エンジェル 二章
血と罪と鬼人
―― 七 ――
ハロンは中身のない右袖を風で揺らしながら、小さく頭を下げた。
「本当ならば拍手の一つでも送りたい所なのですが――生憎、片腕がないもので。申し訳ありません」
「……読めてきたぞ。ギャリッドは、囮――いや、捨て駒だったんだな、ハロン」
ティリアムは、謀られた悔しさに顔を歪めながら言った。
肯定するように、ハロンが笑う。
「そんな所です。しかし、本当に殺られてしまうとは……改めて賛辞を送らせてもらいますよ、ウォーレンス」
言いながらハロンは、左手で背後に隠していた物を取り出した。
それは美麗な装飾が施された、硝子のように透き通った刀身を持つ宝剣だ。
どことなく、オーシャが《白光の翼》に目覚めたときに見た《神槍》と似た印象を受けた。
「あれは!?」
「……見つかってしまったか」
フィーマルが驚愕の声を上げ、その隣でレルードが落胆した口調で呟いた。
ハロンは、満足気に微笑む。
「しかし、目的の物は頂きました。ギャリッドは魔法の力を得たとはいえ、少々格が落ちる男。そんな者なりに、一応、役には立ってくれたようです」
「お前らしいやり口だな。反吐が出る」
ティリアムは、大剣を杖代わりして立ち上がる。
しかし、疲労の色は隠しきれず、オーシャが慌ててふらつく身体を支えた。
「無理はしない方が良いですよ。……もう、《デモン》化も解けているじゃないですか」
ハロンの指摘通り、すでにティリアムの瞳は、いつもの黒瞳に戻ってしまっていた。
ギャリッドとの戦闘による疲労や怪我の影響もあったが、それ以上に《紅》を使った反動が身体に甚大な損傷を与えている。本来なら、戦う事など出来るような状態ではない。
「心配無用だ。お前だって、その片腕の借りを返したいんじゃないのか?」
ティリアムが挑発的に言った。
だが、ハロンは、それに乗る事なく肩を竦める。
「腕を失ったのは、私が不甲斐なかったせいです。それを恨みになど思っていませんよ。むしろ好敵手を得られた事は喜ばしい事です」
「こっちは、全然嬉しかないがな」
挑発を余裕を持って受け流すハロンに、ティリアムが苛立たしげに吐き捨てた。
「とにかく、こちらは貴方達と戦うつもりはありません。今、最優先なのは、この宝剣を持ち帰る事ですからね
……ですが、一方的に物を頂くのは性に合いませんし――代わりに、これを差し上げましょうか」
「なんだ、あれは? ……種、か?」
呟いたのは、ジョアンだ。
彼の言う通り、宝剣を腰に下げ、ハロンが懐から取り出したのは、小指の先ほどの大きさの黒い種のような物体だった。
「貴様、ふざけるなよ! さっさと国宝を返してもらおうか!」
フィーマルが、怒気を含んだ声で叫ぶ。
ハロンは、それは心外だと言わんばかりの表情になる。
「いえいえ、ふざけてなどいませんよ。この種は、本当に貴重な物なのです。……なにせ《エンジェル》達が、その知識の粋を結集して作った物なのですから」
「……《エンジェル》」
オーシャが複雑な表情を浮かべながら、自分の胸に片手を添えた。
「一体、それが何だっていうんだ」
ティリアムが、その場にいる者、全員が感じているだろう疑問を代弁するように訊いた。
ハロンがそれに応えて、先を告げる。
「これはね、《デモン・ティーア》の素なのですよ」
誰もが、の言葉の意味をすぐに理解出来ず、怪訝となる。
少しの静寂の後に、オーシャが震えた声で呟いた。
「まさ、か――《デモン・ティーア》は、《エンジェル》が生み出した……?!」
「御名答。もともと《デモン・ティーア》は、かつて彼らが滅びる原因となった戦乱の際に、敵対する者達を抹殺するための生物兵器として生み出された存在なのですよ」
「……なるほど、《裏切りの贖罪》か」
