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エンジェル外伝

悪魔再来



 心地良い春の風が頬を撫でた。
 ふわりとレースのカーテンが広がる。
 窓の外には、溢れる生命力を感じさせる緑の木々が青々と生い茂り、その下で美しい花々が色鮮やかな絨毯のように咲き誇る――そんな光景があった。
 現在の世界の中心である《翼持つ者》エンジェルの巨大都市ヴォール・シュタント――その中央に聳え立つ、光纏う《世界王》ヴェルト・ケーニヒの居城ツェントルムの中庭である。緊急時には城を含む都市の周囲には、強固な障壁が張り巡らされるはずだが、平穏なる今はそれもなく、頭上には、どこまでも途切れる事のない蒼穹が広がっている。
 《ヴェルト・ケーニヒ》の王妃であるマリア・ケーニヒは、自室の窓際で椅子に腰掛けたまま、憂いを帯びた瞳で、楽園の一部を切り取ったかようなその景観をぼんやりと眺めていた。
 長く滑らかな金色の髪。
 覗き込むと吸い込まれそうな琥珀色の瞳。白く美しい肌。
 すうっと筋の通った鼻と形の良い顎――
 紛う事なき美女である。
 《エンジェル》の貴族の中でも屈指の名家であるアールクレイン家の長女であった彼女が、《ヴェルト・ケーニヒ》――ヴェルトの妻となったのは、ほんの一ヶ月ほど前の事だ。それは、おそらく今の世で生きる《エンジェル》の女にとって、まず最高のものであろう名誉を得たといっても過言ではなかった。
 ――例え、それが政略結婚の意味を少なからず含んでいたとしても……だ。
 世界を統べし王に娶られたという事実を前にしては、そんな事は、ほんの小事と片付けられても仕方ない程度のものである。
 しかし、彼女の表情は決して明るいとは言えなかった。
 結婚自体が本意でなかったというわけではない。
 アールクレイン家の長女として生まれた以上、《ヴェルト・ケーニヒ》の妻は出来過ぎにしても、家の安泰のために、遅かれ早かれ有力貴族の妻になる事を義務とされる事は想像に難くはなかった。故に、マリア自身も随分と幼い頃より、その覚悟はしてきた。
 つまりは、予想されていた未来が、想像していたものより、少しばかり大きな形で現実となっただけの事。
 生まれてからこの方、ずっと貴族の娘たる事を教え込まれてきたマリアにとって、愛のない結婚を割り切る事はさほど難しくなかった。それに最初は政略であったとしても、その後、二人の間に真実の愛が芽生える事だって有り得もしよう。
 だから、マリアの胸中がひどく重い感情で占められている原因は、それではなかったのだ。
 と。
「――王妃様、失礼します」
 不意に、遠慮がちな声と共に豪華な木造りの扉が開いた。姿を見せたのは、見慣れた侍女の姿だった。
「あ、ああ、ニナ。突然、どうかしたのですか?」
 マリアは慌てて暗い表情を押し込めて振り返ると、唇に微笑を形作った。
「申し訳ありません。いくらノックをしても返事がなかったものですから、勝手に入ってしまいました。……王妃様、そろそろ会食の準備を始めませんと」
 ニナと呼ばれた侍女は控えめながらも、親しみのこもった口調で言った。
(ああ、しまった……)
 マリアは自身の失態を悔やむ。
 物思いに耽るあまり、ノックの音など耳に入っていなかったのだ。
 これでは、下手したら例の事をこの侍女の娘に気づかれてしまうかもしれない。
 なにせニナは、まだアールクレインの家に居た頃――マリアの年の頃がちょうど十になったときから、ずっと身の回りの世話をしてくれている気心の知れた娘なのである。ヴェルトの下へと嫁ぐときに、どうせなら気の許せる者が傍に一人ぐらい居たほうが良いだろう、というマリアの父親の取り計らいにより、一緒にツェントルムへと出向したのだ。
 マリアは、出来る限り平静を装って「そうですか」と頷き、椅子から立ち上がった。
「もう、そんな時間なのですね。ごめんなさい、少し考え事をしていたものだから」
 しかし。
 ニナはふと心配そうな表情を浮かべたのだ。
「……王妃様――いえ、マリア様。何かあったのですか?」
「え? な、何の事ですか」
 自分でもわかりやす過ぎると思うぐらい、はっきりとどもってしまった。
 ニナが悲しそうに眉尻を下げる。
「お隠しにならないでください。私は、マリア様が十の頃よりお世話をさせていただいているのです。マリア様が、何かに悩んでおられるのは、以前より気づいておりました」
「…………」
 どうやら誤魔化す以前の問題だったらしい。
 マリアはしばし逡巡した末に、観念して苦笑を浮かべた。
「……昔から、そういう所はニナには敵いませんね」
「本当にどうなされたのですか……? ヴェルト陛下の下に嫁がれてからというもの、マリア様は、ずっとおかしいです。普段のマリア様は、もっと明るく元気な方であったではありませんか」
「…………」
 マリアは、そっと再び窓の外に視線を移した。
 外の光景は、先ほどと変わる事なく平和で穏やかだった。自身の胸中もこれと同じであったならば、どんなに良かった事か……。
「――理由はわからないのです」
 それは、ヴェルトと初めて顔を合わせて以来、ずっと胸の中でくすぶり続けてきたもの。
「ヴェルトを――あの人を見ていると、言い知れぬ危機感を覚えるのです。何かがおかしい。私達とは根本的に何かが違う。彼と言葉を交わすときも、口づけをするときも、肌を重ねるときも――ずっとずっとその不安は消えてくれない。むしろ日を重ねる毎に、それは大きくなってきているように思えます。最初は私が心のどこかで、この婚姻を拒絶しているのかと思いました。でも、やはりそうじゃない。きっと原因は…………」

