エンジェル 一章
翼持つ者
―― 五 ――
先に動いたのは、ティリアムだった。
ハロンとの間合いを一足で詰める。
同時に全力で振り下ろした大剣はその重量も合わせて、凶悪な威力で牙を剥く。
爆砕。
刃は何も捉えられず、石畳だけを粉砕していた。
破壊の跡から僅かに横に逸れた場所に、大剣に沿う様に刀を斜めに掲げたハロンが居た。
彼は一撃を止めるのではなく、刀で受け流す事で回避したのだ。
「ふっ――!」
次の瞬間、ハロンは、ティリアムの懐へと一気に踏み込んで来た。
速く、そして鋭い。
刀が、こちらの首を狙って一閃される。
「くっ!」
咄嗟に、後方に跳んで回避。
僅かに掠めた刃が、首に赤い流れを作った。
そのたった一度の――一瞬の攻防でティリアムは理解する。
(こいつ――強い……!)
さらに次々と斬り込んで来る刃をティリアムは、必死に剣で弾き、捌いていく。
大剣は破壊力とリーチがある分、懐に入り込まれるとまともに振るう事が出来なくなる。故に、距離を空けなければ、こちらは防御に回る以外にない。
一瞬の間隙に狙って、ティリアムはさらに後ろに大きく跳躍。
それと同時に力任せに剣を横殴りにした。
不安定な体勢の腰の入ってない一撃。
しかし、剣自体に重量があるので、切れ味を重視した細い刃を持つ刀を得物にするハロンは、まともに受ける事は出来ない。
結果、青年の足が一瞬だけ止まる。
ティリアムは、そこを逃さない。
後方に流れる身体を無理矢理に押し止め、渾身を蹴りを相手の腹部へと叩き込む。
まともに入れば、内臓破裂は免れない威力。
「ぐうっ!」
だが、ハロンは刀の腹でそれを受け止めると同時に後ろに飛び、衝撃を受け流した。
間合いが離れた。
すかさずティリアムは大剣を横薙ぎに送り込む。
刹那、青年の身体が沈んだ。
斬撃は彼の頭上で空を斬り、下の青年は両手を支点に這うように旋回、足払いを掛けてくる。
片足を取られたティリアムの体勢が崩れ、逆にハロンは素早く立ち上がった。
肩口目掛けて、真っ直ぐに振り下ろされる刃。
躱せない。躱せる体勢ではない。
「ならっ――!」
考えるより先に身体が動く。
ティリアムは、自身の頭を全力で真横の空間にぶつける。
ちょうどそこには振り下ろされていた刀の腹があった。
横手から思わぬ衝撃を受けた刃は軌道を逸らし、得物の肩を僅かに掠めるに留まる。
「! なんという!?」
予想外の回避方法に、ハロンの顔が驚愕に染まる。
その隙を逃さず、跳ねるように立ち上がったティリアムが回し蹴りを放った。
頭部を狙って来たそれをハロンは両腕で防御するが、衝撃を受け止めきれず吹っ飛ぶ。
青年の身体は受身も取れずに、路地の隅に置かれた荷物の山へと突っ込んで行った。
ティリアムは追撃のため、無残に崩れ落ちた荷物の山へと接近――
途端。
何か言い知れぬ危機感に足が止まった。
(何、だ……?)