ティリアムが、その戦争の名を口にした。
七百年前。
ドルガ大陸全土は、《世界王》(と呼ばれた《エンジェル》の王により、一つの国に統一されたと言われている。そして、それから数年は、世界は平和な日々が続いたのだ。
しかし、突如として《ヴェルト・ケーニヒ》は、人間、《デモンズ》、そして、同じ種族であっても自分に従わぬ一部の《エンジェル》――それら全てを敵に回して、世界そのもの滅ぼすための戦いを引き起こした。
それが、《裏切りの贖罪》。
結局、対抗勢力により、《ヴェルト・ケーニヒ》の目的は阻まれたが、その代償として、史実上では、《エンジェル》と《デモンズ》の二種族は、絶滅の道を歩んだ事になっている。
ただ実際は、ティリアムという《デモンズ》の生き残りが居たわけなのだが。
「この種を埋め込まれた生物は、中に封じられた力に支配される代わりに驚異的な能力を得ます。ただし、同時にその意思と知能も奪われ、人肉を貪るだけの化け物となってしまいますがね。……今、大陸中に生息する《デモン・ティーア》は、《裏切りの贖罪》の終結後に、生き残ったものが野生化したものでしょう」
嫌悪感を覚えつつ、ティリアムはハロンの手にする種を見つめた。
途端、目の前がぐらりと歪んだ。
(……何、だ? 妙な感覚が)
思わず眉間を押さえる。
その様子をハロンが意味ありげな目で見ていた。
「実を言いますと、この種は、《ヴェルト・ケーニヒ》が率いる《エンジェル》が、《デモンズ》達を半ば全滅させた後に生み出した物なのです。これが何を意味するか――貴方達はわかりますか?」
誰もその問いに答えられずに沈黙する。
それを確認して、ハロンは、静かな声音で続きを口にした。
「……この種はね。《デモンズ》の血肉を材料に作られているのですよ。ウォーレンス、貴方のお仲間達のね」
「…………っ!」
ティリアムは、ハロンの一言の衝撃に目を見張り、再び種を凝視した。
それだけでは、ハロンの言葉が真実かどうかは伺い知る事は出来ない。
だが、先ほど感じた妙な感覚が、頭ごなしに否定させてくれなかった。
「さて、説明はそんなところですかね。では、さっそくこの種を差し上げる事にしましょうか」
ハロンから語られた話の衝撃に、誰もが呆然と固まっていた。
だから、咄嗟に彼の口にした言葉の意味を察する事が出来た者はいなかったのだ。
ハロンが種を左手の指で弾いた。
ただ、それだけの事で種は、銃弾を凌駕するような速度で空を裂いて飛ぶ。
反応出来ない騎士達の間を抜け、一人の人物の胸へとそれは突き刺さった。
「ぐ……がっ!?」
ティリアムが、彼の名を叫んだ。
「――フィーマル!」
「うがあああああああああっ!」
獲物に食らいついた種は、凄まじい速度でフィーマルを侵食していった。全身の筋肉が急激に膨張し、身体が二回り近く大きくなる。盛り上がった額からは一本の角が飛び出し、爪と牙が伸びて、鋭く尖った。その目からは、理性の光が急速に失われていく。
「……そんな……こんな事って……」
オーシャが目の前の光景を受け入れられないのか、茫然自失に呻く。
「ハロン、お前――っ!」
ティリアムは、先ほどまでの衝撃を吹き飛ばす激情に身を震わせながら、ハロンを怒りの眼差しで貫いた。
「さあ、どうします、ウォーレンス? 彼を殺しますか? それとも、友を殺める事が出来ないと、自分が殺されますか?」
左手を掲げながら、ハロンが問う。
「黙りやが……!」
「! 危ない!」
我に返ったオーシャの警告の声に、ティリアムが振り向いた瞬間。
凄まじい衝撃を受けて、身体が宙を舞う。手から離れた大剣は地面に突き立き、すぐ後に、ティリアム自身も大地に叩きつけられた。
走る激痛に視界が白く染まり、衝撃で一瞬息が出来なくなる。