 ――ヴェルト自身にある。

「マリア様……?」
 ニナは、まるでマリアの感情が伝染したかのように、こちらを不安気に見つめてくる。
 蟠るものを吐き出すように語り続けていたマリアは、はっと我に返った。
 心を落ち着けようとゆっくりと頭を振ると、心優しい侍女の頬を優しく撫でる。
「――ごめんなさい。貴女まで不安にさせるつもりはなかったの。きっと私の考え過ぎですね。今、言った事は、どうか忘れてください」
「……ですが、マリア様」
 ニナが言い募る。
 それをマリアは出来る限りの穏やかな微笑を浮かべて制した。
「良いの、ニナ。お願い、忘れて。そう……ただの気のせいなのだから」
 胸中でそんな事は有り得ないと確信しつつも。
 マリアは、大切なニナを安心させるためにそう言ったのだった。


 街が徐々に夕闇に包まれ始める頃。
 会食は始まった。
 当然、王たるヴェルトは上座に座っていた。
 マリアは、その隣に腰を下ろしている。
 豪奢な長卓にずらりと並んだ顔ぶれは、そうそうたるものだ。
 以前より王族と深い繋がりを持つ者を始め、ここ近年で上流貴族に仲間入りした者、大陸を統一する上でのいくつかの戦乱の際、戦果を上げた事で地位を高めた者など――特に名のある大貴族達が勢揃いしていたのである。
 この会食は、二月毎に一回、定期的に催されていた。
 会食を行う表向きの理由は、王族と、それと共に国を支える貴族達が親交を深める事で、有事の際には、より円滑な連携を取れるように――というものであった。しかし、裏には、強権を有する貴族達の誰かが万が一にも謀反を考えぬように、お互いに牽制や監視をさせるという意味も含まれている。
(とは言っても、裏の意味は、初めから形骸化しているといっても良いでしょうね……)
 マリアは思う。
 少なくとも、この場に居る者達の中には、ヴェルトの王座を狙おうなどという愚か者は誰一人として存在しない。
 その確信が彼女にはある。
 周囲の人間に、そんな事を塵一つほども考えさせぬほどの圧倒的な王の資質。それをヴェルトは生まれながらに持ち合わせているのだ。
 それは容姿であり、人格であり、知識であり、力であり――全てに置いてであった。
 マリアは、この男以上に王という座にふさわしい者を知らぬ。存在するとも思えぬ。
 今の世で最も完璧に近しい者であると言っても良いかもしれない。
 だが、それもまたマリアを不安にさせる要素でもあった。
 あまりに完璧過ぎるのだ。
 不自然なほどに欠点がない。
 そつがなさ過ぎて、逆にひどく危うく感じられる。
 ふとしたきっかけで根本から全てが覆ってしまいそうな――
「マリア、どうかしたのか?」
 不意に、横手から声が掛かった。
 またしても思考の海に沈んでいたマリアは、はっと顔を上げる。隣に顔を向けると、一ヶ月前に自分の夫となったばかりの男の心配そうな顔があった。
「全く食が進んでいないぞ。体調でも悪いのか?」
 気遣うように、ヴェルトが問うてくる。
 マリアは、何でもないように微笑んで見せた。
「いえ、大丈夫です。少しぼんやりとしていただけ」
「そうか。それなら良いのだが」
 そう言って、ヴェルトは心から安堵したように笑んだ。
 普段は大人びた精悍な顔つきをしているのに、そんな表情すると途端に幼い少年のような無邪気さすら感じさせた。年頃の娘ならば、これを見ただけで彼に傾倒してしまうかもしれない――そんな笑顔。
 しかし、今のマリアには不信感しか覚えられない。
「だが、もしも調子が悪くなったら、すぐに言いなさい。大切な会食だが、私が居れば間に合うし、無理を押してまで参加するものでもないからな」
「……ええ。お気遣いありがとうございます」
