一章の三に続く 一覧に戻る 一章の一に戻る
 

 
エンジェル 一章

翼持つ者


―― 二 ――

 陽光も届かない、深淵なる闇を内包する森。
 それは常識では考えられぬほど天高く伸びた無数の木々で構成され、その体内に一つの巨大な都市を隠していた。
 その都市は常に不思議な光で満たされ、もはや見る者もいないはずの姿を誇示している。立ち並ぶ建造物の壁や柱は各所がひび割れ、朽ち果て、気が遠くなるほどの年月を暗黙に教えていた。
 かつて世界を席巻し、栄華を極めた者達の都。
 ここは、その成れの果てだった。
 遥か昔に見せていただろう荘厳たる姿は、すでに失われている。
 しかし、一箇所だけ例外があった。
 それは都の中心に在り、他のどんな建造物よりも巨大に聳え立っている。
 さらに、何故かそれだけは周りと異なり、今日にでも造り上げられたかのように綺麗なままだった。見る者を驚嘆させる複雑精緻な紋様と数々の美しい彫像達で彩られ、凄まじいまでの威厳を放っている。
 城――だった。
 数百もの年を遡った時代に、世界を統べた王が住んだ居城。
 だが、今を生きる人間達は、もはや都の存在も、王の存在も、翼を持った種族の存在も、すでに忘れ去ろうとしている。
 城の入口に、巨大な像が立っていた。
 神業的な腕で掘り込まれた、美麗にして神々しい女神の像だ。
 しかし、頭の部分がものの見事に砕かれてしまっている。
 故に、もはやこの女神が微笑んでいたのか、それとも憂いていたのか誰にもわからない。
 城自体は、まったく破損してないだけに、頭のない女神像はひどく浮いた印象を感じさせた。
 そんな首なしの女神像の足元、一人の男が立っていた。
 枯草色の髪に、薄蒼の瞳。
 一瞬、女と見間違うほどの美しい顔立ちをしていたが、ひどく冷たく、強い憎悪を宿した眼光がそれを裏切っている。
 エリックと共に、オーシャの命を奪う密談をしていた男――ハロン・イヴシェナーだった。
 青年は、頭部のない女神像を、無言で憎しむように見上げていた。
「――《黒き者》シュヴァルツァーの刺客が、またやられました」
 不意に響いた声は、ハロンの背後からだった。
 ――いつの間に、そこに現れたのか。
 声の主は、美しく長い亜麻色の髪と深い茶の瞳を持つ、一見、可憐な少女だ。だが、彼女もまた、あまりに静謐な瞳がその印象を否定している。
 ハロンは目を細めた。
 《シュヴァルツァー》は、組織に置いて暗殺や諜報を務める人間の総称だ。特別な力こそ持たないが、一人一人の実力はそこらの暗殺者では比較にならない。
 だが。
「これで十を越えましたか、あの男に刺客が返り討ちにされたのは……。《鬼人》デモンの二つ名を持つ相手は、やはり“力”を持たぬ者達には辛いようですね」
 ハロンは、女神像を見上げたままで言った。
 少女が同意して頷く。
「おそらく二つ名だけではないでしょう。間違いなく彼は、もう一つの“力”を持つ者の末裔です」
「……我らの主といい、“滅びた”と聞いていた存在が、こうも健在である事を知らされると、この世がいかに偽りで満たされているか、改めて思い知らされる気分ですよ」
 皮肉交じりに言いながら、ハロンは振り返った。すでに憎悪の双眸は人の良さそうな笑みで覆い隠されている。
「もとより、人の世に正しき真実など存在しはしないでしょう」
 少女は冷ややかに告げ、さらに、
「今度は、貴方が行きなさい、ハロン。計画の鍵になるはずだった娘――それを守る男が、“力”を持っているとわかった以上、“翼”を持つ者が行かねば、手には負えないでしょう」
 そう命じた。
 ハロンは恭しく頭を下げる。
「……御意に。我らの計画を阻む《デモン》、そして、鍵になり損ねた哀れな娘。主に与えて頂いた“力”をもって滅ぼし、《白光の翼》を見事、取り戻して参ります」
