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エンジェル 三章

逃避者


―― 一 ――

 降り注ぐ昼の陽光。
 その下で黒髪をなびかせながら、少女は草原を駆けていた。
 向かう先には、黒髪黒瞳の青年――ティリアム・ウォーレンスが半身で構えて立っている。
 少女が、ティリアムの脇腹めがけて鋭い手刀を放った。
 それを予測していたティリアムは軽く後ろに跳躍し、紙一重でそれを躱す。少女は、それでも諦める事なく、さらに踏み込んで来る。
 次に放たれる拳の狙いは、顔面。
 だが、それは左の掌であっさりと受け止められ、逆にティリアムの右の掌底が少女の肩を叩いた。
「きゃっ!」
 少女は体勢を崩し、足元の草むらへと背中から倒れ込む。そこにティリアムが右拳を垂直に振り下ろす――が、それは顔面すれすれで止められた。
「“また”俺の勝ちだな、オーシャ」
 ティリアムは意地悪く笑いながら、拳を引いた。
 足元の黒髪の少女――オーシャ・ヴァレンタインは、拗ねるように少し頬を膨らませて、上半身を起こした。
「……そりゃ、まだまだ実戦経験も足りないし、“記憶”も馴染んでないから、ティルには敵わないよ。――それでも悔しいけど」
 オーシャは最後に小声で本音をこぼしながら、ここ数日の訓練によって傷だらけになった自分の掌を見下ろした。
 ティリアム達が目的地であるウィンリアではなく、途中にあるロンガという名の小さな村に滞在して、すでに一週間が過ぎていた。
 突然のトンネルの落盤事故により、蒸気機関車が進めなくなったのである。
 徒歩で行こうにも、途中に旅人泣かせの険しいゼルガ山地があるため、それも困難だった。
 そのため仕方なく、ロンガでトンネルが通れるようになるまで待つ事になったのだ。
 落盤自体はそれほど酷くなく、再び通れるようになるまで一週間もあれば十分との事だった。
「でも、前に比べたら大分馴染んできたみたい」
 オーシャは手を握ったり開いたりしながら、さっきの悔しそうな声とは打って変わって、嬉しそうに言った。
 彼女の右の手首には、奇妙な紋様の刻まれた腕輪がはめられている。それは微かにだが淡い光を放っていた。
「一週間、ほとんど休みなしで特訓したんだ。それぐらいの成果がないとやってられないぞ」
 ティリアムは、草地に大の字になりながら答える。
 遠くから二人の組手を見学していたマリアが、ティリアムの方へと飛んで来る。
 ティリアムの顔を上から覗き込むと、彼女はおかしそうにくすくすと笑った。
「さすがのティルも疲れたみたいですね」
「そりゃ、な……」
 ティリアムは、ロンガから少し離れた場所にある広い草原で、オーシャのために戦闘訓練を連日行っていたのだ。
 何故、そんな事をする事になったのか。
 それは、足止めを食らった一週間前に遡る事になる――