 マリアは微笑を崩さぬように務めて、再び正面を向いた。
 問題がない事を見せるように、眼の前に並ぶ豪華な料理をゆっくりと口に運んでいく。そんなに食欲はなかったが、あまりヴェルトに気にかけられるとボロが出そうだったのだ。
 と、突然。
「しかし、本当にめでたいですなぁ!」
 穏やかな談笑の中に割り込んで、少しばかり離れた所に座った、恰幅の良い壮年の貴族が声を上げた。
「皆さんもご存知でしょうが、本日は、遥か二千年以上前、女神イヴァルナが悪魔アダムスタを聖地の森で討ち果たした日と言われております。そんな日に、大陸統一という大偉業を成し遂げられたヴェルト陛下が、あの歴史深いアールクレイン家の御長女と婚姻を結ばれるとは――いや、本当にめでたい! 何か運命すら感じますな! 大陸は長き繁栄を約束されたといっても過言ではないでしょう!」
 流暢に語る男の言葉に、周囲の貴族達も「全くですな」、「まあ、ヴェルト陛下ならば当然でしょうが」などと、次々と同意して頷いていた。
(ああ、そうか……)
 同意した者は全て、ここ数年で、この会食に参加できるほどに成り上がった者達ばかりだ。
 だから、知らない。
 女神イヴァルナも悪魔アダムスタも、《箱庭》エデンという名の別世界により意図せずやって来た、《神族》、または《魔族》と呼ばれる、あくまで人の範疇に入る存在に過ぎないという事を。
 そして、我らの世界は、遥か昔に起きた《神族》と《魔族》の戦乱によって生まれた副産物でしかなく、故にこの世界に神の祝福は存在せぬという事を。
 この事実を知っているのは、《エンジェル》が生まれた時より連綿と続く古き家の者と王族だけで、決して外に漏らす事の許されない秘匿とされている。アールクレイン家もまた真実を受け継ぐ家の一つであり、マリアも成人の際に、父よりこの事を教えられていた。
 さらに聞いた話によると、他者との交流を避け、大陸の奥地で細々と暮らす《鬼人族》デモンズの中にも、この真実は伝えられているらしい。だが、世にそれが広まっていないという事は、彼らもまたこれを秘す事を己に課しているのだろう。
(私も……知らなかった方が幸せだったかもしれませんね)
 真実を知るという事は、その重さを背負うという事だ。
 また、それを誰かに伝える事で図らずも他者を傷つけてしまう事とてあるだろう。
 決して楽なものではない。
 そして、思う。
(ヴェルトから感じる不安――これも気づかなかった方が幸せだったのでしょうか……)
 しかし、自分は気づいてしまったのだ。
 気づいてしまったからには――
(見て見ぬ振りはできない……)
 胸中で密かに決意を固めると、マリアはそっとヴェルトの横顔を覗った。
 そこで。
 彼の様子がおかしい事に気づいたのだ。
 異変は、いつからだったのか。
 少なくとも彼がマリアを気遣ったときは、今まで通りだった。
 ならば、あの貴族の男が話を始めたときか?
 その内容が原因か?
 もしくは、それ以外の何かか?
 わからない。
 だが、何かをきっかけに、それは起きていたのだ。
 ヴェルトの双眸は何かに驚愕したように大きく見開かれ、じっと虚空を見つめている。長卓の上に乗せられた拳は、血が滲み出すほどに強く握られていた。
 しばらくして、ひどく強張っていた身体から、ふと力が抜けた。
 途端。
「…………!!」
 マリアは思わず息を呑んだ。
 氷柱を脊髄に差し込まれたような激しい悪寒が全身を走り抜ける。
 ヴェルトの口の端が吊り上ったのだ。
 笑み。
 己を。皆を。世界を。
 万象を嘲るような笑み。
 まるで悪魔だった。
 もやがかっていた危機感は、確信に変わる。
 《ヴェルト・ケーニヒ》。
 彼は危険だ。
 彼は災いだ。