 何もない空間で手を振るう。
 途端、青年の足元に円形の複雑な紋様が浮かび上がった。
 紋様は不意に強い輝きを放つとハロンを飲み込み――光が収まったときには青年の姿をどこになかった。
「…………」
 一人残された少女は、先ほど居た青年に倣う様に女神像を見上げた。
「……もしも、鍵に宿っていた“彼女”の導きによって、この事態が起きたのならば、事は簡単には済まないかもしれませんね」
 そう呟く少女の瞳には、ハロンにも負けぬ強い憎悪、そして、口にした“彼女”への嫉妬の光が微かに浮かんでいた。


「よう、おはよう。……よく眠れたか?」
 朝というよりは、すでに昼に近い時間。
 ティリアムは、先に席に着いていたオーシャに声を掛けながら、同じテーブルの椅子に腰を下ろした。
「おはよう、ティル。うん、ばっちりだよ」
 返事をしたオーシャは、昨日の宣言通り、いつもの調子に戻っていた。
 まだ無理をしているのかもしれないが、それでも平静を保てるという事は大事だ。
 ティリアムは頬を綻ばせると、通りかかったウェイトレスに声をかけサンドイッチとコーヒーを注文する。
 二人の泊まっている宿は二階建だ。一階が食堂、二階は宿泊施設になっている。食堂の方は、宿泊客以外も食事を取る事ができるようだった。
 ちらっとオーシャの前に置いてある皿を見る。
(食欲もちゃんとあるみたいだな……)
 皿の上にあったのだろうサンドイッチは全てなくなっていた。頼んだ本人は、今、紅茶をのんびりと口にしている。
 苦いコーヒーより、匂いを楽しめる紅茶の方が好き――オーシャの談である。
 ティリアムは表情に出さぬようにして、胸中で苦笑した。食欲があるかどうか確認するなど、自分も保護者が板についてきたものだ、とそう思ったのである。
「どうしたの?」
 何を言わないティリアムを変に思ったか、オーシャは紅茶を口に運ぶ手を止め、怪訝な表情を浮かべる。
「いやいや、なんでもない」
 そ知らぬ顔でティリアムは答える。
 素直に本当の事など告げれば、子供扱いされたと少女は憤るだろう。
 そして、ウェイトレスが頼んだサンドイッチとコーヒーを運ばれて来た所で、
「それにしても、本当に、ここなら情報が手に入るのかな……」
 オーシャは、どこか不安気な様子で呟いた。
「ドルガ大陸はニスタリスのあった島なんかより、格段に広い。なにせ世界最大の大陸だからな。大丈夫、きっと手がかりは手に入る」
「……そうだといいんだけど」
 オーシャの不安は、もっともだった。
 なにせ、約半年もの時間を掛けて回ったニスタリス内では、ほとんど組織の情報を手に入れる事はできなかったのだ。襲ってくる刺客を問い詰めても、何かを情報を吐くどころか、自ら命を断ってしまうばかりだった。
「まあ、焦っても仕方ないだろ」
 それでも気軽に言って、ティリアムはサンドイッチを口に運ぶ。
「呑気なのか、余裕なのか、どっちなのかなぁ、ティルは」
 頬杖をつき、朝食を取るティリアムをぼんやり眺めながら、オーシャは態度が不満なのか、ちょっと非難するように言ってくる。
「ほぅふ、おほぉなのほぬうだな」
「口の中の物を飲み込んでから、喋ろうね」
「……うぬう」
 言われて、ティリアムはごくりと口の中のサンドイッチを飲み込んだ。
 そして、
「大人の余裕というやつだ」
 と言い直す。
「今のどこが大人だったのか、ぜひ聞かせてもらいたいよ……」
 オーシャは半眼で、完全に呆れ返った顔だ。
「…………」
 なんとなく眼を逸らしてしまうティリアム。
(前言撤回……かな)
 とても今のは保護者などと胸を張れる姿ではない。
