかと言えば、地味な印象を受けた。
(立派な領主様を演じる演出の一つか……?)
 我ながら邪推だなと思い、苦笑が浮かんだ。
 だが、今はそんな事より、やるべき事がある。
 ゲイリーとの約束の日に、グリアムを連れ出すための下見――確かに、それも目的の一つではある。
 しかし、ティリアムが危険を侵してまで、ここに来た理由は、もう一つあった。
 グリアムの実娘であり、ゲイリーの恋人であるツェーネの死の真相。
 この事件の発端である、それを確かめるのだ。
 グリアムがやったのは、ほぼ間違いないという確信はある。
 だが、ゲイリーをあそこまで憎しみをかきたてたのは、他にも理由がある気がしてならなかったのだ。
(さて――どこから手をつけたものかなぁ)
 とりあえず適当に調べようと思い、ティリアムは本棚の本の一つに手を伸ばして触れた――
 瞬間。
 分厚い本がいきなり奥へと沈んだ。
「へ……?」
 同時にその本棚全体が後方に沈み、そのまま今度は横滑りに移動する。
 さっきまで本棚があった部分には、地下への階段が出現していた。
「い、いきなりビンゴ? はは、俺って天才かも……」
 予想外の幸運に、何とも言えない引きつった笑みを浮かべてしまう。
 階段はそれなりに深いようで、奥まで暗闇で包まれ、ここからではどこに続いているかは確認できない。
 だが、間違いなく、この先にグリアムの闇の部分が隠されているはずだった。
「まあ、虎穴にいらずんば虎子を得ず、だ。入ってみるか」
 ティリアムはランタンを手にすると、ゆっくりと足を踏み入れていった。


 時間にして数分――ようやく階段が終わりを迎えた。
 次は、通路がまっすぐと奥へと伸びている。
 ご親切にも、松明が一定間隔に灯してあり、ランタンは使う必要はなくなっていた。
 だが、松明が灯されていると言う事は、この地下に誰かが居るという事だ。
 グリアムなのか――それとも別の誰かか。
「まあ、ここまで来て怖気づいてもしょうがない」
 ティリアムは、地下特有の湿った空気と松明の熱気にさらされながら、慎重に通路を歩き出す。
 途中、いくつかの扉があったが、全て鍵がかけられており、中は確認できない。
 仕方なく、ティリアムは通路の奥へと足を進めていく。
 程なくして、広い空間に辿り着いた。
 同時に、ティリアムは思わず呻き声を漏らしていた。
 そこ並んでいたのは――ありとあらゆる拷問器具だった。
 焼きゴテ、サソリ鞭、運命の輪、鋼鉄の処女アイアンメイデン――
 その全てに明らかに使用された痕跡がある。
 しかも、使われてからそれほど時間が経っているようには見えない。
「久々だな、こんな気分の悪い物を見たのは……」
 胸に蟠るものを吐き出すように、ティリアムが漏らす。
 と、そんな拷問器具だらけの部屋の奥に、両開きの扉がある事に気づく。
「これ以上に、まだ何かあるっていうのか?」
 正直、気が進まない。
 だが、その先に求める答えがあるような気がしてならなかった。
 ティリアムは、意を決して一歩踏み出し――
「――――っ!」
 弾かれたように後方に跳び退く。
 何か長いものが一歩手前を掠めていった。
 素早く視線で追って行くが、それはうねって床を走り、姿を見失ってしまう。
 ティリアムは素早く腰の後ろに忍ばせた鞘から短剣を引き抜くと、逆手に構えた。
 屋敷に侵入する際に、愛用の大剣は置いてきている。あんな物を背負っていては、さすがに目立ち過ぎるし、隠密行動はしづらいからだ。故に、今、武器といえるものは、この短剣と腰のホルスターに収まった銃だけだ。
 しかし、地下とはいえ、銃声の響く銃はあまり使いたくなかった。
 ティリアムは、さっきまでなかった人の気配を感じ取る。
「誰だ……?」
 視線を巡らせると、拷問器具の並ぶ部屋の一角――拘束具付きのベッドに腰をかけた人物が居た。
 長身でひょろりとした体型の男である。
