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エンジェル 三章

逃避者


―― 三 ――

 いつも以上に闇の濃い夜の路地。
 一人の少女がを住宅街に向かって小走りに駆けていた。
 少女――ミニアは、ウィンリアの領主であるグリアム・ホールマンの屋敷で侍女として働いている。今は、街の北に位置する屋敷から、東側の住宅街にある家へと帰路に着いていた。
 ――彼女の使えるグリアムという男は、街の人々からの信頼の厚い好人物して世間では通っている。
 実際、ミニアもそう思っていたし、彼には良くしてもらっていた。グリアムに出会って、使用人として雇って貰えなければ、病気がちな母の治療費など、とても稼げなかっただろう。
 そういう意味では、彼女にとってグリアムは恩人といって相違ない。
 しかし、最近は、その感謝の気持ちが薄れ始めているのを彼女は感じていた。
 理由は――視線だ。
 屋敷で仕事していると、背後から妙な視線を感じ、そちらの方に振り向くと、いつも居るのはグリアムだった。
 まるで、品定めでもするような嘗めまわす視線。
 それを見た瞬間、ミニアは背筋が凍りつくような悪寒を感じずにはいられなかった。
 ミニアがその視線に気づいてから、よくよくグリアムを観察してみると、その視線は自分以外にも、若い女性という女性、全てに向けられているようだった。
 しかし、その頻度は明らかに自分一人だけが異常に多く、最近は、さらに増えてきていた。
 これに耐えられなくなったミニアは、今まで住み込みだったのを、家に残した母が心配だからという理由で、自宅から通うように変えてもらった。
 もちろん仕事で屋敷に行けば、視線は嫌でもミニアを襲うのだが、母のためにも仕事を止めるわけにもいかなかった。
 だから、少しでも視線を感じる時間を減らしたかったのだ。
 ――あの視線は何なのだろう?
 ミニアは考える。
 そして、そんなときに決まって思い浮かぶのは、以前、同僚から聞いたグリアムの黒い噂の数々。
 どれも他愛のない、普段の彼を知るものなら、とても信じようのない下らない話ばかりだった。
 しかし、それの中の一つでも真実が含まれていたら――?
 実際の彼は、自分の思うような人物ではなかったら――?
 ミニアは、脳裏に浮かんだ嫌な想像を慌てて振り払う。
 ――そんなわけはない。
 信じないというよりも、むしろ思い込むようにそう結論づける。
 そして、ようやく見えてきた我が家から漏れる光に、安堵の吐息を漏らし、足を速めた。
 これまで女手で一つで自分を育ててくれた愛すべき母。
 その顔を見れば、きっとこの不安な気持ちも少しは落ち着くだろう。
 そのときだった。
 不意に何かの音がした。
「え……?」
 ――何かが飛んでくる?
 ミニアがそう考えたときには、彼女の身体はすでに地面を離れていた。
 何かが爆砕される音が真下から響いてくる。
(何!? どうしたの!?)
 突然の出来事に、ミニアの思考はついていかない。
 呆然と自分を撫でていく夜の冷たい風の感触を感じていた。
 すたっと地面に人が着地する音。
 そこにきて、ようやく状況を今の漠然と脳が理解をし始めた。
 どうやらミニアは誰かに抱きかかえられているようだった。そして、その誰かは襲って来た何かから自分を助けるために、そのまま跳んで避けたのだ。
 ミニアが顔を上に向ける。
 自分を抱きかかえている人物の顔を確かめるためだ。
 周りは夜の帳に包まれてはいたが、傍に立つガス灯のおかげで、かろうじて顔を確認できた。
 黒髪黒瞳の青年だった。
 年は、二十代前半辺りだろうか?
