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エンジェル 二章

血と罪と鬼人


―― 五 ――

 その男は、明らかに目立っていた。
 王都エクスの大広場の中央に設置された巨大な噴水。
 その脇に置かれたベンチにどっかりと腰を掛けている。
 派手な赤毛の頭に、ラフな服装。
 首や腕には、銀のアクセサリーをジャラジャラとぶら下げていた。
 それが男の目立つ理由かと言えば、もちろん原因の一つである事は間違いないだろう。
 しかし、もっと大きな原因と言えるものがあった。
 それは――男の放つ空気だ。
 男の全身から滲み出る、ひどく危険な空気に、傍を通りがかる人々は目を逸らし、慌てて距離を取っていた。
 そんな中、一人の人物がベンチに近寄ってくる。
 赤毛の男とは対照的に、落ち着いた服装と雰囲気の枯草色の髪の男である。薄蒼の双眸に静繼な光を宿し、その右腕は肘から下が失われていた。
 隻腕の男は、赤毛の男が座っているベンチの前まで来ると、無言で隣に腰を下ろした。
 赤毛の男は、にやっと口を笑みで歪める。
「よぉ、ハロン。どうだった、首尾の方は?」
「……失敗です。しかも、奪還に向かった《黒き者》シュヴァルツァーは全滅しました」
 さも愉しげに、赤毛の男が笑う。
「ああ、そうだろうよ。なんせ、お前の右腕を奪った男が居るんじゃなぁ」
 隻腕の男――ハロン・イヴシェナーは、赤毛の男の皮肉にも特に表情を変えず、今はない右腕を一瞥した。
 やはり、そこに特別な感情はない。ただ、それが失われたという事実のみを見ているだけだ。
「《デモン》が、王城に居たのは予定外だったんです。そうでなければ――」
「なくても同じだろ」
 赤毛の男は、ハロンの言葉を遮ると、嘲った口調で続けた。
「所詮、力を得る資格も持たない屑共だ。何も出来はしないんだよ。事実、一回目の襲撃も失敗してるだろうが」
「…………」
 ハロンは肯定も否定もせず、横目で赤毛の男を見る。その目には、僅かにだが咎める雰囲気があった。
 だが、赤毛の男は気づいた風もなく、右手の指を動かし、ゴキゴキと骨を鳴らした。
「まあ、おかげで、久々に気がねなく暴れられる機会をもらえたんだ。《デモン》さまさまだなぁ、おい」
「本来なら、我々が動く事は好ましくないんですよ。翼の力は目立ちますからね」 
 ハロンの言に、赤毛の男は馬鹿にするように鼻を鳴らした。
「以前、《デモン・ティーア》の群れに、街一つ襲わせた奴が、よく言うもんだ」
「あの時は、ああするのが一番、効率が良かったからです。それに、《デモン・ティーア》の襲撃だけなら、我々の仕業だとは分からないでしょう?」
「けっ、ものは言いようだな」
 二度目の皮肉をあっさり切り返され、赤毛の男は苛立ち混じりにそう吐き捨てると、ベンチから腰を上げた。
「それで、俺達が動くのはいつだ?」
「二日後です」
 赤毛の男は満足気に頷くと、その顔に殺意で彩った笑みを浮かべた。
「《デモン》、か……。しっかり、味わわせてもらうぜ」
 聞いた者の背筋を凍らせるような笑いをこぼしながら、赤毛の男が歩き出す。
 その背中に、ハロンが声をかけた。
「どこに行くのですか?」
「メインディッシュの前には、前菜を。……基本だろ?」
 振り返りもせず、笑いの混じった声で返すと、赤毛の男は人ごみの中へと消えていった。
 彼が、どんな顔をしていたのか。
 それを予想するのは、さほど難しい事ではない。
(およそ人の想像する快楽殺人者の顔――そのものなのでしょうね)
 ハロンには、赤毛の男が、この後、何をしようしているのかは、簡単に想像がついた。
 だが、別に止めようとは思わない。
 嫌悪感はあるが――それだけだ。
 止める義理も正義感もない。
 一応、理由ならばあったかもしれないが、それも、たいした問題とは思えなかった。
 放置すればいい。
 そう結論する。
 ベンチに腰掛け、赤毛の男の去った方を眺めたまま、ハロンは、ふと妙な思いに駆られた。
(……もしも、世の宗教家が言うように、神が誰に対しても平等で慈悲深いものであるならば――何故、あのような男に力を与える運命を定めたのか……)
 そこまで考えてから、ハロンは自嘲の笑みを浮かべ、自らの考えを否定するために頭を振った。
(無意味でしたね。神の慈悲を信じぬ者が、そんな問いに答えを求めても)
 続くも思いは、自然に言葉として口に出ていた。
「そう、無意味。慈悲深き神など、この世界の冷酷さを知らぬものが口にする虚言です。貴方もそう思うでしょう――ティリアム・ウォーレンス?」
 この場に居ない者への静かな問いかけは、底知れぬこの世への憎しみを宿らせている。
 しかし、それは噴水の水音にかき消されたまま、誰にも届く事はなかったのだった。