 羞恥を感じつつも、サンドイッチをあっという間に食べ終わる。
 その後、今後の相談がてら、コーヒーをのんびりと飲んでいた、そのときだった。
「よお、お久っ!」
「――ごぶっ!」
 不意に背中で衝撃。
 まさに今、コーヒーを喉に流し込んでいたティリアムは思いっきり咽せてしまう。
「だ、大丈夫!?」
 オーシャは慌てて立ち上がって、こちらに駆け寄ると背中をさすってくれる。
 そこに、やたらと明るい声が響いてきた。
「いやー、嬉しいじゃないか! お前とこんな所で再会出来るとはな!」
「っ!? その声は」
 弾かれたように振り返ったティリアムは、
「――ジョ、ジョン!? ジョン・カルバリオか!」
 人の背中を不意打ちした男の顔を見て、そう叫んでいた。
 傍でオーシャは、あまりにいきなりな見知らぬ人間の登場に、丸い眼をぱちくりさせている。
 ジョンと呼ばれたのは、三十代後半程度と思われる口髭を生やした男だった。腰のホルスターには、二丁の拳銃が自らの存在を誇示するように収まっている。
「な、なんでお前がここに……?」
 困惑の抜けないティリアムに対し、ジョンと呼ばれた男は、にやりと豪快な笑みを浮かべる。
「実は、たまたまこの街に仕事で寄ってな。で、たまたまここで一泊する事になって、たまたまここの食堂に朝飯を食いに来たら、たまたまお前を見かけたんだ」
「……ああ、つまりまったくの偶然なんだな」
 ティリアムは半眼になりながら、呟く。
「あー、そうとも言うか」
「そうとしか言わん」
 突っ込みを入れるティリアムの背中を容赦なくばんばん叩きながら、ジョンは大笑した。
「まあ、そういきり立つな、心の友よ。お前の物はお前の物。俺の物は俺の物だ。そういう気の置けない仲じゃないか、俺達は」
「いや、それって普通だから」
「細かい事を気にしないのが男って生き物だろ?」
「妙な理論で男の定義をするんじゃないっ」
「あ、あの……」
 どこか噛み合ってない会話を続ける二人に、オーシャがおずおずと話しかける。
「ティル、この人は……?」
「ああ、コイツか。さっきも言ったけど、こいつはジョン・カルバリオ。昔、俺が傭兵やってた頃の知り合いで……」
 そこでティリアムの台詞を遮って、ジョンがびしっと親指を立てて言った。
「ダンディで男のホルモン溢れるナイスガイだ!」
「割り込むな! あと、それを言うならホルモンじゃなくて、フェロモンだろっ!」
「え、えーと、私はオーシャ・ヴァレンタインです」
 ジョンの妙なテンションに完全に飲まれかけながらもオーシャは、なんとか名乗ってみせる。
 それにジョンは満面の笑顔を広げながら、そんな少女の肩をぽんぽん叩いた。ちなみに、ちゃっかりとオーシャのときは、しっかりと手加減している。
「そうかそうか。よろしくな、お嬢ちゃん。……んで、ティル」
「なんだよ?」
「この子は? というか、なんでこの街に居るんだ?」
「……いろいろと事情があるんだよ」
「ほう、そうか。……じゃ、とりあえず、一緒に飯にしよう」
「ちょっと待て! なんでそうなるんだ!?」
 いきなりな展開に驚愕するティリアムをスルーして、ジョンは、とっととウェイトレスを呼んで注文を始める。
 なんかもう止める気力も失い、ティリアムはがっくりと肩を落とした。
「……ねぇ、ティル」
 そこにオーシャが、小声で話かけてくる。
「……なんだ、オーシャ」
「なんというか……その……個性的な人だよね」
 言葉を選んでいるのがありありとわかる言い方だった。
 ティリアムは憔悴した表情のまま頭を振る。
「普通に変と言ってもいいんだぞ? あれは変態の一歩手前の変人で……」
「おいおい、そんなに褒めるなよ、照れるじゃないか!」
 しかし、何故か、ジョンは恥ずかしそうに照れていた。