 背中には、布に包まれた長い何かを背負っているようだった。
 彼は、鋭い視線をさっきまでミニアの居た方向へと突き刺している。
 不意に、その顔が自分の方へと向く。そのときには、もう刺すような視線は消え、どこか優しさを感じさせる微笑みが浮かんでいる。
 青年が口を開く。
「大丈夫か?」


「――大丈夫か?」
「あ、はい……」
 ティリアムの腕の中で少女は呆けたような顔で、そう答えた。
 無理もない。
 歩いていたら、突然見知らぬ男に抱きかかえられているのだ。下手すれば、悲鳴を上げられてもおかしくはないだろう。
 しかし、幸いにもその少女は、自分を襲うもう一つの異変にも気づいているようだった。腕の中で身じろぎして、恐る恐るティリアムがさっきまで睨みつけていた方向に顔を向ける。視線の先には――長衣を身につけ、フードを頭にかぶった人影が、街灯の光を避けるように立っている。
 体格からして男だろうか?
 否。
 彼が“人間”でないのなら、性別など考えるだけ無駄だ。
 そして、その結論はすぐに出ていた。
 その人影の背中からは何か長いモノが伸び、蛇のようにぐねぐねとうねっていたのだ。闇に包まれてよくは見えないが、触手のようなものらしい。
 あんなものが生えた人間はいない――。
「お前が、例の《デモン・ティーア》か。なるほど、確かに人の容をしてるな」
 ティリアムは油断なく、《デモン・ティーア》らしき人影を観察する。
 触手は相変わらず、背後で踊っていたが、それ以外に動きはない。
 ティリアムが再び、口を開く。
「話によれば、お前、口がきけるそうじゃないか。俺の質問に――」
「邪魔を――」
「へ?」
 何の前触れもなく《デモン・ティーア》は、いきなり動いた。
「――するなっ!!!」
 背中の触手が、突如増加する。
 二本、三本、四本――
 それはあっという間に八本にまで増加すると、ティリアムの方へと夜闇を裂いて疾走した。
「問答無用かよ!?」
「きゃあああぁぁぁ!」
 ティリアムは悲鳴を上げる少女を抱えたまま、慌ててその場から逃げ出す。
 ――少女を抱えていては、背中の大剣は振るえない。
 ティリアムが駆け抜けたすぐ後に、石畳で舗装された路を触手が次々と破壊していく。その攻撃は当然ながら、まったく容赦がない。
 七本目の所で、すぐ足元を爆砕され、大きく体勢を崩す。
「くっ――!」
 少女を庇いつつ、ティリアムは地面をごろごろと転がる。そして、反動を利用して起き上がるが――目の前に、最後の触手が迫っていた。
「しまっ――!」
 咆哮が響いた。
 疾る白影。
 触手は、ティリアムに到達する前に無数に切り裂かれ、ばらばらと地面に落ちた。
「大丈夫ですか? ティル様」
 静謐な響きを持って、その声は二人の耳朶に届いた。
 安堵の吐息を吐くティリアムと、その腕の中で呆然としている少女の視線の先に立つのは――虎だった。
 白い白い虎だ。
 人間の大人など優に超える大きさを誇る体躯は、常に淡く発光していて、どこか輪郭が曖昧だった。
 しかし、理知的な光を宿す二つの黄金の瞳は強い意思を内包し、はっきりと輝いている。
 地面に突き立っていた触手は、白き虎に途中で切り裂かれたものを含めて、全てうねりながら、主の元へと戻っていく。
 すぐに《デモン・ティーア》が、こっちを追ってくる気配はなかった。
 それを確認して、ティリアムは立ち上がりながら言った。
「助かったよ、ハクト」
「礼には及びません。――しかし、少し油断し過ぎですよ、ティル様」
 ハクトと呼ばれた虎は流暢に人の言葉を操り、ティリアムを諌める。
 それに少女は目を丸くした。
「いや、悪い。まさか、あんないきなり襲ってくるとは思わなかったんだよ」
 ティリアムの方は特に気にした風もなく、謝罪する。
