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エンジェル 一章

翼持つ者


―― 四 ――

「本当に、本当にありがとうございます。なんとお礼を言えばいいか」
 迷子の少年の母親は、感謝の言葉と共に深々と頭を下げた。
 オーシャは、慌ててぶんぶんと両手を振る。
「い、いえ、いいんです。たいした事じゃないですから」
 衛兵の誘導もあって、教会へは、すぐに辿り着く事が出来ていた。
 少年の母親も幸い無事だったようで、教会へ着いてから、程なくして見つかった。
 母親は、最後にまた深く頭を下げると、少年の手を引いて、教会の奥へと向かって行く。
 笑顔で手を振ってくる少年に、オーシャも微笑みを浮かべながら手を振り返して、それを見送った。
(……みんな……すごく怯えてる……)
 周囲を見回して、オーシャは今更ながらにそんな事を思った。
 街の中心部にある、さほど大きくない教会の中には、《デモン・ティーア》から身を護る術を持たない老若男女が、酷く不安そうな顔で身を寄せ合うように集っていた。
 教会の入口には、数人の衛兵達が緊張の面持ちで警備に当たっている。
 あれだけしっかりした城壁に囲まれた街に住む人々にとっては、《デモン・ティーア》が街の内部に侵入するなど滅多にないのだろう。
 混乱し、怯えるのは仕方ない事だった。
「ティル達、大丈夫かな……」
 教会の一角に座り込みながら、オーシャは呟いた。自分の膝を抱くようにし、そこに顔をうずめる。
 胸の内から、なんとも言えない無力感が溢れ出してくる。
 エリックの屋敷で、全てが偽りだと知ってしまった時も、自分には逃げる事しかできなかった。
 もちろん、あの場で姿を見せれば、すぐさま命を取られていただろう。それでも、エリック本人に真意を問いただす勇気がなかった事は否定できない。
 戦う力を持たず、脅威から隠れる事しかできない己の非力が疎ましかった。
(……なんて臆病で……弱いんだろう……私……)
 暗い思考に捕らわれそうになり、オーシャは慌てて頭を振って、それを誤魔化した。気持ちを切り替えようと、なんとはなしに目の前の風景に視線を向ける。
 ふと、そこでオーシャは違和感を感じた。
 生まれてからニスタリスを出た事のないオーシャは、当然、この街には知り合いはいない。なのに、教会の中に居る人々の中に、見慣れた顔があった気がしたのだ。
 そう、それは――ここに居るはずのない人間……。
 オーシャが驚愕に目を見開いた。
「あ……ああ……」
 衝撃のあまり、呻くように声を漏らす。
 居るはずのない人間――ハロン・イヴシェナーは、街の状況に相反するように、恐怖に怯える人々の真ん中で穏やかに微笑んでいた。