 オーシャは引きつった笑みで、
「……今のって褒めてたの……?」
「……褒めてない……」
 答えるティリアムの声は、哀れなほどに力がなかった。


「さて……そろそろ昼にするか」
 顔の上に掲げた掌で日差しを遮りながら、疲れた顔でティリアムが言った。
 あの後、宿を出てから街中の情報屋を巡ったのが、結局、めぼしい情報は得られず、空振りに終わったのである。
 同じく疲労を感じさせる様子で隣を歩いていたオーシャが苦笑した。
「なんか、さっき朝食を食べた気がするけどね」
「仕方ないだろ。朝、遅かったんだから。それとも、まだ腹減ってないのか?」
「……ううん、減ってるかな」
 何が恥ずかしいのか、目を逸らしつつ、オーシャがぼそりと言う。
 今度は、ティリアムが苦笑を浮かべる番だった。
 と、そこに。
「そうかそうか! それじゃ、どうする? さっきの食堂にするか?」
 これは相変わらず元気一杯なジョンである。
 それをティリアムは、半眼で横目にして、
「……っていうか、お前はいつまで付いて来るんだ?」
 と、不満を隠さない顔で訊いた。
 ジョンは大笑しながら、ばんばんとの背中を叩いてくる。
「あっはっは! 食事は大勢の方が楽しいぞ!」
「いや、そういう事じゃなくてだな……」
「それに連れを置いて、街を出るわけにもいかんしな」
 言い募ろうとするティリアムを遮って、ジョンが言った台詞は聞き捨てならないものだった。
「連れって……ジョン、お前、誰かと組んでるのか?」
「ああ。次の仕事でな。今、やってるお互いの仕事が終わったら、この街で合流する事になってるのさ」
「なんだ! それじゃあ、それこそ、さっさとその連れのところに行けばいいじゃないか」
 ティリアムが、これ幸いにと手に負えないかつての傭兵仲間を追い払おうとしたそのとき。
 当のジョンが、「おっ、あれは……!」と突然、声を上げた。
「どうやら、その必要はないみたいだぞ」
「?」
 ジョンの指差す方向をティリアムは何気なく目で追って――
「――――っ!?」
 ぴきっと効果音さえ聞こえそうな風に硬直した。
 全くもって想像もしていなかった人物が、そこには居たのである。
 オーシャは、いきなり立ち止まったティリアムを不思議そうに見上げた。
「ティル? どうしたの?」
 だが、ティリアムは問いに答える事なく――いや、答える余裕などなく、素早くジョンの腕を掴むと、有無も言わせず近場の路地陰へと連れ込んだ。
 オーシャはそれを目をしばたたかせながら、呆然と見送る。
「おい! これはどういう事だ!?」
 路地陰に入ってすぐに、ジョンの胸倉掴んでティリアムは問い詰める。その声は、見事なまでに動揺していた。
「んん? 何がだ?」
 ジョンはしらばっくれた顔で問い返す。
 ティリアムは引きつった笑みすら浮かべながら、思わず声を大きくする。
「だ・か・ら! 何で、フォルシアがここに居るんだと訊いてるんだっ!」
 ジョンが指で示した先に居た人物――それは腰に細身の長剣を下げ、流れるような金髪に、まるで宝石のような翡翠の瞳を持った美貌の女だったのである。
 彼女――フォルシアは、こちらに気づいているのかをまったく悟らせない無感情な顔で、今なおゆっくりとオーシャの立ち尽くす方へと歩を進めていた。
「何でって、それは俺の連れと言うのが、フォルシアだからだな」
「……っ! よりによって、フォルシアかよ……!」
 ティリアムは、ようやく胸倉を掴んでいた手を離す。そして、さっきまでの怒りを急に萎ませて、その場で項垂れた。
 その肩をジョンが励ますように叩く。
「いやいや、かつての恋人との感動の再会じゃないか。俺達の事は気にせず、思い切り抱き合って涙していいんだぞ?」