 ハクトは喉の奥で唸った。
「相手は人ならざる者です。我等の常識など通用しますまい」
「我等の常識って――お前も含めるの……?」
「――何か?」
 思わず漏らした疑問に、ハクトは不思議そうにティリアムを見上げてくる。
 引きつった笑みを浮かべながら、ティリアムは慌てて首を横に振る。
「あ、いや、気にするな。うん。――それよりもお前の主人はどうした?」
「物音を聞いて私が先行しましたから、すぐに追いつかれるでしょう」
 ハクトの言葉通り、すぐに背後の闇から足音が響いてきた。
 少し息を切らせながら姿を見せたのは、オーシャだ。
「もう、ハクトったら、速すぎだよ。全力で走っても、全然ついていけないんだもん」
「申し訳ございません、主」 
 ハクトは本当に申し訳なさそうに頭を下げた。
 それにオーシャが慌てて手を振る。
「あ、いや、本当に謝らなくてもいいんだよ」
「そうそう。おかげで俺は命拾いしたんだしな」
 言いながら、ティリアムは腕の中の少女を地面に降ろしてやる。少女は次々と信じられないものを見せられたせいだろう、完全に茫然自失のようだった。
「……おーい、生きてるかー?」
「……え? あ…はい……」
 返ってくる答えも、どこか虚ろだ。
 ティリアムは困ったようにぽりぽりと頬を掻く。
「これじゃあ、状況を説明した所で駄目だな……」
「無理もないよ、突然だったし……しかも、ハクトまで見ちゃったしね」
 ハクトは、再び申し訳なさそうに唸る。
「とにかく、あいつもすぐに追って来るだろうから、彼女を安全な所に運ばないとな」
「私が運びましょう。それが一番早い」
 ハクトが自ら申し出る。
 それにオーシャは頷いた。
「そうだね。――それじゃ、彼女が落ち着いたら、問題ない程度に説明もしてあげて。ここままじゃなんだか気の毒だし……」
「御意のままに」
 ハクトは、オーシャの頼みに恭しく頭を下げると、少女を背中に乗せる。そして、「お気をつけて」という言葉を残し、《デモン・ティーア》が居た方とは逆方向に駆け出していく。
 走り去った方角から少女の悲鳴が聞こえた気もしたが、聞こえない振りをしておいた。
「だけど、例え説明されても喋る虎なんて納得出来るものなのか? しかも、説明するのは、その虎本人だし」
「それは、もう、なんとかしてもらうしか」
 ティリアムの疑問に、オーシャは困ったように苦笑を浮かべる。
 あの白い虎――ハクトは、《魔獣》ガイストと呼ばれる存在だ。
 《ガイスト》とは、その名の通り、魔法によって生み出される獣の事だ。そして、自らの創造主に絶対の忠誠を誓った僕となり、何よりも最優先に守る。
 その力、性格、姿などは、全てその《ガイスト》を作り出した者に依存するそうだった。 
 ハクトは、マリアの指導の元で、オーシャが魔法によって作り出した《ガイスト》である。
 マリアの話によれば、《白光の翼》を含めた特殊な一部の《フリューゲル》のみ、ハクトのような《ガイスト》を作り出す事が可能らしかった。
 そして、ハクトを作り出したのは戦力増強のためなのはもちろん、まだ未熟なオーシャの補助の意味も含んでいた。
「しかし、まあ、生真面目な《ガイスト》さんが生まれたもんだな」
 背中の大剣を手にし、覆っていた布を取り払いながら、ティリアムは呟いた。
 刃は夜闇とガス灯の光に晒される。
「なんか知識や性格は、生み出した本人の影響をかなり受けるらしいけど……」
「あ、納得」
 何故かオーシャは半眼で睨みつけるように、ティリアムを横目にする。
「……それは喜ぶべき?」
「ああ、喜んどけ、喜んどけ」
 ティリアムは涼しい顔で突き刺さる視線をかわして、適当な相槌を返す。
 そして、不意に顔を引き締めた。
 視線は、自分がさっき逃げて来た方向。