わからない。
わからないが――何かがまずい。
そんな感覚を証明するように、いきなり目の前で、蒼い雷撃が爆裂した。
「ぐ……っ!」
飛び散る石畳の破片を両腕で防ぎながら、ティリアムは後ろに跳び退さる。
「な、何が起きたの……?」
呆然とオーシャが呟いた。
「言ったはずですよ。我々《デンメルング》は、《エンジェル》の力を手に入れた、と」
ハロンが舞い上がる粉塵の中、ゆっくりと立ち上がる。
「あれは――!?」
ティリアムは信じられない思いで目を見開いた。
ハロンの背中に翼が――あった。
紛れもない雷光を纏う輝く翼があったのだ。
「これが私の手にした力――《蒼雷の翼》です」
「あれが……翼……」
オーシャが口を両手で押さえ、震えた声を漏らした。
「この雷……。なるほどな。どうやって東門を破壊したのかずっと疑問だったが――これを使ったのか」
オーシャほどの驚きを見せずに、ティリアムが冷静に納得する。
正直内心では、オーシャに負けず劣らず驚いていたのだが、今は戦闘の最中だ。この男相手に、そんな隙など見せる気はない。
「さて、ウォーレンス。こちらも見せたのですから、そろそろそちらも見せていただけますか? そう――貴方の“力”、をね」
「…………!」
今度こそ、ティリアムは動揺を隠せなかった。
「ティルの……“力”?」
少女が、困惑した視線をティリアムに投げる。
「そこまで調べていたとはな……」
素直に感心してティリアムが目つきを険しくする。
――本当ならば、あの力は出来る限り、オーシャには隠しておきたかった。
だが。
翼を持ち、魔法を操るあの男には、確かにこのままでは勝てないだろう。
どのみち、いつかは明らかにしないいけないというのならば――
「良いだろう……ハロン。見せてやるよ。俺の“力”を」
ティリアムは、一度だけ、オーシャをそっと一瞥する。
“力”を解放した自分を見たら、彼女は自分の事をどう思うだろうか。
――自分を恐れるだろうか。
――自分を否定するだろうか。
かつての“彼ら”のように。
僅かな迷い――だが、それもすぐに捨て去る。
そんな迷いは、かつての友の死を境に、乗り越えたはずだ。
今更――躊躇うな!
ティリアムは、ゆっくりと目を閉じる。
じわり、と胸から何かが込み上げてくる。
酷く酷く冷たい、殺意。
熱く熱く荒れ狂う破壊の衝動。
それらが駆け巡る力となって、ティリアムの全身に流れていく。
彼の在り方を切り替えていく。
静かに目を開いた。
オーシャが息の呑む音が聞こえた。
何故ならばティリアムの目は、紅く染まっていたのだ。
まるで血を流し込んだかのように――紅く紅く。
「ティル……その……目は……?」
オーシャが唖然と問い掛けてくる。
「かつて――そう、七百年も昔。超常の力を有していたのは《エンジェル》だけではなかった。もう一つ力を持つ種族が居たのです。彼らの名は《鬼人族》。彼は、その唯一の生き残りなのですよ。《デモン》の二つ名は、決してその戦い振りだけからきたものではなかったのでしょうね」
ハロンが、少女の疑問に答えるように楽しげな声で説明した。
「本当、なの……?」
震える声で、オーシャは再び問い掛ける。
もう迷う事なく、ティリアムは少女を見据えた。
「――ああ、本当だ。隠していて……すまない」
「…………」
「怖いか……今の俺が?」
思わずそう聞いていた。
聞かずにはいられなかった。
そして、同時にオーシャから目を逸らしている。
そんな自分の弱さに、ティリアムは自身への嫌悪感を覚えずにはいられなかった。
――ここまで来て、自分は、まだ答えを知る事を恐れているのか。
「……怖くないよ」
囁くような声だった。
だが、その少女の言葉は、はっきりとティリアムの耳に届いたのだ。
ティリアムは、はっと顔を上げる。
視界に入った、少女の顔は優しく微笑んでいた。
紅く染まったティリアムの瞳を真っ直ぐに見つめて。
「怖いわけない……だって、ティルはティルだから。こんな私をずっと守ってくれた、守り続けてくれたティルだから――怖くなんかない」
その言葉に。
心底救われる自分を、ティリアムは確かに感じた。