「……お前、わざと言ってるだろ」
「おお、わざとだ」
 当然とばかりに頷くにジョンに、ティリアムは殺意に近い怒りを再び覚えずにはいられなかった。
 ――フォルシア・ハルバラード。
 彼女は、ジョンと同じく傭兵を生業にしている人物だ。その実力は相当なもので、光の如き剣の冴えから、《閃光の戦乙女》リヒト・フラオ という、実力ある傭兵の証ともいえる二つ名を与えられる程である。
 そして、非常に信じ難い事だが。
 ジョンもまた人間離れした二丁拳銃の技から、《双龍の咆哮》ツヴィリング・ドラッヘン の二つ名を持っていた。
 この二人が組んで仕事をするなど、聞く者が聞けば驚きに目を見張る事だろう。
 それだけ二人は傭兵としては実力者であると同時に、多くの人々の間にその名は浸透しているのだ。
 しかし――今はそんな事より、もっと重要な問題があった。
 そう。
 ジョンが先ほど言った通り、僅か一年程の間の事ではあったが、ティリアムはフォルシアと恋人関係にあった事があるのである。
 ――と。
「……女性を一人放っておいて、そんな場所で密談とは、いいご身分ね、二人共」
 ジョンと揉めているうちに、オーシャの目の前にまで到達していたフォルシアが、冷ややかな声を投げてくる。どうやら、とっくの昔にこちらの存在には気づいていたらしい。
 ティリアムはびくりと身を竦ませると、額にびっしりと玉の汗を浮かべる。
 オーシャの方は、またもや見知らぬ人間の登場に、ひたすら困惑の度合いを深めていた。
 そんな中、ジョンは一人だけ、何事もなかったように気軽な仕草で手を挙げる。
「よぉ、フォルシア、早かったな。もうちょい掛かるかと思ってたんだが」
「たいした仕事ではなかったもの。それで……彼女は、どちらのお知り合いかしら?」
 未だ感情見せない瞳が、ティリアムを捉えた。
「…………」
 無駄だというのに、思わず目を逸らしてしまう。
 ティリアムは、どうも彼女が苦手なのである。
 別れた恋人への気まずさ――というのとは少し違った。複雑な事情こそあるが、別に何か特別な遺恨があって別れたわけではない。
 むしろ原因は、彼女の言動にあるといえるだろう。
 フォルシアは、生まれつきの性格なのかそうでないのか、普段からあまり感情を表に見せる事がなく、常に無表情だ。そのくせ聞くものが立ったまま気絶出来そうな鋭い突っ込みをさらりと言い放ってくるのだから、言われた人間はとんでもなく傷つくのである。
 さらに、かつて恋人同士だった以上、一応はお互いの深い部分までそれなりに理解し合っている為、それはティリアムにとって他の人間よりも一層、怖いものなのだ。
 恐る恐るながら、ティリアムはなんとか目を合わせて彼女の疑問に答えた。
「俺の連れだよ。……久しぶりだな、フォルシア」
「そうね」
 フォルシアは特別再会を喜ぶでもなく、一言だけそう返した。そして、自分より頭一つ低いオーシャへと視線を落とす。
 そこで初めて、彼女の表情に変化が見えた。
 ――優しげな微笑だった。
「貴女の名前は?」
「え……?」
 声もまた優しく問いかけられ、オーシャは妙にどきまぎしながら返事をした。
「あ……え、えと……オ、オーシャ・ヴァレンタインです」
「そう……良い名前だわ。私はフォルシア。フォルシア・ハルバラード。よろしくね、オーシャ」
 フォルシアは自らも名乗ると、そっと手を差し出した。
「あ、は、はい! よろしくお願いしますっ」
 自分より遥かに大人びたフォルシアを前に、緊張した面持ちのオーシャは慌てて手を出して、握手を交わした。
「……相変わらず女の子だけには優しいよな。フォルシアって」
 隣に立っていたジョンが、こっそり耳打ちしてくる。
 しかし、それにティリアムが返事をする前に、