 彼は致命的なまでに…………脅威でしか有り得ない。


 ――果たして、どうするべきなのか。
 会食を終え、自室に戻ったマリアは動揺を隠せず、必死に思考を巡らせていた。
 幸いな事にヴェルトは別室である。
 昨日今日会ったばかりの男と同室では心休まらないだろうから、慣れるまでしばらくは部屋は別にしておこう――と他でもないヴェルトによって取り計らわれたのだ。今となって、それすらも何かの計略ではないかと疑ってしまいそうだった。
 マリアは緊張による息苦しさを紛らそうと、自身の胸を抑える。
(……本当にどうすればいいの……!)
 自分がどう説明した所で、ヴェルトが危険な存在である事など誰も信じはしないだろう。
 それでもまずいのだ。
 このままでは、まずい。
 《エンジェル》が、とか。
 国が、とか。
 そんな程度の話ではない。これは世界そのものの危機であると、マリアの中の何が激しく警鐘を鳴らしている。
 どうにかせねばならないのだ。
 マリアしか異変に気づいていないのならば、彼女が行動を起こさなければ、きっと取り返しのつかない事になる。
「――ニナに……ともかくニナに話をしなければ」
 この城でマリアが最も信頼を置く侍女の娘。
 さすがに彼女もすぐには信じてくれるとは思えなかったが、それでも、もしものときのために話しておかねばならないだろう。
 そして、最悪の場合は――
「何を焦っているのかな、マリア」
「――――っ!?」
 扉へと向かおうとしたマリアは、背後からの声に息を止めて振り返る。
 ヴェルトだった。
 よりによって、今、最も会うべきではない男。
 彼が、夜闇を切り取る窓を背にして立っていたのだ。
「どうした? 自分の夫の顔が訪ねてきただけなのに、ひどく驚いているではないか」
「…………扉を開けずに姿を見せれば、誰でも驚きます」
 極めて平静を保ちつつ、マリアは自身の夫を睨みつける。
 ヴェルトは苦笑し、肩を竦めた。
「やはり愛しい夫を見る目ではないな、それは」
「貴方は……」
 マリアは意を決して核心を口にする。
「貴方は、一体、何者なのです……!」
 ヴェルトがわざとらしく首を傾げる。
「何者? 私は《ヴェルト・ケーニヒ》――《エンジェル》の王にして、世界を統べる男。それ以外の何者でもなかろう?」
「意味のない問答をする気はありません!」
「……ふむ」
 ヴェルトそっと形の良い顎を撫でる。
 何気ない仕草なのに、マリアは息が詰まりそうになる。それだけの圧倒的な気配が、彼からは放たれていた。
 ヴェルトの唇が歪んだ。
 笑ったのだ。
「――――っ!!!!」
 唾を飲み込むという行為すら出来なかった。
 ただ恐怖に圧されて後退り、背後の扉に背中をぶつけた。
 会食の際に見たものよりも、さらに禍々しい笑み。
「さすがイヴァルナの力と魂を秘めた《白光の翼》を受け継ぐ、アールクレイン家の女だ。聡明だな。では………お前は私を何者だと思うのかな?」
 ヴェルトが問う。
 問う。
 問う――!
「……う、ああっ……」
 マリアは呻く。
 すでに、問いかけが圧力そのもの。
 身体が小刻みに震え、歯はがちがちと音を立てる。
 膝を折って、その場で嘔吐する寸前だった。
 このまま圧死するのではないかとすら思った。
「どうした? 答えられないのか?」
 歩み寄ってきたヴェルトが、動けないマリアの顎を指で持ち上げる。
 目と目が合う。
 ヴェルトの双眸の奥の深淵の光が、マリアの内を貫いた。
 侵されル。
 犯サレる。
 オカサレル。
 刹那。
 激しい衝動と共に、胸が凄まじい熱を持った。