「がはっ――っ――あ――っ!」
「ティル!」
倒れたティリアムに、オーシャが駆け寄る。
ティリアムを殴り飛ばしたフィーマルは、天に向けて激しく咆哮する。それはまるで自己を失う苦痛の悲鳴のようだった。
「メイリー! フィーマルがっ! フィーマルがあっ!」
「…………エルリア様」
錯乱したように叫ぶエルリアを、メイリーはただ強く抱きしめる。
レルードやジョアン、他の騎士達もどうする事も出来ず、衝撃でただ愕然としていた。
「……さて、私はそろそろ帰らせてもらう事にしましょうか」
自身の行為の結果には興味がないのか、ハロンが平然と身を翻す。
「……こ、のっ……待ち、やがれ……!」
ティリアムは、オーシャの魔法の治療で、なんとか動けるようになった身体を持ち上げた。
ハロンは、そちらに顔だけ向けると、穏やかに微笑んだ。
「出来れば、こんな所で死なないで下さい、ウォーレンス。貴方と再び刃を交える事は、私にとっての数少ない楽しみの一つなのですから。――それと、オーシャ」
名を呼ばれて、オーシャがはっと顔を上げる。
ハロンは、手にした宝剣の切っ先を彼女へと向けた。
「この剣は、計画が滞りなく進めば、いずれ貴女の胸に突き立つ物。それを覚悟しておく事ですね」
「私、に……?」
その意味を理解出来ず、オーシャが眉根を寄せる。
しかし、それ以上は何も告げず、ハロンは背中に《蒼雷の翼》を出現させた。
「では、また」
別れの言葉と共にハロンの足元に魔法陣が浮かび上がり、次の瞬間には、彼の姿は消え去る。
「くそっ……!」
ダランに続いて、再び逃げられた事に、ティリアムが悔しげに唸る。そして、傷ついた身体を叱咤して、地面に突き立った大剣の元へと向かうと、それを引き抜いた。
「……ティル、私達は、どうすればいいの?」
「…………」
オーシャの苦悩に揺れる問いに、ティリアムは答えられなかった。
フィーマルは、まだ完全に《デモン・ティーア》化出来ていないのか、両腕で自らを抱くようにしたまま、咆哮を続けていた。
(解決策はある。だが、それは……)
そのとき。
「……コロ……シ……テ……クレ……」
突如、咆哮をやめたフィーマルが、消え入るような声で呟いた。
ティリアムを含めた、周囲の者達が信じられないものを見るように、フィーマルを一斉に見つめる。
その声は、間違いなく人であったときの彼の声そのものだったのだ。
さらに、懇願の言葉は続く。
「……タ……ノム……コロ……シテ……」
「フィーマル……」
ティリアムの剣の柄を掴む手が、溢れる感情を表すように強くなり、指の隙間から血が滴り落ちた。
(わかったよ、フィーマル。お前の望み通りに……してやる)
双眸に決意の光を宿したティリアムは、無言で大剣を構えた。視線は迷いなくフィーマルへと向けられている。
オーシャがそれに気づき、両手を広げて、ティリアムの前に立ちはだかった。
「ティル、駄目だよ! あれはフィーマルさんなんだよ! 殺しちゃ駄目!」
「……あいつが望んでいるんだ」
出来る限り感情を押し殺した声でティリアムが言った。
しかし、抑えきれないものが、その声を僅かに震わせる。
「でも、もしかしたら助かる方法があるかもしれない! 諦めちゃ駄目!」
「退くんだ、オーシャ」
ティリアムは厳しく言い放ち、片手でオーシャを押しのけると前へと進み出た。
「駄目! ティル!」
再び止めに入ろうとするオーシャの肩を、レルードが優しく掴んだ。
「レ、レルード陛下? そ、そうだ、陛下も止めて……!」
「ティリアム、頼む。フィーマルを楽にしてやってくれ。それが出来るのは、この中では、おそらく君だけだ」
「…………!」
レルードの言葉が信じられないのか、オーシャは目を見開いて愕然と立ち尽くす。