 一週間前。
 落盤事故直後。
 夕日に黒光りする蒸気機関車は、本来の役目である人と荷物の運搬を果たす事が出来ず、その巨体を線路の上に横たえて停止していた。
 そこから目を凝らせばなんとか目視できるトンネルは、今は落盤により、完全に塞がっている。
「まさか、トンネルの落盤事故とはな――ついてない」
 機関車内を降車口に向けて歩きながら、ティリアムが愚痴をこぼす。
「まあまあ、事故に巻き込まれるよりはマシじゃないですか」
「そりゃ、そうだけどな……」
 マリアの前向きな言葉に、ティリアムは肩を竦めた。
 だが、隣を歩くオーシャは神妙な顔で俯き、黙り込んでいた。
「どうした、オーシャ?」
 ティリアムが気遣うように声を掛ける。
 しかし、オーシャは聞こえていないのか、そのまま降車口へと歩いて行こうとする。
「オーシャ? ちょっと待てってば」
 ティリアムが咄嗟に肩を掴んで、オーシャを引き止める。そこで、ようやく気づいたのかオーシャが、はっと頭を上げた。
「――え!? あ! ……ご、ごめんなさい……考え事してて……」
「どうしたんだ? 最近、なんか変だぞ」
 エクスを離れて以来、オーシャは不意に元気をなくす事があった。
 それを心配して「どうしたのか?」と何度か聞いた事もあったが、そういうときは決まって、
「……大丈夫。なんでもないから」
 と言うのだった。
 オーシャは明らかに無理した微笑を浮かべると、再び規則正しく並ぶ座席の間を歩いて行ってしまう。
「…………オーシャ」
 マリアも心配そうに、彼女の背中を見つめていた。
「まったく……どうしたって言うんだ?」
 ティリアムは困った顔で一人ごちると、すぐにマリアと共にオーシャの後を追いかける。
 蒸気機関車から降りると、待っていた若い乗務員が申し訳なさそうに頭を下げてきた。
 ティリアムは、それに片手を挙げて応える。
「とりあえず、この近くの――ロンガだったか。その村で落盤の除去作業が終わるまで待つしかないな。それじゃ、行くか」
「あ、ちょっと待って、ティル!」
 村の方に向かおうとするティリアムを、オーシャが慌てて呼び止めた。
 何事かとティリアムは振り返る。
「――どうした?」
「あのね、私なりに一生懸命考えて決めた事なの。……聞いてくれる?」
「……ああ」
 雰囲気から大切な話なのだと察し、ティリアムは迷わず頷いた。
 オーシャは逡巡するように目線を彷徨わせた後、思い切ったように口を開いた。
「――私も……やっぱり戦うよ」
「…………」
「城での戦いでわかったの。私が例えどんな力を持っていても、それを扱えるだけの力量と、覚悟がなければ何も守る事は出来ないって。結局、私は守られていただけ……。でも、これ以上、そんな事は耐えられない! 力があるのなら、守られるだけじゃなくて、大切な誰かのために戦いたい! 例え、その結果――」
「――人を殺める事になるかもしれなくても?」
 ティリアムが言葉を継いだ。
 オーシャは力強く頷く。その目には、固い決意の光があった。
 ――ただ守られ、脅威から逃げる事しか出来なかった少女。
 だが、そんな少女は、自ら大切な誰かを守るために戦う道を選ぼうとしていた。それは、ずっと迷い、苦悩しながら、ようやく辿り着いた決意と覚悟だったのだろう。
(そうだな……。お前ならそう決意すると思っていたよ)
 いつか来るだろうと覚悟していた未来。
 それはティリアムの予想以上の早さで現実となってしまった。
 そして、彼は、それを否定する言葉を持たない。
 自分を真摯に見つめてくる少女の決意が強固な事は確認するまでもなくもわかる。
 ならば、返す答えは一つだけだ。
 オーシャの眼差しを受け止めながら、ティリアムは頷く。
「わかった。お前がそう決意したのなら――俺に止める事は出来ないさ」
「……ありがとう、ティル」
 オーシャは眼元に涙を浮かべながら、嬉しそうに破顔した。
「それでは! 話がまとまったところで、さっそく本題です!」
 シリアスな雰囲気を吹き飛ばして、マリアが二人の間ににゅっと入り込んできた。
 そんな彼女に、ティリアムが呆れきった視線を投げかけた。
「おーい、空気読めよ……」
「さて、なんの事やら」
 突っ込みをさらりと流しながら、マリアはさっさと話を進める。
「楽しく短期間でオーシャを華麗に強くしよう計画発動ですよ! 実は、すでにオーシャから相談されて、ばっちり考えておいたのです!」
「ネーミングセンスゼロだな……。っというか、なんだよ、それ」
 マリアが、ちっちっと顔の前で指を振った。
「だって、強くならないと一緒に戦う事は出来ないでしょう? 魔法だけに頼っていてはダメです」
「まあ、それはそうだけどな。具体的にどうするんだよ?」
 マリアは腰に両手を当てると、自信ありげに笑う。
「まずはオーシャに《翼石》フリューゲルを通して、私の記憶の一部を送り込みます」
「記憶?」
「これでも私は、格闘術に関してだけなら右に出る者がいないほど使い手だったんですよ。まあ、七百年前の事ですけどね」
 それを聞いてティリアムは、今更ながらマリアがかつて反乱軍を率いて《世界王》ヴェルト・ケーニヒと戦っていたという話を思い出す。確かに、大勢の人々を率いた者ならば、それなりの実力持っていたとしてもおかしくはないだろう。
「それで、記憶を受け取るとどうなるの?」
 オーシャが一抹の不安を覗かせながら訊いた。