 目は切れ長で、どこか爬虫類のような印象を受ける顔つきをしている。
「ど〜も」
 男がゆっくりと立ち上がる。
 はっとティリアムは息を呑んだ。
 さっき襲ってきた何かが、男の足に巻きつくと、そのまま肩まで這い上がって行くのだ。
「俺の大切な相棒さぁ。そんなに嫌そうな顔するなよ……こいつが傷つくだろぉ?」
 蛇、だった。
 体長三、四メートルは優に超える大蛇が男の身体に巻きついていた。
 男の顔と並ぶように、頭をこちらに向けると、ちろちろと舌をちらつかせる。
 んんっと男が顎に手を当てると、ティリアムの顔を覗きみるように、頭を突き出した。
「久々の侵入者だと思ったら、あんたどこかで見た顔だなぁ……?」
「そうか? 生憎、俺は蛇マニアの友達は居ないんだけどな」
 軽口を叩きながら、油断なく男の挙動を探る。
 この男が、この場所を守るために雇われている人間と言うのは、まず間違いないだろう。
 ならば、確実にここで仕留めなければならない。
 いつでも相手の攻撃に対処できるように腰を落とし、床を踏みしめる足に力を込める。
 しかし、男の方は、こちらに未だ敵意すら見せずに、考え込んでいる。
 そして、やっと思い出したのか、ぽんっと自分の掌を拳で叩いた。
「ああ、そうかぁ。あんた《デモン》だな! こりゃ驚いた。こんな場所で思わぬ大物と遭遇したもんだ」
 にいぃっと男の口が嫌らしい笑みで歪んだ。
「これは、相棒達に良い餌をやれそうだ。嬉しいぜぇ」
「勝手に人を餌するんじゃねぇよ」
 嫌悪感を滲ませつつ、ティリアムが言葉を吐き出す。
「それじゃあ、相棒。ディナーの時間だ」
 それが合図だった。
 予想以上の速度で、男の肩から蛇が跳び掛かって来る。
 ティリアムは身体を捌いてそれをかわすと、すれ違いざまに短剣を走らせた。
 ぎぃんっと鈍い音が暗い地下室に響く。
「なっ……」
 驚愕の声が喉から漏れた。
 短剣の刃は、蛇の鱗に傷一つつける事ができず、弾かれる。 
「ざ〜んねぇん。こいつは甲冑蛇って言ってな。毒は持ってないが、鎧みてぇにクソ硬い鱗を持ってんのさ。しかも、力も無茶苦茶強え。捕まったら終わりだぜ、《デモン》」
 まるで自分の事を自慢するように、男が説明してくる。
 蛇はそのまま後方に着地すると、するすると拷問器具の影へと消えていく。
 松明の火は床までは届かない。
 思いのほか速い動きと合わせて、正確に姿を追うのは困難だった。
 ――確かに蛇は厄介だ。
 しかし、所詮は本能で動く動物に過ぎない。
 ならば――
「操ってる奴を叩けば、終わりだ!」
 ティリアムは蛇を無視すると、悠然と佇む男へと一跳びで接近する。
「あれぇ……? 聞こえなかったか? 俺は、相棒“達”って言ったんだぜぇ」
 余裕と嘲笑を含んだ男の台詞。
 その意味に気づいたときには、ティリアムは腹部に鈍い衝撃を受けて後方へと吹き飛ばされていた。
「がっ……は……!」
 並んだ拷問器具をなぎ倒しながら、ティリアムは背中から床に叩きつけられる。
 手から離れた短剣が、床を滑っていった。
 そこに、さっきの蛇を含めて、別の二匹がどこからともなく姿を見せて、そのままティリアムの身体を拘束していく。
「くくくっ、迂闊だなぁ、《デモン》。こうもあっさり捕まっちまうとは」
 ティリアムは、蛇に完全に動きを封じられながらも、優越感に酔っている男の顔を下から睨みつける。
「ここに来る途中、屋敷の中の警備がやたらと手薄だとは思わなかったか? あれはな、俺が蛇で常に屋敷内を監視しているからなのさぁ。だから、お前の侵入は最初からバレバレ……とことん間抜けだったなぁ」
 男が楽しそうに喉の奥で笑う。
 ティリアムは、はっと息を呑んだ。
 こいつが常に監視していたと言うのなら、当然ミニアの事も気づかれているはずだ。
 ティリアムの表情から、何を考えているのか悟ったのか、男はさらに続ける。