 そちらは石畳の路が、《デモン・ティーア》の触手によって無残に破壊されていた。
「さあ、無駄口はここまでだ。追ってきたぞ」
「――うん」
 気づけば、砕かれた石畳の破片を踏めしめながら、長衣を身に着けた《デモン・ティーア》が姿を見せている。
 背中からは無数の触手。
 先ほどよりも倍近く数を増していた。
「無尽蔵か……」
 ティリアムは呆れたように呟いた後、隣のオーシャに顔を向ける。
「……相手が人の容をしてようが、言葉を喋ろうが――躊躇うなよ」
「――うん、わかってる」
 頷くオーシャの顔には迷いはなく、闘いに対する覚悟のみが浮かんでいた。
 それに、ティリアムは満足げな笑みを浮かべた。
「じゃあ――行くぞ!」
 ティリアムは地面を強く蹴ると、真っ直ぐ《デモン・ティーア》に向かって疾走する。
 迎え撃つのは、当然触手の群れだ。
 高速で伸びてきた触手と同じ数の斬撃が疾り、それらを切り刻む。
 残骸が地に落ちるよりも速く、《デモン・ティーア》へさらに接近しようとしたティリアムは、驚愕に動きを止めた。
 触手が斬られた部分から伸び、一瞬で再生をしたからだ。
 再生した触手は、再び攻撃に移る。
「ちぃっ!」
 ティリアムは、その場に足止めされた。
 だが、口元には余裕の笑みが刻まれている。
 瞬間。
 その肩を踏み台にして、誰かが大きく跳躍した。
 月明かりを背に宙を舞うのは、オーシャだ。
 初めから、ティリアムは囮だった。
 オーシャの背中に、白く発光する翼が生まれ、髪と瞳が白銀へと変化する。
 手には、光によって形成された弓矢がすでにあった。
 光の弦を引き、矢の狙いを触手を操る《デモン・ティーア》へと定める。双眸に一瞬、攻撃への迷いが浮かぶが――それはすぐに、より強固な覚悟と決意に塗り潰された。
 弦を掴む左手の指は、躊躇なく離される。
 迸る光矢は、夜闇を侵食し、直線上にある触手を粉砕しながら、寸分違わず《デモン・ティーア》の身体へと食らいついた。
 そして、そのまま貫通し、背後へと抜ける。
 路地を包む白光。
 それが収まった時には、《デモン・ティーア》の身体には、大きな穴が穿たれていた。
 オーシャは、軽やかに地面に着地する。
「――やったか?」
 ティリアムは、油断なく《デモン・ティーア》を観察しながら、近づいて行く。そして、二度目の驚愕に目を見開いた。
 穿たれた穴の周りの肉が蠢き、傷口を一気に塞いでいったからだ。そして、完全に塞がれると、そこには傷跡一つ残ってない。
「再生能力か――!」
「そんな……」
 《デモン・ティーア》は、穴の空いた長衣を掴むと、無造作に投げ捨てた。
 ティリアムとオーシャは、息を呑んだ。
 月明かりと傍のガス灯の光に照らされながら露になったその姿は、金髪翠瞳の美形と言っても過言ではない青年だった。背中に生える異形の触手さえなければ、おそらく普通の人間とは見分けがつかないだろう。
 いくら人の容をしているのを予め知っていたとはいえ、長衣の下の姿が、ここまで人間と類似しているとは思わなかった二人は、しばし呆然としてしまう。
「――邪魔をするなと言っている!」
 だが、青年の姿をした《デモン・ティーア》の動きに躊躇はない。
 すぐさま触手を再生させると、攻撃を再開する。
 それにオーシャより先に反応し、度重なる驚愕から解き放たれたティリアムは、素早く《デモン》化する。黒の瞳は血のごとく紅き色に染まり、興奮にも似た破壊衝動と共に、全身に力が駆け巡っていく。
 マリアの言い方をすれば、身体能力強化の魔法だ。
 襲って来る触手は、ティリアムが振るった刃によって一瞬で分か断れる。
 《デモン》化してからのティリアムの動きは、先ほどまでとは段違いだ。
 凄まじい速度の斬撃を繰り出し、迫る触手を切り刻みながら、徐々に――だが確実に《デモン・ティーア》へと迫って行く。