「……自分の目を疑いたくなるとは、この事なんだろうね」
 レルードは感嘆と驚愕の声を漏らしながら、オーシャを眺めていた。
 他の者達などは唖然としたまま、声さえ出せていない。
 今、オーシャの背中には《白光の翼》があり、髪と瞳も白銀に変化していた。
 会議室に集まったレルード達の前で、ティリアムが「魔法の事を信じさせるなら、こうするのが手っ取り早い」と、オーシャに翼を出させたのだ。
「これでわかったろ。俺の言ってる事が本当だってな。《デンメルング》ってのは、こんな力を持った奴らの居る組織だ」
「できれば、否定したい所だけど、そうもいかないか……」
 レルードは、厳しい表情で言った。
 背後に控えるフィーマルとジョアンも神妙な面持ちだ。
 彼らからすれば、昨日までは伝説とさえ思っていた《エンジェル》の存在。
 その力を手にした少女が、まさに今、目の前に居る。しかも、それと同じ力を持つ者達こそが、これから相対する敵かもしれないと知ったのだから、無理はなかった。
「毒で自殺した襲撃者の言い残した、“あの方達”ってのは、言い方からして、ほぼ間違い無く《フリューゲル》を埋め込まれて、魔法の力を操る連中の事だろう」
「……そんなに凄いのかい、魔法の力とは?」
「たぶん、やりようによっては、この城の騎士が束になって掛かっていった所で瞬殺できると思う」
 レルードの問いに、ティリアムは嘲るでもなく、淡々とした口調で答えた。
 それを聞いて、憤ったフィーマルが、ずいっと前に出てくる。
「聞き捨てならんな。《フリューゲル》だかなんだか知らないが、それほど力があるとは思えん」
「信じるか、信じないかは、お前達の勝手だ。俺は事実を口にしているだけからな。――ただし、これが真実だったときに後悔するのは、間違いなくお前と部下の騎士達だ」
 フィーマルは悔しげに唸るものの、それ以上は何も言い返せなかった。
 それほどティリアムの口調には、有無を言わせない強いものがあったのだ。
 レルードが、小さく笑った。
「最初の事件のときから、ただの襲撃者じゃないと思っていたんだ。それで、念のために君達を雇ったんだが――どうやら正解だったようだね」
「……しかし、どのように迎え撃ちましょう? 敵がそれほど強大な力を持っているのなら、下手に手を出せば、こちらの被害が悪戯に増えるだけです」
 進言したのは、ジョアンだ。
 続いてフィーマルが口を挟む。
「ジョアン様、こちらにも同じ魔法の力を持った者が居るのですよ。ならば――」
「駄目だ」
「……何?」
 自分の意見を、いきなり否定されたフィーマルが、怪訝な顔をティリアムへ向けた。
「こいつには戦わせない」
 オーシャが驚いた顔でティリアムの方を見た。
 再び憤ったフィーマルは、
「何を言っている!? 対抗できる力を持っている者が居るのな、ら……」
 と、そこまで言ってから、急に口を噤んだ。
 ティリアムが、怒りを込めた鋭い眼差しを向けてきたからだ。
「オーシャはほんの数ヶ月前までは、戦いなんかにはまったく縁のない人間だったんだ。それなのに、お前は力を持っているという理由だけで、こいつに戦場に出ろと言うのか? 《フリューゲル》だって、好きで埋め込まれたわけじゃないんだぞ」
「…………」
「ティル……」
 さすがのフィーマルも押し黙り、オーシャは苦悩の表情を浮かべる。
 会議室に沈黙が落ちる。
 しばらくしてそれを破ったのは、レルードだった。
「……まあ、それなら彼女に戦わせるのは酷だね。しかし、彼女の力を借りずに僕達に勝てる道があると、ティリアムは思っているのかい?」
「――絶対に勝てるという保障ない。ただ、この状況で一番、妥当な戦い方の考えならある」
 怒りの表情をかき消し、皮肉めいた笑みを浮かべながらティリアムは続けた。
「奴らに屈して国宝を渡す気がないのなら――話してやるさ」