続いて、レルードの傍らのジョアンが決然とした声で言った。
「……私からも頼む。フィーマルの友の一人として、これ以上、あいつのあんな姿は見るのは耐えられん」
「……そん、な……なん、で……」
オーシャが、ぼろぼろと涙を流しながら、がくりと座り込んだ。
向こうでエルリアも、メイリーの胸に顔をうずめて泣いていた。
「僕もフィーマルの死を望んでいるわけじゃない。だが、こうなってしまった以上、僕達に出来るのは、彼の望みを叶えてやる事しかないんだ。……わかってくれるね、オーシャ」
レルードは、オーシャの前に跪くと、優しく、だが悲哀に満ちた声で諭すように言った。
ジョアンも耐えるように肩を震わせていた。感情を抑えるために噛んでいた下唇が切れ、口元から血がつっと流れる。
「…………」
そんなやり取りを見届けて、ティリアムは再び大剣を構える。
「フィーマル、お前の命、俺が背負ってやる。だから――」
身体は万全とは、程遠い状態だ。
だが、やらねばならなかった。
――彼の、最後の想いに応えるために。
「安心して眠れ」
ティリアムの瞳が、再び紅く染まった。
同時に、レルードが高らかに叫ぶ。
「我がシーナの騎士達よ! 国王レルード・ヴェルアンの名の下に命ず! 我が国のために生きた、誇り高き近衛騎士団団長フィーマル・ハ−ドナーの最後の姿、しかと見届けよ!」
それに従い、ジョアンと騎士達は、一斉に鞘から剣を抜くと、それを天に向けて真っ直ぐと掲げる。彼らの視線は、全てフィーマルへと向けられていた。
彼の最後の姿を――その目に焼きつけるために。
ティリアムが、フィーマルの元へと駆ける。
フィーマルの方も、自分に向かって来る人間を、《デモン・ティーア》の本能のままに敵と判断したのか、すかさず攻撃に移る。
途端、無造作で荒い、ただ殴りつける攻撃の連続が襲ってくる。
それを剣で受ける度に、ティリアムの腕が強烈な衝撃に軋んだ。
(……このままじゃ押し切られる……!)
不利を悟ったティリアムは、相手の振り下ろしの一撃を脇に転がって避けると、その場で跳躍した。そして、空中で銃を抜くと、真下のフィーマルの両手両足を正確に打ち抜いた。
「がああああああ!」
フィーマルが苦悶の声を上げ、一瞬、その動きが止まる。
その隙を狙って、ティリアムは落下の勢いを乗せた大剣の一撃を、フィーマルの肩口を狙って振り下ろした。
瞬間、横手から豪風が迫る。
フィーマルの薙ぎ払う一撃が、斬撃が到達する前に、ティリアムを吹き飛ばした。
「っ――――がっ!」
そのまま地面に身体を叩きつけられ、勢いのまま転がる。
だが、ティリアムは、地に大剣を突き刺し、なんとか踏みとどまった。
苦痛を無視し、飛びそうな意識を強引に繋ぎ止める。
「まだ、だっ!」
素早く起き上がろうとするが、限界を超えて酷使している身体は、ついに言う事を利かなくなる。
「……くそっ!」
そこに、容赦なくフィーマルが襲い掛かった。
「いかん!」
危険を省みず、ジョアンが加勢に向かおうとする。
だが、フィーマルが片腕を振って起こした粉塵と突風により、それは阻まれてしまう。
「ぐう! ティル、逃げろ!」
フィーマルは、膝を突いたティリアムの前まで到達すると、大きく腕を振りかぶった。
オーシャが叫ぶ。
「駄目ぇっ――!」
練兵場に、肉を貫く音が響いた。
ぼたぼたと血が地面で跳ねる。
異形へと変貌したフィーマルの身体がぐらりと揺れた。
フィーマルの爪は、ティリアムのすぐ脇の地面に突き刺さり、それと交差するように大剣の刃がフィーマルの左胸に突き刺さっていた。
「――じゃあな、フィーマル……」
ティリアムの口から悲痛な響きを持った声がこぼれる。
剣はゆっくりと引き抜かれ、フィーマルの身体は糸の切れた操り人形のように、隣に崩れ落ちた。