 不意に後方から、三本の光の輪が飛来してきた。光輪は、宙を縦横無尽に飛び回ると、ティリアムの周囲の触手を次々と薙ぎ、切り落としていく。
 当然、オーシャによる援護だ。
 これによって触手の攻撃の勢いが弱まる。
 その隙を逃さず、ティリアムは一気に《デモン・ティーア》の懐へと踏み込んだ。
 至近距離で、翠と紅の瞳がぶつかる。
 しかし、一瞬後には翠の前に、紅はない。
 ティリアムは、《デモン・ティーア》の首を切り飛ばしながら、その後方に疾り抜けていた。身体から切り離された頭は、ゆっくりと宙を舞う。
 だが、頭が先ほどまでついていた身体からは、血一つ流れない。
 切り離された頭がぼとんと石畳の上に落ちて転がる。そして、身体の方は相変わらず血を流さず佇んでいた。
「これならどうだ?」
 振り向きながらティリアムが口にした疑問には、一本の触手が答えた。
 その触手は、落ちた頭の方に伸びると、器用にそれに巻きつき持ち上げ、元の場所へと戻したのだ。
 切られた跡はあっさり消え失せ、元通りとなる。
 不意に豪風が唸り、肉を切り裂く音が夜の街に響いた。
 ついさっき元に戻ったはずの《デモン・ティーア》の身体は、左右対称に綺麗に分かたれていた。復活を悟ったティリアムがすかさず背後より迫り、脳天から股間まで一刀両断したのだ。
 しかし、その左右に分かれて倒れるはずの身体は再び触手によって支えられ、結合すると元に戻ってしまう。
 あまりの事に、オーシャの喉から呻くような声が漏れた。
「いくらなんでも理不尽過ぎるだろ……!」
 悪態を吐きながら、ティリアムは再度攻撃に移ろうとして――いきなりその身体が後方に投げ出された。そして、そのまま勢い良く横手の建物の壁に叩きつけられる。
「がっ――!」
 大剣が手を離れて、地面に転がった。
 脇腹に触手の一本が突き刺さり、背後まで突き抜けて、ティリアムを身体を壁に縫いつけていた。
 溢れる血が、突き立った触手を辿って流れる。
「ぐっ、がはっ――!」
「ティル!!」
 慌てて助けに行こうとするオーシャに、先ほどより速度を上げた触手が次々と伸びてくる。
「くっ――!」 
 咄嗟に目の前に魔法防壁を張り巡らせて、それらを防ぐ。防壁の表面には、複雑な紋様で描かれた魔法陣が浮かんでいた。それはオーシャの魔法が高位のモノだと言う証だった。
 マリアの特訓による成果だ。
 その証拠に、迫る触手は一本として防壁を抜ける事が出来ずに弾かれる。
 だが、この状況では鉄壁な守りがあっても、動けなければ問題の解決にはならない。
 オーシャは必死の声で叫ぶ。
「逃げて、ティル!」
 半分の触手でオーシャを足止めし、残り半分の触手を背後で蠢かせながら、《デモン・ティーア》の青年は静かな足取りで、壁に張りついたティリアムへと近づいて行く。
 その瞳には激しい赫怒と憎悪が浮かび上がっている。
 強く暗い意思に彩られたそれは、まるで――人間そのものだった。
「僕は――奴を殺す。引き裂く。喰らう」
 青年が叫ぶ。
 その叫びもまた、人間のようだった。
 ティリアムが、大きく目を見開く。
「“彼女"を殺した、奴を――! だから、邪魔をするな!!」
 そして――
(……俺と……同じ……だ……)
 傷の痛みに身を震わせ、死の危機に晒されながらも、ティリアムは静かな思考の海へと沈んでいった。
(……あの目は……昔の俺と……同じ……)
 青年は、すぐ眼前にまで迫ってくる中、視界はゆっくりと闇に染め上げられていく。
(……大切な者を奪った者に対する、耐えようのない憎悪と怒り……あれは――そう――)
 
 ――復讐者の、目だ。

『何をしてるんだい?』
 その声は、突如ティリアムの思考を遮って響いてきた。
(……誰だ……お前は……?)