「ティル!」
 会議を終え、ティリアムが部屋に戻るために廊下を歩いていると、オーシャが後ろから追いかけて来た。
 立ち止まると、何事かと振り向く。
「……どうした?」
 訊かれて、最初は逡巡していたオーシャだが――意を決したように言った。
「どうしても、私は一緒に戦えないの?」
 ティリアムの顔つきが険しくなる。
「その話は、もうさっきしたろ」
 冷たく言い放つが、オーシャは自分が溜めていた想いを吐き出すように、声を大きくする。
「さっきは私の事を考えてくれたから、あんな事を言ってくれたんだと思う。でも、魔法の恐ろしさは、この城に居る誰よりも、同じ力を持つ私がわかってるんだよ。普通の人達が戦って無事に済む相手じゃないの。だからこそ、私が少しでも……!」
「駄目なんだよ」
「え?」
 厳しい眼差しを送りながら、ティリアムは、オーシャの言葉を遮った。
「オーシャには、戦いは無理だ」
「どうして!」
 ティリアムの右手が霞む。
 次の瞬間には黒光りする銃口が、オーシャを否定を真っ直ぐ捉えていた。
 オーシャは、ごくりと唾を飲み込み、硬直する。
「敵は邪魔をする俺達を当然殺すつもりで来る。躊躇なんか一切無いだろう。そして、俺達だって相手を殺す覚悟で戦う。そうしなきゃこちらが殺られるだけだし、守りたいものだって守れない。……だが、お前は、何かを守るために敵を殺める事が出来るのか?」
「そ、それは……」
 銃口と共に、厳しい現実を突きつけられて、オーシャは何も言い返せず口ごもってしまう。
 向けられた銃口は自身と――そして、相手の死を連想させるには十分過ぎるのだろう。
「その躊躇いは、必ずお前自身の死に繋がる。諦めるんだ」
 ティリアムは銃を腰のホルスターにしまうと、踵を返して、再び廊下を歩き出す。そして、数歩だけ歩いてまた足を止めると、呟くような声で言った。
「それに、俺は……お前に人を殺めて欲しくないんだ」
「…………」
 無言でオーシャが俯く。
 だが、すぐに思い直したように、顔を上げた。
「確かに私には、例え相手が敵でも人を殺す覚悟はないかもしれない。でも! それでも! 誰かが死んでしまうかもしれないのに、じっと待ってるだけなんて出来ないの! だから……だから……お願い、ティル……」
「…………」
 静寂が、その場を支配する。
 その間、オーシャの懇願の眼差しが、ずっと背中に向けられ続けているのを、ティリアムは感じ取っていた。
 ティリアムは何かに耐えるように固く目を閉じ、
「…………レルードの傍で魔法の援護をするだけだ。それ以外は、一切手を出すなよ」
 振り向かず、静かな口調でそう告げた。
 そして、すぐに歩みを再開し、角を曲がる瞬間。
「――ありがとう、それと……ごめんね、ティル」
 オーシャの呟きが微かに、耳朶を叩いた。
 自分の部屋に戻ったティリアムは、扉に背中を預ける。そして、自らの苦悩を表すように、いつの間にか強く握られていた拳を見つめた。
(……人を殺して欲しくない、か。底なしの馬鹿だな、俺は)
 ゆっくり開いた掌には、当然何もない。
 だが、ティリアムには一瞬、その手が血に塗れているように見えた。
 ぎりっと歯を強く噛み合わせる。
(このまま、この道を進み続けるのならば、いずれあいつは……覚悟しなきゃならない)
 ティリアムは、神に定められた運命など信じていない。
 だが、もしも本当に人に運命というものがあり、それを神が定めるというのならば――
 そんな無慈悲な神を、心底呪いたい気分だった。
 ――偶然だったのか、それとも必然だったのか。
 それは、まるで。
 ハロンの答えを求めぬ問いに応えているかのようだった。
 彼の言う通り、世界は冷酷で。
 神とは無慈悲なものなのだ、と。


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