「ええい、うっとうしいっ!」
 薙ぎ払うように振るわれた大剣は、数匹の腐蟲をまとめて斬り飛ばした。
 周囲を囲む腐蟲達を相手に、ティルは重量のある大剣を自らの手足のように扱い、次々と敵を屠っていく。
 今や、ダランの東門は、腐蟲の群れに完全に覆われていた。
 ティリアム達と半数近くの衛兵達が協力して敵の街への侵入をなんとか阻み、その隙に残りの者達が門の破壊に巻き込まれた負傷者の救出に当たっていた。
 しかし、腐蟲の数がとにかく多いため、かなりぎりぎりの線での戦いを強いられている。
 そんな腐蟲達の間を縫うように一筋の光が疾った。
 光の通った場所に居た死羽は不意に、そこだけ時間が止まったように動きを止める。そして、身体中に無数の切れ目が入ったかと思えば、ばらばらになり、地に落ちていった。
 フォルシアの高速剣技である。
 当の本人は、そんな光景に目もくれる事もなく、再び次の腐蟲へと剣を疾らせていた。
 こんな状況でなければ、見惚れてもいいほどの美しく華麗な技だが、今は、誰一人、そんな余裕を見出せない。
 ジョンでさえ、笑顔を消し、銃の弾を撃ちつくしては、素早く次弾装填し、また腐蟲を撃ち落していく。
 そんな激しい戦いの場に、街の方から無数の足音が響いてきた。
 耳が痛くなりそうなほどの羽音の中で、それに気づいた衛兵の一人が歓声を上げた。
「増援だ!」
 それは街の反対側に居たため駆けつけるのに時間の掛かった者達だった。
 彼らは、門の所まで辿りつくと、すぐさま腐蟲の撃退に動く。
 腐蟲一匹の力がたいした事ない以上、戦力が十分になれば、負ける理由はない。気づけば負傷者の救出も、ほぼ終わっていた。
 ティリアムは、それを確認してから、戦いの場から退く。そして、その場に剣を突き立てると、大きくを息を吐いた。
 そこにフォルシアとジョンもやってくる。
「こうなれば片がつくまで、そう時間は掛からなそうね」
「いやー、最初、奴らの群れを見たときは、どうなるかと思ったがなぁ」
「そうだな……」
 実際、ティリアム達の手助けがなければ、《デモン・ティーア》の街への侵入は避けられなかったはずである。それをわかっているのだろう、傍を通りかかる衛兵達は、皆、三人にお礼の言葉を掛けていく。
 ティリアムは、それに無言で手を挙げて応える。だが、その表情はどこか上の空だった。
 フォルシアが呆れたように溜め息を吐いた。
「……さっさと行きなさい」
「え?」
 虚を突かれたティリアムは目をしばたたかせる。
 それを見て、ジョンが笑った。
「嬢ちゃんが心配なんだろ? 事情は知らんが、一人にしとくのはあまり良くないみたいだしな」
「顔にもろに書いてあるわ。そんな顔されると、こっちの気が滅入るのよ」
 ティリアムは、図星で二の句が告げなかった。
 あんな激しい戦いの中にあっても、オーシャの事が頭の片隅から離れる事はなかったのだ。正直、今すぐ駆け出したい気分だったのである。
「だけどな……」
 それでもティリアムが言い募ろうとするのを、肩を叩いてジョンが遮った。
「大丈夫だ。もう、この状況なら、俺達だけで十分だよ。お前もそれはわかってるだろ?」
「…………悪い、二人共」
 心から申し訳ない気持ちで呟くと、ティリアムは大剣を手に教会の方へと駆け出していく。
 実を言えば、オーシャに対する不安以上に、ティリアムは何か嫌な予感を感じていた。
 不自然な落雷による門の破壊。
 それに呼応するように、大挙して現れた夜行性のはずの《デモン・ティーア》達。
 およそ人の手ではとても起こせないような出来事なはずなのに、何か人為的なものを感じずにいられないのだ。
(まさか街に混乱を起こして、その隙にオーシャを狙おうと……)
 ティリアム自身、まさかと思うような考えだ。
 少女一人の命の為に、街全体を巻き込む――いや、そもそも、本当に人間の手で、あんな事が可能なのか。
 確信は持てない。
 だが、ずっと胸中に首をもたげる嫌な予感が、考える事をやめさせてくれなかった。
「……とにかく、オーシャの所に急ごう」
 自分に言い聞かせるように一人ごちると、ティリアムは、さらに足を早めていった。