「ああ、気づいてるぜぇ。お前の侵入を手引きした人間が居る事もよぉ。あの小娘も後で始末とかないとなぁ。グリアムさんのお気に入りらしいが――まぁ、どうせ、いつかはここで嬲り殺されるんだから、同じようなもんさなぁ」
「…………っ!」
 男の台詞を聞いた途端、胸からゆっくりと冷たい殺意が湧き上がってくる。
 ――かつて。
 闇に身を沈めかけたティリアムは、友の死と引き換えにそこを抜け出し、忘れかけていた人間性を取り戻した。
 だが、今でも、この暗く冷え切ったような殺意が完全に消え去る事はなかった。
 一度でも、闇に足を踏み入れたものは、完全に闇を捨て去る事出来ない。
 光の世界で生きる事は出来ない。
 だが、それでもいい、とティリアムは思う。
 光の元で生きられなくても、闇に抗い、光に向けて手を伸ばす事は出来る。
 そして、光の下で生きる者を守るための盾になる事は出来る。
 蛇の拘束に抗っていたティリアムの身体から力が抜け、すっと目を静かに閉じた。
「んん……? なんだ、ついに観念したか? これで噂の《デモン》も年貢の納めど……き……」
 それ以上、言葉は続かなかった。
 男は、気づいた。
 再び開かれたティリアムの目が、煌々と紅い光を灯している事に。
 そう――血のような紅色の光を。
 ティリアムの口から咆哮が迸った。
 蛇の拘束に抗って、無理矢理に身体を持ち上げる。
「ば、馬鹿な……甲冑蛇の力に人間が抵抗できるわけが……」
 男の驚愕の言葉を否定するように、ティリアムの右腕が一本だけ、呪縛から抜け出す。
 そして、一匹の身体を掴むと、そのまま甲冑のごとき鱗ごと――握り潰した。
 ぐちゃりという気味の悪い音を立てて、蛇の身体は二つに分かれると、床に落ちる。
 もう動く事なかった。
「く、くそ……化け物めぇ! 潰せ! その男の身体をそのまま潰してしまえぇ!!」
 もはや余裕の仮面が完全に剥げ落ちた男が、後退さりながら、必死の声で残りの蛇に命令した。
 だが、すでに遅い。
 残りの二匹も、素手で身体を引き裂かれ、潰され、あっさりと絶命した。
 両手を蛇の血で真っ赤にしながら、ティリアムが紅い殺意の眼差しを男に突き刺す。
「ひぃ……ひぃいいっ!」
 男は、転がるように地上に繋がる通路を向けて、逃げ出そうとする。
 しかし、後ろから伸びたティリアムの腕が男の首に絡み、逃走を許さない。
「悪いが逃がすわけにはいかない……逃げられたら、ミニアにも危険が及ぶからな」
「た、頼む……助けっ……!」
「じゃあな」
 腕に力を込めると、ティリアムはそのまま男の身体を、ある物に狙いつけて全力で投げつけた。
 鋼鉄の処女――無数の針で、人を串刺しにする鉄作りの少女。
 男の身体は、開かれた鋼鉄の処女の中に叩きつけられる。その振動に押されて、内側に針をつけた観音開きの扉が勢いよく閉じた。
 肉に針が突き刺さる音が、地下室に響いた。
 鋼鉄の処女の隙間から、どろりと紅い液体が流れ出す。
「処女の熱烈な抱擁だ。しっかり受け止めてやるんだな」
 吐き捨てるようにティリアムは呟く。
 鋼鉄の処女から視線を外し、奥にあった一際大きな両開きの扉の前に立った。
 《デモン》化を収め、ふうっと大きく息を吐く。
「さて――鬼が出るか、蛇が出るか」
 そっと扉に手を当てる。
 そして、意を決すると、ゆっくりとそれを押し開いていった。


 ――三ヶ月前の春。
 
 爽やかな風が、彼の頬を優しく撫でていく。
 まどろみから抜け出し、青年はゆっくりと目を開いた。
 視界に入るのは、自分の手にした筆と、膝の上に置かれた色とりどりの油絵の絵の具が乗った木製のパレットだ。
「おはよう、寝ぼすけさん」
 横手から、笑いを含んだ涼やかな声が聞こえてきた。
 青年が、はっとそちらに顔を向けると、一人の美しい女性が窓の枠に腰掛けて、楽しそうにくすくすと笑いを零していた。