その刹那。
ティリアムが、大きく目を見開いた。
確かに、その呟きはフィーマルの声で。
確かに、ティリアムの耳へと届いたのだ。
ただ一言、
――礼を言う。
と。
とても安らかで――深い感謝に満ちた声だった。
「……ああ、気にするな」
ティリアムは静かに目を閉じると、小さく応えた。
「――オーシャ」
「……何?」
オーシャが、弱々しく返事をする。
「フィーマルを魔法で――あの姿のままで居るのは、悲し過ぎるから」
その頼みに、オーシャは最初こそ躊躇していたが、すぐに決意を瞳に宿らせて、手の甲で涙を拭った。
「……うん、わかった」
オーシャは、フィーマルの傍まで来ると跪き、彼の身体にそっと優しく両手で触れた。
同時に、背中の翼が輝いた。
白くて、美しくて、優しくて……深い悲しみに満ちた光で。
オーシャの手からも光が生まれると、そのままフィーマルの全身を包んでいく。
すると、彼の身体そのものも少しずつへ光へと変化していく。そして、完全に変化を終えると、無数の光の粒に分かれ、空へと舞っていった。
それは、まるで、フィーマルの魂が天に帰っていくかのようだった。
騎士達が掲げた剣を、天に向かって真っ直ぐと突き上げる。光の粒となって、天へと昇っていくフィーマルを導くように。
メイリーとエルリアは涙を流しながら、レルードとジョアンは瞬き一つせず、それを見送っていた。
「こんな……」
オーシャが、不意に呟いた。
座り込んだままのティリアムは、そちらに顔を向ける。
一度止まったはずの涙は、再び彼女の頬を伝っていた。
「……こんな力を持っていても、私は何も出来なかった……フィーマルさんを助けられなかった……」
「オーシャ……」
「……私は……私は……なんて無力なの……!」
それは、この場に居る全ての人間が感じている無念の思いなのかもしれない。
悲しみに暮れる人々の心とは対照的に、青く澄みきった空は、光の粒を優しく抱くように受け止めていた。
「葬儀には、やはり来なかったのだな」
城の廊下の壁に背を預け、傍らの窓から外を眺めていたティリアムに声掛けたのは、葬儀用の黒い制服に身を包んだジョアンだった。
フィーマルの死から、もう一週間が過ぎている。
練兵場の片付けと修復も一段落し、今日は、先日の戦いで死んでいった者達のための葬儀が執り行われていた。
ティリアムは、感情を押し殺した顔で、窓の外からジョアンへと視線を移す。
「……国宝は守れなかったし、何より、俺はフィーマルの命を奪った張本人だ。どの顔を下げて、葬儀に参加しろっていうんだ」
「この城に、それを咎める者はおらんよ。少なくとも、あの場に居た者なら間違いなくな」
ティリアムは、顔を窓の方へと戻す。
「それでも、だ。けじめみたいなもんだよ。それに俺が行ったって、あいつが喜ぶとは思えないしな」
ジョアンが寂しげに笑む。
「……あいつは、素直ではなかったからな」
ジョアンは、ティリアムと同じように、窓の外へと目を向ける。
外では、朝からずっと降り続いている小雨が窓を叩いていた。
「私はな、ティル。フィーマルに、ずっと所帯を持つように言っていたのだ。『もう、お前も、いい年なのだから』と」
「…………」
ティリアムは無言だ。
ジョアンも、何か応えを期待してわけではなかったのか、そのまま続ける。
「だが、今は、あいつに妻や子がいなくて良かったと思ってしまうのだよ」
「……どうしてだ?」
外を見つめたまま、ティリアムは訊く。
「家族が多くなれば、あいつの死を悲しむ人間もまた多くなる。それを見るのは、また辛いものだ」
「…………」