 声の主が笑った。
 嘲笑などではなく、ただ、可笑しいから笑ったような、無邪気な笑い。
 姿が見えているわけではない。
 だが、なぜか、それはわかった。
『誰だ――とは酷いな。僕は、誰よりも君の事を識っているのに』
(……俺の事を……識っている?)
 浮かぶ疑問に対する答えを探そうとするが、なぜか、思考が虚ろで上手くいかない。
『そう。そして、君も僕の事を他の誰よりも識っているはずだ。それは必然なんだよ』
(わけが……わからない……)
 ティリアムの口からぼやきのように漏れる言葉は、取る足らない、だが、自身が感じた正直な思いだった。
 誰とも知れない声の主がまた笑った。
 その声は、なぜか酷く聞き覚えがある気がする。
『それも仕方ないか。……それよりも今は、そんな事を話してる場合じゃないだろう。このままじゃ、君は死んじゃうよ?』
 再び頼りない思考を巡らせ、なんとか声の言った言葉の意味を悟った。
(……死ぬ? ああ、そうか。俺は、今、《デモン・ティーア》と闘って……)
『そうだ。さあ、闘うんだ。そして――壊せ』
 声は、切なる願望に満ち満ちていた。
 ただ純粋に。一途に。
(壊す……?)
『そう、壊すんだ。完膚なきまで、確実に……壊すんだ』
(壊す……壊す……)
 言葉を繰り返す。
 その真の意味も理解出来ぬまま。
『そうだ。壊せ。壊せ。壊せ……』
(……壊す……壊す……壊せ……壊せ……)

――壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ――コワセ!!

 脇腹に突き刺さった触手は消滅し、《デモン・ティーア》の青年は、弾き飛ばされた。
 突然だった。
 何の前触れもなく。
 それは――起きた。
 《デモン・ティーア》の青年を素手で殴り飛ばしたティリアムは、足元に落ちている大剣には目もくれず、倒れた敵の方へと頼りない足取りで歩いていく。
 紅い瞳はどこか虚ろで、目の前を見つめているようで、どこも見てないようにも見えた。
 脇腹の傷は、いつのまにか塞がっている。
「ティル……?」
 突然の変化に戸惑いながら、オーシャは、ティリアムを凝視する。
 その瞬間、凄まじい悪寒が背筋を疾り抜ける。
 膝が笑い、全身の毛穴が一斉に開き、冷や汗が噴き出した。
(……一体、どう、なって……)
 気づけば、こちらを襲って来ていた触手は、すでに動きを止めていた。
「――いけない!」
 突然、オーシャの隣に具現化したマリアが声を上げた。
 ここの所、ずっと姿を見せていたせいで精神的疲労が溜まったと言って、《フリューゲル》の中で休んでいたのだ。
 マリアの急な出現に、オーシャは恐怖と疑問の束縛から、なんとか抜け出す。
「……マ、マリア! どうしたの?」
「――血が……血が暴走を始めている! オーシャ! ティルを止めるんです」
 オーシャは、訝しげに眉根を寄せる。
「暴走? 一体、何の事――」
 その声を遮って響いたのは――肉を殴りつける音だ。
 いつの間にか《デモン・ティーア》の青年に馬乗りになったティリアムは――殴っていた。
 容赦なく。
 冷酷に。
 残酷に。
 ひたすらに。
 飛び散る血は、《デモン・ティーア》の青年のものではない。
 彼からは、血は出ない。
 あまりに強く殴りつけているせいでティリアムの拳の骨が砕け、肉を引き裂き、血を撒き散らしているのだ。
 しかし、本人は、それを気に留める事もなく、一心に殴り続ける。
 その瞳に浮かぶのは、ただただ純粋たる破壊への渇望。
 それ故に、殴る。
 殴る。
 殴る。
 殴る。