だから、思わず微笑が浮かぶ。
「ありがとう……オーシャ」
ああ、これで戦える。
全力で一心に一途に。
彼女を――守るために。
ティリアムは、そのままハロンへと向き直ると、大剣を構える。
高まる闘志を感じ取ったか、ハロンも刀を水平に持ち上げた。
蒼い雷光がその刃を取り巻いていく。
「《デモンズ》は、その瞳を紅く染めるとき、まさに鬼の如き戦闘能力を発揮したと言います。さて――どれほどのものか見せてもらいましょうか」
「ああ、見せてやるよ」
ティリアムが地を蹴る。
踏み込みの力の大きさに石畳が爆砕し、その破片が後方に吹き飛んだ。
《デモンズ》本来の戦闘能力の開放――《デモン》化を果たした事で、爆発的に高められた脚力が、先ほどまでとは比べものにならない移動速度を可能にする。
「――――!」
それにハロンは反応し切れない。
だが、襲ってきた危機感が考えるよりも速く彼の身体を動かしたのか。
刀より放たれた雷撃が、距離を詰めたティリアムを襲って来る。
舌打ちしつつ、ティリアムは咄嗟に横に転がってそれを躱すと、勢いのままに立ち上がり――逆にこちらに迫るハロンの姿が視界に映った。
襲って来る雷光そのものの刀の一撃。
咄嗟に、大剣で打ち払い――
瞬間。
凄まじい衝撃が全身を襲った。
「ぐっ!? うああああああああああっ!」
それでも必死に後方に跳んで距離を取り――耐え切れずそこで膝を突いた。
全身に走る痛みが灼熱のようで、視界が明滅しながら激しく歪む。
「気をつけた方が良いですよ。雷は、金属と非常に相性が良いですから」
ハロンが、余裕に満ちた声で言う。
だが、ティリアムの接近の速さにはさすがに肝を冷やしたのだろう。
頬には一筋の汗が伝っていた。
「……ぐっ……今のは……」
ティリアムは、先ほどの出来事を思い返す。
――いや、考えるまでもない。
刀を纏った雷が大剣を通電して、ティリアムに損傷を与えたのだ。それはつまり、ハロンの攻撃は、どれ一つ剣で受ける事を考えていけないという事に他ならなかった。下手に受ければ、さっきのような強烈な雷が再び全身を襲う事になる。
「くそっ……!」
まだ痺れ痛む身体を叱咤して、立ち上がる。
幸い動きには、さほど支障はない。
基本的な身体能力では、間違いなくこっちが圧倒しているはずだ。
(受けられないなら、全部躱していく……!)
覚悟を決め、ハロンに向けて疾駆する。
気づけばハロンの周囲には、無数の雷球が浮かんでいた。
それらが、真っ直ぐに突っ込んで来るティリアムへと襲い掛かる。
あれも雷であるのならば、受けるわけにはいかない。
なんとか紙一重で回避しつつ、少しずつハロンに接近する。
だが、ハロンの方も、それでティリアムを止め切れないのは百も承知なのか、ゆっくりと頭上に刀を掲げていた。
まだ、刀の間合いには遠いはずだ。
「――――っ!!」
しかし、先ほど感じたのと同じ種類の危機感が、ティリアムの身体を反射的に横っ飛びさせていた。
刹那の後に、空気が裂ける鋭い音が耳朶に届いた。
すぐ横手を、地面を断ち切りながら研ぎ澄まされた雷刃が疾り抜けていく。
戦慄が走った。
咄嗟に躱していなければ、あの一撃は間違いなく自分を両断していただろう。
「よく躱しましたね。――ですが」
嘲るでもなく、ハロンはただ愉しげに賞賛の言葉を口にする。
そこで、ようやく気づいた。
雷刃に気を取られていた隙に、全方位を雷球で囲まれている事に。
抜け出せる場所はない。
「く――っ!」
ハロンが、合図するように指を鳴らした。
同時に周囲に浮く雷球の群れが、一斉にティリアムへと襲い掛かる。
「ティルっ!」
オーシャが悲痛な声を上げた。
「――――っ」
一か八か、ティリアムはその行動が正しいかも考える暇もなく動いていた。
蒼い爆発が巻き起こり、路地に突風が吹き荒れる。
それが収まった後、
「――逃げ延びましたか」
ハロンがぼそりと言った。
視線は、爆発によって巻き上がる粉塵と煙から、僅かに右に移動した位置へ。
そこにティリアムが苦痛で顔を歪めて、跪いていた。
全身の至る所に雷による火傷を負い、額からはぼたぼたと血を流しながらも、確かに生きている。