「馬鹿ばかりしかいない男に、優しくする意味を感じる事ができないだけよ」
 と、すかさずフォルシアに鋭く突っ込まれる。
「…………」
「…………」
 二人は同時に引きつった笑みを浮かべ、不意に。
「ティル」
 フォルシアに呼びかけられて、ティリアムはぎくりとする。
 感情を読ませない翠の瞳が、こちらの姿を映す。
「……また、いつものお人好しで関わったんでしょうけれど、自分から首を突っ込んだ以上、不幸にしたら許さないわ」
 フォルシアが言っているのは、もちろんオーシャの事だろう。
 だが、当の本人は、それに気づいてないのか、きょとんとしている。
「……ああ、わかってるさ」
 ティリアムは、一転して表情を引き締めるとはっきりと頷く。今度は、目も逸らさない。
 しばらく、こちらをじっと見つめた後、フォルシアは肩を竦める。
「本当かしらね。貴方も、他の男達と違わず馬鹿ですものね」
「あ、あのな……」
 さすがに何かを言い返してやろうと、ティリアムが口を開きかけて――
「あ、あの……ティルは……馬鹿じゃないです。ときどき、意地悪はしますけど……絶対に馬鹿なんかじゃりませんっ」
 そうオーシャが僅かに憤りすらも含ませた真剣な面持ちで言い放った。
 これにフォルシアは珍しく驚いた表情を浮かべる。
 それはティリアムもジョンも同じだ。
 しばらくしてフォルシアは、さっきと同じ――いや、さらに優しさを深くした微笑を浮かべた。
「やっぱり、良い子ね、貴女は」
「え? ……あ、その、えと……あ、ありがとう……ございます」
 怒ったはずなのにいきなり褒められてしまい、オーシャは困った顔になると、何故かお礼など言ってしまう。
 そんな少女の素直な反応にティリアムは苦笑する。
(さすがというべきなのかな……)
 もともと女の子には人一倍甘いフォルシアではあるが、オーシャに関しては、それを抜きにしても気に入っているようだった。
 きっとそれは……彼女の純粋さが為せる業なのだろう。
 そうして、なんとなく場の空気が緩んだ次の瞬間。
「よし!」 
 いきなりジョンが何か思いついたように声を上げた。
「せっかく久々に三人が揃ったんだ! 今日出会ったばかりのオーシャとの親交を深める意味も込めて、皆で朝まで飲み明かすか!」
「はあ!?」
 あまりに突然の提案に、ティリアムは思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。
「お前、前触れもなく何をアホな事を言ってるんだ!」
「いいじゃないか! どうせ今から昼飯を食おうとしてた所だし、実は良さそうな酒場を、ちょうど昨日、見つけてたんだ。さあ、さっそく行くぞ!」
 ジョンは一方的に捲し立てると、ティリアムの服の襟首を掴み、そのまま引きずる様に歩き出した。
「ちょっ……待て! おい! こら! 人の話を聞け――――!」
 ティリアムは必死に抗おうとするが、ジョンの圧倒的な勢いの前では全てが無駄だった。結局、対した抵抗もできず、ずんずんと連れていかれてしまう。
 あっという間に、二人の姿は小さくなっていく。
 残されたオーシャは、またしても呆然と二人の去って行く様子を眺めていた。そして、隣に立つ頭一つ高いフォルシアを困った顔で見上げる。
「……えっと……いつもあんな感じなんですか……?」
「そうね。だいたい、あんな感じよ」
 フォルシアの方は、もうこんな展開には慣れてしまっているのか、呆れる事すらもせず平然と頷いていた。
 オーシャはしみじみと、
「…………大変だなぁ」
 そんな心からの実感のこもった呟きを口にしていた。


一章の三に続く 一覧に戻る 一章の一に戻る

inserted by FC2 system