 《デモン・ティーア》の青年の顔は、あっという間に原型を失っていく。
 時折、触手が思い出したように、ティリアムに襲い掛かるが、それは全て身体に到達する前に消滅する。
 《紅》くれないで身を守っているようだった。
「あんな無茶な――! どうして!」
「だから言ったでしょう! 暴走してるんです! 早く止めて!」
 マリアは、珍しく取り乱して叫ぶ。
 オーシャもようやく事の重大さに気づき、拳を振るい続けるティリアムヘと急いで駆け寄っていく。
 だが、逆にティリアムの方から、オーシャの方へと飛んで来た。
 その身体を、慌てて受け止める。
 そして、ティリアムの肩越しに《デモン・ティーア》の青年を方を見た。
 青年の顔は驚くべき事に、すでに元通りに再生していた。
 どうやら、《紅》の守りの隙を見つけて、ティリアムを触手で弾き飛ばしたらしい。
 ただ、確かに顔は元通りにはなってはいたものの、浮かぶ感情は、とてもそうとは言えず、さらなる激情に引き歪んでいた。
 そこから感じ取れる負の感情の凄まじさに、オーシャは戦慄を覚える。
 だが、それと同時に、不自然なものを《デモン・ティーア》の青年に見つけていた。
 それは――怯えだった。
 あれほどの暗い感情に塗れながらも、そこには恐怖が浮かんでいたのだ。
 恐怖の対象は――おそらくティリアム。
「…………」
「あ――っ!」
 《デモン・ティーア》の青年は、何も言う事もなく、触手を横手の住居の壁に突き刺すと、それを支えに身体を持ち上げる。そして、屋根まで到達すると、逃走して行った。
 マリアが溜息交じり、呟く。
「――あれは、追うのは無理ですね……」
「……うん」
 オーシャが頷くと同時に、抱き止めたティリアムから呻き声が漏れる。
 先ほどのティリアムの様子を思い出して、少し躊躇しながらも、オーシャが気遣う声を掛ける。
「ティ、ティル!? ――大丈夫?」
「――うっ……あ、ああ、平気だ」
 応えるティリアムは、すでに正気に戻っているようだった。
 オーシャは、いろんな意味での安堵の吐息を漏らした。 
「――どうやら、正気を失ってたみたいだな」
「わかるの?」
 オーシャが驚きを隠さず問い掛ける。
 あの時の様子を見る限りでは、本人に自覚があるとは思えなかったのだ。
「ああ、薄っすらとだが、その間の記憶もあるよ。――肝心の《デモン・ティーア》も逃がすし、情けないったらありゃしないな、俺」
 ティリアムは、そう言って自嘲を含んだ苦笑を浮かべた。
「そんな事……」
 励ますようにオーシャが口を開いた瞬間だった。
 なんとか自分の足で立ち上がろうとしていたティリアムが、突如身体をくの字に曲げて、吐血する。その顔は苦痛に引き歪んでいた。
「ティル!!」
「……大丈夫だ。《紅》の反動がきただけだから」
 慌てて身体を支えようとするオーシャに、ティリアムが引きつりながらも安心させようとしているのか、笑みを浮かべる。
「とりあえず宿に戻るか。……なんか異常に疲れたよ」
「そうだね……。そうしよう」
 オーシャも未だに内心では心配しながらも、笑顔で頷く。
「ただし明日は、ティルはお説教ですからね」
 にっこりと満面の笑みで言ったのは、腰に両手を当てたマリアだ。
 笑顔の下に隠れた怒りは、オーシャにも手に取るように分かる。
「――鬼だ。鬼がここにいるよ」
 ティリアムは全身を苛む苦痛も忘れたように絶望に打ちひしがれ、がっくりと項垂れる。
「あ、あははは……」
 その姿に、オーシャは同情の念を抱かずにはいられなかった。


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