あの瞬間。
もはや被弾は避けられないと見て、比較的包囲の薄い場所を狙って、一点突破したのだ。
だが、その代償は見ての通りだった。
ダメージは、想像以上に甚大だ。
ティリアムは荒い息を吐き出しながら、蒼き翼を背にした男を疑念の視線で見つめた。
「どうして、ここまで私に手も足も出ないのか……そんな事を考えている顔ですね」
ハロンが、刀の腹をそっと指でなぞっていく。
「確かに、今の貴方は強い。身体能力だけを取れば、今の私とでは大きな開きがあるでしょう。しかし、貴方には魔法を扱う相手との戦闘経験が全くない。これは決して看過出来る要素ではないですよ。初見の攻撃に対しては、どんな戦い慣れた人間でも身体が一瞬竦む、どう対処すればいいかわからず判断が遅れる――これらの事が確実に私に有利に働いているのです。……戦いが切迫すればするほどにね」
――確かに、ハロンの言った事も苦戦の要素の一つだろう。
だが、それを除いても、この男は間違いなく強敵だった。
「それでも――俺は負けるわけにはいかない」
強い決意を言葉にしながら立ち上がる。
損傷した身体の不備を無視して、ティリアムは再び大剣を構える。
例え、自分が明らかに不利な立場にあるとしても、勝ち目が全くないわけではない。
(――長期戦は駄目だ。少々の被弾は覚悟で一撃で決める)
ティリアムの覚悟を見て取ったのか、ハロンの目がすっと細まる。
彼の身を包む雷も、より強さを増していく。
「行くぞ!」
再度、ハロンへの突進を開始する。
同時に、右手が腰のホルスターから銃を抜き取り、ハロンへとポイント。
全弾を迷わず連射。
銃声は六発。
その全てが雷撃に打ち落とされる。
だが、それは予測済みだ。
今さら、真正面から銃が通用するとは思ってはいない。
自分が接近するまでの時間をほん少しでも稼げれば良かった。
その考えの通り、銃弾の迎撃にハロンの意識が逸れ、こちらへの攻撃が緩まる。
全弾撃ち尽くした銃を放り投げつつ、無傷で大剣の間合いに入る事に成功。
しかし、すでにハロンは刀を振り下ろさんとしている。
先ほど地面を裂いた一撃だ。
喰らえば即死。
迫る死の運命に、冷たい悪寒が全身を走り抜ける。
(――――ここだ――――!)
ここでティリアムは、彼が《デモンズ》という事を前提を置いたとしても驚異的といえる、常人では決して不可能な動きをして見せた。
――前進の勢いを大剣を地面に突き刺す事で相殺。
――そのまま身体を捌いて雷刃を回避。
――さらに剣を引き抜きつつ、ハロンの横手を疾り抜け、後方に回り込む。
それらの全動作を、一瞬という言い方さえも陳腐に聞こえる速さでこなしたのだ。
「馬鹿、な――っ!」
刀を振り切った状態で、ハロンが愕然とする。
完璧に背後を取った。
例え、魔法を使おうとも対応は間に合わない。間に合うはずもない。
「俺の――勝ちだ!」
戦闘の終焉を告げる一撃を振り下ろそうとした――その瞬間だった。
「――――!?」
両手で掴んだ大剣の柄から、全身を軽い衝撃が襲った。
ほんの僅かな時間。
それがティリアムの動きを停滞させた。
おそらくは、最初に大剣が刀に触れたとき。
ハロンは、ティリアムの得物に雷撃を潜ませていたのだ。
そして、その刹那の隙は、この状況において致命的なものとなる。
ハロンはティリアムの一撃よりも先に、自身の掌をそっと彼の身体へと押し当てていた。
――貴方には魔法を扱う相手との戦闘経験が全くない。これは決して看過出来る要素ではないですよ。
――これらの事が確実に私に有利に働いているのです。……戦いが切迫すればするほどにね。
脳裏に蘇るのは、まさについ先ほど聞かされたばかり敵の言葉。
「惜しかったですね」
目の前が真っ白に染まり――ティリアムの意識は断絶した。
そんな――っ!
声は出なかった。
それほどの衝撃だった。
オーシャの目の前で、糸の切れた操り人形のようにティリアムは崩れ落ちていく。
慌てて駆け寄って行き、身体を揺さぶる。
触れた部分から、微かに鼓動が伝わってきた。
呼吸も、小さくだがしていた。
まだ生きている!