「だが、それもまた皮肉だと思うのだよ。フィーマルの事を知っている者は、その死を悲しんでくれるだろう。だが、これから出会うはずだったかもしれない者達は、もうフィーマルと出会う事はない。それどころか、あいつの存在を知る事もなく、あいつの死を悲しむ事もなく、いつも通りの毎日を生きていくのだから」
ジョアンは、自嘲気味に力なく笑った。
「そんな事、考えるだけ無駄とわかっているのに――親しい者が逝く度に、このような思考に囚われてしまう。我ながら愚かな話だな」
「……こうやって俺とあんたが話している間にも、世界中、嫌になるほどの数の人間が様々な理由で死んでいってる。だが、それら全てをいちいち悲しんでやれるほど、人の一生に余裕はない。だから、フィーマルの事を知ってる人間だけでも精一杯悲しんで、あいつの分まで生きてやる。――きっと、それで良いんだよ」
ティリアムの答えに、ジョアンは目を丸くした後――苦笑した。
「お前らしい考え方だな」
「俺らしい、ね……」
特に感慨も無くティリアムは、そう呟いた。
話が一段落したところで、ジョアンが目を伏せた。
「……すまんな。こんな話でもして気持ち紛らわさんと、心の平静も保てない私を笑ってくれて良い」
「……笑いは、しないさ」
ティリアムは、一言、そう呟いただけだった。
礼のようにジョアンは小さく頭を下げると、そのまま廊下を歩いて行き――その背中に、ティリアムが声をかけた。
「ジョアン――あんたは俺を恨むか?」
ジョアンの歩みが止まる。
僅かな沈黙の後に、初老の騎士は震える声で答えた。
「恨むわけがないだろう。むしろお前には感謝と――深く陳謝をしたい。また一つ、お前に重いものを背負わせてしまった」
ティリアムが、苦笑する。
「慣れてるさ」
「…………」
ジョアンは何かに耐えるように下唇を強く噛むと、今度こそ去っていった。
それと入れ替わるようにオーシャが姿を見せる。
まだ窓の外を見ていたティリアムは、気配でそれに気づき、驚いた顔で振り向いた。
「……オーシャ」
オーシャは、ここの所部屋にこもりきりで、食事もろくに取っていなかったのだ。
久々に見た彼女の目は、赤く腫れていた。
もしかしたら部屋の中で、ずっと泣きはらしていたのかもしれない。
「もう……大丈夫なのか?」
「……うん。少しは心の整理もついたから」
オーシャは弱々しいながらも、微笑んで見せた。
ティリアムも安堵して、笑みを浮かべる。
「ティルは……大丈夫なの?」
そう訊かれ、思わずティリアムは顔を逸らした。
「――ああ。大丈夫だ。もう一週間だぞ。俺だって、心の整理ぐらい出来る」
だが、オーシャは続けて訊いた。
「辛いの?」
「……そんな事ない」
ティリアムは、それでも何でもないように否定する。
だが、近寄って来たオーシャに真っ直ぐ目を覗き込こまれると、動揺で瞳を揺らめかせた。
「ティル……」
優しく、静かな口調でオーシャが名を呼んでくる。
ティリアムの動揺は、さらに大きくなった。
「良いんだよ。辛くて、悲くて、どうしようもないときは、我慢しなくても。ティルだって――生きているんだもの」
「――――っ!」
途端、溢れた涙が頬を伝った。抑えていたはずの感情は、栓が抜けたようにどっと吹き出していく。
「……うっ……あ……あああああああああああああっ!」
オーシャに縋りつくと、ティリアムは号泣した。
それを、オーシャは優しく受け入れる。
フィーマルの死によって、深く傷ついたティリアムの心。
誰にも見せまいとしていたそれを、今、彼は晒していた。晒さずにはいられなかった。
「……うん、今は泣こう。私達は、まだ戦っていかなきゃならないんだもの」
オーシャが静かな口調で、決意を口にする。
「だから、私も強くなる。ティルの背負っているものを、少しでも一緒に支えてあげられるくらいに……」
溢れる涙は、その後もいつまでも止まる事はなかった。 |