 心臓が破裂しそうだ。
 息も切れ、呼吸もままならない。
 足がもつれ、今にも転んでしまいそう。
 だが、止まるわけにいかなかった。
 止まれば、間違いなく死が待っている。
 そんな思いに駆られて、オーシャは、必死にダランの街を走っていた。
 教会で、ハロンの姿を見つけて最初に思ったのは自らの事よりも、街の人々の安全だった。
 あのまま、あそこに留まれば、関係ない人達を巻き込むかもしれない。
 ハロンの笑顔には、そんな危機感を覚えずにいられない何かがあった。
 そして、オーシャは衛兵の制止を振り切って、教会を飛び出したのだった。
(とにかくティルの所へ――!)
 身を守る力のないオーシャにできる事はそれぐらいしかない。
 疲労のあまり、その場に座り込みたくなる衝動が起こるのを必死に押さえ込みながら、オーシャは走り続けた。
 だが、不意にその足が止まる。
「……そん、な……な、んで……」
 オーシャが呻くように漏らす。
 路地陰から姿を見せたのは、女と見間違うような美しい顔立ちをした男――
 ハロンだった。
 腰には鞘に納まった刀を佩びた彼は、わざとらしく悲しげな表情をして見せた。
「酷いですね、オーシャ。私の顔を見ただけで、逃げ出すなど。……知らない仲ではないでしょう、私達は?」
「……貴方は……貴方達は、私の命を狙っているんでしょう!」
 恐怖に飲み込まれそうな自分を奮い立たせるようにオーシャは叫ぶ。
 ハロンは、嘆くように頭を振った。
「――やはり聞かれてしまっていたのですね。残念です。知らなければ、何一つ苦しむ事も、思い悩む事もなく、この世を去る事ができたと言うのに」
「……何で……何でなの!? 本当に私は、エリックにとって、ただの利用するだけの……!」
「そうですよ」
「なっ……」
 ハロンは、オーシャが呆気に取られてしまうほど、あっさりと言い放った。
「身寄りのない貴女をエリック様が娘として引き取ったのは、貴女に利用価値があったから。それだけです。それ以外に理由もないし、必要もない」
「…………」
 オーシャは、しばし言葉を失う。
 しかし、次に口にした言葉には強い意思が込められていた。
「……そう、おかげですっきりした」
「――すっきりした?」
 ハロンが、怪訝な顔で眉根を寄せる。
 オーシャは決意を宿した瞳で、ハロンを見返しながら、さらに言葉を紡ぐ。
「そうよ。私は、絶対、貴方達に思い通りに殺されたりなんかしない。今の私には、偽りじゃない、本当の居場所があるから」
「ティリアム・ウォーレンス……ですか」
 ハロンが、居場所の名を口にする。
 そして、次の瞬間には、オーシャがぞっとするほどの優しい微笑を浮かべていた。
「なるほど。――しかし、貴方を守る彼は、今はこの場に居ませんよ。さて、どうしますか?」
「…………っ」
 言い返す事も出来ず、オーシャは思わず後退さる。
 自分には、戦う力はない。
 この状況では、逃げる事も出来ないだろう。
(……私は……このまま……死ぬの……?)
 逃れようのない絶望感が胸中に満ちていく。しかし――
「……来てくれる……」
 それを振り払って、オーシャは呟いた。
「今までだって、ティルは私が危ない時には、いつでも駆けつけて守ってくれた。だから……だから……今だってきっと来てくれる!」
「……淡い希望にすがって死に行くのもいいでしょう」
 哀れみさえ浮かべたハロンが、ゆっくりとオーシャへ掌を向ける。
 オーシャは、それでも恐怖に飲まれる事なく、毅然としていた。
 青年の掌に青白い光が生まれ――
 その刹那。
 ハロンは、電光石火の動きで腰の鞘から刀を抜き放つと、後方に斬撃を放った。
 金属同士がぶつかり合う甲高い音が人気のない街に響く。
「――これはこれは、とんだお客さんですね」
「……やっぱり……やっぱり来てくれた……」
 ハロンは困った顔で呟き、オーシャは安堵と、それ以上の喜びに満ちた微笑みを浮かべる。
「待たせたな、オーシャ」
 突然の介入者――ティリアム・ウォーレンスは、交差した刃の向こうで、そう言って不敵に笑って見せた。