しかし、まさに息も絶え絶えで、どう見ても立ち上がって戦える状態ではない。
「……終わりですね」
傍に立つハロンが、静かな声で告げた。
「正直、今の一撃で命を奪うつもりでしたが……このしぶとさ。さすがは《デモンズ》――いや、貴方だからこそでしょうか、ティリアム・ウォーレンス」
ハロンの言葉は、決して世辞ではない。
素直に相手の力を認め、賛辞の言葉を口にしていた。
「ですが、これで最後……。もはや貴方には対抗する力は残されていない」
止めのために、刀がゆっくりと持ち上げられる。
「――――!」
咄嗟に、オーシャは両手を広げて、ティリアムを庇っていた。
例え、自分が身を盾にしても、ハロンの一撃からティリアムを守り抜く事などできないだろう。
しかし、それでも。
ただ、彼がやられていくのを見ている事など出来なかった。
「……強くなったものですね」
予想だにしない優しげな声に、オーシャがはっとする。
ハロンの顔には、まだ彼を信じていた頃の優しげな微笑が浮かんでいた。
「きっと、かつての貴女なら、こんな行動を取る事さえできなかった。ウォーレンスと共に過ごした事で貴女の中で何かが変わったのでしょう。しかし――」
声が、再び冷たさを取り戻す。
「想いだけでは、誰も守る事も、救う事も出来ません。せめてもの情けです。大切な彼と共に逝かせてあげましょう」
「あ…………」
ハロンの刀が、一際強い雷を纏う。
あの雷刃の一撃だ。
オーシャには、それを止める力はない。
この後、彼女は背後に倒れ伏すティリアムと共に死ぬのだろう。
何も出来ず。
ただ無力に。
(欲しい――)
願った。
(欲しいよ、力が――)
ただ、強く願った。
(想いだけじゃない……真実に誰かを――大切な人を――ティルを守る力が欲しい――!)
瞬間。
胸の奥で、何かが脈動した。
――ありますよ。
「――――え?」
――貴女が願えば、力はそこに――あります。
声が、聞こえた気がした。
それを認識したと同時に、胸が凄まじい熱を持った。
「う……ああああああ……!!!!」
光が。
白く強烈な光が、少女の胸から溢れ出していた。
「なっ……これは――!?」
ハロンが、光に目をくらませながら、声を上げる。
「あああああああああああああああああああああああああああああ――っ!」
きいんっ!
光が収まった時。
一体、どこから現れたものか。
オーシャの眼前で、槍が地面に突き立っていた。
ハロンが呻く。
「これは……まさか《神槍》(!? そんな馬鹿な!」
「《シュペーア》……?」
胸の熱は、すでに消えていた。
息を切らしながら、オーシャは事態が掴めず呆然と目の前の槍を見つめる。
真っ直ぐに伸びる白い柄の先に、半透明の水晶に似た何かで出来た刃が付いていた。各所に施されたきめこまやかな彫刻と装飾が、不思議な神々しさを醸し出している。
オーシャにも、すぐに理解できた。
これは――凄い力を秘めたモノだ、と。
「何故、だ……? 《白光の翼》にも目覚めていない状態で、なぜ、《シュペーア》が具現化される……!?」
ハロンは未だ愕然とした顔で、槍に目を釘付けにされていた。
(もしかして、これは私の胸から出てきた――?)
なんとなく、それが理解出来た。
そして、同時に思い出す。
――貴女が願えば、力はそこに――あります。
誰のものともわからない、頭に響いたあの声。
(……力……ティルを守るための力……)
この槍を掴めば、それを手に出来るのかもしれない。
だが、それは同時に、二度と戻れぬ道に自ら足を踏み出す事になる気がした。
(でも――私は守りたいって願ったから)
決意は、一瞬。
それで十分だった。
「――――っ! それに触れさせるわけには!!」
ハロンが動揺した声を上げ、オーシャの行動を阻止しようと、刀を振り上げる。
だが、遅かった。
オーシャの指先に白い柄に触れる――弾ける光。
槍は解けるように、光の粒子と化す。
再び、胸に熱が宿った。
光の粒子は、オーシャの背中に集まり、一つの形を象る。
白い。
白い翼だ。
一切の穢れを知らぬ、許さぬ、そんな事を見る者に思わせるほどの白翼。
さらに、オーシャの漆黒の髪と瞳は、あっという間に白銀へと変貌していた。
その姿の、なんと神々しい事か。
まさに女神が如き威容を、今の少女は誇っていた。
振りろされたハロンの刀は、どんな力が働いたものか、あえなく弾かれる。
「――間に合い、ませんでしたか……」
後退りながらハロンが悔しさのこもった声で呟いていた。
「目覚めましたね……《白光の翼》が」
オーシャの全身を、熱く清らかな力が駆け巡る。
まるで別人に生まれ変わったような気分だった。
だが、口にする言葉は、まぎれもなくオーシャ自身の想いだ。
「もう傷つけさせはしない。今度は、私が貴方を――守ってみせるよ。だから、見てて、ティル」
かつてない強さを胸に秘め。
オーシャは力を手にした。 |