「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」

 轟音と共に白き閃光が部屋を染め上げる。
 嵐が巻き起こったかのように、調度品が破壊され、吹き飛び、扉も粉々に砕け散った。マリアは転がるように部屋から廊下に飛び出すと、もはや振り返る事もせず駆け出す。
 音を聞きつけた衛兵や文官達が集まってくる。そんな彼らの制止を振りきり、マリアはひたすらに走り続ける。
 決して止まるわけにはいかなかった。
 もう一度、ヴェルトに捕まれば、もはや逃げる事は出来ないだろう。
 まだ、精神的な干渉による後遺症は残っていたが、無視する。
 ひどく重い身体を必死の思いで前に進めた。
「! あれは……!」
 次々と増える廊下の人波の中に、見知った顔を見つけた。
 ニナだ。
 彼女は、マリアの姿を見つけると、血相を変えて駆け寄って来る。
「マリア様!? 一体、どうなされたのですか! そんな傷だらけで――」
「良いから来て!」
 マリアはニナの問いには答えず、彼女の腕を引っ掴むと引きずるように走った。
「マ、マリア様!!」
「ごめんなさい! 理由は説明している暇はないのです! 城から――いえ、ヴォール・シュタントから脱出します――!!」
「ええ!?」
 ニナは、素っ頓狂な声を上げる。
 だが、構っている暇はない。
 今は、彼女と共に逃げ出す他ないのだ。
 家族の事は心配だったが、どのみち説得は通じぬだろうし、そんな時間もない。
 絶望的とも言える状況の中。
 マリアは、真っ直ぐ前を見つめて走り続けた。
 逃げた先で、きっと光明が見出せると。
 それだけを信じて。


 ――その頃。
 マリアの自室。
「ふむ、少々甘く見すぎたか」
 破壊の奔流に晒され、無残な姿を晒す部屋の真ん中で、ヴェルトは悠然と佇んでいた。
 足元に大量の鮮血が滴っている。
 その腹部には、巨大な大穴が開いていた。
 普通の者ならば、間違いなく即死である傷――しかし、ヴェルトは何事もなかったように平然と笑んでいた。
 あの瞬間、魂を懐柔されかけたマリアは、咄嗟に《神槍》シュペーアを具現化し、ヴェルトの肉体を穿ったのだ。そして、呪縛が緩んだ一瞬の隙をついて、その手から逃れた。
「……まあ良い。いつまでも逃げ回れるものでもなかろうしな」
 余裕を持って呟き、口の端から伝う血を手の甲で拭った。
 そのまま身を翻したときには、すでに腹の穴は、当たり前のように塞がっていた。
 部屋を出る直前に、ふと足を止める。
「二千数百年ぶり……か」
 顔だけで部屋を振り返り、窓の外の景色を見つめる。
 ヴォール・シュタントは、ヴェルトの居城たるツェントルムの放つ光に照らされ、夜の帳の中でも、まるで陽光を照り返す月のように光を纏っていた。
 《エンジェル》の繁栄を表した輝きとも言えるかもしれない。
 それを嘲るように、ヴェルトは鼻を鳴らした。
「――さて、今の世界は……どこまで私に抗えるかな?」


 この日の夜。
 マリアとニナは、必死の逃走劇の末、ヴォール・シュタントを出奔する事になる。
 世間では、王妃マリア・ケーニヒの乱心とされる事となるこの事件は、翌日、大陸全土を騒然とさせた。
 だが、それは本当の悪夢の始まりに過ぎなかったのだ。
 数日後、悪魔アダムスタとして覚醒した《ヴェルト・ケーニヒ》 ――彼の手によって、未来の世で《裏切りの贖罪》と名付けられる事になる戦乱が引き起こされたのである。


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