 ティリアムと刺客の男は、同時に後方に跳び、交差していた大剣と刀を離した。
 男が、やれやれと頭を振って、落胆の表情を見せる。
 一瞬、女とさえ思わせるほどの整った顔した男だった。だが、その双眸には、只者でない事を感じさせる冷徹な光が垣間見える。
「貴方を引き離すために、わざわざ門を破壊し、《デモン・ティーア》を呼び寄せたというのに……。物事はそうそう思惑通りに進んでくれませんか」
「やはり、あれはお前達の仕業だったのか」
 ティリアムは怒りを滲ませた言葉を吐き出した。
「初めまして、ですね、ティリアム・ウォーレンス。私の名は、ハロン・イヴシェナー」
「エリックの屋敷に出入りしていた男か」
「オーシャからお聞きになりましたか。その通りです」
 ハロンは、人の良さそうな微笑みを浮かべて見せ、頭を垂れた。
 しかし、それに騙されるほどティリアムも馬鹿ではない。
 厳しい眼差しをハロンに突き刺す。
「そろそろ聞かせて欲しいもんだな。なぜ、お前達は、オーシャを執拗に狙う。何が目的だ」
「……そうですね。何も知らずに死に行くのも不憫です」
 今すぐ危害を与えるつもりはないという意思表示なのか、ハロンは、あっさりと刀を鞘に収めた。
 ティリアムも、それに倣って大剣を石畳の地面に突き立てる。
 ハロンは、しばし思案するように目を閉じてから、こう言った。
「では……貴方は、《翼持つ者》エンジェルという名を聞いた事はありますか?」
 いきなりの質問にティリアムは眉根を寄せる。
「七百年前の大戦で滅びたっていう種族の事か」
「その通りです。彼らはその名の通り、背中に光り輝く翼を有し、魔法と呼ばれる超常の力を操った。そして、その力を持って、世界の覇権さえも握ったのです」
「その《エンジェル》がどうしたっていうんだ」
「貴方が言ったように《エンジェル》は、《裏切りの贖罪》という名の戦乱によって、すでに滅びています。――ですが、もし……彼らの力自体は滅びていないとしたら?」
「……何、だと?」
「《エンジェル》は、命尽きる時、その超常の力を封じた《翼石》フリューゲルと呼ばれる宝石をこの世に残すのです。もちろん、それだけではただの宝石でしかない。だが、ある特殊な方法で人間の身に《フリューゲル》を埋め込む事で……ただの人間も魔法を行使する事が可能になるのです」
「……そんな与太話を信じろっていうのか」
「信じる、信じないは、貴方の勝手ですよ。ですが、事実、我々はその力を手に入れ、ある目的のために動いている。それが私の属する組織……《黄昏》デンメルング
「……《デンメルング》」
 オーシャが、組織の名を口にする。
 ティリアムは、ハロンを険しい顔で睨みつけた。
「質問の答えになっていない。それが本当だとして、オーシャを狙う理由と、どう関係があるっていうんだ」
「人の話は最後まで聞くものですよ。さっきも言った我々の為そうとする目的の為には、ある特殊な《フリューゲル》の力が必要でした。ですが、その《フリューゲル》は、強大な力を秘めている代わりに、埋め込む人間を選ばないと、力の覚醒さえ望めないのです」
「! ……まさか……私は……」
 オーシャの声は震えていた。
 だが、ハロンは、躊躇う事なく告げる。
「そうですよ、オーシャ。貴方は、その《フリューゲル》を埋め込む為に選ばれた被験者だったのです」
「……そんな、事のために……それだけのために……」
「オーシャ……」
 ティリアムは大剣を地面から引き抜くと、茫然自失となったオーシャに駆け寄る。
 ハロンはそれを止めようともせず、ただ語り続けた。
「ですが、非常に残念な事に、二年待っても貴方では力の覚醒は見られなかった。だから、我々は次の者に計画の“鍵”としての役目を委ねる事にしたのです」
「……その為に、オーシャの中の《フリューゲル》が必要になった。そういう事か」
 背を向けたまま、ティリアムが訊く。
 ハロンは首肯した。
「お察しの通り。一度、埋め込まれた《フリューゲル》は、その者が死を迎えない限り、再び形を為さないんですよ」
「……ふざけやがって……利用するだけ利用して、用がなくなれば、あっさり切り捨てるのか……っ!」
 振り返ったティリアムの顔には、凄まじい怒りが満ちていた。
 ティリアムは、大剣を力任せに地面に叩きつける。
 石畳が破壊され、破片が周囲に飛び散った。
「お前は……お前らは本当に気に食わない。俺が――潰してやる」
「大それた事を言いますね。《エンジェル》の力を得た《デンメルング》を潰す、と? 貴方一人で?」
「ああ、潰す」
 迷いも躊躇いもなくティリアムは言い放つ。その瞳には、怒り以上の強い決意があった。
 ハロンが感嘆の吐息を漏らす。
「……なるほど。さすがは、《デモン》とまで呼ばれた方ですね」
「……デ、モン……?」
 俯いたままだったオーシャが、ハロンの言葉の一つに反応して、顔を上げた。
 それに、ハロンが不思議そうに片眉を持ち上げる。
「これはこれは……聞いていなかったのですか。彼は、かつての傭兵時代、鬼の如き凄まじい戦いぶりとその冷酷さから、世間でそう呼ばれていたのですよ」
「……昔の事はどうでもいい。それよりも覚悟はいいな」
 ティリアムは、ハロンの言葉を遮ると、大剣を構える。
 正直、昔の事はオーシャには知って欲しくはなかった。
「どうやら本気のようですね。……まあ、予想はしていましたが」
 ハロンもまた、腰の鞘から再び刀を抜き放ち戦闘態勢に入る。
「良いでしょう。どのみち、貴方の力を確認したいとは思っていたのです。――さあ、さっそく始めましょうか」


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