 さらさらとした若草色の綺麗な髪が、吹き抜ける風になびいている。
「ツェーネ……来ていたんなら、起こしてくれれば良いのに……」
 青年は、絵の具で汚れた手で頭を掻きながら、不満を口にする。
 どうやら絵を描いている途中に、椅子に腰掛けたまま眠ってしまったらしい。
「だって、とても気持ちよさそうに眠っていたから起こしづらくて……それよりも、また徹夜したの、ゲイリー?」
 ツェーネの楽しそうな顔が一転、心配そうな表情に取って代わり、ゲイリーの顔を覗き込んでくる。
「あ、ああ……早く皆に認められる絵を描けるようになりたいからね」
 まるで人形のように整ったツェーネの顔が間近に迫り、ゲイリーは思わず仰け反ってしまいながら、応えていた。
 顔が少し熱い。
「気持ちはわかるけど……それで、身体を壊してしまったら本末転倒よ」
 めっと小さな子供を叱るように立てた指を振りながら、ツェーネが言う。
 それに、ゲイリーは思わず苦笑を浮かべていた。
「わかっているよ……大丈夫、こう見えても身体は丈夫な方なんだ」
「とても、そうは見えないけど……」
 唇を尖らしながらツェーネが呟き、ふと、ある物に視線が固定される。
「これ……」
 ツェーネが見ているのは、今、ゲイリーの描いている絵だった。
 綺麗な花々が咲き誇る草原で、子供達と手を繋いだ若草色の髪をした美しい女性が、優しそうな笑みを浮かべていた。
「とても綺麗な絵ね……もう完成しているの?」
「い、いや……まだもう少しかな」
 ゲイリーは、少し動揺しながら答える。
 しかし、ツェーネは、それに気づかず見とれたように絵を見つめ続けていた。
「……ま、まだ、あんまり見ないで欲しいな。未完成の絵だから、恥ずかしいんだ」
「あ、ごめんなさい。本当に綺麗な絵だったから……」
 ツェーネは、慌てて絵から身体を離した。
「いや、いいよ。誉められる事自体は嬉しいしね」
 ゲイリーは安心させるように微笑むと、絵に布をかぶせてしまう。
「でも、綺麗な女の人だったわね。モデルとかいるの?」
「――いいや、いないよ。想像で描いたんだ」
「へぇ、やっぱりすごいのね、ゲイリーって。私にはとても真似できないわ」
「……はは、大袈裟だよ」
 少し照れたようなにゲイリーが笑う。
 と。
 不意に、振り子時計が午前十時を告げた。
 ツェーネがはっとした顔で、口元に手を当てる。
「あ、いけない。今日はお父様に用事があるって言われてるんだったわ」
「グリアム様が……?」
「ええ、私、行かないと」
「ああ、行っておいで。どうせ僕は、また絵の続きを書いているから」
 ゲイリーに促され、ツェーネは駆け足でアトリエの出口へと向かって行く。
 そして、扉の前で一度立ち止まると、ゲイリーの方へ振り向いた。
「その絵が完成したら一番に見せてね、ゲイリー」
「ああ、もちろんさ。約束するよ」
「ええ、絶対よ」
 本当に嬉しそうな笑顔を浮かべると、ツェーネはアトリエから出て行った。
 それを確認してから、ゲイリーは絵にかぶせていた布を取り払う。
 ゲイリーは、彼女に嘘を吐いていた。
 絵の中の子供達に微笑みかける若草色の髪の女性――モデルは、ツェーネなのだ。
 だが、それを告げるのは、絵が完成してからと決めていた。
 きっとツェーネは驚くだろう。謙虚な彼女の事だ。「自分はこんなに綺麗じゃない」とでも言うかもしれない。
 そんな場面が目に浮かぶようで、ゲイリーの口元に自然と笑みが浮かんでいた。
「さあ、約束を守るためにも、早く絵を完成させないと」
 自分を奮い立たせるように呟くと、絵の完成に向けて絵筆を走らせていく。
 だが、その約束が果される事はなかった。
 彼女が、このアトリエに戻って来る事も、ゲイリーが彼女の笑顔を見る事も、二度と出来なくなってしまうのだから――。


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