「私の戦闘の知識と技術、さらに経験をオーシャは受け継ぐ事になります。もちろんそれだけでは、まだ強くなったとは言えません。オーシャには、その記憶通りに動けるだけの身体能力が絶対的に足りませんからね。だから、すぐに鍛錬を始める事になりますが、それではあまりに時間が掛かり過ぎます。――そこで!」
 マリアは、びしっと人差し指を立てて、胡散臭げに話を聞いていたティリアムの顔の前へと突き出した。
 ティリアムは思わず仰け反る態勢になってしまう。
「そこでティルの出番というわけです! 憎いね、旦那!」
「普通に言えんのか、お前は」
 ティリアムは態勢を戻しながら、妙に疲れを感じつつ溜め息を吐いた。
「で、俺にどうしろと?」
「えっと、それを説明するには、まず魔法の原理から説明しないといけないですね」
 マリアの顔が真剣味を帯びる。
「良いですか。わかっているでしょうけど、魔法というのは魔力を用いて超常現象を起こし、操る術の事です。そして、その魔力は、この世界のあらゆる事象の根本となる力。これは、人や動物、目にも見えないような小さな生物さえも持っていて、空気中にも魔素マナとして漂っています。もしも魔力が存在しなくなれば、火は燃えず、水も流れず、風も吹かず、時さえも止まってしまう事になるでしょう」
 オーシャが感嘆とも驚愕とも取れるような声を漏らす。
「そんなに大切なものだったんだ、魔力って……」
「ええ。魔力がなければ、世界は生きる事ができません。もちろん、その懐の中で生きる私達も。ですが、逆に言えば、魔力さえあれば、己の意思であらゆる現象を自由自在に起こす事が出来る。ただし――人間には魔力を感知や操作、さらにその性質を定める能力はありません」
「だが、《翼持つ者》エンジェルは違うって事か」
 ティリアムの言葉に、マリアが頷く。
「そうです。私達、《エンジェル》は、翼を用いて魔力を様々な現象に変化させる事が出来ます。翼を媒介にする事で、それぞれの翼が持っている性質にだけ、魔力を変化させる事が出来るんですね。で、魔法の原理はそういう事なんですが……」
「なんですが?」
 マリアが、訊き返すティリアムの方へと顔を向ける。
「実はね、ティル。あなたの《鬼人》デモン化も魔法の一種だったりするんですよ」
 思わぬ事実にティリアムは目を見開く。
「魔法……だって?」
「そう、要するに身体能力強化の魔法です。《鬼人族》デモンズは自らの血を媒介に魔法を用いていたんです」
「…………」
 言われてみれば、魔法と言ってもおかしくない力ではあった。
 気がつけば使えるようになっていた《デモン》化は、あまりに自然に共にあったため、力そのものに対する疑問など、まったく思いつきもしなかったのだ。
「俺も気づかないうちに魔法を使っていたって事か……」
「そういう事です。それで、ティルにやってもらいたいのは、その身体能力強化の魔法を、前の街でこっそりオーシャに買ってもらった腕輪に定着させてもらう事です」
 言われて、オーシャが懐からその腕輪を取り出す。
 たいした装飾もない木製の平凡な物である。
 またもや意外な事を言われ、ティリアムが眉根を寄せた。
「魔法を……定着だって?」
「城での戦いで、オーシャがペンダントに魔法を込めていたじゃないですか。あれと同じ事です。ただ今回のは、やり方がちょっと違いまして……実は《エンジェル》の間では、魔法を込めるときには特殊な紋様が使用されていたんです。魔法を定着させたい物にその紋様を刻んで、その後に魔法を込める。そうすると、普通に込めるだけなら、しばらくしたら消えてしまう魔法の効果が、半永久的に持続されるんですよ」
 確かに、城での戦いでオーシャがペンダントに防御魔法を込めた事があった。そのペンダントのおかげで、ティリアムは魔炎から守られ、ギャリッドに勝利する事が出来たのだ。
 しかし、マリアの言う通り、戦いが終わった後、ペンダントを包んでいた魔力の光は溶けるように消えてしまっていた。
 ティリアムは得心して、頷いた。
「なるほど……。俺の《デモン》化を定着させた腕輪をオーシャが嵌める事で、足りない身体能力を手っ取り早く補おうという事か」
「そうそう、そういう事です。まあ、ティルが使う《デモン》化に比べると、それなりに効果は落ちてしまうんですけど――まあ、論より証拠、さっそくやっちゃいますか」
 張り切って言うマリアに、オーシャが困ったように声を掛けた。
「え、えーと、とりあえず先に村に行った方がいいような……」
 オーシャに言われ、はっとティリアムとマリアは周囲を見回す。
 話し込んでいるうちに、蒸気機関車から降りた乗客達のほとんど村の方へ避難しており、若い乗務員が困ったように残ったティリアム達を見ていた。どうやら、“何もない所”に向かって話し掛けるティリアムとオーシャに、声を掛けようにも掛けられずにいたらしい。
「……そ、そうするか」
 ティリアムは、自分の行動の迂闊さに、深い後悔の念を抱きながら言った。
 しかし、マリアは、自分の姿が乗務員に見えてないのを良い事に、「あはは、ごめんなさい」と呑気に笑っていたりする。
 ティリアムは乗務員の冷たい視線を背中に感じながら、
(村についたら、あいつは一回しばいとこう……)
 そんな固い決意を胸に秘め。
 妙な疲労感と共に、人影のなくなった道を歩き始めたのだった。


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